第四章〈過去〉最初の不幸
教室の空気がささくれるとき、原因はいつも小さい。大きい事件は、誰にでも見える。小さい引っかかりは、見えた人だけが責任を背負うことがある。
中学二年のその日、九条雅紀はいつも通りに座っていた。窓側の席。光の当たり方が一定の場所。机上の教科書の角度、ノートの開き方、筆箱の位置が、本人の呼吸に合わせて決まっている。決めたわけではない。長く同じ生活をすると、人は勝手に同じ形になる。形は便利だ。誰にも邪魔されないふりができる。
授業が始まる。その日の担任は、語尾が一度だけ掠れた。聞き逃せる程度の掠れだった。
それから黒板に向かい、板書の途中で咳き込んだ。最初は乾いた咳だった。次に、喉の奥をかきむしるような咳になり、息が乱れた。生徒がざわめき、別の教師が駆け寄る。担任は口を開く。だが音が出ない。空気だけが漏れる。担任の目が大きく開いた。開いた目は、自分が声を失ったことを理解している。理解した瞬間、恐怖が顔に出た。恐怖が顔に出る大人を、子どもは初めて見る。初めて見たものは、怖いより先に面白いに変わることがある。面白いに変わると、口が軽くなる。
担任は黒板に「少し休む」と書いた。書ける。手は動く。声だけが出ない。見えない異常は、想像を呼ぶ。想像は、原因を欲しがる。原因がなければ、安心できない。安心できない子どもは、原因を作る。作られた原因は、弱い人間へ向かう。
九条は席で黙っていた。黙っているのは冷たいからではない。黙っていれば話題を増やさないと思っているからだ。だが黙っている姿は、余計に「意味ありげ」に見える。担任が休み、代わりの教師が入った。最初のうちは、生徒たちは心配した。心配は真面目な顔を作る。だが真面目な顔は長く続かない。続かないものほど、冗談になる。冗談は、誰も責任を取らない形で出せる。
「昨日、九条を叱ったからじゃね?」
「あれ、過剰だったもんな」
「ああ、あれね。公式使えって難癖のやつか」
誰かが言った。声は笑いを含んでいる。笑いを含むと、言葉は刺さらないふりができる。別の誰かが「やめろよ、こわ」と言った。止めるふりがあると、冗談は安全になる。安全になった冗談は、共有される。そして、誰かが笑った。笑いは短い。短いのに強い。その笑いで、教室の底が決まった。
九条は笑わない。真壁も笑わない。笑わないというだけで、教室では「何か知っている顔」になる。だが否定もしない。否定すると、言葉が「話題」になる。話題になると、次は「証拠」が欲しくなる。証拠が欲しくなると、人は探し始める。探し始めた人は、必ず何かを見つけたことにする。
九条は机の上の鉛筆を持ち上げ、置いた。置いた音が、やけに大きく聞こえた。真壁は胸の奥が熱くなるのを感じた。熱くなるのに、声が出ない。出せば場が荒れる。荒れれば担任の不幸は大きくなる。大きくなった不幸は、九条のせいにされる。守ろうとすると、守れなくなる矛盾が、ここにはある。
帰り道、九条は斜向かいの真壁の家の灯りを見た。灯りはいつも通りの色をしている。いつも通りの色が、今日は遠い。自分は何もしていない。だが、何もしていないことは証明できない。証明できないものは、いつでも物語に負ける。物語に負けると、人は弱いほうを疑う。疑われる側は、呼吸を説明しなければならない。説明は、さらに材料を増やす。
真壁の家では、夕飯の支度の匂いがした。味噌汁の湯気。炒め物の油の匂い。生活の匂いは、学校の冗談より強いはずだった。真壁は母に担任の話をした。母は包丁を置き、少しだけ眉を寄せた。看護師の眉の寄せ方だ。心配ではなく、現実を探す眉だ。
「ストレスで声が出ないこと、あるよ」
母は現実的に言った。現実的な答えは、普通なら安心をくれる。だが真壁は安心できない。教室で起きた笑いが、現実より強い形で残っているからだ。現実は説明で、笑いは印だ。印は、人の心に残る。
その夜、クラスの遠藤がグループチャットに投げた。「ネットで見た」。その四文字が、誰の責任も背負っていない顔で光る。どこのネットかも書いてない。誰が書いたかも書いてない。書いてないから強い。強いから広がる。広がった先で、誰かが「ほんとっぽい」と言う。ほんとっぽいの一言で、冗談は事実の顔をする。
真壁のスマートフォンが震えた。おすすめ記事、という通知だった。真壁は画面を見ずに消そうとした。だが指が滑り、タイトルの一部だけが見えた。
【逆の心臓の児童の周囲で不可解な出来事。呪い発動か?】
真壁は画面を消した。消しても、文字列は目の奥に残った。残った文字列が、今日の教室の笑いと同じ匂いを持っていることに気づいてしまう。
画面を消したのに、消えないものがある。黒地に白い文字列は、目の奥の暗い層へ貼りついて、瞬きをしても剥がれない。真壁はスマートフォンを机の上へ伏せ、掌で軽く押さえた。押さえたところで、通知の発生源が止まるわけではない。止まらないものを相手にするとき、人は自分の手元だけを管理したくなる。管理できる範囲が狭いほど、その欲は強くなる。
翌日、教室でお調子者の遠藤が騒ぎ立てていた。
「ネットで見た」は、教室の中の空気を変えた。誰がどこで見たか、という話になりそうでならない。ならないまま、妙に広がっていく。遠藤は悪意の顔をしていない。むしろ得意げだ。得意げな顔は、集団の承認を欲しがっている。承認を欲しがる子は、怖い話を持ち込む。怖い話を持ち込むと、皆が同じ方向を向くからだ。
「マジ?どこのやつ」
「知らね。おすすめで出た」
「おすすめって何だよ」
「俺も見たわ」
「まじで? 先生のやつも?」
「わかんね。でも九条ってさ……」
最後の一行が、未完成のまま投げられる。未完成の言葉は、受け手が勝手に補う。補われた内容は、投げた本人の責任から外れる。外れるから、次が出やすい。
真壁は、その連鎖の速さに気づいた。気づいた瞬間、背中の皮膚が薄くなる。あの夜、救急車のサイレンを聞いた時と似た感覚だ。身体が「まずい」と言う。だが理由を説明できない。説明できないものは、周囲の笑いに負ける。
翌日、担任の失声は「面白い話」として学校の外へ滲んでいた。どの経路かは分からない。分からないのに、誰かが知っている。知っているから、別の誰かが話せる。話せるから、さらに外へ流れる。廊下で他クラスの生徒がすれ違いざまに言った。
「二年の担任、声出ないんだって」
「こわ。呪いじゃん」
「いや、九条がさ」
九条の名前が、物語の中心に置かれ始める。置かれたこと自体が、証拠に見える。中心にいる者は理由を求められる。理由を求められる者は、必ず何かを言わされる。
九条は言わない。言わないことで守っている。守っているつもりで、余白を残す。余白は、他人が好き勝手に塗れる。九条の母は、学校からの連絡に対しても言葉が少ない。
「すみません」
「ご迷惑をおかけしていないでしょうか」
「本人は問題ありません」
それ以上を語らない。語らない態度は、毅然にも見えるし、隠しているにも見える。見る側の欲で決まる。欲がある側は、隠しているを選ぶ。隠しているを選ぶと、次は掘る。掘ると、何もない場所からでも何かが出たように見える。
真壁は、それを近所の道で感じた。夕方、母に頼まれて牛乳を買いに出る。コンビニの前で、知らない大人が二人、立ち話をしていた。話の内容は聞こえない。だが声の抑え方が、噂の抑え方だった。真壁が通り過ぎると、会話が一瞬だけ止まる。止まるのは偶然かもしれない。偶然かもしれない止まり方が、怖い。怖い理由は単純だ。自分が話題の外にいないと感じるからだ。
家へ戻ると、父が珍しく早く帰っていた。制服の上着が椅子に掛けられている。しわの伸び方がいつもより乱れている。乱れは疲れか、苛立ちか。真壁は父の顔を見て、担任の話をするか迷った。迷っているうちに、父が先に言った。
「学校、どうだ」
父の質問は短い。短い質問は深掘りしない。深掘りしないことで、家庭の空気を保つ。真壁は「普通」と言いかけて止めた。普通という言葉は、いま一番嘘に近い。
「先生が、声出なくなった」
父は眉を動かさない。動かさないことで、話の価値を測っている。価値があると判断すれば聞く。価値がないなら切る。父はしばらく黙り、短く言った。
「病院には行ったのか」
「原因分かんないらしい」
「なら待て」
待て。父の言葉は、いつも正しい形をしている。正しい形は、息をしやすくする。だが真壁は息がしやすくならない。待っている間に、言葉が勝手に増えるからだ。増えた言葉は、病院の結果より強くなる。
真壁は反論しなかった。反論すると、家の空気が荒れる。荒れると、母が疲れる。母が疲れると、あの夜の手つきが遠ざかる気がした。母は台所から顔を出し、真壁の表情を見て言った。
「ストレスで声が出なくなること、本当にあるから」
母の現実は、いつも優しい。優しいのに勝てない時がある。勝てない相手は、学校の笑いだ。笑いは真実を必要としない。必要としないものが、一番強い。
翌週、担任は休職になり、代わりの教師が教室に入った。代わりの教師は、誰にでも同じ口調で話す。公平に見える公平さだ。公平に見えるものは、責任の置き場を曖昧にする。曖昧になると、教室は勝手に秩序を作る。秩序は、弱い者を中心に据えることで保たれる。中心に据えられた者は、居場所を失う。
九条は居場所を失っていないふりをした。ふりは上手い。上手いふりは、見ている側の苛立ちを増やす。苛立ちは、ちょっとした瞬間に噴き出る。体育の着替えのとき、誰かが九条の左手を見て言った。
「お前、左って、なんか特別なん?」
問いの形をしているが、答えを求めていない。からかいは、相手の反応を求める。反応が出れば勝ちだ。九条は「別に」とだけ返し、服を畳んだ。その無反応が、周囲に「効いてない」を与える。効いてないと感じた側は、次に強い言葉を使う。
「先生の声、やっぱお前のせいじゃね?」
笑いが起きる。笑いは短い。短いのに、空気の向きを決める。
真壁はそこで初めて、声を出しかけた。出しかけて、止めた。止めたのは、九条がこちらを見なかったからだ。見なかったことで「大丈夫」を示したのだと真壁は受け取る。受け取ってしまう。受け取った瞬間、自分の遅れが確定する。
放課後、校門の外で九条は足を止めた。立ち止まった理由は分からない。たぶん、風が変わっただけだ。変わっただけなのに、胸の奥が冷える。九条は何も言わずに真壁の家の方角を見た。真壁の家の玄関灯はまだ点いていない。日が長い季節だ。灯りが点いていないだけで、家が遠く見える。遠く見えるのは、距離ではなく、安心の薄さだ。
「帰る?」
真壁が声をかけると、九条は頷いた。頷いたあと、ほんの少しだけ息を吸い直した。吸い直したのは苦しいからではない。苦しさを見せないためだ。見せないための動作は、見せるより目に残る。真壁はその動作を見て、胸の奥が硬くなる。硬くなっているのに、何も言えない。言えば、九条の防御を崩す気がする。崩した先に、助けがあるとも限らない。
その夜、真壁のスマートフォンにまた通知が来た。さっき消したはずの文字列と、同じ匂いの見出し。見出しだけが先に走り、本文は後から追いつく形式。真壁は画面を見ないようにして、指先で消す。消すとき、なぜか手が震えた。震えは怖さではない。怒りだ。怒りは、行き場がないと震えになる。
画面が暗くなっても、真壁の目の奥には白い文字が残る。残った文字は、今の学校の冗談と、将来どこかで見た「同じ見出し」を繋げようとする。繋げた瞬間、過去は過去ではなくなる。過去は型になる。型になったものは、何度でも再現される。
真壁はスマートフォンを伏せた。画面は暗くなったのに、教室の笑いだけが残った。先生の喉ではない。九条でもない。笑った、という事実が、いちばん初めの不幸だった。




