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右にある心臓  作者: 綾見 恋太郎


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第二章〈過去〉前からいた子

 中学二年の春の朝は、薄い光の割に音が多い。町内放送のチャイム、新聞受けの金属音、向かいの家の玄関扉が閉まる音。真壁彰は自宅の玄関で靴紐を結びながら、その音の重なり方で今日の空気を測っていた。父の制服のしわがいつもより伸びている。昨夜、アイロンを当てたのは母だろう。母は看護師で、家の中の動きが速い。速さは雑さではなく、間に合うための技術だった。

 斜向かいの家の玄関灯が消え、九条雅紀が出てくる。転校生のような登場ではない。小学校の低学年から、見慣れた影だ。二人の家は、夜中の洗濯機の回る音が互いに聞こえる距離にあった。真壁はそれを、親密さとも窮屈さとも呼ばない。日常は呼ばなくてもそこにいる。

「今日、遅い?」

 真壁が言うと、九条は立ち止まらずに返す。声は大きくないが、聞き返させない音量だ。要るぶんだけ出す癖は、子どもの頃から変わらない。

「いつも通り」

 九条の左手には、鞄の持ち手がかかっている。左利きは目立つ。だがこの辺りでは、目立つものはすぐ馴染む。誰かが一度だけ「器用だな」と言い、次の日には別の話題に移る。真壁は九条の筆跡が綺麗だということも、給食のパンを左手でちぎることも、いちいち意識しなくなっていた。

 ただ、今日の九条はわずかに白い気がした。白い、と言っても肌の色ではない。目の奥の光が薄い。夜更かしでもしたのかと思い、真壁は言いかけた言葉を飲んだ。余計なことを聞くと、九条は答える。その答えが薄いとき、こちらは勝手に心配を増やす。増えた心配は、本人には届かない。届かないものを増やすのは、結局、自分のためだ。

 通学路の角にあるゴミ置き場で、近所のおばさんが袋を結び直していた。九条の母親がその手伝いをするのを、真壁は何度も見ている。九条の母は、必要なことだけをする人だった。笑い声も、世間話も、出す量が少ない。少ないから嫌われない。少ないから、噂にならない。噂にならないという状態が、どれほど危ういかを、真壁はまだ知らない。

 学校へ向かう途中、真壁は九条の横顔を盗み見た。眉と眉の間に、細い線が寄っている。怒りではない。考えている顔だ。九条は歩きながら、何かを計算しているように見える。真壁はその計算が嫌いだった。自分が何も考えずにいられる場所に、九条だけが計算を持ち込む感じがするからだ。

 教室に入ると、机の天板の光沢が朝の照明を返した。窓側の席の連中が騒ぎ、廊下側の連中が笑う。真壁は笑い声の高さで、誰が今日機嫌がいいかを判断する癖があった。父の制服のしわで機嫌を測る癖と同じ種類のものだ。家でも学校でも、人は機嫌で動く。機嫌は、理由がないほど厄介だった。

 九条は自分の席に鞄を置き、教科書を出した。動作が無駄なく、音が立たない。静かな動きは目立つ。目立つものは、いつか誰かの苛立ちを吸う。吸われた苛立ちは、形を探す。形が見つかると、矛先になる。

 担任が入ってきて、朝の連絡が始まる。真壁は配布プリントを受け取りながら、九条のノートの端の揃い方に目がいった。癖だ。揃っているものほど、崩れた瞬間の音が大きい。癖を見た瞬間に、昔の夜の映像が重なる。

 あの夜も、音が多かった。救急車のサイレン、九条の家の玄関が開く音、母の足音。――その前に、もっと小さい音があった。咳だ。はす向かいだから、窓が閉まっていても、夜が静かだと、うっすらと届く。犬の鳴き声みたいに遠くない。隣のテレビみたいに近くもない。生活の壁を一枚だけ越えてくる音。

 真壁は布団の中で目を覚ました。目を覚ましたというより、耳が先に起きた。咳き込みが、途中で引っかかる。引っかかったまま、空気を探す音が混じる。咳は普通の咳ではない。咳が「吐き出す」動きにならず、「掻き集める」動きになるときがある。呼吸が薄いときの咳だ。真壁はそれを、家の外の音で覚えてしまっていた。

 廊下で、母が動いた。真壁の母は看護師で、夜中でも迷いなく動ける。迷いなく動くのは、勇敢だからではない。判断が早いからだ。早い判断は、仕事の癖ではなく、生き延びるための手順になっている。

 父の声が低く聞こえた。警察官の声だ。寝起きでも、まず状況を尋ねる声になる。

「……またか?」

「咳の質が違う。酸素、持っていく」

 母は返事を短くして、戸棚から小さなバッグを取り出した。家の救急箱とは別の、仕事の匂いがする袋だ。消毒綿の匂い、ゴム手袋の擦れる音。真壁は布団の端を握りしめながら、その音だけで胸が落ち着くのを感じた。落ち着くのが怖かった。落ち着くということは、慣れているということだ。慣れるべきじゃない、と子どものどこかが言うのに、身体は先に慣れる。

 玄関が開いた。冷たい夜気が一瞬だけ家の中に入り、母の背中が闇へ溶けた。向かいの家までの数歩が、いつもより遠く見えた。遠いのに、数歩しかない。数歩しかないから、助けに行ける。助けに行ける距離が、逆に怖い。助けに行けるのに、間に合わないことがあると知ってしまうからだ。

 別の夜は、玄関が逆に叩かれた。叩き方が、生活の叩き方ではない。ためらいがなく、震えが混じっている。

 真壁の母が扉を開けると、九条の母が立っていた。顔が白く、目が赤い。声が途切れ途切れだった。

「すみません……雅紀が、雅紀が……」

 名前が二回出る。二回出るとき、人は言葉を置き換えられない。言い換えられないほど、余裕がない。

 真壁の母は、その場で状況を聞き返さなかった。聞き返す時間が命取りになることを知っている。代わりに靴を履き、バッグを掴み、真壁の父へ短く言う。

「救急、頼む。住所は分かるよね」

 父は頷き、電話を取る。警察官の段取りは手早い。

 父は受話器の向こうへ、感情のない声で言葉を並べた。住所。年齢。既往。今の状態。呼吸の回数。会話ができるか、唇の色はどうか。言う順番が決まっている。順番を間違えると、聞き返しが増える。聞き返しが増えると、時間が削られる。

「十四歳、男子。喘息発作の疑い。意識はあるかわからない」

 父は言い切り、相手の確認にだけ「はい」と答える。余計な説明を足さない。足すと、相手の頭の中で話が膨らむ。膨らんだ話は、現場の優先順位を狂わせる。父は、膨らませないために淡々としていた。

 真壁は廊下の奥で、その声を聞きながら、自分の中に変な安心が生まれるのを感じた。言葉を整えると命が近づく、という感覚だ。安心の形が、怖かった。

言う順番が決まっている声だった。決まっている声は、子どもを落ち着かせる。到着時間を聞き、ルートを確認し、相手が焦っても言葉を切らさない。切らさない声は、受話器の向こうの救急隊員だけでなく、家の中の子どもをも落ち着かせる。

 真壁の母が九条の家へ入ると、室内の空気が変わる。暖房の温度ではない。息が薄い部屋の空気だ。九条はリビングの床に座らされていた。ソファではない。床のほうが姿勢を変えやすい。背中を支えやすい。母は九条の胸を押さえず、背中に手を当て、体位を変えさせる。胸を押すと、余計に息が詰まることがある。押さない。押さずに、通り道だけ作る。

「息、吐いて。吸うのはあと」

 母の声は鋭い。怒鳴り声ではない。命を繋ぐための、迷いのない音だ。

 吸入器の音が短く鳴る。薬剤の匂いが一瞬だけ鼻を刺す。九条の母は傍で立ち尽くし、指が何度も服の端を掴んでは離す。泣きたいのに泣けない顔だ。泣くと手が止まる。手が止まったら、息が途切れる気がする。

 玄関の隙間から見えた九条の顔は、驚くほど白かった。白さは夜の照明のせいではない。唇の色が薄い。目が開いているのに、焦点が揺れる。息が細い。細い息が途切れそうになるたびに、真壁の母は繰り返す。

「吐いて。いまは吐く。肩を上げない」

 九条がかすれた声で返事をした。

「……はい」

 その「はい」が、どこか別の世界の音に聞こえた。真壁は身体が強張った。右とか左とか、そういう話ではない。身体が壊れるという事実そのものの怖さだ。壊れる瞬間を目の前にすると、人は理由を作りたくなる。理由があれば次は避けられると信じられる。だが喘息に理由はない。季節、埃、疲労、気圧。どれも説明の形をしているが、真壁が見たのは説明ではなく、息の薄さだった。

 救急車を呼ぶと決めた後が長い。呼んだら終わりではない。到着までの数分が、いちばん長い。真壁の母はその間、処置を途切れさせない。声も手も止めない。九条の呼吸の音が変われば、姿勢を変え、水を口に含ませる量も変える。吸入の間隔を測り、顔色の変化を目の端で拾う。拾いながら、九条の母へ指示を出す。

「窓、少しだけ開けて。電話はこっちに置いて。毛布、腰だけ」

 九条の母は泣きそうな顔のまま、言われた通りに動く。動けるのが救いだ。動ける限り、母親は崩れない。崩れないように、真壁の母は仕事の言葉で繋ぐ。情緒ではなく手順で繋ぐ。手順は残酷だが、残酷なほど命に近い。

 サイレンの音が、遠くから近づいてきた。近づくにつれて、九条の家の中の空気が変わる。緊張がほどけるのではない。役割が切り替わる。

 玄関の向こうで救急隊の声が重なった瞬間、母の手が止まった。一瞬だけ。だが真壁には、その一瞬がはっきり見えた。

 母は、九条から一歩だけ距離を取った。医療者としての距離だ。状況を引き渡す距離。言葉も短くなる。症状、時間、処置内容。正確で、無駄がない。

 引き渡しが終わると、母は一度だけ深く息を吐いた。吐いた息は、仕事のものではなかった。次に九条の肩へ伸びた手は、さっきより少し柔らかい。力が抜けている。

「大丈夫。あとは、任せよう」

 その声は、指示ではない。保証でもない。ただ、隣にいる人の声だった。

 九条の母が、堪えていたものを一気に吐き出すように泣いた。泣く場所を与えられた、という泣き方だった。母は何も言わず、九条の母の背中に手を置いた。押さえない。撫でない。ただ、そこにある手。

 真壁はその手を見て、初めて気づいた。助けることが終わる瞬間が、いちばん怖いのだと。終わったあとに残るものを、誰が引き受けるのかを、誰も教えてくれない。

 その手は、もう何もしていなかった。

 ――一週間後。

 教室は明るすぎた。違いは、誰も言葉にしなかった。

 担任が黒板の前に立ち、授業を進める。途中で九条を当てる。九条は答える。答えは正しい。正しいのに、担任の眉が僅かに動く。正しさは、時々、相手の居場所を削る。動いた眉は、そこから戻らない。戻らない眉は苛立ちに変わる。

「九条、答えは合ってるけど、解き方が変だ。間違ってる」

 担任が言った。声は強くない。強くない声は、正当性を帯びる。怒鳴っていないから正しい、という錯覚が生まれる。

 九条は一拍置き、反論しない。反論しないことが模範に見える。模範は、教師にとって扱いやすい。扱いやすいはずなのに、担任の苛立ちは消えない。消えない苛立ちは、理由を探す。理由が見つかると、そこで誰かが悪者になる。

「……すみません」

 九条の声は低い。低いのに、届く。

 真壁はその瞬間、胸の奥がざらついた。謝る必要があるのか。言い方が違うと言われても、答えの内容は合っていた。真壁は担任の視線が九条に絡むのを見て、背中の汗が冷たくなるのを感じた。

 九条が謝る。

 担任が「次から言われた通り、公式使って解け。な?」と言う。

 これで終わるはずだ。終わるはずの小さな注意だ。

 真壁はそう思い、口を閉じた。口を開けば空気が動く。動いた空気は、余計に目立つ。目立てば、今度は真壁が呼び出される。呼び出される理由が、また一つ増える。理由が増えると、九条が守られない。

 真壁は、まだ大丈夫だと思った。

 その「まだ」が、後から刺さることになるのを知らずに。

 授業が終わり、チャイムが鳴る。生徒が立ち上がり、椅子が鳴る。

 九条は教科書を鞄に入れ、席を立つ。

 その背中に、担任の声が追いついた。

「九条」

 呼び止める声は短い。短い声は逃げ道を潰す。

 九条は立ち止まり、振り返る。表情は変わらない。変わらない表情は、相手の苛立ちを増やす。

「あとで、ちょっと」

 担任が続けた。

担任の机の上には、配布プリントとは別の紙が一枚伏せてあった。

 九条は頷いた。小さく。

 その頷きが、真壁には妙に重く見えた。

 真壁は視線だけで九条に問う。大丈夫か、と。

 九条は真壁を見ずに、同じくらい小さく首を動かした。

 頷きは、言葉より軽い。軽いものは、後で折れやすい。

 真壁はその場で動かなかった。動けば、介入になる。介入になれば、担任の苛立ちに火がつくかもしれない。火がつけば、九条の傷は増える。

 真壁は慎重になった。慎重であることを、優しさだと思った。

 教室の外へ出る九条の背中が、いつもより少しだけ遠い。

 遠さは距離ではなく、層の違いだった。

 真壁はその違いに気づきながら、気づかないふりをした。

 気づかないふりのまま、廊下の光が白く滲み、担任の声がもう一度だけ九条を呼ぶ気配がした。

 真壁は立ち上がりかけて、止めた。

 止めた自分の脚の重さが、その瞬間だけ、妙に現実だった。

 このとき真壁は、九条の「右側」を、まだ一度も気にしていなかった。


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