第一章〈現在〉右にある
東京都監察医務院の空調は、体温を奪うためにあるのではない。言い訳を奪うためにある。薄い冷気の中では、誰の声も同じ厚さに近づく。謝罪も、報告も、祈りも。言葉が痩せるぶん、残るのは記録だけだ。九条雅紀は検案台の脇に立ち、手袋を指先で押し返した。ゴムの擦れる音が、機械の作動音と同じ種類の高さで混ざる。
遺体は成人男性。上衣は脱がされ、胸部は露出している。外表には目立つ外傷が少ない。口唇の色、爪床の色、皮膚の乾き具合。循環器の急変で倒れた、と言われれば通る顔をしていた。だが、胸腔内の配置が、静かに逆を向いている。九条は胸骨の縁へ視線を落としたまま、内部の地図を頭の中で描く。心膜の位置。大血管の走行。肝臓と脾臓の居場所。教科書の地図が、左右だけ反転して目の前にある。右と左が入れ替わっているのに、臓器は整然と仕事をしている。違うのは、「べき」のほうだった。
完全内臓逆位。稀だが、異常ではない。だが、九条は一度だけ、説明より先に息を吸い損ねた。胸腔内の配置を頭の中でなぞった瞬間、位置を“間違えた”感覚が走ったのだ。心臓の拍動が、想定より半拍遅れて伝わる。遅れはすぐに修正される。だが、修正された事実だけが、体に残る。――今、どちらで打った。そんな問いが浮かび、即座に消える。消えたはずなのに、右胸の奥が、わずかに冷えた。
医学はそれを、特異と呼ぶだけで終える。珍しいという事実が、患者の人生を揺らすとは限らない。むしろ多くは、本人が知らないまま生きる。九条は鉛筆ではなくペンを取った。所見欄に、淡々と記載する。「胸腔内臓器配置:完全内臓逆位」その文字列が、紙の上で重く見えた。稀さは、言葉にされた瞬間に価値に変わる。価値は、人を寄せる。寄せられた視線は、必ずどこかを削る。本人の呼吸か、家族の生活か、医師の沈黙か。九条はペン先を止めた。胸腔内の「この形」を、見たことがある。教科書の写真ではない。研修医の頃に触れた症例でもない。もっと近い。もっと内側。自分だ。
喉の奥が乾き、舌が上顎に貼りつきそうになる。空調のせいではない。九条は、検案室の壁に視線を移した。白い壁。照明の反射。金属棚の縁。白い空間は、感情の置き場所を奪う。置けない感情は、体に残る。残る場所はいつも決まっている。胸の奥か、気管支か。扉の外で足音が止まった。足音が止まる前に、気配が先に来る。現場を歩く人間の気配だ。次に、低い声がした。
「九条」
真壁彰だった。捜査一課。強行犯。遺体確認のために来る男の声は短い。短い声は余計な波を生まない。波を生まないことが、ここでは善に見える。真壁の後ろに、もう一つの足音がついてきた。軽い。靴底が床を撫でる音が、妙に人懐こい。二階堂壮也。広報課。事件の火種を嗅ぎ、燃え方を予測し、言葉の刃を先に鈍らせる役の男だ。
真壁は検案台の手前で止まり、九条の手元を見た。書面を見ているようで、書面を見ていない目だった。九条の顔色、喉の動き、呼吸の浅さ。真壁は「どうだ」と言う前に一拍置く。その一拍で、九条は助かる。助かるが、腹が立つ。
「事件性は」
真壁が聞く。質問は短い。だが答えを急がせない短さだった。二階堂は視線を遺体に向けず、室内の温度を見ている。空気の匂い、機械の音の揺れ、紙の置き方。ここが「言葉になる前」の場所であることを知っている目だ。九条は所見欄を指で軽く押さえた。紙が鳴らない程度に。鳴らせば、何かが確定してしまう気がした。
「外表の外傷は軽微です。急性の循環器系イベントで説明はつきます。ただ……」
九条は言葉を切る。切り方が慎重すぎるとき、真壁は耳を澄ます。二階堂はその間を見逃さない。間は、記事になる。投稿になる。誰かの娯楽になる。
「ただ、稀です」
九条が続けた。評価でも煽りでもない。事実を置く言い方。真壁の眉が、ほんの少し上がる。二階堂は、ようやく遺体の胸腔へ視線を落とした。見た瞬間、口の端が一度だけ引きつる。驚きではなく、言葉の予感だ。
「完全内臓逆位ですね」
九条が言った。機械の音が、その一言を飲み込む。飲み込めないのは、人のほうだ。
「それって」
真壁が言いかけて、止めた。止めたが、止めきれない。真壁の癖だ。言葉を飲むとき、喉が一度だけ鳴る。二階堂が、その続きの形を勝手に拾う。広報の癖だ。形を拾うのが仕事で、形はいつも人を傷つける。
「ん? なになに」
二階堂の声は軽い。軽いから危険だ。軽い声は、すぐ誰かの冗談になる。冗談は拡散に向いている。九条は一拍置いた。必要最小限の事実だけを、空気に落とすための間。それでも落ちた音は、重かった。
「……私も、同じです。右にあります」
真壁の視線が九条の胸元へ一瞬だけ走る。九条は胸ではなく、無意識に右側へ指を置きそうになる。そこで止めた。止めた動作が、余計に目に残る。二階堂は唇を結び、頭の中で「言ってはいけない語」を並べ始める。稀、逆、呪い、家系、代償。どれも便利で、どれも人を殺す。検案室の扉が、遠くで軋んだ。音は小さい。だが、ここでは小さい音が意味を帯びる。意味は、すぐ外へ漏れる。九条は扉の方向を見なかった。見れば、そこに人がいることを認めてしまう。認めれば、話は「共有」になる。共有は安全に見える。安全に見えるものほど、外へ流れやすい。
真壁が言葉を選び直す。
「お前、そのこと」
言いかけて、また切る。言えば踏み込む。踏み込めば、九条は薄く笑って受け流す。受け流したとき、呼吸が削れる。真壁はそれを見てきた。
「……後で聞く」
九条は頷かない。頷けば何かが決まる。代わりに、ペンを置いた。
「必要なら」
それだけ言った。必要という語は、優しい形をしている。だが必要は、いつも暴力と隣にいる。
検案室を出ると、廊下の白さが増した。医務院の廊下は、外に向けて言葉を排気するための通路に見える。出入りする者の目がどこに置かれているかを見れば分かる。床。掲示板。名札。監視カメラ。人ではなく、制度を見る視線が多い。真壁と二階堂が少し後ろを歩き、九条は先に出た。距離は、偶然に見える程度に保たれている。偶然に見える距離が、一番計算されている。
二階堂が小声で言う。
「今の一言、最悪の形で切り抜かれる」
「切り抜かせない」
真壁の返事も小さい。小さいが硬い。二階堂は「無理だよ」と言わない。言えば真壁が立ち止まる。立ち止まれば、そこで火が点く。
「医務院の出入り、張ってるやついます」
真壁は視線を動かさず、廊下の端を見た。陰。自販機の脇。掲示板の裏。そこに、目だけがいる。身体は見えない。見えないほうが厄介だ。見えないものほど、人は勝手に形を作る。九条は足を止めない。止めない歩幅で、陰を通り過ぎる。通り過ぎるとき、肩は揺れない。揺れないのに、喉だけが一度だけ鳴る。真壁はその音を聞き、舌の裏を噛んだ。
午後。医務院の雑務に紛れ、巡査が通路を急いでいた。書類の束。小走り。小走りは止められる。止められる前に、九条の右肩と巡査の左肩が擦れた。触れたのは一瞬。謝罪も一瞬。
「すみません」
「いえ」
それで終わるはずの接触だった。だが、その一瞬が、必要以上に長く残った。擦れたのは布越しのはずなのに、皮膚の感触だけが遅れて浮かぶ。右側。そう意識した途端、身体の地図がずれた。九条は足を止めかけ、やめた。立ち止まれば、今の感触を「出来事」にしてしまう。出来事になったものは、必ず誰かの因果になる。
事故は、別のタイミングで起きた。巡査は角を曲がり、床のワックスで足を滑らせた。痛みで顔が歪む。周囲が駆け寄る。そこで誰かが、「ほら、さっきぶつかったからだ」と解釈を置く。
若い声が言った。「それだけで?」
「だって相手、九条先生だぞ」
誰かが、冗談の形で言った。冗談の形をしているから、誰も否定しない。否定しないことが、合意に似てくる。その場には、例の陰の目がいた。フリーライター。泡沫。医務院の出入り口に張りつき、医師の名前を狙う男。男はスマートフォンを胸元に隠し、録音のボタンを押したまま、目だけで場を吸った。
夜。古い雑居ビルの一室。編集室と呼ぶには狭い。デスクと椅子。モニター二枚。散らかった資料。ライターは缶コーヒーを開け、指先の震えを押さえようとした。震えは止まらない。止まらないのは恐怖ではない。興奮だ。興奮は自分の身体を自分のものではなくす。その状態が、彼には快感だった。
「見つけた……」
独りごちる声が、部屋の壁に跳ね返る。跳ね返る声は、もう一度耳に入る。耳に入った声は、本人の確信になる。
「見つけた……金の卵だ」
検索窓に打つ。完全内臓逆位。呪い。右側。村。九九尾村。検索窓に文字を入れた瞬間、画面の白が一段だけ明るくなった気がした。実際に明るくなったわけではない。だが、明るくなったと思った。言葉が、こちらを見ている。そんな錯覚を、彼は楽しんだ。――書いたほうが勝つ。勝ち負けの感覚が生まれた時点で、事実はもう不要だった。彼は意味のない地名を拾い、意味があるように繋げる。繋げた瞬間、世界は「記事」になる。
文章は、断定しない形で断定へ誘導する。「〜かもしれない」「〜とも言われる」「偶然の一致とは片づけられない」免責の皮を何枚も重ねれば、刃は見えにくくなる。見えにくい刃は、よく切れる。彼は九条の名前を打ち込み、次に「喘息」を打った。呼吸の弱さは、読者の好物だ。弱さは、代償という言葉に繋げられる。代償は、呪いに繋げられる。呪いは、クリックに繋がる。
記事は出た。タイトルは煽りすぎない。煽りすぎると信じてもらえない。信じてもらうには、少しだけ学術っぽくする。「稀な体質を持つ監察医と、不可解な一致」「右側に偏る事故の報告」「関係者の不幸は偶然か」彼は、真壁の名前も二階堂の存在も出さない。出せば責任が生まれる。責任は面倒だ。面倒を避けた文章ほど、人を巻き込む。
SNSは、その夜のうちに遊び始めた。遊びは正しさより速い。速いものは、訂正が追いつかない。画面には短い文が流れる。「右側注意ってマジ?」「九条雅紀って人に触れると右が壊れるらしい」「攻略情報:すれ違うときは左側を空けろ」「草。ホラーじゃん」「でも医療関係者ってガチで怖い話多いよね」誰も九条の顔を知らない。知らないから、好き勝手に形を作れる。形が作られると、「本人」はそこから逃げられない。
翌日、ライターの右目が痛んだ。最初は乾燥だと思った。だが痛みは、眼球の奥からじわじわ広がった。鏡を見ると、白目の一部が赤い。血が滲んでいるような赤ではない。毛細血管が無理に浮き出た赤だ。彼は笑った。笑いは恐怖を消すためではない。物語を強化するためだ。
「来た……」
彼は病院へ行き、診断書を取った。医師は「軽い外傷でしょう」と言った。彼はその言葉を聞き流し、「外傷」という二文字だけを拾った。拾って、ネットへ上げた。画像は、拡大される。拡大される画像は、確信になる。投稿文は短い。短い文は強い。「九条雅紀の記事を書いたら右目やった。偶然だよね?」偶然だよね、は免責の皮だ。皮の下に刃がある。
火は、燃え上がるときより広がるときのほうが静かだ。静かに広がる火は、止めどころがない。炎上は燃料を得た。燃料は「被害者」だ。被害者を名乗る者が出ると、人は安心して叩ける。叩く相手が悪者に見えるからだ。
真壁は捜査一課のフロアで、スマートフォンを見ていた。画面の中で九条の名前が踊っている。踊る文字列は、本人より軽い。軽いから持ち上げられる。持ち上げられたものは、落とされる。
「……ふざけるな」
声は出さない。出せば周囲が動く。周囲が動けば上が動く。上が動けば、先に結論が作られる。真壁はその手口を知っている。知っているから、口を閉じる。隣の席で、二階堂がモニターを見ていた。画面には発表文の草案。語尾を削り、形容を削り、余計な余白を削る。削る作業は救いに見える。実際は、救いにならないことが多い。救いにならないのにやるのは、救いに見せないと組織が崩れるからだ。
二階堂は、画面の端に開いたタイムラインを一瞬だけ見た。見ないと守れない現実がある。守るべき対象は名誉ではない。人の生活だ。彼の胸の奥に、嫌な既視感が浮かぶ。事件が先にあるのではない。文章が先にある。文章が世界を呼び、世界がそれに追いついていく匂い。彼は、真壁にだけ聞こえる声で言った。
「これ、現象じゃない。文章の匂いだ」
真壁が顔を上げる。二階堂の目は笑っていない。笑っていない目は、冗談をやめた合図だ。
「……昔、似たのがあったか」
真壁の問いは、九条に向けたものでもあり、自分に向けたものでもある。答えはまだない。だが、答えがないまま進むのが、この建物のやり方だ。
その夜、九条は医務院の廊下で立ち止まり、胸の奥を押さえそうになった。押さえれば楽になる。だが押さえた動作は、誰かの餌になる。九条は手を下ろし、代わりに呼吸の深さだけを変えた。吸って、吐く。吸って、吐く。いつも通りのはずなのに、空気が薄い。誰かが、廊下の先で咳払いをした。それは職員の咳払いかもしれない。あるいは、スマートフォンの向こうで笑っている誰かの咳払いかもしれない。どちらにせよ、九条の身体はすでに「共有」になっている。
九条は、自分の心臓が右にあることを思い出した。その事実は、これまで医学の中にしかなかった。いま、医学の外に引きずり出され、遊びに加工され、印を押され始めている。右側が壊れる。そう言われた瞬間から、右側は壊れやすくなる。壊れたとき、人は「ほら」と言う。「ほら」が増えると、偶然は居場所を失う。九条は廊下の白い壁を見た。白い壁は、何も言わない。言わない壁のほうが、よほど怖い。
そのとき、スマートフォンが震えた。画面に表示された名前は、真壁彰。九条は出る前に一拍置く。一拍置いても、世界は勝手に進む。進む世界の中で、彼ができるのは、呼吸を失わないことだけだ。
「……はい」
『九条。今夜、会えるか』
真壁の声はいつもより低い。低い声は、守るために使われることもある。九条はその低さに、逆に怯えた。守られることは、暴露の入口にもなる。
「何かありましたか」
『お前の右、だ』
真壁はそれ以上言わない。言えば、言葉が一人歩きする。
「……私の右は、最初からあります」
『そうじゃない』
真壁の短い否定が、九条の胸の奥を刺した。刺したのは言葉ではなく、沈黙のほうだ。沈黙は相手に想像させる。想像は勝手に恐怖を育てる。九条は息を吸い、吐いた。胸の奥に、さっきの遺体の地図が重なる。右にある心臓。左にあるはずのもの。「べき」が崩れた世界。崩れた世界は、物語に向いている。
「分かりました。……場所は」
『医務院の裏。人の少ないところ』
真壁がそう言った瞬間、九条の背筋が冷えた。人の少ないところは安全に見える。安全に見える場所で、言葉は一番よく漏れる。漏れた言葉は、誰かの「見た」に変わる。通話が切れたあと、九条は廊下の端へ視線を走らせた。陰。掲示板の裏。自販機の脇。そこに、今日も目がいる気がした。実際に目がいるかどうかは、もう重要ではない。「いる」と思った時点で、九条は関係者化している。関係者化した人間は、世界の遊びに参加させられる。参加させられた瞬間、逃げ道は狭くなる。
九条は歩き出した。歩く速度は変えない。変えれば追いかけられる。追いかけられるのは、身体ではない。言葉だ。廊下の天井で、換気が低く鳴った。鳴り方が、さっきより少しだけ速い気がした。気のせいだと、九条は思わないことにした。気のせいを否定した瞬間、気のせいは物語になる。
医務院の外へ出る。夜の空気が冷たく、肺が痛む。九条は痛みを数えない。数えれば意味が生まれる。意味が生まれれば、誰かが拾う。背後で、誰かのシャッター音がした気がした。気がしただけかもしれない。だが、もう違いはない。
九条は、右胸の内側にある心臓の鼓動を感じた。鼓動はいつも通りだ。いつも通りのはずのものが、今夜は妙に遠い。そして九条は、遺体の胸腔で見た「自分と同じ配置」を思い出した。あの男は、誰だったのか。なぜ、ここに運ばれてきたのか。なぜ、「自分」と同じ形をしているのか。答えを作るには、材料が足りない。足りない材料は、勝手に補われる。補うのはいつも、外側の言葉だ。
九条は、喉の奥で小さく息を鳴らした。咳ではない。咳の一歩手前。その音が、夜の空気に吸われる前に、どこかで誰かが聞いていないことを祈った。祈りは、ここでは記録にならない。記録にならないものほど、後で人を追い詰める。九条は暗い裏手へ足を向けた。背中に、見えない視線が一枚増えた気がした。増えたのは、視線ではない。言葉の準備だ。
今夜から、この話は「怪談」になる。怪談になった瞬間、真実は軽くなる。軽くなった真実は、右側から落ちる。




