出発準備1
朝日が窓から差し込み、部屋をやわらかな光で照らしていた。
その眩しさに、さくらはゆっくりと目を開ける。
見慣れない宿の天井を見上げたまま、昨夜の出来事を思い返した。
今日、西の山岳へ向かう。
クローディスとガラティアについて行く。
自ら決めて危険な場所へ踏み入る。
胸の奥が落ち着かない。
期待とも、不安とも少し違う。
あの森での戦いを思い出す。
汚染された精霊。
怖かった。今でも思い出せる、あの圧。
でも、舞った。支援した。
二人の役に立てた。
だから、今度もきっと大丈夫。
そう自分に言い聞かせる。
言葉にできない感情を抱えたまま、さくらはそっと瞳を閉じる。
小さく息を吐いた。
「……よし」
もう一度瞳を開き、勢いよく身体を起こす。
身支度を整え、荷物を肩に掛けて部屋を出た。
廊下へ出ると、隣の部屋の扉が開く。
「おはよう」
クローディスが声を掛ける。
「おはよう」
ガラティアも続いた。
「お、おはよ……」
気合を入れたはずなのに、声が少し上ずった。
クローディスは歩き出す。
ガラティアも何も言わず後に続く。
さくらも二人の後ろを歩いた。
一階の食堂では、宿泊客たちが朝食を囲んでいた。
木皿が置かれる音。
椅子を引く音。
焼きたてのパンの香りが食欲を誘う。
三人も空いている席へ腰を下ろした。
「はいよ」
宿の主人がパンとスープ、それに小皿を並べていく。
小皿には、モゾト村産の森苺ジャム。
さくらは小皿を見つけると、少しだけ表情を緩めた。
パンを手に取り、ナイフでジャムを塗っていく。
ふと、今日の道のりが気になった。
その手が、途中で止まる。
「ティアさん」
ガラティアが顔を上げる。
「ん?」
「目的地まで、どれくらいかかるの?」
「歩いて丸一日くらいだな」
ガラティアはパンをちぎりながら続ける。
「山の麓に小屋がある。今日中にそこまでは行きたい」
「丸一日……」
さくらは小さく息をつく。
パンを一口食べ、ゆっくり飲み込んだ。
「うん、頑張る」
「ああ」
クローディスは短くこたえ、スープに口を付ける。
食堂には変わらず宿泊客たちの話し声が流れていた。
三人も朝食を終えると席を立つ。
宿を出ると、朝のラントタスはすでに賑わい始めていた。
通りには荷車が行き交い、店先では次々と商品が並べられていく。大きな籠いっぱいに野菜を積んだ男が横切り、その後ろを空になった木箱を抱えた少年が駆けていった。
クローディスたちは南の商業地区へ向かって歩く。
「ティアさん」
「ん?」
「旅に出る前って、何を買えばいいの?」
歩きながら、さくらが尋ねた。
「食料、薬、必要なら装備の補充。他にもあるが……行く場所と日数次第だな」
「じゃあ、食料は何日分くらいあればいいの?」
「だから日数次第だ」
「あ……そっか」
さくらは納得した様子を見せる。
少し間を置いて、またガラティアを見る。
「薬は?」
「怪我した時に困らない程度」
「どのくらい?」
「さくら」
ガラティアが横目を向ける。
「はい」
「朝から飛ばしすぎだ」
「でも、ちゃんと覚えておきたくて」
「分かってる」
ガラティアは息を吐いた。
「もっと肩の力を抜け。私だって何年もかけて、同じことを繰り返しながら覚えてきたんだ。一日で全部覚えようとするな」
それから、少し前を歩くクローディスへ声を投げる。
「お前はどうだった?」
「必要になってから覚えたことの方が多いな」
クローディスが歩いたまま答えた。
「ほら」
「……はい」
返事をしたさくらの歩調が、少しだけ緩んだ。
やがて通りの先が開け、朝の市場が姿を現す。
広場にはいくつもの露店が軒を連ね、その間を大勢の人が行き交っていた。野菜や果物を山のように積んだ店、布地を垂らした店、革製品を吊るした店。大鍋から立ち上る湯気の向こうでは肉が焼かれ、香ばしい匂いに香辛料の刺激が混じって流れてくる。
「わぁ……」
さくらの視線があちらこちらへ飛ぶ。
積み上げられた赤い果実を見たかと思えば、今度は隣の露店へ顔を向けた。
「あれ、何だろう?」
籠いっぱいに、紫色の細長い実が積まれている。
ガラティアも見る。
「知らん」
「えっ」
「知らんものは知らん」
「ティアさんでも知らないもの、あるんだ」
「当たり前だろ」
横を歩いていたクローディスも紫色の実へ目を向けた。
「俺も知らないな」
「クロさんも?」
「ああ」
さくらはもう一度、紫色の実を見る。
「じゃあ、覚えなくてもいいかな」
「それは自分で決めろ」
「えぇ……」
ガラティアが笑った。
「ほら、行くぞ」
「待ってください」
さくらも笑いながら後を追う。
三人は人の流れに混じって市場を進み、やがて一軒の店へ入った。
軒先には干し肉が吊るされ、棚には乾パンや干し果実、燻製肉などが並んでいる。干し肉の札には家畜だけでなく、いくつか魔物の名も書かれていた。
店の奥にいた男がガラティアに気づき、片手を上げる。
「おう、ガラティアじゃねーか」
「ああ、邪魔する」
ガラティアは棚に並ぶ保存食を見ていく。
さくらもその隣へ並んだ。
ガラティアが乾パンを見ている間、さくらは隣に並ぶ干し果実へ目を移す。クローディスは少し離れた棚を見ていた。
「ティアさん」
「ん?」
「ねぇ、干し肉ってどうやって選ぶの?」
ガラティアは並んだ干し肉を見る。
「私は味だな」
「味?」
「不味いものを何日も食いたくない」
さくらがぱちりと目を瞬かせた。
「クローディスは?」
ガラティアがそのまま話を振る。
クローディスは棚から顔を上げた。
「その時による」
「その時?」
「長く持たせたいなら日持ちを見るし、金を抑えたいなら値段を見る。食べる日数や行き先でも変わる」
「なるほど……」
さくらは二人の顔を順番に見てから、棚へ視線を戻した。
ガラティアも干し肉へ手を伸ばしかけ、ふと止める。
「そういや、さくら。苦手な食べ物はあるか?」
「苦手なもの?」
「ああ。何日も持って歩くのに、嫌いなものをわざわざ買う必要もないだろ」
さくらは少し考える。
「特にはないと思う。たぶん……」
「たぶん?」
「こっちに来てから初めて見る食べ物が多いから」
「ああ、そういうことか」
ガラティアは得心した様子で、再び棚を眺めた。
「なら、食ってみて駄目だったら次から避ければいい」
「はい」
その横でクローディスもいくつかの保存食を選んでいく。
ガラティアは並んだ干し肉を眺めていたが、店の奥へ顔を向けた。
「おっさん、ミルガルボアの肉は入ってないのか?」
「ああ、すまねーな。あれは人気で売り切れちまったよ」
「そうか、残念だ」
ガラティアはあっさり諦め、別の干し肉に視線を移した。
さくらはその横顔を見てから、ミルガルボアの名を探すように棚の札へ目を走らせる。
けれど、すぐには何も聞かなかった。
やがて別の札の前で足が止まる。
「これ、魔物のお肉なんだ」
「ああ。食える魔物もいるぞ」
「へぇ……」
さくらは札と、その下に並ぶ干し肉を交互に見る。
「ティアさんは、これ食べたことある?」
「それはないな。あまり旨くないって噂を聞いたからな」
「じゃあ、これは?」
さくらが隣を指す。
「ある。悪くなかったぞ」
「これは?」
「それもない」
「結構食べてるのかと思った」
「私を何だと思ってるんだ」
さくらが笑った。
その間にもクローディスは必要な品を選び、カウンターへ置いていく。
乾パン、干し果実、いくつかの干し肉。
さくらはカウンターに並んだ品を眺め、それから棚へ視線を戻した。
しばらくして、一つの干し果実を手に取る。
札を読んでから、隣に並ぶものにも目を向けた。
二つを見比べ、少し迷う。
「クロさん」
「ん?」
さくらは手にした包みを見せた。
「これも持っていっていい?」
クローディスが包みを見る。
「ああ」
それだけ答えると、クローディスは自分が選んでいた品へ視線を戻した。
さくらは荷物を確かめると、干し果実をカウンターへ置く。
ガラティアも選び終えた干し肉を持ってきた。
「こんなもんだな」
三人が選んだ品を、店主が順にまとめていく。
包まれた保存食を受け取り、代金を払って、それぞれの荷物へ収めた。
「ありがとな。また寄ってくれ」
「ああ」
ガラティアが店を出る。
クローディスとさくらも続いた。
外へ出た途端、市場の喧騒が戻ってくる。
人の流れは先ほどよりも増え、露店の間から呼び込みの声が幾重にも重なって聞こえていた。
「次は薬だな」
ガラティアが人混みの先を見る。
「はい」
さくらは答え、二人と並んで市場の中を歩き出した。




