第5話「崩壊」
それは、
突然だった。
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朝の巡回中、
病棟内に鋭い声が響いた。
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「やめてください!」
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患者Cの声だった。
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慌てて駆けつけると、
部屋の中は異様な空気に包まれていた。
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患者Cは、
壁際まで追い詰められている。
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その前に立っていたのは——
患者Aだった。
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「違うんです、私は——」
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患者Aは、
落ち着いた声で何かを説明していた。
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だがその内容は、
まったく頭に入ってこなかった。
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視線が、
おかしい。
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まっすぐ患者Cを見ているのに、
どこか焦点が合っていない。
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いや——
違う。
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“見ている”のではない。
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“測っている”。
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「どうしました?」
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スタッフの一人が間に入る。
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患者Cは、
震えながら言った。
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「……この人、さっきからずっと部屋の前にいて……」
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「急に入ってきて……何か、変なことを……」
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言葉が途切れる。
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患者Aは、
静かに首を振った。
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「誤解です」
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その声は、
あまりにも落ち着いていた。
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「少し様子がおかしかったので、
声をかけただけです」
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完璧な説明だった。
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誰が聞いても、
納得してしまうような。
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実際、
他のスタッフもそれ以上は追及しなかった。
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「そうでしたか。大丈夫ですよ」
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そのまま、
場は収まろうとしていた。
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——違う。
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何かが、
決定的に違う。
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患者Cの表情は、
それを物語っていた。
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明らかに、
“恐怖”だった。
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ただの勘違いで、
あんな顔はしない。
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私は患者Aを見た。
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その瞬間、
目が合った。
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——笑っている。
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ほんの一瞬。
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だが、
確かにそう見えた。
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すぐに、
いつもの穏やかな表情に戻る。
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「失礼しました」
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患者Aはそう言って、
ゆっくりと部屋を出ていった。
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その背中を見ながら、
確信した。
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この人は、
“壊れている”んじゃない。
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壊しにきている。
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その日から、
病棟の空気は明らかに変わった。
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小さなトラブルが増え始めた。
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物がなくなる。
言い争いが起きる。
誰かが突然、不安定になる。
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どれも、
決定的な証拠にはならない。
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だが——
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すべての中心に、
あの人がいる気がした。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
人は、
言葉や距離感だけでも壊れていきます。
直接傷つけるだけが、
人を壊す方法ではありません。
この作品で描いている「距離感」については、
noteでもまとめています。
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