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月からの使者 創世編  作者: 朝太郎
21/24

狭間

気が付けば自分の立っている世界が変化していた。

記憶にない世界だ。

だとしたら、異世界なのか? 過去に一度、クロノスは異世界に渡ったことがある。

クロノアの魔術との衝突によるエネルギーの爆発で。だが、今回は勝手が違う。気が付いた時にはこの世界にいた。

アルルたちと対面する白色の異空間とは逆でなにもかもが漆黒で、波打つように濃淡が変化していた。胸の奥のざわめきが治まらない。

まるで、目に見えない魔物の存在を知覚しているような感じだった。

「ここは、どこだ? 」

思わず呟いたその言葉に周囲の景色が無数に変化する。

クロノスは異世界特有の未知の現象に不安を覚えながら、どこか懐かしい気分を味わいながら辺りの様子を観察する。クリスタル王国の近隣にある花畑が出現した。

計算されたように配置されている花の匂いが体の中に入り込む。それから奇襲のように吹く風に、クロノスは目の色を変える。

遠く離れた場所から美しい音色が聞こえた。

聞き覚えのある曲だ。

クロノスは感覚的にそれを理解した。その音を聞いているだけで乱れていた心が安らぐ、誘われるように自然と足が進んだ。幻の森はクロノスを通すために道を開ける。それは、ここが普通でないことを意味していた。

クロノスの精神的な部分が関係しているように思う。見覚えのある記憶が景色に反映されているここはクロノアと一緒に遊びで魔術の練習をしてその影響で生まれた場所だった。

クロノスは道端の花に手を当てた。意識して集中すれば、この異世界の情報が自然物質から自分の中に流れ込んでくる。

温かい波動を感じて闇から目を覚ます。

結局、この世界のことは何一つクロノスにはわからなかった。アルビノの能力もこの場所では発揮されないらしく、なんの声も聞こえてこない。森の中をひたすら歩いているだけの時間は、退屈ではなかった。

時間の感覚が曖昧だ。それがこの異世界の特徴だとしたら、現実世界でいまどういう状況に転んでいるのか気になる。

この世界は偽物だが、クロノスの知る世界は本物なのだ。自分が彼女の影として生み出された存在のように。

1/2。

人としての欲望を完全な形で叶えてくれるこの世界なら、気にすることもなかったのかもしれない。

そもそも、考えなくていいというのはどういう感じなのだろうか。怠惰な思いが出てきてしまうところ現状に身が引き締まっていない。

この場所がクロノスの心に作用する影響力が強すぎる。過去は嫌いだ。だが、自然は好きだ。本物の場所でなかったとしても、この景色は居心地がいい。全てと称してもいい。

居場所というものは、そういうものではないだろうか。

そして、そんなものが現れたということは、ここがクロノスの還る風景なのか?

クロノス・ルナリアとはなんだ?

知らされていく真実の数々に、クロノスは鏡に映し出される己をイメージしてみた。

閉じ込められる臆病な自分を目の当たりにして、自分の願望が叶わなかったことに鏡面の住人が変化する。

亀裂が入り砕け散ることに、クロノスはなにも思わない。

反射する中にこちらを見ている無数の自分が、心の内部を暴露することに抵抗する気力もなかった。

月がある。

満天の星空に変わった天上に一つだけ浮かんでいる。時間の概念のない場所だけに、連続した月の満ち欠けを眺めることになった。宝石のような存在感を発している月から一滴の雫が水面を打つ。

残響する音の波が周りのイメージを一変させる。森が消え、大きく開けた空間が現れた。幻の詳細を捉えたのは、耳だった。

忘れもしないクロノスの好きな歌が渦を描いて広がっている。足下の草が呼応するように蕾が開く。花の中から淡い光の種子が緩やかに音の中心部に漂う。

音に魅了された客人のように、光は音に消えていった。その中心に一つの影がいた。

「レン……」

その言葉が出た後に、すぐに後悔した。なぜなら、クロノスの視線に気づき、彼は歌うことを止めたからだ。

「無事にこられたのか、クロノス」

耳に重くのしかかる声。気付けば、レンとの距離が詰められていた。奏でる音に、クロノスの周囲を精霊たちが取り囲んでいた。

動揺する自分を必死に宥める。彼を前にして心を乱してはダメだ。そう言い聞かせ、レンの瞳を見た。激しい動悸に頬を伝う汗が鈍く思えた。

「……マリアを殺したのか? 」

「ああ、殺した」

クロノスの問いに、レンは澄まし顔で答えた。それを見ただけでも心が揺れ動く。恩人を死に追いやった事実に手を上げたくなる。

だが、それができない。

「あの人の存在は厄介だったからな。それよりも、どうして異次元空間にきた? 」

周囲の背入れに手を伸ばし、レンは風景を変化させた。

「俺はお前たちに会いにきた」

初めて出会った日の記憶。パーティーの会場だ。深く意識しないように、クロノスは息を整える。

「へえ、覚悟を決めてきたと思ったらまだそんな甘い考えをお持ちだとは思わなかったぞ」

「…………」

身構えて耐え忍ぶクロノスを、レンは見つめる。態度を見るだけでレンには全てが筒抜けだ。心音として耳に届く音を分析しなくても、露になる考えに唇を歪める。

「お前がどれだけ願っても平和的な解決策があると思うなよ。この場所にきたからにはお前は嫌でも戦う道を選ばなくてはならない。逃げることはできない。クロノス、お前はどうしてここにきた? 」

「……俺は」

「お前が逃げ回っている間に俺の準備は整ったぞ」

「精霊たちか」

それからレンは途方もない話を語る。クロノスも知らないここ異次元空間の話を。

エイジアスの存在を。

世界再生の理を。

今となっては仕方のない話に、クロノスは想念の壁に拳を打った。幻想は破れない。そんな話を聞きに来た訳じゃないと、言いたかった。

「もしかしたら、クロノスが予想以上の成長をして会いにきてくれると思っていたが、保険は用意しておくものだな。世界中の精霊たちが俺のところに集まった。こいつらは、エイジアスのおかげで本来の力を取り戻した」

現実世界に混沌の因子をもたらしたのがエイジアスであることをつげ、それから副産物として生まれることになった生命の欠片を世界から呼び寄せた。

そしてそれは、レン自身の力に変わる。精霊の王として。まさに、世界最強の名を冠する魔術師だ。

「俺を殺すのか? 」

「そのまま情けない姿をさらすなら、そういうことになる。一応お前の相手はクロノアが予約しているからしっかりしろよ」

悪気のない笑みに、クロノスは凍りつく背筋と、破裂してしまいそうな自尊心に制止を告げる。逃げようとしている。だが、逃げるのはダメだ。

弱気な気持ちを握りつぶして、クロノスは目の前にいる世界に対して、どうすればいいのか必死に考えるが、なにも浮かばない。

「なあ、クロノス。お前だってもうわかっているだろ? 五年前の時でも、五年後の今日も、お前はいつだって世界の流れに逆らえない。戦うべきだ。クロノスは強い、あの日に俺を負かしたのはいまでも覚えている。お前は強い。だから、逃げるな」

「戦ってなにが残る……」

クロノスは叫んだ。腹の底から、無意識に魔力を込めた叫びだった。

周囲の空間を歪ませるほどの影響を与え、レンを守護する精霊たちの怒りを買った。

「俺たちが戦ってなにが残る? いつだって俺たちの力は破壊しか生まない。殺すことしか知らないじゃないか!強い? 逃げるな? どうしてお前たちはそういう言葉が言えるんだ」

「お前が知らないだけだ」

「創造主に従うことがお前たちのやり方なのか。お前は偉大な魔術師だ。俺の知る中で誇りに思える魔術師だ。故郷を誰よりも愛し、世界の平和を願っていた。なにより、音の使者は“誰にも縛られない”自由な男だ。それなのに、どうしてお前はエイジアスに従っている」

違和感としてずっと考えていたことを彼の心に届くように叫んだ。間違ったことは決してしない、顔も知らない不特定多数の民のために己の能力を十全に行使する。それが音の使者だったと思い出して欲しかった。

「それは思い違いだ」

波紋として広がるクロノスの言葉は精霊たちの深層意識にまで届いた。しかし、レン自身には効果を見せなかった。

「クロノアの言うとおり、陳腐な思考力しかないのか? 俺はクロノアの意思に賛成しただけで、エイジアスには興味ない。友のために振るう力はあるが、神に捧げる力はない。本当の気持ちっていうやつは誰だって表に出さないものさ。俺は、俺の守りたい世界のために戦うことにしただけだ」

予想外の言葉が返ってきた。

それから親友が、レン・リッジモンドがどういう人間だったのかを思い知らされた。変わっていなかった。クロノスにはこの瞬間に、やっとわかった。

あまりにも遅すぎた。わかったいまなら、取り戻せると微かな希望にすがりたくなった。誰がレン・リッジモンドをここまで追いつめてしまったのか。

それを考えたところでなにも変わらないことはわかっている。悪いのは答えを出さないクロノス自身だ。

クロノスが逃げていた事実が、消えるわけではない。

「だから、お前の前にいる」

「レン……」

「わかったら、剣を抜け」

レンから笑みが消えた。戦場に立つ、感情の抜けた魔術師の顔になった。だが、それでも体が動こうとしない自分は、首筋に槍先が当てられても退けようとしない自分は、どうしようもない愚者だと思わされる。

「待ってくれ、レン」

「どうして待つ必要がある。お前の言い分は全部聞いたぞ。それともまだ言い足りないことがあるのか? そうやって過ぎ去る時間がもったいないな。クロノス、お前のダメなところはそこだ。判断するまでに時間がかかりすぎる。気がつくのに時間をかけすぎる。心をわかるのに時間がかかりすぎる。この星に時間がないのをよく知っているはずなのに待てとは冗談だろ? いまさら待つ必要があるのか? 」

「ああ、お前たちは結論を急ぎすぎている。俺たち以外の人類を消し去ったことで、残された時間でなにが残った? 戦うなら目的は同じだろ。だったら、俺たちが戦う理由がないじゃないか」

「戦う理由ならある。俺たちは大罪人で、お前は正義の使者。終焉に傾く世界を守るために、悪と戦うのは当然だろ。これ以上の理由はない」

「お前……」

選択の時間は、もう残されていなかった。クロノスにこれ以上の言葉を与えても無駄だと判断したのか、レンはなにも言わなかった。

本気の目だ。

こんな時に、クロノスは屈託のない表情を見せてくれる記憶に浸っていた。常に自信のない自分の手を引いてくれるレンの手の感触、それは兄のいないクロノスにとって兄弟のような感覚に似ているような気がする。

彼の言葉は偽りと真実が巧妙に混ざっている。高潔な精神を宿す表情に見える王の風格から滲み出る違和感が別の顔として、その決意を浮き彫りにする。その顔に刻まれた、クロノスへの気持ちに目頭が熱くなる。

「レン……」

呼んだ。だが、友からはなんの返事もなかった。感情が抜け切った表情はクロノスの意見の全てを受け付けないように思えた。明らかな拒絶の姿勢は、想念を通じて互いの距離を遠ざける。

目に見えなくても気配だけが傍にある感じだ。だが、その気配はクロノスの精神に揺さぶりを掛け、やがて物理的な衝撃として現れる。

脳に直接語りかけ誤った指令を肉体に反映させる催眠術は生物の生命も自由にできる。

レンのことを疑い続けていれば、本当にここでクロノスは殺されていたのかもしれない。そう思ってしまった。周りから光が失われ、闇が広がる。

弱々しい声が聞こえたような気がした。だが、聴力強化をしている時間は許されない。

周囲の闇がクロノスを包み込むように迫っていた。

これが答えか。

クロノスはなにもしない。心に何度も語りかける。だが、クロノスよりもレンの想念の方が強いのか、世界が変化することはなかった。

クロノスはなにもしない。目の前に広がる彼の気持ちに素直になれない気持ちが強くなっていた。いや、昔からなにもできない自分に元に戻っていた。

自分を偽り、人を騙す。鏡面の中で笑う無様な姿が視界を埋め尽くす。

ここが終着点ではない。

だが、二人の関係はここで終わる。

それが答えだ。クロノスはなにもできず、視界から光が遠ざかることを見つめたまま、より深い闇の世界に呑み込まれていった。





目の前からいなくなった後、レンはオカリナを手にして音を奏でた。

「クロノス、お前は真っ直ぐな男だ」

人生は思い通りに行かないから面白いと思った。

それが、自分がここに到る決意をさせた思いであり、クロノスに非情に成りきれなかった想いだ。時間が欲しい。それなら道はこれしかない。

ただ、本気になった彼の姿を見ることができないことだけがとても悔しい。レンの気持ちを察してか精霊たちが慰めるように周囲を回っている。

「生きろ」

そう呟いたレンの顔は不安のない、彼が知っていたそれだった。だが、それを見ることなくクロノスは深淵に呑まれた。

だが、レンとしてはいつまで経っても離れられない彼を追いつめる結果に満足していた。精霊たちが不思議そうに見上げている様子の中に熱い気持ちと同じぐらいの願望を訴えてくる。

復讐。

精霊としていたものたちではなく、人間として生活していた者たちが失った様々なものへの怒りを晴らすための戦いを求めている。

エイジアスを滅ぼす。神殺しを望んでいる。しかし、エイジアスを目の前にすることで、レンは自分の考えが甘いことに気付かされた。

物質世界で魔力体である敵を完全に消滅させる方法は存在しない。ディアソルテのように媒介となる物質に宿っているなら、それも可能になったかもしれない。とにかく、手段はあるがそれを実行することでこの惨事を切り抜けられるか、どうなるのかが予測できない。

チャンスに二度目はやってこない。それなら、自分の手でエイジアスを仕留める。

なら、どうやって? 精霊たちに本音が伝わらないように、レンは心を静めた。だが、そう時間があるわけではない。無限の時を刻む異次元空間の外では、すでに物語の最終段階に入ってしまっている。

クロノスが異次元空間に迷い込んだのも、空間との境界が緩んだためだ。

再生術式によって満たされる星の生命が精霊たちに力を取り戻させた。

それは星の生命力が世界創世の章に近づいていることを意味しているのだろう。

それに加えて、アルビノという、用意された神の雫が元来よりも正常な世界を再現しているのかもしれない。その結果からなる未来がどうなるのかは、レンには想像がつかない。

だが、自分の望む未来ではない時点で、彼にとっては腹立たしいことだ。未来が確定しつつある。エイジアスとクロノアの間に結ばれた契約が完了に到ろうとしている。

そうなれば彼女の精神は失われる。

それを阻止するために、この精霊たちを利用することにした。最低の王、その通りだ。大切な友を守るために、世界を犠牲にして勝利を得ようとしている。

「俺は音の使者レン・シェリフ・リッジモンド」

運命に与えられた名を自分に言い聞かせ、レンは激しい記憶の流れに変化を繰り返す異次元空間に意識を向けた。

二十年の軌跡が映像として過ぎ去る。レンの大切な思い出たち。レンとクロノアとクロノスが世界を舞台に戦っていた日のこと。各国の王の青ざめた顔が面白かった。三人で大喧嘩した戦いの日のこと。もちろん、クロノアが一番強かった。子供だったから城を抜け出して秘密基地を作った日のこと。流れ着いてきた山賊に譲った。使者として人間と関わったことは時間に換算するととても短い。互いに遠い存在として認識していたからだろう。でも、失いたくないほど楽しかった。この世界で描いた物語。この世界で生きてきた時間は生まれ変わったら存在しなくなる。

完了することで、この世界は終ってしまう。

長い時間をかければ、もう一度人類は劇的な進化の過程を踏んで復活するだろう。最初からプログラミングされた不自由な人形劇の開幕だ。

創造主の作る新しい舞台は一切の乱れもなく永遠の平和の実現を可能にする。

レンの意識は次元を超えて、精霊たちもまた共鳴する。

エイジアスの気配はある。

「ありがとう」無意識に呟いた言葉。

「時間だ」

結局答えを見つけられないまま、レンは精霊たちに思いを伝えた。

心強い反応を示す精霊たちに微笑みかけ、引き波のように過ぎ去る景色に別れを告げる。

そう、別れを告げようじゃないか。

どれだけ拒んでも逃れられない運命を正面から叩き壊すことで解放されようじゃないか。

無数の気配がレンの前に虚像として現れる。精霊たちはそれを刹那の間も与えず、殺到し消滅に追い込む。

見えない幻に息が苦しい。

渇いた喉を潤したい欲求に内心の焦りがレンの心をざわつかせようとする。身心に訴えながら、レンは確信のないエイジアスとの戦いに恐怖を感じている自分を意識してしまった。

精霊の王として世界を統べる力を手にしたことによって神々しい洗練された彼の能力がエイジアスに通用するのか。その気持ちが、レンの覚悟の裏に寄生虫のように巣作っていた。

それに、エイジアスがレンの知る事象神なら、全ての運命の流れから予測することもしているかもしれない。

想念の世界であるこの異次元空間にいる時点で、レンは奴の腹の中にいるも同然だった。

恐れるのは危険だ。

方法論が通じない相手と対等に戦うには自分を強く保つ精神力が全てだと考えている。

それなのに、レンは一握りの不安に心が張り裂けそうなほどに緊張していた。それと同時に、かつてないほどの憤りが内部を走り抜けた。

ああ、くだらない……レンはクロノスを前にして言った言葉の中身が失われているのに苦笑した。

精霊たちの働きが無に帰すことを予感した。エイジアスがなにを仕掛けてこようと、もはやレンにできることは限られている。

戦うことでなにが得られるというのか。その中でこの言葉の意味を考えることにした。クロノスを次のステップに上げるために、このわだかまりを消す必要がある。

だが、答えなんて簡単だ。

何故なら、クロノスはそれを生まれた瞬間から持っているから。

“さて、始めよう。”

『裏切り者にしては勇ましい顔だ』

その超えに精霊たちが咆哮した。

震えは異次元空間の壁紙を剥がし、虚無の雰囲気を漂う世界に放り込んだ。

「エイジアス」

『君のことは最初から信じていなかったから、このことは大した痛手でもない。彼女さえいてくれればわたしの思いは実現するのだから……だが、小さなことも積み重ねれば大きなものになる。これ以上の邪魔は控えてもらおうか』

「随分な言い方だな」

冷や汗が止まらない。久方ぶりに思い出すこの感覚にレンは内心笑うことしかできなかった。

『君は人間だからね』

「お前が望んだ使徒だ」

『わたしが望んだ? 馬鹿なことを言わないでくれ、君のようなちっぽけな能力者を作るようなことはしない。副産物だよ。君を作ったのは神じゃない、世界だ。そう、精霊だよ』

エイジアスの言葉に宿る言霊の魔力に、レンは自分を見失わないようにするので手一杯だった。

『精霊たちはわたしの世界に異を唱えた。簡単に言えば、対立だね。もちろん、神であるわたしにたかが精霊風情が勝てるはずがない。だから、君が生まれたのさ』

「別に俺は自分の出生なんか興味ない。俺はこいつらと出会えて嬉しいからな」

『それならそれでも構わない。ここは世界の中心だ。それに神であるわたしを前に本心を隠し続けることは不可能。わたしは君を見ているわけではない、君の心を見ているのさ。だから、伝わってくるよ。レン・シェリフ・リッジモンドの心の闇がね』

「それはお前の心の中に秘めとけよ。俺だって誰にも言いたくないことだってある」

『それもそうだね。ここまで生き残った人間として黙っておいてあげよう』

「そりゃ、どうも」

呼気を一つ、深く、深く吐き出す。少し会話しただけで精神崩壊からの自滅を撃ってくる神に、レンは再びエイジアスに対する怒りの意識を収束させる。

恐れることを放棄して、戦う力への点火に結びつける。

王を支持する民の前では後退の二文字は存在しない。

姿を想像する。エイジアスと戦う自分のイメージが場を切り替える。

自然体で振舞うことが現実世界でも生きた自分のプレイスタイル。その気持ちを思い出させるように敵の様子にも数秒前の考えを切り捨てた。

「だが、殺すつもりの相手に神様は優しすぎないか? 」

『世間話なら、余所でやるといい。これでもわたしは忙しいからね』

「だったら、返してくれよ」

『難しいことをいってくるね』

そこで、エイジアスがレンの前に現れた。線のような輪郭だけの器に凝縮された魔力が詰ったような感じだ。精霊たちがエイジアスの仮初の肉体を突き抜ける。

塵も残さない連続攻撃に、エイジアスの器は瞬く間に喰い潰され、精神ごと葬り去られることを想像した。だが、こんな程度で終わるとは思っていない。

エイジアスの器が何食わぬ様子で再誕する。

「俺たちはこの世界で生きることを決めた」

追撃の精霊たちに続くようにレンもエイジアスに接近する。

「エイジアス。神でありながら、傍観者として有るまじき行為をした。だから、ここで殺す」

『神殺し。咎人とは君のためにある言葉のようだね』

自らの前で動きを止めたレンを見る目が変わった。黄金に包まれた彼の魔力が朱色になる。

「禁魔術――生命と死の時間(カデンツァ)

『なるほど、本気のようだね』

エイジアスの周囲の精霊たちを強制的に体内に戻し、有無を言わさず莫大なエネルギーに変換する。赤褐色に染まるレンの様子に、エイジアスが興味本位で魔手を伸ばした。

その先端は達人の剣筋を思わせる鋭さを宿していたのだが、伸ばされた魔手が触れる直前で、枯れるように細々となり消えた。

顔面に拳が突き刺さる。

牙のような鋭さに、遅れて衝撃がエイジアスを吹き飛ばした。

無風の異空間が大地震に遭っているように震えている。レンの魔力に。朱色の魔力はレンの内から消費される生命力よりも異質な存在するための力。

太古より理論だけが後世に引き継がれ続けた誰も修得できなかった悪魔の力は、エイジアスに対する怒りや憎悪をぶつけられる。

生命時間が失われるまで闘うことだけが、エイジアスと同等の舞台に上がることを可能にした。

最高の気分だ。そして……

「精霊魔術――精霊と雷の化身(ライディーン)

魔力性質を放電させ、体内で連結連鎖の魔力爆発を何度も引き起こし、爆発的加速が生み出す瞬速の刃で首がとんだ。

想念の力で一帯を支配域に設定するや、エイジアスに向かってレンは体内の魔力を出し惜しみせず、放出する。

『人間にしてはもったいない。心の底からそう思うよ、レン・リッジモンド。君が抱くわたしへの怒りに驚きが隠せない。君は人の身でありながらこの世界(精霊)を従える者であり、同時に王としての覚悟がある。精霊たちは君の思いに強くなる。そして、これがわたしを滅ぼすために消費される命の鼓動だと思うと悲しく思う。君は神の領域に立つべき人間だ。わたしのために燃やし尽くすべき命をこんなことで失うのは許されることではない。だから、君のために一つの存在として手合わせを願おう』

「減らず口がなにをいまさら」

『過去も未来もわたしの手の中だ』

平然とした不気味な声に、レンは雷の化身となった自分の力に生じる違和感に表情を濁した。指先から失われる朱色の力の反動が襲い掛かってくる。

代償としての、呪いがレン・リッジモンドを喰う。

湧き上がる不愉快さに、驚愕はしない。こんな存在になっても、代理品としての性能が足りなかったことに間違いはなかったのだ。

復讐心という感情が引き起こす破壊力は、所詮人間の所有物だったようだ。

「やってくれたな……」

『絶対的力というのはこういうものをいうのだよ。君と同じ人間たちが化け物と呼ぶ力を超えた神の力だ。しかし、神々といわれても保有する力は無限じゃない。個体差があるといえばいいのかもしれないね。我々としては力とは物理能力の高さではなく、精神能力の高さをいう』

再び姿を見せ、魔手を伸ばしてくる。レンの抵抗にさきほどの勢いがないことにエイジアスは残念そうな雰囲気を漂わせる。

『それで、音の使者はどうするつもりだい? わたしのためにその命を捧げてくれるなら、最後の言葉を残してあげよう。君が生きた証だよ。なに、星の一部になったとしても最後の時まで君は物語の登場人物でいさせてあげよう』

その声が届いた直後には体から違和感という違和感が消えていた。最初から何事もなかったことにした。体内に精霊の気配は残っていない。

あの瞬間に彼らはエイジアスに奪われたのだろう。

『禁魔術の副作用は取り除いた。肉体のダメージも全て取り除いた。これで、願いがあるなら言いたまえ』

エイジアスに促され、レンは俯いたまま黙り込んだ。力の差は理解した。神と人の境界の分厚さも理解した。溢れてくる言葉の波にレンは呑み込まれていた。エイジアスはというと、目の前の光景に笑っているようだった。沈黙を破らないレンに、痺れを切らしたエイジアスは近づいて頭に向かって手を伸ばした。

「“この時を待っていた”」

ズブリ、そんな効果音が響きそうなほどにレンの腕が底なし沼のようなエイジアスの体に沈んだ。エイジアスはレンを見た。

『迂闊だったよ。諦めないということは知っていたはずなのに、わたしとしたことが奥の手の裏までは予測できなかった』

顔面を殴り飛ばしながら苦言を漏らすその姿は、今までとは違う確かな手応えがあった。穴の開いた中心部が埋まることはなかった。

いや、その中に紅い光が輝いていた。無理矢理体を起こして突進した。

エイジアスの驚きは一瞬。体を倒され、穴に向かって自らの力の残りを確かめたレンの怒りが、一気に注ぎ込まれる。

自身ごと異次元空間を次元崩壊させるほどの魔力を解放した。次元の壁が崩れる。部屋を仕切る壁を取り除いたように、同一空間とは思えない色合いが視界にちらほらと見えるようになった。

あるいは、レンの心に反応して記憶からの風景を読み起こしたのか、エイジアスが辿ってきた軌跡があらわれたのかはこの際どうでもいい。

エイジアスの体が極小の粒状まで破壊し尽くしてからの再生される様子を、死傷を負いつつもレンは見届けることを選んだ。神に勝てなくとも、運命に手を加えることができることを証明した。

青海魔術――青海と炎の制鎖(ヴィヤージュ)

彼女から借り入れたこの力が、負の連鎖を断ち切るために必要不可欠であることを考え、計画に入れてずっと行動してきた。

準備した策略全てが失敗した時の保険のつもりで用意していた。

だが、そのおかげでエイジアスの運命に決定的な打撃を与えて狂わせることに成功した。

「楔は打ち込んだ。俺の役目は終わったぞ」

『とんだ食わせ者だな、音の使者』

「俺は約束を守る男だ」

『だが、それもここまでだ』

「これで未来は変わったな」

『確かに、確定していた未来の一部は崩壊しただろう。しかし、それでもわたしの未来が消えることはない』

「月……」

『さよならだ』

凶悪な波動を放つエイジアスの魔手にレンの体が蝕まれていく。闇と同化するようにその存在が吸収される。しかし、レンはこの事態にも関わらず空を眺めることに従事していた。

「星の海に……月の島か」

不安定な空間に配置された白砂が海を埋め立てていくのを見ていると唇の端が上がった。

「こんなに綺麗な月はあの日以来だな……」

その言葉を残して、レンは消えた。また一つの生命が星に還った。その場に残ったエイジアスはふと辺りを見回し、自分がいる空間を確認すると無言で消えた。白い世界に巨大な扉が一つ。

その扉の奥から感じる力がとても恐かった。





底のない沼。表現するならこれが適当だろう。背中に堅い感触のようなものを感じなければ一生そのまま沈んでいたかもしれないからだ。

そんな中で、行き着いた水底にはなにも存在しなかった。

想念の世界という心を具現化する場所にも関わらず、ここには対象を認識するための色彩がない。

意識して自分の手を見ようとしても、透明にでもなっているのか存在を自覚することはできても視認することはできなかった。

さらに、周囲を見回そうとして眼球が固定されているように動かないことに気がついた。だが、別段焦りはしなかった。自分の体の異常にもクロノスは冷静でいられた。

ただ、自分が生きているということがわかった。

いや、死に対する概念が解明されていないから、やはり、レンの手によって殺されたのかもしれない。

現状のことは何一つわからないが、ここに到るまでの結末として、マリアを救うことはできず、レンの言葉から逃げ出した存在だということ、最低の存在になっていた。

セリュサは無事なのだろうか。

ディアソルテはネリスと共に戦っているのだろうか。

考えてみるが、それを確認することがクロノスにはできなかった。

自分のことは……どうでもいいか。自分に敗北したのはわかっている。三度目にしても親友を前にしてなにもできなかったのだから、笑うこともなくなった。

レンはどうしているだろうか。言葉通りなら戦っているのだろうか。だとすれば、クロノスは大切な親友を見殺したことになるのだろうか。

剣を捨て去り、背を向けて走り去ったのだから、第三者の誰が聞いてもそう思うかもしれない。

エイジアスと衝突したとしよう。レンは負ける。それが、神と人間、いや、この運命の結末だろう。誰も救えない。己の運命と向き合うための勇気もない。

自分が、生まれてきてから求めているのか未だに見つけることができていない。

「誰かの声がする」

耳を澄ます。

ボソボソとした聞き取り難い呟き声だったが、耳に届いているのが幻でないと判断した。それから、どうしたのか覚えていない。

音声のする方角に向かって必死に走るイメージをし続けていたら、視界の端に自分の手が前後に振られていることに気付いた。

足の裏が柔らかい感触の地面を力強く蹴る。跳んでいる体を風が包み込む。クロノス・ルナリアはここにいる。

それならば、やることは一つしかない。自らの意思に全てを托し、やれることをやるだけだ。自分はまだ存在しているのだからと。

だが、どんなに走っても自分以外に人影どころか周囲の景色が見られない。夜の闇に紛れ込んだ哀れな魂とでも言おうか。無力な自分を惨めだと思った。

「どこだ、どこにいるっ!」

想念の世界では行動力よりも想像力、己と向き合うことで構築される仕組みになっている。だから、クロノスの行動に意味はない。

レンの言葉を理解していればどうにかなったかもしれないが、心を覆い尽くす苦手意識を取り除かなければ脱出するのは不可能だ。

では、クロノスはどうすればいいのか。なにもしなければいい。今度こそ目を逸らさずに、クロノス・ルナリアという存在を理解する。

こんなに明確な解答が用意されているのに、クロノスはわざと考えから外している。

「応えてくれっ!」

新しい道を探している。心という至高の産物の欠陥部分がそういう風に考えさせる。

次に戦うかもしれない相手のことを考えれば当然だ。

戦うことだけが全てではないように、諦めなければ、必ず別の方向性も見えてくる。自分はなんのためにここにきたのか。

戦いを止めさせるためだ。

クロノアと決着をつけにきたわけではない。そのために多くの命を奪い、この地にやって来たのだ。

レンとクロノア以外だったなら、クロノスはこんなことのために動いたりはしなかった。

特別だと思うから来た。

生きていてくれたことにどう思っているのか、心こそ躍らなかったが、マイナスには捉えていなかった。向き合ったとき、心のどこかが悲鳴を上げて、武器を握る手を切り捨てたかった。

絶望することが当たり前になっていたことに、クロノスは気付かなかった。だが多くの事実を前にした現在の心には別の思いがあった。

どうして、自分自身が戦うことを拒み続けるのか。レンのことは別としても、姉であるクロノアはクロノスにとっていい存在ではない。同質の存在でありながら、彼女によって受けた心の傷は生易しいものではない。しかし、そんなことは自分の気持ちを偽り続けた所為でもあるから問題とは違う。

クロノアに特別な感情があるという考えは、否定しない。だが、それが後の知った、自分の出生の秘密ではないことは断言できる。

姉弟。そこにある絆も、おそらく違う。ずっと悩んでいる。自分の心に踏み込まずにして、はたして自分は、クロノアのことをどう思っているのか、唯一の理解者であるからクロノアを拒んでいるのか。クロノアと再会した今だからこそ、この思いが根深く全身に絡みつく。こんなことになることが予想できたなら、より悩んでいただろう。だとすれば、なんという愚か者だ。

今更だが、情けない。

そう考えた時、クロノスの目の前に一本の白い道に立っているのを自覚した。

無意識にクロノスは心の隙間を覗いていのだ。

それから、この道を踏み外してしまえば、二度と這い上がることが適わないような不安に駆られた。生唾を飲み込む感触に希薄になっていた現実の意識が強くなっていった。

それ以前の考え方を維持し続けていれば、自らの妄執に取り付かれて自らが生み出した絶望によって消えていただろうか。

その可能性はあったかもしれない。

クロノアに対するクロノスの気持ちがどういうものなのか。どうすれば確かめることができるだろう。

もはや、自分一人で悩んだところで結論は出てこない。いままでだって見つけられなかったものを、すぐに出せたなら苦労しない。

クロノアの後ろ姿を見つけて、ぼんやりとしていた頃に抱いた気持ちはなんだったか。それを考え、なおかつ慎重に道を進んでいった。この道はどこに続いているのか。

そして、この先になにが待ち受けているのか、クロノアだったらどう反応すればいいのか考えてみた。意図して、特になにも思い浮かばなかった。

自己分析が苦手な自分なら、想念の思いだけで消し去られそうだ。

道の先に森の入り口が見えた。

黒い背景に新緑の葉が茂った木々が並んでいる。乾いた地面も見つけて、クロノスの中に謎の声の主がこの先にいるという期待が高まっていった。

葉の隙間から光が見え隠れしている。もしも、クロノスの期待を裏切るような結果が待っていれば、絶望の果てに自分自身の存在を完全に否定することになる。

全てが限界だった。

たとえ溜め込んでいた心の闇を取り除いても、彼の精神はとりかえしの付かないほどに錆び付いている。失い続けたから自暴自棄になりかけている。そんな普通じゃない自分を、クロノスは別の角度から見ているような錯覚を覚えた。

自らの心を完全に開くということ。

その、難解さはクロノアに自殺志願をすることを挑むよりも無謀な挑戦だと思われる。

これ以上の出来事がはたして生きている最中にどれだけ出会うというのか。もう一人の自分を知ることは真の覚醒を意味している。

場合によっては、クロノスにとって逆効果にしかならない。一歩が自分の気持ちを表しているようにわずかだが地面に沈んでいく。自分でさえわからないことに存在力が失われたようだ。

これ以上時間を費やせば繰り返される自己消滅の念に終わるかもしれない。自分らしい。誰にも知られることなく、終わるなんて孤独な自分に相応しい。

だが、クロノスは自然と走り出した。

森を駆け抜けようとする。心の隙間から零れ落ちる本音を、想念が読み取り再現する。鳴動する木々の隙間に色が付いた頃に、前方に小さな影を見た。

鼻を刺激する匂い……人の気配。

その感触に、自分の目で見ても信じられないほどの驚愕がこめられていた。同時に胸が締め付けられるほどの温かさがあるのを感じていた。

木造の建物がある。

隣接するように小さな小屋もある。

開いた窓から香る消毒液は距離感を麻痺させる。目蓋を閉じてここに関する多くの記憶を掘り起こすだけで、自分が必要とされていたことを痛感した。

誰一人恐がる者はいなかった。新参者の彼の正体を知りながらも、よく話しかけていたことを思い出した。最初は、鬱陶しくて口論からなる喧嘩が頻繁に起きていたことも思い出した。その中心にいつもいたのはクロノスだった。

だが、それは最初の一年だけだ。

その後はクロノスの活躍によって会話はなくなっていった。もしかしたら、そのことも関係して力に対する考えがより複雑になっていったのではないかと思う。

そうでなければ、自分に関わらなければ、巻き込むこともなかった。

しかし、クロノスは居場所を求めた。

事実として、それが胸の中にあった。

心の奥に潜んでいた。それにどれだけの価値があるのか。自分が帰ることを許される唯一の場所、初めて見たときと同じように心が震えているのがよくわかった。

星降る家。

クロノスは扉を開けた。見慣れた風景の中に青い髪を見つけた。こちらの視線に気付いて手を振っている。見れば、木製のテーブルの上には彼女が腕によりをかけて作った料理が並べられていた。

「マリア……」

声に出して名を呼び、クロノスはゆっくりと自分を手招きする彼女に近づいていく。テーブルの上にあるネームプレートを見て、自分の席に座った。

真っ直ぐと彼女を見つめた。

食事をしながら、頬杖を付くのは彼女の癖だ。本物の存在を認識した。

『久しぶりね、クロノス』

姿勢を正したマリアがいつもの口調で言った。

「その体……」

『思念体。わたしはすでに星の一部になっているの』

微笑む彼女から視線を外し、テーブルの上に握り拳を置く。しかし、クロノスの手が叩きつけられることはなかった。

いまのクロノスは自分の中に絶望を感じなかった。

彼女が生きていた事実がはっきりと全身に伝わってきた。

マリアという存在が、クロノスの中に広がる闇を取り除くことに成功した。そして、クロノスの自我に影響を与えずに、自尊心を取り戻させた。 『レンが気を利かせてくれてね。最後の時間を少しだけ残してくれたの』

「そうか」

微かな炎の揺らめきとしての存在力しか、彼女には残されていないことにもクロノスは表情を崩さなかった。

『驚いてないのね。裏切りについてはもういいの? 』

「よくわからない」

『でしょうね。あなたはまだ決めかねているもの』

マリアのまっすぐな瞳がクロノスに向けられている。レンのような圧迫感のあるものはない。

ただ、瞳に閉じ込められているクロノスを、何故か自分の本当の姿だと感じた。

『戦うことを恐れている。力を使うことを拒んでいる。人でいたいと願っている。死ぬのは恐くない。だって、あなたは魔術師だもの。でも、化け物になるのだけは嫌なのね』

カウンセリング独特の話し方にはクロノスの心の扉を開こうとする試みがみられる。そんな最中に、クロノスのため息が中断させた。

「どうしてお前はそんな顔ができる」

死してなお、笑い続けていられる時があるならこの瞬間だと言わんばかりの笑みだった。惑いもなく、恐れもなく、絶望の色もない。楽しそうな姿を見ていると生きているようにみえてくる。

『不思議? 』

「ああ」

いまのマリアは、死の概念からかけ離れた存在である。ただの残留思念体だった。クロノスはそんな彼女を恐いと思った。

『わたしはクロノスと違って死ぬのが恐かったの。人を殺してでも生きたい側の人間だった。それがどう? 中途半端な存在になって生きることも死ぬこともできないなんて……』

「マリア……」

『クロノスはまだ生きているのよ』

当たり前のように言われた言葉の意味は彼の忌避するものの一つだ。

「そんなこと……」

『関係なくない。生きていれば苦しいこともあるけど、それと同じくらい嬉しいことや楽しい事だってあるはず。魔法学園での生活はどうだった? 』

「なんで、いまさらそんなことを聞いたって意味いないだろ」

『わたしはギルドマスターとして、クロノスの活動を知る権利がある。だから、初日からなにがあったのか言いなさい。別途、情報源があったからあなたが学園の生徒たちを病院送りにしたことや、サボっていたことは知っているから、授業風景のほうを聞かせてもらえると嬉しいかな。人と触れ合うことはできたのかな? 同年代の友達はできた? 』

マリアは怒りつつ、どんなことを聞かせてもらえるのか胸を躍らせている。その様子に、クロノスは仕方なく話すことにした。

子守唄を聞かせるように。

いまさら、こんな話を聞きたがるのは彼女を除いて誰もいない。

権利と彼女は主張したが、これも業務報告の一環とすれば諦めもついてくる。

学園の生徒や教師が織り成す、どこか抜けている授業風景。昼休みに廊下を走り回る謎のレースの行方。

誰がどうだとか、クロノスにはどうでもいいことでも、マリアは反応を返してくれる。

『ありがとう、クロノス』

短い報告に満足したのか、マリアは拍手で閉じた。

「俺はなにもしていない」

事実を口にすると、マリアは人差し指を突き出した。

『まだそんな後ろ向きの考えしているの? クロノスと出会わなければ、おそらくわたしはここまで多くの人を救えなかったよ。クロノスがいたから、救えた命があることを忘れないで』

何度も聞いているマリアの感謝の言葉には、どこかいままでにないものが混じっているような気がした。

「知るか……」

クロノスは首を振り、マリアに表情が読み取られないように努める。それでも、身を乗り出して覗き込もうとする態度に心がざわついた。嫌な気持ちが高まっていくのがわかる。おそらくこの気持ちは怒りなどではない。“彼女たち”に対するものだということが、そういう気分にさせてくる。

『本当に変な顔。クロノスっていつも難しい顔しているよね。特殊な生い立ちだから、わからなくてもないけど、少しでもいいから肩の力を抜いてみたら? そんな顔ばかりしているから受付係の子たちが恐がっているのよ』

「黙れよ……」

マリアは続ける。

『受付係はギルドの顔。クロノスの仕事は評価に値するけど、無愛想なところが彼女たちには近寄りがたいのよ。とにかく、まずは態度を変えることが必要だと思うの。あなたはそれなりに美形なんだから、変われば引く手数多よ。わたしも鼻が高いわ』

「黙れといっているだろ!」

マリアは続ける。

『わたしは人間なの。創造主が生み出したこの箱庭の世界に撒かれた一つの用意された運命を生きていた。きっとクロノスの目の前にいるこの時だって、彼の掌の上でやっていることだと思うと腹立たしいけど、仕方ないと思うよね』

生きるというのは用意された運命の種を育てるだけの作業だったと、彼女は言う。

自らの役目を果たすことができるのかは個人の存在力に左右される。どんなに強くても、エイジアスに逆らえない運命に、マリアの気持ちはここに来て爆発する。

人の上に立つ存在として、それは口に出すことを許されない弱さ。彼女がとても小さく見えた。クロノスに生きる居場所を与えてくれた頃の光はない。

マリアの背負う十字架の重みに潰されている風に感じられた。それが自分と関わったためのものなのか、あの日に出会ったためなのか、それともクロノスという存在を許したためなのか、聞くことが出来なかった。

『わたしは罪滅ぼしのつもりで人を助け続けた。最悪よね。一番助けたかった人を助ける前にこんな形になっちゃったんだから、わたしは、ギルドマスターとして失格』

「…………」

『こんなに近いのに触れることすらできない』

「マリア……」

クロノスの呟きに、マリアの手が体を通り抜ける。そしてしばらくクロノスと見つめ合い、少し経ってからぽつりと呟いた。

『ねえ、わたしはクロノスになにかしてあげられたかな? 五年間、一緒にいて思い出とかなにかある? 』

思い出という意味でなら、ここまではっきりと形に表れているだろうに。周囲の風景がより繊細なタッチで色付けをされる。クロノスがここにきて最初のイベントだった。彼女が、嫌がる自分の手を引いて連れてきた。その時に用意されていたものは、ここには完全な形で再現はされていないが。

「歓迎会」

『クロノスが家族になって唯一みんなが集まった日だったね』

「食事が嬉しいものだと思ったのはあれが初めてだった」

クロノスの心を吸収してできた幻の時間。おそらく、心を解放すれば永遠を唱えることすら可能なはずだ。想念の力が叶えてくれることに不可能はない。

「レンはなにか言っていたか? 」

『特になにも言ってなかった。ただ、レンはクロノスを信じていたよ』

「俺を信じたところでどうにもならないのに、レンは馬鹿だな……人を信じたところで重荷になることぐらいわかるだろうに」

『わからないのよ』

悪戯に頬を膨らませるマリアが口を尖らせるのは珍しい。クロノスは托された思いを考えてみた。彼がクロノスに求めていた本当の強さというものを手に入れたときに自分がどう変化するのか考えた。

正直、似合わないという結論が返ってきた。

マリアとレンの言葉にはクロノスに対する接し方の違いだけで、根本は同じことを言っている。それに応えることが心の重荷になる。気持ちに応えてやりたいという思いがないわけではないが、それをそのまま実行しては心に大きな矛盾が生じて動けなくなる。

『みんなクロノスが好きだから』

マリアの声は全ての音を掻き消すだけの効果を秘めていた。クロノスは気持ち悪さを感じた。人間的感情を有している自分でも適わない思いだ。心の闇を実感する。

「馬鹿なことをいうな」

『本当よ』

「お前がそんなこといったって、もう救える奴もいない。全員、いなくなっちまった」

『パートナーを忘れるなんて余程切羽詰っていたのね』

マリアが手前のグラスの縁を指で擦る。すると、中身の液体が震え出し、なにかが聞こえてきた。

「…………」

『星降る家はまだ生きている。たった二人の家族がいる』

「セリュサ……」

耳を突き抜ける強風に爆発音のアクセントに思わず身が強張る。伝わらない衝撃に体が反射的に反応してしまう。それほどの激闘に身を投じている存在を、いまの今まで忘れていた。クロノスは気難しい顔を消し去り、思わず耳を傾けた。

『いつまで待たせるのよ!馬鹿クロノスっ!』

苦笑が零れる。

「……馬鹿は余計だ」

『ほら、また怒らせた。女の子を怒らせたらダメだって教えたでしょ』

『女だけじゃない。星降る家のメンバーに俺たちの存在を抜かしてもらっちゃ困るぜ』

第三者の存在は、そのタイミングで現れた。

「お前たち……」

四人が順にクロノスの頭部を、手で叩きながら席に座る。

『久しぶりだな、クロノス』

『わたしたちを除け者にするなんて、マリアさんはギルドマスター失格です』

『家族を応援するのは当たり前だろ』

『いままで忘れていた分、ここで思い出してくれなきゃ怒るよ』

四人の言葉には嫌味はなく、言って当然という副音声が聞こえてきた。それでも行動がマイナスだ。全員を睨みつけ、そして一度、俯いてから呟いた。「ごめん」

罪悪に対する精一杯の言葉のつもりだったが、彼らは簡単に返してきた。

『謝る暇があったら前を向けよ、馬鹿』

紅蓮は言った。

『止まる暇があったらどこまでも進みましょう、馬鹿』

瞬光の雷帝は言った。

『黙る暇があるなら笑えよ、馬鹿』

水使いは言った。

『待たせているなら早く行きなさい、馬鹿』

時空使いは言った。

そして、マリアは言った。

『ねえ、クロノス、信じるだけならわたしたちがあなたをいつでも見守っている。もう傍にいることはできないけど。目に見えなくても思いは、必ず伝わっていると思っている。だから、わたしたちができなかったことをやってくれるかな? 』

「一体何を……」

全員がクロノスを見ている。

『クロノスの心の中にいる一番大切な人を助けてあげてほしい。世界とか、人類とか、そんな壮大なスケールでの戦いはいらない。“クロノスが、自分のためだけにできる戦い”をすればいいのよ』

「自分の戦い? 」

『それが、彼女の心よ』

マリアが告げて、クロノスの反応を見る。

『彼女は自分の全てを捧げてたった一つの戦いを始めた。その戦いは、その人にとって賭けだった。これはわたしの女としての勘だけど、彼女ほど世界を愛していた、いや、あなたを愛していた人間はいなかったと想わされた。全てを賭してでも守りたい人を守る力、それをわたしたちはあなたに求める』

「俺の守りたい人……」

守りたい存在。

『これ以上はわたしたちが教えられることはなにもない。自分の心に問いかけなさい。そして、答えを見つけなさい』

話は終わった。

『この答えは、必ずあなたの力になってくれる』

「…………」

『眉間にしわ寄せているようじゃ、まだまだ時間がかかるかもね。でもね、クロノスはもう知っているの。ずっと前から答えを持っている』

「どうして、そんなことを……」

マリアの言い方に、クロノスは戸惑う。

『彼女が教えてくれたの』

「運命ってやつか」

『違うよ。この流れは誰も知らない。創造主の意思から外れた場所に作られたあなただけの小さな未来よ』

マリアの言う通りかもしれない。狭かった世界がここにきて急に広がりを見せていた。

「可能性」

『そういうことよ』

「……これが、俺の生まれた理由」

『だけど、そこにはあなたの意思が必要ということを忘れないで』

考えるまでもなく、いままでと同じものが求められている。

だが、いまのクロノスには何故か余裕があった。

いままで思い悩んでいた呪縛から解放されたことによって、クロノスはいまなら心と向き合えるような気がしてきた。

『願うなら、あの子の気持ちに応えてあげてほしいけど、クロノスがやりたいようにしなさい。それがあなたの戦い』

「わかった」

自然と受け入れられる自分の姿にマリアたちは頷いて見せた。いや、雰囲気から発せられる別人の印象に四人は驚いていた。やってみよう。クロノアと再び向かい合う。それからどうなるかはその場で考えればいい。

『クロノス』

マリアの気持ちが届けられる。クロノスはいままで偽っていた気持ちを消して、笑みを作った。

「ありがとう」

もはや、クロノスに迷いはない。彼女が与えてくれたこの生命と運命がこの馬鹿げた物語を完結させることができるなら、やるしかない。いまのクロノスに戦う理由があるとすれば、クロノアがいなければなにもできなくなる。

『いってらっしゃい』

マリアの言葉に、クロノスの背後にある扉が自動的に開いた。眩い光が満ちていた。見送ってくれている家族を背に、零れ落ちるものを無視してクロノスは飛び込んだ。


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