神の詩篇
無心、自分との戦いだけしか、そこになかった。
考えることなどしなかった。
自分以外の生命は存在しない。
いや、目の前にかろうじて存在している者がいたか。
それでも地中深くに眠り、そして星の生命力に変換された人類は、精霊化さえできないほどに完全な融合を果たしている。
ここまでの世界調整を行なうのにクロノアは実力の半分も出していない。精霊たちはエイジアスの支配力によってレンから切り離され、そして存在力を書き換えられた。
純粋なエネルギーとなってしまった。この大地から精霊という存在が失われた。また一歩、世界が彼の理想に近づいた。大規模な戦闘の影響をものともしない再生力が即座に空間内部を塵一つ見逃さずに完全修復してしまうレベルにまで到達していた。
それどころかいまやクロノアのエネルギー源として馴染んできてさえいる。エイジアスのために体組織が変異しているのだろうか。
天空と炎の流星群。比類なき力を手にした弱者を弄ることにも退屈を覚え始め、視界に入れることすら放棄していた。自分に向かってくる小さな太陽はこうしている間にも周辺の地形を焦がし、質量を増大させている。
世界には光が溢れ、闇の魔力はすでに消えていた。
天空と炎の流星群。天からの落し物は指先程度の弱者を殺せずにいた。無数の隕石の落下による衝撃が整えた髪を乱すことも気にしない。殺すことには造作もないのに、だがなぜか、直接手を下す気にはなれない。
古代の都アイレスは太陽の使者の覚醒と同時に本来の役目を終わらした。おそらくは彼女を進化させることが目的だったのだろう。となれば、彼女から発生している聖なる光が染み付いた欲望を取り除いていることになる。
すでに除去作業は完了しているだろう。
エイジアスはすでに満足したのか散歩に出かけ、クロノアの様子など微塵も気にしていないようだった。最後の見納めの旅といったところだろう。存在変換した後の舞台。少しだけ興味があるのは否定できない。
言ってしまえばいままでの世界よりかは刺激的な毎日に期待が持てる。心が躍って鳴り止まないそんな体験が待っている。ここで遊んでいるよりかは、その謎めいたものに惹かれている。なにかしなければなにも起こらないのと同じ理屈。世界を滅茶苦茶にした後に言うことではないが、自由な空に下の心地よさとはどういうものだろうか?
ここに来て無縁だったものを欲していることにズレを覚える。完璧だった自分が希薄化している。なぜだろう。自分でもよく分からない。
エイジアスとの契約事項にミスは何一つない。そしてエイジアスに協力し続けた後に残ったのは、なんともいえない空虚な感覚のみだ。遥か昔からこの気持ちを埋めてくれる者を、クロノアは待ち続けていた。
なにかが起こる。
奇跡が起こる。
微かな希望を乗せた未来が現れる。
それが、クロノアの願う未来の姿だった。自分の手が加えられていない未来が確実に起きる確証はなく、完全に管轄外の他人まかせでしかない。
その未来を叶えようと悪事に手を染めてきたが、いまだに陰すら見えてこない。
理由は分かっている、心が不安定だからだ。それは全てクロノアが仕込んだことだ。そんな自分の身勝手さを呪う。呪われて、そのまま死んでしまえばいい。
死を。
己の存在そのものを否定したかった。待ち人と約束した覚えがない以上、その人物が彼女の下に参上する理由はなく、訪れる必要もないことをクロノアは理解していた。
弟。
クロノス・ルナリア。
この世との狭間に消えていった。次元の流れに飲み込まれ、いまは無限の時の中を彷徨い続けているはずだ。心が弱い者は帰ってこられないのに、クロノアは待っている。
弟が、生まれ変わって、今一度クロノアの前に現れるのを待っている。
自分の弟なのだから。
クロノアの弟として、どれだけ不出来で情けない姿をさらしても、激しい憎悪で作り上げた敵意を持ってして挑んできてくれないかと、考えてしまう。
しかし、どす黒い感情と純粋な気持ちは相容れることはない。
「はあ……馬鹿な人」
呟いた言葉に太陽の使者が反応する。それの応えは激しく、嵐のようにクロノアの周りを歪ませた。伝説として語り継がれる魔術師を前にしても、彼女は果敢に攻め続けている。
しかし、決定打にかける攻撃力がそのまま結界を貫ける突貫力にはならない。
魔力超加速循環と魔力超融合循環。
体内の魔力器官を完全に暴走させ、細胞組織を強制進化させ続ける技術は自分だけでは扱いきれないものだ。
滅びの太陽と魔性の月が交わった時、初めて効果が発揮される。
クロノアの力では滅びない。
そんな程度では消滅できないほどに、太陽の使者は強大な存在になっている。
彼女がいなければ、太陽の使者が現れなければ、月はこの世を捨て去っていただろう。だが、これもまたエイジアスが用意したシナリオ通りの展開だとしたら複雑な気分だ。
しかし、たとえそうであろうと、彼女の力までは用意されたとは思っていない。
超絶の力には弟の力があってこそ得られたものがあり、確定された運命を乱す存在になったであろうと、そう思っている。誰からの束縛も受け付けない。
闇夜を好み、強大で、自由であること。誰にもない柔軟さの裏にある心の弱さは評価できないが、嫌々ながらも立ち向かってこようとする意志が隠れている。
それが自慢の弟である。
それが、クロノアにとっての弟である。だから、このような状況になってまで向かってくることに期待はしていない。灼熱の炎剣が結界を揺らす。
紅い刀身に込められた力強い意志が伝わってくる。
超古代の技術の扱い方なんて理解してもいない未熟な魔術師だが、彼女の諦めの悪さをクロノアは感じとった。そこに新たな影が降ってくる。
使者ほどの実力はないが、強大な力を持っている。
炎と、雷と、水が引き出す大爆発を暗黒の液体が包み込む。黄金の光が木々を染める。地形を噛み砕くようにして、球体状の闇が消滅する。
空を漂う、二つの存在が地上を見下している。それぞれに与えられた命令を果たすために解放した魔力が肉体の隅々まで浸透しているのか表面が輝いている。溢れ出すエネルギーが周囲の命を吸い取っている。
闇の女王と月の女神だ。
カリン、フィエナ、ミラン、そして本来の役割を主張するネリスとディアソルテの戦闘の破壊力は衰えを見せない。
周囲には濃い空気のように彼女たちの魔力が漂い、彼女たちの戦いに決着がつかないようにしている。濃密な魔力の過剰吸収によって肉体の細胞組織の進化を行い、強化と再生を同時に無限に繰り返し続ける。
これらの代償として支払われるものはなにもなく、それぞれの魔力を取り合っているだけで事は済んでいる。
まるで一つの世界のようだった。
クロノアは太陽の使者から視線をそちらに切り替えた。二人の戦いに五人は気付いているが、互いに完成された世界を壊すことを望んでいないのか、最後の一線を越えようとはしなかった。それとも次元の違う絶対強者に臆しているのかもしれない。
そういう高度な考えができているなら、賢明な判断として評価に値する。使者とは選ばれた者だけが与えられる名称。
それすなわち最強の魔術師の称号だ。
クロノアは小耳に挟む雑音に不快感を覚えた。
エイジアスはどこかでこの光景を眺めているのだろう。洒落っ気のない戦いと細々しい乱撃をどう思うだろうか。そして、これが人々に信仰される神が起こしたのなら悪趣味だと断言しよう。
しかし、厳密に言えばエイジアスがしたことは時の流れに逆らうことではなく、人間でいう若返りの薬を飲んで美しさを保とうとする行為だ。
ここで指摘するなら薬に人間を消費しているところだろうか。
そして、生命循環のために用意された存在力は、両者の戦いによって減少することがない。
それだけ濃縮された生命の一滴が、秘めている力が強大だということを証明している。
それを我が物と出来るカリンたちは寄り添いあい魔力共鳴によって増強した存在力を変換して人の姿を捨てていた。
カリンは全身を炎で包んだ上で燃え上がる美しい鳥となり、フィエナは双頭から風と雷を吐き出す獣となり、ミランは全身を鱗で覆い半身を魚の尾に変化させて召喚した津波に乗って滑るように移動していた。
対してネリスは自身の闇の領域を広げるために支配した魔を放ち、ディアソルテは銀の杖を剣に変えて獣の首目掛けて鋭い斬撃を撃っていた。
背中に広がっている漆黒の羽ばたきから落ちる羽根が他の魔力に反応して形を変えた漆黒の剣として軌道を絞り込むように降り注ぐ。大地に突き刺さる剣の先端から変色が広がり、力を吸収する過程で拮抗するように世界が咆哮する。
カリンたちの能力に引きずられ、大自然の牙が並べられる。
質のいい戦力が束になる脅威は恐れ多い。吸収ではなく、体内で組み換えたエネルギーを強制投与してわざと暴走強化させている。
だが、牙には自己強化も自己再生する能力もない。
だから、唸りを上げるのも制限時間には自己崩壊という形で終わるはずだ。
敵味方の区別なく暴れ狂っている様子は見ていて気持ちがいいものではないが、それを狙っていたなら脳のほうが汚染されているのだろうか。
あるいはあれは、大地に還元された魔獣たちの魂の形なのだろうか。汚染されて暴走していた彼らが求めていたのは質のいい魔力だった。ただ食い荒らすように動いているなら、間違ってはいないだろう。
だが、一つだけ容認できないことがある。
とても気分が悪い。
適した比喩表現も思い当たらない。
この舞台に招かれざる客人が侵入したのは偶然だが、そんなことは関係ない。
せっかく整えたのに壊された。極論すれば邪魔をされてしまったのだ。クロノアの怒りというのはこの場で戦う全ての者にとって与えられるべき正当なものである。
殺す。
そう結論が出た。
その考えに到った瞬間、クロノアの魔力が世界を満たした。獣たちは只ならぬ気配に宙に跳んだ。クロノアを見上げていた。
大自然も矛先をこちらに向けていた。
クロノアの怒りは、一気に爆発する。
「広大な空を飛びたいのなら、わたしの許可を得てからにしなさい。地を這いずり回りたいなら、おとなしくその場で逝きなさい」
その言葉を最後に全ての流れが停止した。炎の鳥が、双頭の獣が、人魚が、夜の女王が、月の女神が、無数の牙たちがクロノアの強大な影響力の前にひれ伏した。
「“滅びるは、魂”天空魔術――天空と太陽の光空」
カッと空一面が眩い光を放つ。青天をめまぐるしい速度で発生した雲海に覆いつくされた。そして、地上に降りてくる。
膨大な魔力に固められた空の破壊力に、押し潰されてしまえばいい。だが、クロノアは物質世界では世界最強の威力を誇る魔術の性質を変えて撃った。
最強の硬度を幻の空にして、生存者を通り抜けたところで固定、構築術式を瞬時に組み換えて本来の術に戻した後は黄金の雲海に代わった大地が出迎えてくれた。
「“惑わすは、心”天空魔術――天空と月の宝石」
天空に十二の美しい輪が飛び交う。黄金の大地を反射した雄大な空を漂う幻想の産物が輝く時、世界を光が浸食した。
視力が回復した頃には、今度は星海が出迎えてくれた。
その中に十四の輪が新世界を象徴するように配置されている。
この術の特性の優れているところは十二の輪に固有能力を宿している点だ。その一つが『あらゆる事象の逆転』にある。凝縮された残りの十一の黄金の輪もいつでも能力を発揮できるように仕込みは完璧だ。
「“始まりは、命”天空魔術――天空と光の王樹」
それを合図に雲海を突き抜けて一本の巨大な大樹が生まれた。強固に張っている根に比例するように、太い枝を扇状に広げて領域を広げていく。
根から吸い上げるのは地中深くに温存させていたこの星の生命力。その一滴でも多大なる影響力を及ぼす力が葉を茂らせ、蕾を実らせ、そして美しい花を咲かせる。
どんな腐った罪人の命でもこういう形にしてしまえば、面白いぐらいに美を感じる。三つの超絶の魔術の侵略に抗う術は存在しない。
それは対象を威力や個人で識別せず、世界という非常識な広範囲で術式を編み出した彼女だけのものだと言えよう。
逃げ場のない密室に閉じ込められ、天井が降りてくるものと同じ理屈だ。ただ、この場合は床ごと陥没させる威力があることを忘れてはいけない。
クロノアは抗うことの出来ない生命の反応を見て、笑った。退屈を紛らわすにはそれぐらいしか考え付かなかった。“自分が自分でいられる貴重な残り時間”を無駄にするのはもったいない気もしたが、仕方がない。時間が来た時が終劇の時であり、そしてクロノアという存在がこの世から消滅する時でもあった。
そして、望まない新たな変化はやってくる。
結界を突破して内側に入り込む違和感。クロノアの魂に紳士的な言葉をかけてきては、じわじわと侵蝕域を広げる。彼女の実力をもってしても拒絶できない感触だ。
それでも魔術の発現を維持しようと、魔力制御に意識を回していた。
大規模な術式の放棄は、そのまま破壊の衝撃に転化してしまう。
それで起こる惨事をクロノアは望んでいない。
あれ? どうしたんだろう……視界に広がる光景と脳内に再現されるイメージに激しい頭痛がする。いままで感じたことのない衝撃に驚いている間も、絶えず痛みは続く。
幼い頃から、自分がこの世界でなにをすべき存在なのか知っていたために、周囲との関係性も決められた運命によって仕立て上げられていた。
そんな時代から不自由な生き方をして過ごしていた。浮かび上がったイメージとはその頃から連想される彼女の生き方を全面的に否定するようなものだった。
それがエイジアスの手のものでなく、クロノア自身よるものだと確信した時、頭痛は治まった。自分に起きている有象無象の類の不明瞭な正体を求めているのかもしれない。
そう考えた時、クロノアに動揺が走る。危機を覚えた。対処できない危険だ。だが、クロノアを殺そうとする感じはなく、彼女を守るように優しい波紋を描いた。
それは静かに世界に生きる生命の鼓動に負荷を与えるものでもあったようで、剣姫たちやディアソルテは感じたことのない圧力に膝を折った。全身を叩きつける。全ての生命の鼓動を支配する不思議な波動の呪縛からは容易に逃げられない。だがそれは、クロノアの内部から発せられているが、彼女の意思によるものではない。
クロノア自身には悪影響は出ていないが、他人に操作されるというのは嫌な気分だ。
気持ち悪い。
そしてこんな形で終わるのは嫌だ。
このまま飲み込まれてなにもかも忘れてしまいたくない。
この気持ちが止まらない。
クロノアの中で封じ込めていた未練が爆発的な速度で膨れ上がっていく。最初に変化が見られたのは、精神面の影響が最も現れる魔術だった。
十二の独立した固有能力を生み出す輪が七色に変化して、弾け飛ぶ。属性が込められた一部が消え、襲いかかる。制御できない。
どうしてこんなことをしているのか。
意味がわからない。
なぜクロノアにこんなことをさせるのか。
どうすることもできない。
やめろ。
やめろ。
やめろ。
だが、止まらない。
クロノアの体から放出される魔力による肥大化が凶暴な牙となってくる。
この錆びついた気持ちをより加速させる陰湿な悪夢の連続に精神に亀裂が入る。だが、これで肉体の所有権がはっきりとした。
感情が揺さぶられるという空前絶後の精神状態に陥ってしまうなんて正常さを保てていない。魔の鎖に心は縛られた。
二つの精神が同時に発症する病は存在するが、同時に発生することで心にかかる負荷は倍以上にかかる。
これは彼女から完璧の称号を剥奪するのに十分な影響力だった。
だが、心に浮かべてはならない。
負けるな。
悟られるな。
抗うな。
『準備は整ったと見ていいのかな? 』
その声に全身から血の気が引いた。
同時に自分の存在が世界から隔離された。この感触がしたときから分かっていた瞬間が訪れただけだ。
すでに、自分の役目が完了しただけだ。
漆黒の空に漂う二つの精神、クロノアの知る本当の神がそこに現れた。
「『命の樹』は生まれた。あとはあなたが主役よ」
『そうだね。わたしの役割を果たしに行こう』
エイジアスがクロノアの魂に触れたことで、支配権はより強くなった。
クロノアというフィルターを通していた命令を無視して、より強大な威力を引き出せるようになったということを意味していた。
邪悪な波動が強くなり、消えていた闇の波動が蘇る。
クロノアの存在が消滅する速度も速くなる。
それらは彼女に残されていた人としての最後の欠片を粉砕して放り出すことになった。
『汝の名はクロノア・ルナリア。滅びを知り、罪深き人類を断罪し、世界を救済することを約束した神の仔よ』
「いまさら、お堅い挨拶されると困るからやめてよ」
クロノアは最後の抵抗として毒を吐いた。只ならぬ喪失感の後に、流れ込んでくる人々の叫びと同時に幻の痛みを感じた。
叫びは人々が死ぬ間際に残した負の感情であり、痛みとはその時に感じた心の傷だ。エイジアスが現れたことで、もう一人の自分という存在は不要になった。
同一の存在がこの世にいてはその矛盾から相互消滅の危機に発展する。それの回避策として二つの精神の内一方は消えなければならない。
クロノア・ルナリア。
天空の使者の器はここでリタイアだ。
その青い瞳に宿る暗黒の魔力が魔眼の色を世界に放つ。
生と死の権限を自由自在に引き出す彼女の本質。
誰にも影響されず、誰にも干渉されず、誰にも勝つことのできない能力を行使する破壊神がそこにいる。
「“断ずるは、闇”天空魔術――天空と雷の天罰」
魔眼が映すもの全てから生命力を搾り出すために直視し、残った絞りカスを一掃する。
天空と月の宝石を分解、一定範囲を囲うように巨大な輪に変化させ、集束させる増幅源から落とされる轟雷の一線が拡散する。意識から外れていた生命の鼓動が呑み込まれていった。
だが、それは別のものに遮られた。太陽の使者セリュサ・ルーヴェン・ベルリカの紋章の力に残さず吸収された。
雷はセリュサの身を焼き殺すことをせず、宥められた獣のように従っている。セリュサを守る二つの異能力には、自分が用意した運命を持たない危険な臭いがする。
それがどのようにしてできているのか、クロノアの知識からエイジアスは理解した。
しかし、術者の強い意志に比例して効力を高める守の力と、限界以上の強化を可能にする攻の力が混ぜ合ったものはここにきて彼女も知らないものへ変化しているようだった。
だが、二神の力を融合させた未知の能力にこの肉体の能力が劣っているとは思わない。
「“目覚めるは、力”天空魔術――天空と無の波動」
その能力を見極めるために、エイジアスは手を向ける。
セリュサは背筋を震わせる悪寒に従い、即座に前方に跳んだ。気配も音もしなかった。彼女が後方を見たときには雲海の一部が陥没していた。
攻撃モーションから推定する術式の解析を実行、タイミングを計り…………動く。
「太陽魔術――太陽と古の大破壊」
正面に突き出した破壊のエネルギーを込めた塊が動きを止める。
さらに、接触面から細かく削られていく感覚にセリュサは想像の球体を思い浮かべた。
「“誘うは、死”天空魔術――天空と闇の墓標」
エイジアスの意思を受けて、十字線が墓を並べる。
状況判断に自身をも巻き込む爆発による不安定な超速移動に頼らなくてはならないほどに、その勢いは速度がある。魔力の波を食い破り、闇は無限の力を与える。
太陽の輝きを飲み込むほどに。
セリュサが素早く移動し、地面に縫い付けられている同胞の守護に回る。
灼熱の炎剣を召喚し、注ぎ込む魔力によって延長した剣身が無機物の伐採を開始する。
この瞬間、セリュサの速度は闇の墓標を超えるものとなった。
大切な者を守るための戦いにセリュサの潜在的な能力が引き出された。
「“制するは、時”天空魔術――天空と音の螺旋」
だからといって優勢権がエイジアスから移るわけではない。
パワーがダメならスピードで制すればいい。
単純にしてもっとも有効な手立てだとエイジアスは考えている。
酷い耳鳴りをセリュサが感じた時には、魔の手に掴まれていた。
濃厚な重低音と高音が織り成すハーモニーがセリュサの内部で一気に弾ける。だが、セリュサは逸早く察知した違和感を紋章の効果で無効化することに成功していた。
だが、内部を循環する音の脅威は消えない。攻撃なのに、その静かな性質は、奇妙な感覚として波紋を広げる。
その全てを消滅させようとしたら、左手が動かないことに絶句した。能力が発動しない事実よりもエイジアスが攻撃手段を切り替える可能性を考え、セリュサの危機意識は究極の選択を迫られていた。
あの時と全てが重なる。
これではただの繰り返しだ。
違うのは自分の大切な対象が両親から、共闘する同胞に代わっただけだ。そして、その瞳に移ったエイジアスに、状況に困惑している自分の姿に全身の動きが止まる。
それは動揺からなる戦闘中に絶対に起きてはならないものであり、セリュサがその状態に陥ったことで刹那の判断を損なうことになる。
闇の速度が大地を飲み干す。セリュサが腕を同時に向ける。最悪の状況を引き起こしたことは、セリュサの責任ではない。
しかし、この場所には彼女だけしか存在せず、そして確実に抑えこむことに失敗したのはセリュサの心に深刻な一撃を与えた。
世界が急に、暗転したように思えた。
それが、セリュサの内部が崩壊する音だと気付くのに時間がかかった。
セリュサだけが、そこに存在していた。
†
自分を信じろ。
その言葉を鵜呑みにしたわけではない。だが、それを口にした時のクロノスには凄まじいものを感じた。自分を責め立てているようだった。
黒幕の存在を知ったためか、それとも彼女に対する気持ちからなのか。
どこでこの運命が狂いだしたのだろう。
この場を支配している神であることは間違いない。
間違いない。
だが、セリュサはそのことに深く追求することはしない。
そのことに追求するだけの理由を持っていないからだ。セリュサが出来ることといったら、馬鹿な姉弟喧嘩を仲裁する役目だろう。
そのためにも、彼女とここで戦い続けなければならない。それを望んで自分がしているとしたら、どこかの戦闘狂に成り下がってしまったと思わなければならなくなくなる。
なるようになると割り切って戦い続ける。やるしかない。天空の使者が魔力を解放した。
その概念は頭に叩き込まれていても、そのブラックボックスと揶揄することができる能力に対処する手立てはセリュサにはなかった。
だから彼女から放たれる攻撃手段を回避するのは危機回避能力が見せた偶然のものだった。それは、ここでこうすればかろうじて助かる可能性があるというだけの曖昧な感性によるものだった。
理解していても避けることのできない攻撃がセリュサの心身を過剰に疲弊させる。
だが、それに屈しては世界を守る者がいなくなる。
セリュサは限界を超えて麻痺している思考回路に気合を叩き込んだ。
その時、天空の使者の闇に呑み込まれた。セリュサは与えられた紋章の力を駆使し、全力で天空の使者の力に対抗する。
大自然の猛威に立ち向かうよりも困難だ。少しでも伝説に恐れを見せれば、それだけで死んでしまいたくなる。天空の使者の闇に全てを奪われた。
天空の使者はセリュサの心を壊すだけの決定打を絶妙なタイミングで打った。
無限の魔力を無限に近い魔力で防ぐことはできない。
それを精神が不安定な状態でセリュサ行なったのだから最初から無理だったのだ。紋章は、無意識に発動する。この能力を与えられてから数十時間、この能力が完成してからはセリュサの求めに応えてくれる。
セリュサのためにもたらされた力が、極限状態に覚醒する。絶対の魔を退けるには紋章は有効な効果を見せたが、さすがに長時間の攻撃を凌ぐまでの耐久力はもっていなかった。
力を加えれば威力が増加する絶対の法則に、受け続ければ限界によって壊れるのもまた絶対の法則なのだ。
『初めまして太陽の使者セリュサ・ルーヴェン・ベルリカさん』ままでとは違う口調に何度目かの停止を体験した。
「エイジアスね」
『ご名答』
「“やっと”あなたの出番ってわけね」
『不適切な言葉だ。わたしが出てきた以上、それは終わりを意味する』
「ありえない」
冷静に状況を観測するというのは気持ち悪くなる。魔眼に見つめられる恐怖を胸に刻み、失われた偉大なる魔術師の言葉を刻んだ。
セリュサの気持ちは悲鳴に近い怒りだ。
「完成した大魔術を前にして悪いけど、あなたはもう少しだけわたしとのデートに付き合ってもらうわよ」
『無意味なことを』
「いいえ、まだ一人残っている」
セリュサの声はエイジアスの五感に強く働きかける。彼女の本音だからだろう。
「ほら、感じない? 彼の鼓動が、力強い叫び声が」
エイジアスも、引っかかる言葉に感知範囲を広げる。
『残念だけど付き合っている時間はない。生命樹はこうしている間にも絶えず生命エネルギーを放出し続けている。それをこんなくだらない思いに応じて無駄にするわけにはいかない』
「彼が恐いのね」
『なにを言っても無駄だ。残りの命を噛み締めるがいい』
同じ姿で別人の精神を宿しているだけに、嫌な物言いだ。だからこそ、こんなところで死ぬわけにはいかなくなった。
だが、エイジアスに優しさを求めるのはナンセンスだろう。
ただ、彼女の能力を覚醒させた後に世界を浄化させたに過ぎない。
彼女を生かすような長時間戦闘によって得られた経験を応用できなかった。だから、考えることに徹した。ここは自分をさらけ出さなければ彼に申し訳がたたない。
「最後なんていうのは自分ひとりだけになってからいいなさい!太陽魔術――太陽と月の象徴」
十四の天体の内、二つの星から放たれる光がエイジアスを捕らえた。
「即興魔術ならまだ有効でしょう。さすがにあなた相手に時間をかけられるほど、自惚れてはないわよ」
『いいや、無効だ』
「いいえ、これで十分よ」
セリュサの自信に、エイジアスが疑問を覚える。広域探査にはなんの反応も感じない。ただのハッタリかもしれない。だが、心が震えるのは何故だ。目に見えない内部の戦いは時として予想外の結果に繋がりかねない。そう、予想外の客を呼ぶ。
「エイジアスっ!」
星海から急降下してくる叫び声が世界に響き亘る。
そして、それが起こった。
激動する魔力の奔流というのはここまでの輝きを放つものだったのかと疑わずにはいられない。
彼になにかがあった。
セリュサの心臓を握りつぶそうとする圧迫感に、笑みが作れなかった。クロノス・ルナリアの心が、その瞳が見つめている対象に向けられる覇気が、別人のように思えて仕方がない。
クロノスが視界から消えた。
分かった瞬間には、頭上での激しい衝撃にセリュサは吹き飛んだ。
クロノスと再会するとしたら、彼が自らの使命に目覚めたということを予感していたのかもしれない。
セリュサの全てを投げ出して戦う時代は終わったのだ。クロノスは存在するための理由を見つけたのだから。
これはもう彼の戦いだ。
積年の想いを果たすための戦いだ。
『月の使者。こうして直接会うのは五年振りだ』
「そうだな、『闇魂』」
まるでその言葉を知っていたかのように即答だった。迷いのない返答にエイジアスの雰囲気が変わる。見下す態度に圧力が上乗せされつつも、それを片手で制してみせる。
なにをしているのだという表情で。
エイジアスを見上げている。自分を殺す気でいるのならば、本気でかかってこいと。そういう目で訴えてくるのは、どういうことだ?
『懐かしい。遥か昔に捨てた名に愛着などないが、この感じは悪くない。あの時は彼女に邪魔されたが、今回はわたしの勝ちだ』
「勝ちっていうのは敗者がいてこそ決まるものだ。俺たちはまだ負けちゃいない。調子に乗るな」
『いきなり強気になられても言葉に困るね。だけど、敗者なら君自身がそういうことじゃなかったのかな? いつだってクロノス・ルナリアは逃げの人生を歩んでいたはずだ』
瞬間発生する魔力総量をつぎ込んだ波動を放ってくるエイジアスに、魔力の流れを読み取り同様の波動で迎え撃つ。無限の魔力に星全体が悲鳴を上げる。
「それはいまも変わっていない」
『なら、どういう心境の変化かな? 』
「守りたい奴がいる」
『ほう、それは初耳だ。あそこにいる彼女かな? 』
「冗談はやめろ、真面目馬鹿といたら息が詰まっちまう」
『だとしたら、面白い冗談だね』
エイジアスの言葉はいまでも胸糞悪く感じる。だが、クロノスはそれを無視して、威力を抑制するように術式の修整に意識を集中させる。これでなくては話にならない。どれほどの規模になっても構わない。
そうさ、いまは悩むな。
「セリュサはネリスのほうを手伝え、エイジアスは俺が相手をする」
「でも、ネリスさんたちは……」
「後ろを見ろ。ディアソルテ、セリュサを援護しろ」
クロノスの言葉に、背後から感じる視線にセリュサの頬が緩んでいった。そして、動く。
「クロノアを返してもらうぞ」
自らの目的を高らかに宣言し、全てを死滅させる魔眼の視線と正面から火蓋を切る。エイジアスの見るクロノスの周りの生命が枯渇していけば、それを補うために生命樹からの存在力が投与される。
空間に満ちている膨大な魔力を造形魔術にして横合いクロノスが結界を叩き落す。海中を滑るボールのような動きに、クロノスは雲海に浸透させた魔力で握りつぶしにかかる。
球体が楕円形に歪んだところで、結界が砕け散る。背後からの肘打ちにクロノスが反応すると、エイジアスの顔には思い通りにいかないことに対する怒りが表れ、闇の力をより激しくさせる。
だが、クロノスの手前で湾曲する。
この世から完全に消滅させるつもりで放っているのに、エイジアスの制御とは異なる動きばかりをする。混乱してしまう。
この状態では範囲を広げても同じ結果を見ることになるだろう。
クロノスの殺そうとする気持ちが揺らぐ理由がエイジアスにはない。だとしたら、考えられる存在は一つだ。その声は突然聞こえた。
『わたしごと、消しなさい』
戦いの熱を冷ますような声は直接頭に届けられた。
「クロノアっ!」
姿のない姉の叫びには、苦しみが混じっているように感じた。
『これはレン・リッジモンドの仕業か。なるほど、構築術式を体内で組み換えて一体になった瞬間を狙っていたのか』
激闘の中の刹那のことに気が抜けないクロノスだったが、エイジアスの言葉の意味を知らなくてはならないような気がした。
「どういうことだ」
クロノスが尋ねた。
『本来分断されるべき精神を融合されたのさ。それによって彼女の意識は消滅することなく、わたしの中に残った。肉体の支配権はわたしにあるから、生き地獄と表現するのが近いかな』
「なんだと!? 」
「だが、これがクロノア・ルナリアとレン・リッジモンドの目的だったのだろう。わたしを確実に葬る方法として考えたにしてはよくできている。神々といってもその世界に干渉するには媒介とする器に入らなければ力を振ることができないわたしとしては、精神が肉体に馴染む前は危険な状態だ。精神と肉体のバランスが不安定なところで、彼女は自己保存領域を拡大させ力の流れに干渉することで、逆に内部から動きを止める。そして、わたしと共に第三者の手によって殺される。これが彼女の未来だったようだね」
「そんな、クロノアが……」
さすがに、クロノスもその言葉を無視することはできなかった。
この存在の非道さには本当に、反吐が出る。クロノアとレンを失った自分に止めを刺すような真似をするとは。
『驚いている暇はないと思うぞ。わたしとしてはそのままでいいが、彼女の意思は少しずつ消えつつある』
「……愉快だな。こうして絶望の淵に立たせることに成功したお前はさぞ、嬉しいだろう」
『わかるのかい? わたしの運命から外れている君を殺す方法が見つからない時は焦ったものだよ』
「ああ、俺は不愉快だ」
エイジアスの言葉は武器だ。クロノスを惑わすための力だ。そのために、多くの存在が消滅することになり、大切な存在を奪われた。
滾る怒りに我を忘れそうだ。この不完全な存在を生み出した創造主を殴り飛ばしたい気分だ。
「お前が目の前にいることもそうだ。レンがなにも言わなかったことも、クロノアが黙って先走ったことをしたことも腹立たしい。素直になれなかった自分も腹立たしい。いままでずっと見せていたと思うと……なあ」
『懺悔ならあの世でしてくれ』
会話を重ねるたびに、自分の中での良心が崩れていくのがわかる。戦いに必要な感情とはなんだ。ここで必要な精神とはどれだ。この邪神を黙らせるにはどうすればいいのか考えなくとも体が動いてくれた。
「いや、本人に言わせてもらう」
断言する。諦めないと心に誓ったから。逃げないことを家族に誓ったから。もう一度会いたいと思う気持ちに偽りがないと己に誓ったから――――
「俺はクロノアに謝りたい。それからその顔をぶん殴らせてもらう」
『彼女たちの犠牲を無駄にするとは、面白い』
「さあ、それはどうだろうな」
勝算はある。俺は一人ではないことを知った。だが、気持ちだけで解決できるなどと思い上がったわけじゃない。これは確信だ。やるか、やらないかで未来は大きく生まれ変わる。
「奇跡って言葉を知っているか? 」
エイジアスが呆れた顔をした。だが、その裏に隠された中には完全に沈黙させられずに反旗を見せた彼女に対する怒りが沸騰している。手を変えてくる猛攻は途絶えることがない。魔眼は命を喰い、クロノスの存在そのものを消しにかかるが、反発するように彼の影響力が働いて喰い尽くせない。
『わたしが知る奇跡というものは叶わずに終わるものだよ。すれ違い、途切れ、消える。遊ぶなら彼女たちとやっていなさい』
「ふん」
クロノスは魔眼の脅威を異次元空間に送りつつ、眼前に迫る無数の魔を、造形手技で捌いていく。それで突破口を疾走する。同等の能力を有しているだけに方法が限られているのはキツイ。生命を属性としている、エイジアスの能力は底知れない。正真正銘の神の力も何度も防げるほど器用でもない。
まさに先の見えない戦いだ。
絶望の中に、わずかな希望が見え隠れしているというのも悪くない。
「カリン、フィエナ、ミラン」
エイジアスが沈黙していた剣姫たちの名を呼んだ。
『力を与える。面倒な月の使者を生命幹に叩き込め』
『了解しました』
異形の使徒になりつつあるというのに、カリンたちの声は残酷な音色として世界に浸透した。単なる殺戮生体兵器としての処理能力しか、残されていないようだ。
「おっと、ここから先はいかせないよ」
セリュサが剣を振いながら叫ぶ。死角からの攻撃はディアソルテがカバーに入り、難を逃れたと思えば、フィエナの暴風に飛ばされる。
「エイジアスは任せたぞ、クロノス・ルナリア」
ネリスの闇がエイジアスの闇を侵蝕するために活動領域を広げる。だが、取り込んだ分質量を増大させるネリスが対等にやりあうには、この星を丸呑みしなければならないのも事実だ。状況に有意差は見られない。
それは双方が互いに小競り合いを放棄した短期決戦を望んでいるために、攻撃パターンが単純になっていた。膠着状態を打開するのにはどちらかが確実な一手を与えるほかない。
となれば、クロノスとクロノアの両者のうちで隙を見せたほうが両者という意味にも取れる。つまり、余計なことを考えてタイミングを逃すなということだ。
わかっている、と自分に言い聞かせても考えてしまう。
攻防の刹那を見極めなければならないのはクロノスでも妙な焦りが出てくる。しかし、エイジアスの言葉はクロノスの意思をより強固にする。
この戦いを負けられないものへと誘導してくれる。不愉快だがこれでは応援だ。ならば、それ相応に応えてやらなければ失礼だろう。
こちらの存在に動揺するほどにクロノスのことが気に喰わないエイジアスはこちらの手など予測できない。
クロノアの知識にもない強固な意思がなにをしてくるのか、そこを気にしているはずだ。
だから、クロノスも性格が捻くれているなりに、エイジアスの強靭な手を壊すために、この一撃に全てを賭ける。
「月魔術――月と雷の閃光」
クロノスから荒々しい波動が治まり、前方にいるエイジアスの視界全てに無数の閃光が走る。
膨大な魔力の放出と吸収と循環を応用した実体の分身を作り出す高等技術に、クロノスが出せる瞬間速度を付加した速攻魔術はエイジアスの結界を切り裂く刃に変わる。
たった一撃をこの手に。
こちらの分身が懐に入る前に雷光が翔ける。
絶えず数を増やした直後に神の雷が焼き殺す。クロノスの思いを殺すように圧倒的な力を見せ付ける。だが、クロノス自身の強固な意志の強さは、まるで川を水が流れるように自然と彼を運んでいった。
耳元で彼は囁いた。
『クロノアだって自信を過信しなかったぜ』
「月魔術――月と青海の鍵」
突き出した腕は青白い光に包まれた状態でエイジアスの胸の中央に吸い込まれていった。異次元空間で彼女が渡してくれた力の全てに眼前の神は、信じられないといった驚愕を張り付け、体内で膨れ上がる違和感に全身を震わせる。
ブクブクと、泡を立てるような擬音の発生源からは血は流れず、その向こうに穴も開いていない。
クロノスがゆっくりと腕を回して、引いた。
『ぐぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!』
エイジアスの絶叫を無視し、クロノスは見覚えのある彼女を引き抜いた。
「言ったはずだ。クロノアを返してもらうと」
『はあ……はあ……いいだろう、依然として器としての性質はわたしにある。君が手に入れたのはクロノア・ルナリアというただの人間だ』
「お前の言葉なんてどうでもいい」
『用が済んだら早々に死ぬがいい。天空魔術――天空と水の召喚』
「交渉決裂だ、月魔術――月と幻の大地」
怒りに制御を無視した水の脅威に幻の空島を浮かべる。一瞬で世界を青一色に変えてしまった。
「どうして……助けたのよ……」
衰弱しきった病人というのは新鮮でいままで見たことがない。
存在力のほとんどを失っているクロノアの意思はとても弱い。
元の姿が想像できないほどの様子だ。それでも彼女がなに一つ変わっていないことをクロノスはわかっていた。
それは、姉の緋色の瞳が訴えかける怒がそう思わせたからだ。どこか安心する。苦笑して口を開く。
こんな未来が訪れるなんて一体いつの自分が思っただろうか、そして彼女に言葉を告げようと思っただろうか。
「聞いていただろ、お前に謝りたかった」
「そして殴りたかったでしょ。謝ることに意味なんてないのに、わたしはもう人間で、レンもいない。クロノスを守るって決めたのに守ることもできずに、終わっちゃった。ごめんね……ずっと、ずっと、ずっと、迷惑かけてごめんね」
腕の中で顔を背け、儚げに笑う。銀色の美しい髪は色素が抜けたような白髪のように見える。血の気のない唇は小さく開けられ、力強い印象は奪われ、いまの彼女からは誰もが羨んだ『完璧な才能』の欠片も感じない。力を込めたら壊れてしまいそうな細い体にゆっくりと動く指先が、彼の腕に触れる。
「ダメなお姉ちゃんでごめんね……」
昔ならば、こんな彼女を前にすればクロノスは問答無用で手を下していただろう。
姉によって植え付けられた劣等感と失った多くの時間に対する怒りの制裁だ。
彼女を殺すことで解放される、そう思い続けていた。いまは違う。彼女を取り戻したことに溢れる気持ちは止まらない。姉の姿に心の高が外れ、いまが人類存亡の危機だということを忘れてしまいそうになる。
どうして気が付かなかったのか不思議な気分だった。
心に築かれた城壁を打ち崩すのは、彼女そのものだったから。
「ダメじゃない」
獲物を呑み込もうとする大津波を吹き飛ばしながら、クロノスは言った。力を加減しているせいで、隙間を埋めるように波が渦を巻いて迫ってくる。
思わぬ言葉にクロノアの顔が唖然としていた。真面目なクロノスの顔に、クロノアは言葉を零す。
「……なんで」
「クロノアは姉として俺をずっと守ってくれていた。どんなに情けない俺でも見限らずにいてくれた。それに、お前はたった一人の俺の家族だ。だから、悲しいことをいわないでくれ」
演技でも決して口に出そうとしないセリフを吐くのはどこか恥ずかしかった。だが、言ってみると心の中がスッキリしてきた。
物心がついた頃から溜め込んできた気持ちだ。
その時からクロノスは自らの存在と運命に翻弄されていたのだ。そして、影に隠れた本当の気持ちに気付かなかった。真実を知った。それだけでクロノスという存在の大きさは誰もが無視できないものとなった。
自らを悪に陥れたクロノアという存在が教えてくれたものは、彼の心を補強するものではなく、心そのものだった。
「……馬鹿な子。本当に馬鹿」
クロノアの口から、かつて聞いたことのない声色が出てきた。
「わたしを前にしてびくびく怯えることしかしなかった愚弟が、いつの間にかこんなにかっこいい男になっていたなんて気付かなかった。素敵。いまのクロノスなら、誰が見ても振り向いちゃうくらい素敵だよ」
弱々しくなっても彼女という存在は大きい。かつての姉の面影が見えなくとも、覇気のない口調の奥底に見える彼女の優しさはとても魅力的だった。
「これから大勢の女が寄ってくるかと思うとイライラする。きっと、わたしを放置してどこか遠くに行っちゃうんでしょ? ねえ、クロノス……」
どこまでも皮肉に聞こえるが、その言葉にクロノスは別の気持ちを感じていた。それは悲しみだ。そして、その意味がわかるクロノスも同じものを感じていた。
この腕の中にいるのは小さな女の子だった。見栄をはって口から吐き出してしまった言葉を内心後悔し続ける。
本当の気持ちを生涯口に出すことができず、泣き続ける子供の姿。クロノアのそんな姿は見たことがない。どんな時でも彼女はクロノスの前では堂々と振舞って周囲をあっと沸きあがらせていた。
だが、いまの彼女を見たら、クロノスの脳裏にいる彼女は全員泣いていたように思えて仕方なかった。
それが本当の彼女の姿だった。
姉を憎み続ける弟に対し、常に守り続けてくれた姉。
それは最後まで自己犠牲という形をとってまで変わらなかった。
クロノアがクロノスを守ることに固執した理由。ごめんなさい。多分、その言葉を言いたかったがために、クロノアはクロノスに殺されようとしていたように思えた。
クリスタル王国滅亡の日から、ずっと前から計画は始まっていたのだ。
「いまさら……」
力のない声が言葉を搾り出す。
もう戻れない。
魔術師でなくなった彼女にできることはなにもない。
そして、紡ごうとしている言葉すら時間が経つにつれて不安に勢いが失われていく。
長い、長い、物語に終わりが近づいているように思えた。クロノスの光は波を押し返し、吹き飛ばし、月の性質でそれを止める。
光を雷電へと変換し、前方に広域拡散させる。クロノスの周囲に留める魔力をクロノアの守護に回し、最小の力で最大限のカバーに入る。
なんとしてでも、クロノアを失うわけにはいかなかった。やっと見つけた理由をクロノスは手放すわけにはいかなかった。自分に体を預け、涙を流しながら、こちらに訴えかける姉の瞳を見た。
「行かないで」
クロノアからそんな言葉が告げられる。
痛い。
心が締め付けられる。
駄目だ。
甘い誘惑よりも彼女の言葉はクロノスの心に深く染み込んでいった。クロノアに守られ、真実からなる未来を知り、彼だけに用意されていた自分の運命がそれを許さない。
月の使者。神の仔。この世界は多くの運命に支えられた場所だ。数ある運命が結集した形と言ってもいい。人類が衰退することなく、絶滅することなく、繁栄していった理由の一つとして強固な運命が未来として繋がっていった結果だ。
全ての生物たちは神の手によって創造され、大自然は神の心によって想像された。そして、この世界を生み出した神という存在は数ある生物の中でより大きな可能性を信じていたはずだ。人間を真に信じていた神は見守り続けた。
裏切ったのは人間だ。最悪の未来を与えたのは人類だ。これは正しい。だから。間違っていたとすれば、神が判断を誤ってしまったところだ。そして、アルビノたちの心の弱さが招いてしまった。
『お別れといこうか』
後頭部を強打され腕からクロノアを奪われた。エイジアス。クロノスの顔が驚きに変化し、目の前で首を掴まれる彼女に固まった。強打された瞬間に仕込まれた。神経組織が麻痺しているのか体が動かない。
「う、う、うううう、うあああああああああああああああ――――」
首の骨の軋む音に彼女の声は上がり続ける。治れ。急げ、早くしろ。そう考えた時には、クロノスはエイジアスに殴りかかっていた。
「クロノアっ!」
残像に消える彼女の姿を急いで探した。宙に放り投げられる彼女の足を掴んでいる姿に古江が止まらない。滴り落ちる血が頬を伝う。胸の高鳴りが、振動として全身に伝播する。怒りに制御が追いつかない。
「やめろ、エイジアスっ!」
黄金の閃光と化す。
だが、エイジアスの姿はどこにもない。広域知覚に無数反応がクロノスを惑わしてくる。幻聴として聞こえる彼女の苦痛に焦りが募っていく。クロノアに対してクロノスの思いは弾ける。声だけがクロノスに届く。
『ふざけたことを言わないほうがいい。人間で例えるならいまのわたしは普通じゃない』
その時、クロノスが思い出したのはエイジアスの言葉ではなく、クリスタル王国で彼女が言ったことだった。迷った時、困った時、どうすればいいのか、そしてその方法を。
「ここだっ!」
そして背後に向かって膨大な魔力をぶつけた。『魔力の最も強固な場所と最も薄い場所の境を狙いなさい』。曖昧だからこそ見つけにくい。彼女がそう言っていたことを思い出した。虚空に亀裂が入り、崩れた奥にエイジアスが不気味な笑みを浮かべる。ドン。投げつけられたものがクロノアだと気付いた時には、同時にこれが罠だということにも気付いた。
『わたしは世界を創り直すために行動してきた』
結界内を満たすエイジアスの膨大な魔力が、クロノスの全身を縛り上げた。
『多くの犠牲と多くの時間を費やして、今度こそ理想の人類を生み出してみせる』
腕の中でぐったりしている彼女の手前、対抗手段を潰すのが目的だろう。死だ。魔眼の力が闇に力を与えている。そして、エイジアスの周囲で満たされる魔力を一点に凝縮させた魔を射る。闇の勢力が生命を枯らす。逃れられないと、直感が悟った。
『絶望しろ、仮初の魂たちよ』
ゆっくりと時間が流れていく。闇の中に浮かぶエイジアスの笑みが魂を凍りつかせる。そして、迫りくる絶望の一撃にクロノスはなにもできない。死ぬ。
『君にわたしは殺せない。出来損ないはそこで見ていろ』
クロノアは覆いかぶさるようにして正面からクロノスにまとわりついていた。耳元で微かな息をしているだけで、目に生気は宿っていない。彼女の震えが肩から伝わってくる。広がる染みは彼女の時間を表しているようだった。
『わたしの勝ちだ。君のその生命力を頂くとしよう』
絶望の雨を降り注ぐ。暗黒の夜を思わせる光景はまさに絶望に相応しかった。
「エイジアスっ!」
防ごうにも、クロノアの存在によって力が発揮できない。どうすればいい。決断の時は迫ってきている。自分は本当に死ぬのか? 死なないのか? 生きろ。だが、そのためにクロノアを殺さなければならない現実を受け入れたくない自分がいる。
「く、くろの……」
苦しげな姉の声に、反射的に手が動く。微かに動く唇がなにを伝えようとしているのか知りたくなかった。
『双子仲良くあの世に逝け』
死の宣告に最後まで体は動かなかった。
「ふん……だから、あんたは勝手すぎるって何万回言ったら理解できるのよ」
その声に自らの非力さを再び呪うことになろうとは思ってもいなかった。隙間なく貫かれた彼女を前にしてまでクロノスの精神は愚かではない。
「セリュサっ!」
「あなたは一人じゃない。だってあなたにはわたしたちが付いているから」
闇に飲み込まれる前、言い聞かせるような声は、いつものセリュサだった。また一人失った。その事実が迷っている彼の背中を押す最後のきっかけとなった。一人ではない、異次元空間でも同じことを言われたことを思い出した。そして、捨て去ったはずの迷いこそがエイジアスの罠だと知った。
クロノスは能力を解放する。左腕を突き出すと禍々しい紋章が輝きだす。『魔力超加速循環』。姉を失うことに、なりたくない。いまの自分を作り上げているのは彼女という存在だけだ。
強引かつ、強制的に猛毒を体内に流し込むクロノスの口から血が吐き出される。
それを見てか瞬間の行動に対応できなかった。ただ、胸に軽く衝撃が加わり、全身が軽くなった。クロノアの体が暴風に煽られながら、そして距離が離れていく瞬間に微笑む彼女を見たような気がした。
「クロノア!」
疾走する。
だが、すでにエイジアスの魔の手が彼女に到達していた。
胸を貫き、大地に立つ十字架に磔にされる。
それを払うべく、クロノスの意識は暴走によって取り払われる。だが、届かない。エイジアスの力の前に完全に太刀打ちできなかった。
力が足りない。
アルビノに覚醒しても勝てないのか。嫌だ。俺は負けない、負けたくない。クロノスにできることは、未来を、クロノアが強く信じていた未来を見せることだけだ。
『立て、クロノス・ルナリア』
そして、光が世界を包み込んだ。




