闇の女王
まるで夢から覚めたような感覚だった。
しかし、意識して行動しようとしても不自由な鎖に体を囚われているような感覚によって動けないでいる。
しかし、このままでいいのかどうか自然と悩み始めている自分が正常な精神であるのか、ネリスはその疑問に対して明確な答えをだすことができなかった。
いま、自分たちを支配下に置いているのは生みの親であるアヴェロスではなく、自分たちの元となった素体であるクロノアだ。
彼女の外見と細胞レベルで一致している自分たちは不気味なことに姉妹という奇妙な関係性を成り立たすこともなく、ネリスは彼女の下で次第に膨れ上がり続ける疑問、隣で過ごしている時間が続くほど、彼女の中で明確な形となっていった。
彼女はどこかで自分を抑えこんでいる。
これは天空の使者という外部情報とは一致しない。
それよりも彼女の周囲を漂っている謎の魔力体が動くたびに、世界に大いなる変化を与えている。剣姫として世界平和を乱すものは排除しなければならないと本能は叫び。
しかし、わからない。
相手の情報もさることながら、このような考えに到った理由に。
ネリス・ハオラン・ラスティー。クロノス・ルナリアの細胞から生み出された四番目の剣。闇属性を主属性とし、彼女自身の特性として防御面における能力はとても高い。剣姫は体内に構築された術式から異常魔力を自己保存のエネルギーに変換する固有能力を持ち、犯罪を起こす対魔術師用生体兵器として生み出された。
犯罪が増えるということがこの世界の秩序を乱れていく、異次元空間から漏出した異常魔力の影響も相まってより凶悪にある行動を押さえ込む抑止力でもある。そういう輩を根本から排除するために生み出された兵器だ。だというのに、彼女らの創り手であるアヴェロスは殺され、世界を破壊する手伝いをさせられている。
天空の使者と音の使者の魔術によって、当然のように不本意な命令を実行している。その中で疑問が生まれた。天空の使者と音の使者の情報は、アヴェロスの生前時に予測の目的を交えて教えられた。世界を壊すこと、変革のために人類再生を求めている彼女たちは寸分狂わない手際のよさを披露してくれた。
自然界が生き返りを見せているのが再生という手段であろう。
二人の目論みは着々と進行していた。その中でカリン、フィエナ、ミラン、ネリスは天空の使者の手によって肉体を彼女流に再調整されることになった。自分と同じ姿をしているにも躊躇なく体内を弄繰り回せるのは彼女が彼女たる所以だろう。
支配系魔術による支配は絶対だ。再調整されても兵器である前に一人の個であるネリスは自分よりも上位に位置する彼女たちに逆らえるはずがなかった。肉体のリミッターはアヴェロスが調整した時よりも何十倍もの力を引き出してくれるようになったが、埋めることのできない圧倒的な差が絶望を教えた。
知識の中にある支配能力は全ての操作権が術者に移行されるというのにネリスはこうして自分の考えを持っている。
その奇妙さにネリスは不可解さを覚えていた。
これは他の剣姫たちにもあるものなのかと、疑問として存在する。だが、このことをカリンやフィエナやミランに尋ねようという気にはなれなかった。
与えられた命令を確実にこなしていれば兵器としての性能は保証される。人として振舞うことを命令とされたからそういう考えに到っているのかもしれないが、心の中にまで考えが影響を与えてしまうということはやはりおかしなことだと思う。
それでも、自分の考えが間違っていた場合を考えると動けなくなる。
完璧な再調整を施されたにも関わらず、異常だと判断されてしまったら細胞の突然変異による劣化と思われ処分される可能性が高い。個人として生きている実感と同時に故人となってしまった主の命令を実行するために言葉には出せないでいた。他の剣姫たちも同じような考えに到っているのか。
この疑問を取り除くことができないままとなってしまったが仕方がない。
そのことを知る対価はいまのネリスには大きすぎる。これが覚醒というなら、ネリスには一つだけ思い当たる節がある。クリスタル王国で彼女は音の使者と戦い彼の魔術によって支配された。その時になにか特殊な術式を組み込まれたと仮定すれば、自分の持つ疑問が自分ただ一人のものだという理由に繋がるような気がした。目の前で世界が壊れていく様が心に強烈な痛みを与えた。
天空の使者が再生術式を発動した時に、火は付いた。
世界平和実現のために誕生した剣姫だが、その制約を満たすには前提となる守るべき世界が存在していなければならない。世界平和のために戦うのだ。悪を断罪するために世界を破壊するのとは違う。
そしてそれが生まれ変わるのは彼が目指した世界とは別の世界ということになる。ネリスは決断した。戦うこと、ネリスは倒すべき大罪人を裁くために剣姫として彼が与えてくれた命令を最優先事項に位置づけた。罪人に死を。これは戦争だ。他の剣姫たちがなにを言おうとも、ネリスは自分が導き出した結論が間違っているとは思わない。
行動は隠密かつ、的確に行なった。肉体強化。魔力総量の増加。自己能力の再構成。それと伴いネリスは自分を取り巻いている情報を入手することに全神経を尖らせた。アルビノとしての能力を持たない彼女が誰もいない世界から必要な情報を得るのは大変だった。
身近にいるクロノア・ルナリア、レン・リッジモンドから手に入れるしかなかった。世界最強としての実力者は敵対勢力がいなくても隙を見せることをしない。それどころか張り詰めた空気からなにかに恐れているような感じがした。
ネリスはごく自然に世界の流れを見届けるように、異常魔力を吸収しては自己強化に時間を注いだ。エナジードレイン。本来魔力を体外に放出する部分から、他者の魔力質を変換するフィルターを通して、吸収したものを生命エネルギーとして体内で高速循環し自己の魔力質と融合することで魔術師にある魔力枯渇の弱点を克服するための技術だ。月魔術とは違いON、OFFの効かない技術は暴走状態になりやすく、個体の性能を下げなければ運用できないレベルになっていた。カリンの前身はこの機能を有していない魔力枯渇になったことで、生命エネルギーの過剰消費による暴走の果てに、自己崩壊という形で最後を迎えた。クロノアの手が加えられたことによって進化した技術は大きな成果を生む。
準備は着々と進んでいる。
しかし、ネリスが意識しても支配からの呪縛からは抜けられない。
一つでもいい、ネリスがこの支配から逃れることができるだけの理由が手に入ればすぐにでも戦うことができる。それを得るために、ネリスは大気中に自分の魔力の大半を溶け込ませ、大量に流れ込んでくる情報を処理していた。
情報を収集するに当たり、ネリスは他の剣姫たちの行動にも注意を払うようにした。プロトタイプであるカリンはアヴェロスにも特別な処置を施されている可能性が考えられる。
ネリスの放った闇は、常時展開している異常魔力として認識されるように性質変化までさせた。入念に魔力解析をされなければ感知されることはない。クロノアたちを警戒する一方で定期的に下される命令も実行する。世界の破壊と再生術式が発動してから、ネリスたちは地上に降り立ち、不要な魔力を吸収する作業をしていた。
この世界のどこかで息を潜めて生き延びている残党勢力のことなどすでに忘れていた。
力のない者がこの戦争に登場したところで、英雄になる手立てはないだろう。
天空の使者はなにもしていない。彼女は空を眺めていた。
特に意味もなく、周囲には誰も配置していないが、それでも彼女の隣には正体不明の魔力の気配があり、同時に放たれる力の波動を受けると地上がより活発になり始めた。ネリスの知らない正体不明の存在の捜索は行なっていたが、目視することもできない存在を自覚することはできないでいた。
彼の者を知ることで自分に危害を及ぶことに危機を感じる中で、どうしてもやめることができない事実は破棄することのできないものになっていた。
一人と一つは常に一緒にいた。ネリスにとっては危険だが同時に、チャンスでもあった。あとは時を待つだけ。ネリスが知りたいことは時間だけが解決してくれる。すでに彼女の中では天空の使者の存在はどうでもいい問題となっていた。それよりもこのままなにもしない状態が続けばネリスの救うべき世界が消えることになる。たとえその世界がどんなに素晴らしく生まれ変わったとしても、中身のない平和だけが待っている。ネリスはそんな世界まで守ろうという気にはならない。
悪のいない世界に自分たちのような生体兵器は必要ないからだ。
そして時は訪れた。
音の使者レン・リッジモンドが天空の城から出てから南の森で起きた。彼は双子の悪魔の半身と対峙すると、世界中の精霊たちの具象化を行った。
「俺たちの敵の名は、エイジアス。世界創世をした神の一人だ」
その時に、彼は精霊たちに向かってそう言ったのだ。
エイジアス。
神々の一人。
その名を聞いて記憶の扉が開いた。
クロノス・ルナリアの従者であるディアソルテがこちらに向かっている時にその名が出ていた。こうして再びその名を聞かなければ思い出せなかったほどに厳重に封印されていたことに内心驚いた。エイジアスが天空の使者を操っている。
すでに音の使者はその真実に気付き戦闘準備を整えている可能性が高い。
エイジアスの計画に加担するように見せかけて、ネリス同様に抜け出すチャンスを窺っていたのだ。ネリスを縛り続けていた支配の鎖が千切れていく。
ネリスはこの瞬間、解放された。
空っぽの器に重過ぎる使命を背負うこととなった。人類を救うべく悪を断罪する狩人となった。生まれ変わった感覚にネリスは大気中に流し込んだ魔力を自らの中に戻していった。
「ネリスどうしたの? 動きが止まっているわよ」
隣にいるミランが声をかけてきた。ネリスを指導して調整した姉。優美な立ち振る舞いに揺れる青いドレスがこちらの異変に気付いた。
フィエナとカリンも首を傾げている。沈黙に肩を掴まれた。
「闇姫どうかしたの? 」
「わたしはどうもしていない」
ネリスは表情を変え、ミランの手を払った。意外な行為にも三人が表情を変えることはなかった。ただネリスが三人と違うことがこれで確定した。
「どうかしているとしたらそれはあなたたちよ。天空の使者……いえ、エイジアスは人類を滅ぼして新しい世界を築こうとしている。わたしたちに下された恒久の平和の実現を無きものにしようとしている。エイジアスは世界創世の神々の一人。天空の使者を操ってこの世界に滅亡を招いている断罪すべき悪よ。わたしは剣姫が一人、ネリス・ハオラン・ラスティー。アヴェロス様の命令を達するために、人類の守護に回る」
宣言とともに、ネリスは自らの体から闇を召喚して宙に飛び上がる。この三人がどう行動に出るか予想はできている。いま、ネリスの姿は黄金のプレートアーマーとガントレットを身に付け、手には悪を裁くのに必要な剣を握り締めていた。暗黒のドレスの延長になるように闇が広がる。
「その命令はすでに破棄されました。新しい命令を遂行しなさい」
カリンが冷たい単語を言い放つと、三人は魔力解放をした。カリンは紅いドレスを甲冑で身を包み、朱槍を握り締めていた。フィエナは黄緑色のドレスを魔力の鎖で身を包み、大鎌を握り締めていた。ミランは青いドレスを動物の毛皮のような服で包み、大剣を握り締めていた。炎が地を焦がす。風と雷が地を飛ばす。水が全てを洗い流す。フィエナは敵意を持っている。野性味が溢れる彼女の姿は残忍な笑みを絶やさない。ミランは敵意を持っている。水と氷の造形生物を引き連れた彼女の姿は沈黙の中の殺意を絶やさない。殺意。殺意。殺意。異常魔力が四人を中心に渦まき始め、膨大な魔力を押し固めるとネリスを噛み殺すために、三人は空を翔ける。排除。排除。排除。
「残念」
ネリスは呟いた。俯いて、禍々しい力が充満する空に零した。膨大な闇の魔力が支配する空を雷電が引き裂く。闇を炎が侵蝕する。造形生物たちが風に乗って黒く染まった空を充満する魔力を喰い散らかしていく。姫たちがネリスの前に集い、かつての仲間に剣を向ける。魔力の奪い合い、急激な勢いで変化は訪れた。
「わたしは争わせてもらう」
攻撃的な瞳でネリスは答えた。
「命令が破棄されても、わたしの主はアヴェロス・ミラアンセス・カーマイン。我々の創造主であり、父であり、育ての親だ。彼の望みはわたしたちが受け継がなくてはならない。たとえ、守るべき人類が存在しなくてもわたしたちの行動理念は変わらないはずだ」
その言葉はネリスの心からの叫びだった。
だが、誰一人声に耳を貸すことはないと理解していた。いまの彼女たちの意識はエイジアスによって操られているということを。そして彼女たちはそのことに疑問を持っていないことを。アヴェロスが自らの野望のために創り上げたオリジナルの兵器たち。
「変わっていません」
今度は、カリンが声に出した。何故か、攻撃することを躊躇った。彼女の表情に若干の変化が見られたからだ。闇の妖精で対応しながら、彼女の言葉を待った。
「我々の行動は確実に人類を守っています。闇姫、あなたの行動こそ無駄なことだと知りなさい」
次の瞬間、ネリスの姿が変化した。武を投げ捨て、黒いドレスだけの姿になった。
「無駄なこと? こんな世界に一体なにを求めるというのです、炎姫。これ以上の世界崩壊を加速させるような真似こそ無駄なことです。従うべき主が存在しなくても、人心を操作されようとも使命を優先することが我々だろう。クロノア・ルナリアを主人とするなら、それでもいい。だけど、わたしはその輪に入らない」
ネリスは闇を統べる。周囲の自然は闇の魔力によって生命力を奪われた結果、枯れ果て、見るも無残な姿になる。新陳代謝の激しい中に、無数の影があった。
闇の妖精。ネリスが操る女王の僕。闇の妖精が寄せ集まり、闇の餓狼へと変化する。ネリスの無音の命令を受けて吠える。無数の魔獣たちはネリスの能力を分散させたことにより、同じように自己修復機能を備え付けてある。
そして、ネリスも変化する。
姫たちが解き放つ魔力を取り込み、能力を増大させる。互いの生命活動に必要なエネルギーを変換せずに吸収する。体内を炎が爆発し、風が切り裂き、雷が焼き、水が苦しめる。それでも、エネルギーを吸収し、彼女は別次元の進化をする。ネリスの変化が終わる。その姿は、神話に登場する天使だった。紫色の長髪。丈の短くなったワンピースドレス。大きい金色の瞳は見つめるだけで相手を射殺せるほどに、鋭く尖っていた。漆黒の翼を羽ばたかせるだけで広大な空に旋風が巻き起こる。
魔獣を従える女王となったネリスは闇の波動を解き放ち、上空から剣姫たちを地上に押し返した。
圧倒的な実力差。
進化していない生体兵器が高次元進化をした兵器に勝てるはずもなく、濃密な魔力の衝撃にやられている。共有する能力がさらに追いつめるように、三人の姿を探す。地上ではネリスの僕と、カリンたちが戦闘を繰り広げている。魔獣たちが吸収した魔力を爆発させて超速で走り回り、三人の装甲に力強く顎や爪を振るう。その中でネリスは落ち着いたままでこちらを見上げる三人を見下していた。
手をかざし、闇を放つ。三人の魔力性質を混ぜ合わせた青紫色の光が大地の一部を覆い隠した。
「世界は壊れた」
闇を次々と放ちながら、ネリスは告げた。すでにこの世界はネリスの知るものから大きくかけ離れてしまっている。
そこに住んでいた人々もこの瞬間までに星の一部となってしまったので、人類というものは地上から完全に消滅した。
この日まで音の使者が行動を起こさなかったのはそういう意味合いをもっていたのかもしれない。
「壊れても世界は再生する」
ミランが淡々と言葉を吐いた。
「そして、多くの命を犠牲にするのか」
ネリスは叫ぶ。カリンたちは次々と放たれる闇を、同じく超速移動を続けることで回避する。だが、彼女たちは少しずつ遅くなっている。ネリスを始めとし、彼女の能力を共有している獣たちが力を奪い取っていく。
やがて、カリンたちの連携した超速移動が目前にさらされるまでになった。
ネリスはさらに力の一部を妖精に変換し、自分は高圧縮した闇を連続で放った。カリンたちの表情に出なくても魔力総量が乏しいことは目に見えるほどに明らかだった。他者の魔力を強制的に吸収し、変換し、自己エネルギーとするのがエナジードレインだが、ネリスの場合は少し性質が異なる。
魔力を変換する必要がない。
例えば、炎属性を吸収する際に、いままでは変換機能を使って炎の特性である侵蝕性質を取り除いてから純粋な魔力をエネルギーとしていた。変換機能をしなければ魔力汚染によって肉体が内側から崩壊するからだ。
いまのネリスは魔術全てを体内で分解し、エネルギーを吸収することのできる生きた魔術のような存在だ。ネリスは戦闘結果が確認でき次第、すぐにでもエイジアスを殺しに行くつもりだった。いまの力なら天空属性の魔力性質でも無力化できる。
一方で、音の使者の動きを感じ取り味方になる可能性があるか考えた。
だが、その考えはすぐに消えた。いままで幾度となくチャンスのあった彼自身が手を出さなかったということは、現状の能力では勝つことが難しかったということになる。闇の妖精たちから伝えられる彼の行動に違和感はなく、こちらの動きにも即急に対応するところがないことから敵になる可能性は低いと判断した。
彼と戦ったことで能力のスペックは把握していたが、あの実力が本気でなかったとしてもそれでも勝てないとする存在に恐怖は忘れられない。カリンたち三人に勝つことが出来るようになっても上までの限りは不明だ。それでも直接魔力を吸収することができるようになったのは相手にしても予想外なはずだ。
ネリスは勝算を無視しても自らの考えに絶対的な自信がある。獣たちからの声が届けられる。もはやカリンたちの動きは完全に掌握したのも同然だった。容赦なく断罪の闇を、体内を傷つけることもお構いなしに通常の何倍もの高速循環をした全力の力を解放する。
背中から生えた漆黒の翼が一際大きく広がり、両手の中に収束される暴走するエネルギーが、地上を消し飛ばした。だが、その威力を呑み込むように再生は始まる。地上に巨大なドームが生まれ、剣姫たちを呑み込んだ。勝った。僕からの目を通じてその瞬間を逃すことなく網膜に焼き付けた。
黒い天使は引き裂かれるような痛みが消えるのを待つためにゆっくりと地上に降下した。裸になった大地が緑の服を着込むのを眺める。
だが、再生が始まらない。
「どういうことだ? 」
ネリスは即座に周囲の状況を把握しにかかった。
刹那、右翼に激痛が走る。続いて左足と右肩から鋭利な刃が突き出ていた。三人は生きていた。体から魔力が吸収されていく。ネリスの吸収速度と同等、はたまたそれ以上の速度が三方向から行なわれている。
ネリスは制御なしに残りの魔力で自分を中心に大爆発を引き起こした。
爆風に乗ってわずかな力で翼を形成すると再生するために飛んだ。残存魔力が底を尽くのは時間の問題だった。
あの瞬間、彼女たちはネリスのエネルギーを全て吸収していた。
いままでの戦闘はネリスの行動から進化するために必要なデータを収集する目的で行なわれていたに違いない。しかも、それを完成させてしまったのがネリスの放った攻撃なのだから笑える冗談ではすまない。
思考する間もなく、この瞬間にも僕たちはエネルギー源として吸収されていることだろう。あの状態を維持するにはエネルギー消費が大きいのだ。完敗だ。いままでの考えを捨て去ると、ネリスは再生よりもこの場を離れるために速度を上げた。
空高く舞い上がり、雲の中に入ると知覚誤認を目的に結界で自身を包み込む。
逃げよう。
力を回復させなければ現状では勝てない。
ネリスは最高速度に到達すると今度は別の事に意識を向けた。
北の大地。
そこにあるのは人間が生きることを放棄するなにもない雪原だ。そして、エイジアスの魔の手が伸びている場所でもあった。
そこに向かうことがどうなるのか分からないわけではない。
だが、彼女には他に道は選べなかった。
†
正体不明の圧力によって二つの荷物が増えたことはもうどうでもいい。いま、クロノスは歩いていた。視界はどれだけ変化を求めても白銀の大地と、肌を突き刺すような風だけが吹き荒れていた。ディアソルテを肩に抱えてその上にセリュサを乗せていた。かろうじて呼吸しているだけで体温調整ができない彼女らを魔力の膜で包んでいた。
だが、これは一時的なもので治療にはならない。魔術で広域破壊を試みようと考えたが、その度に再生の餌食になるかもしれない危険な賭けは遠慮したい。いまはこの二人を犠牲にして生きようとまでクロノスの心に余裕はない。二人が目覚めるのを待ってその場で留まること十二時間、クロノスは進むことに決めた。
最後に食事をしてからどれくらいの時間が経ったのか空腹感を忘れて没頭するのは戦闘以外では貴重な体験だった。それは、クロノスにしてみれば精神的な孤独との戦いだった。
終わりのない世界はじわじわと確実に肉体を蝕む。その内に、ゴールが見えるだろうと無心でいることにした。歩き続けることしか、クロノスにはできなかった。動かなければ死ぬだけだ。しかし、それは普通の人間であって普通ではないクロノスはどうなるのか自身にもわからない。死ねるのか? そして、クロノア・ルナリア。アルルの言葉を借りるなら彼女のことをクロノスは考えなければならない。
それがこの胸の中に広がる感情を理解する手段らしい。だが、できない。彼女は実の姉ではない。そして、クロノス・ルナリアという人間は最初から人間ではなかった。自分のことをどこか異端な存在だと、いままで考えていたことが現実のものとなった。それがどす黒いなにかを生み出す。
生まれた時から彼女に作られた世界を生きていた。そこで生きることが彼の運命だったのだ。自虐的な皮肉に発狂することがあったとしても、それをすることに意味があるとは思えなかった。クロノスに資格はなかった。そしておそらく現在、クロノスはその資格を得るための試練を受けている。
少なくとも、誰もいない大地を黙々と進むには、なにか考えていなければ正気を保つことができない。いままでにない厳しい舞台だった。無駄口を叩く余裕すらなく、次第に麻痺していく感覚に自分がどこを歩いているのか、クロノスは先の見えない雪原を進んだ。もはや肉体と精神が分離していくことを知覚できなくなっていた。呼吸すれば肉体は凍りつく。アルビノの異能力もここでは何一つ役に立たない。ここにきてクロノスはずっと願っていたただの人間になることができた。無力に生きることしかできない人間に成り下がっていた。いまの彼が世界を震撼させた魔術師の一人だと誰が思うだろうか。視界が一気に暗転したような気分だった。時間がきたのか。意識を手放せば楽になれるだろうか。太陽が恋しいと思ったのはこれが初めてだった。
太陽の光に照らされていないだけで、ここの大地は生きる気力を奪う死神に思えてくる。水分はたくさんある。水となる資源も豊富だ。だが、人が生きるのに必要な植物が存在しない。雲に覆われただけの世界。肉体を正常に働かせるには太陽の熱が必要になる。でも、ここにはない。暑さに流れ落ちる汗は地面を打つ光景を懐かしく思う。それが本来の世界だった気がする。なら、ここはどうだろうか? 長い時間をかけて人間が住み易く作り上げた文化を知らない大地に、クロノスは盛大な歓迎を受けている。
いままで出会ってきたどの敵よりも、結果が見えない戦いだった。化け物としての運命がクロノスを生かしていることだけを理解できた。史上最悪の支配者に操られていることは、クロノスにしてみれば生き地獄だ。事実、自分の存在価値に戸惑いは隠せない。クロノアに辿り着くまでに答えを見つけなければならない。二人の下に辿り着き、奪われている剣姫たちと戦い、友と戦い、マリアを救出し、クロノアと戦い、そしてエイジアスを叩く。それがもっともシンプルな方程式だ。これがクロノスの考えた素直な気持ちだ。この世界の問題を無視したいい加減な答えだ。そんな大きな問題まで自分が抱え込むことはできない。なに一つ思いつかない。こうして考えても彼女たちを目の前にして同じ気持ちでいられるのか不安になる。
ただ、こうありたいもう一人の自分という虚像を前にして、この状況に立たされても逃げようとしていた。
寒さに凍える夜も歩き続けた。と、いうよりも光のない場所に時間の概念は必要なかった。急降下する温度変化に、クロノスの体は震えることもしなくなった。血色のない肌は生気を感じない。
すでに凍り付いている髪の毛が吹雪に煽られて少しずつ崩れ落ちていた。指先を刺激する微小な痛みは絶え間なく続く。豪雪に埋もれないようにクロノスは動くしかなかった。時折、吹雪の中に氷塊や鋭利に研かれた氷の短剣が衣服を掠めてきた。肉を裂き、流れる血は瞬時に凍りつき、癒される。
死なないのはいいことなのか? 人が不老不死の法を探し求めるのは限界を知っているからだ。消費される生命の時間を無限に引き延ばすことが正しいことかはわからない。限りあるからこそ人生は楽しいと思えると誰かが言っていた。死が訪れないことはとても悲しいことだと言っていた。
思考が止まった。
それに伴い自然と足も止まることになった。頭上から雪崩が迫ってきていることを認識するのに五秒、手を上げようとしても、動かない手を自覚して目を閉じた。
全身を強打する痛みを無効化しつつ、流されるというのは嫌な気分だった。
「はあ……」
ため息が轟音に掻き消される。二人の安否だけを優先して自分の身は雪の中に投げ出した。踏み固められたような雪のベッドの寝心地は最悪で、喉の奥で血の味が広がる。どうでもいいことだが、すぐに自己再生が傷を癒した。
人間という無気力な立場にされてわかったことと言えば、自分はやはり化け物だということだ。異端児。クロノアが望んだ希望。彼女によって授けられた運命は、本人の意思の自由すらも操作するように思えた。無力を演じても、未来はクロノスを必要とする。生きることだけを強要して後は彼の意思に身を委ねる。
雪の中から抜け出ると、裂け目が目の前にあった。どうすれば終わることができるのか? 心の奥底で弱音を吐き続ける自分を睨む存在を知る。それが自分の中に眠るもう一人の存在だということはわかっている。彼がこれからしようとすることに怒りを見せている。
「終わるつもりか、クロノス」
白い世界に、謎の影が現れた。答えるつもりはなかった。
「お前を信じて待っている者たちを残してここで終わるのか? 」
淡々と、影は問いかけてくる。信じるという言葉に嫌気がする。この戦いを終わらすには自分が戦わなければならない。マリアを助けるのに親友と戦わなくてはならない。マリアと助けるために、自分の半身と戦わなくてはならない。どれだけ憎くても、世界を墓石用とも、どれだけクロノスを傷つけても、二人は大切な存在だ。許したい存在だ。それと戦わなくてはならない事実、壊し合わなければならない未来を、誰が求めているというのか。人類は滅んだ。一人の神のために。では、自分はなんのためにここまできたのだろうか?
彼女の希望として存在したにも関わらず、救うべきものは消え去った。
終わった。
まるで自分が他の人間と違うことを知った幼年期を彷彿させた。
孤独にいることが自分のためだと思い続け、誰にも関わらないように生きてきた時代の時間の再現のように思えた。
あるいはあの時の夢の延長か。
どちらにしても、ろくな事ではないことは確かだった。
「いいだろう、だが、お前は止まらない。どれだけ死に急ごうとも終わることは許されない」
それでも、影は喋り続けた。
「なぜならば、彼女がいるからだ」
その時、影の背後にいつものように巨大な存在感が一気に現れた。それも、クロノスの中にもう一人の自分だと思えた。
「お前は忘れてはならない。長い時を超えて想いは達されようとしている。終わるとしてもそれはお前が望むものとはかけ離れているだろう。だから、お前は死なない。わたしたちがいるように彼女がそれを許さない。お前たちの戦いに巻き込まれた人類に対する償いをするまで、死ぬは絶対にない」
影たちの言っていることは理解できなくはない。この戦いはクロノアに始まった戦いだ。償いという意味ではその子である自分が終わらせなくてはいけないだろう。しかし、重くのしかかる思いに答えるほど、礼を言えるほど、クロノスには気持ちがない。
「お前は忘れてはならない。この世界に無数の運命の流れは存在しない。過去も未来も全てはお前の手の中にある。お前の中に満ちるアルビノの因子がお前に力を貸してくれる。お前はこの世界を救う剣になる。終わりを始まりに変える神として君臨する。お前がどんな結果を望んでも関係ない。そういう流れがすでに確定している」
今度は意味がわからない。もしも、銃身があったら頭をぶち抜いていた。そして、相手の声を聞かないように耳を毟り取っていただろう。嫌な言葉だ。自分にとってそんなことはありえない。自分はただの敗者でしかない。
「お前には力がある。アルビノとしての力がある。世界を変えることを許された運命がある。その力をあいつは恐れている。己の運命を脅かすほどの強大な能力に覚醒することで生まれ変わる未来を恐れている。お前という人間の価値が試される時はすぐそこまできている」
最後まで彼らははっきりと言葉を貫き通した。アルビノとしての力を覚醒することを望んだ。誰もが期待するように言ってきた想いだ。だが、この力が覚醒したとしてどれほどの勝ちがあるというのか。
「彼女の言葉に耳を傾けろ。お前にとってその言葉が来る戦いのために必要なものになる。未来を生きる力になる」
その時、頭上から温かい光を感じた。それから、白い世界が現実のものに移り変わっていった。分厚い雲に穴を開けて見える空からなにかが落ちてきた。
「強くなれ、クロノス・ルナリア」
視界に落ちる黒い羽根の次には音がした。巨大な翼が影となってクロノスの上で旋回している。風が雪を巻き上げ、クロノスの体を空に運んだ。空気を打つ衝撃波が雲に流れを作り上げた。差し出してくる手をクロノスは握り締めた。
†
次に気が付いた時、セリュサは温かい風の中にいた。
心地よい温もりの正体は弾力性のある水袋、体を動かそうとして思うように動かせない体を和らげるためだと理解するのに時間はかからなかった。
視線を動かすとディアソルテと見つめあう形になった。
「ん、ここはどこ? 」
柔らかい感触に起き上がると見覚えのある背中を見つけた。クロノスは無言でこちらになにかを放った。眩しさにキャッチし損ね頭にぶつけた。硬いと思ったらただの果物だった。腹の音がタイミング悪く鳴り、恥ずかしさにそのまま口をつけた。甘酸っぱい味が口いっぱいに広がると、疲弊していた体から力が湧いてくる。
頬に、冷たい感触が当たった。それが彼女の手だと気付いて、セリュサはゆっくりと立ち上がった。思わぬ強風によろめいた。流れるままに身を任せると、頭から足場に吸い込まれていった。見覚えのある景色、セリュサは空の上にいた。それでも、後ろ襟を掴まれて宙に吊るされたのは初めてだった。
「死にたいなら、手を離すがどうする? 」
冗談に反応できるほど、うまく現状を飲み込めない。だが、巨大な生物が自分たちを運んでいることだけはわかった。紫色の長い線が風に流れる。羽ばたきに合わせて羽根が後方に飛ぶ。引き上げられると黒い雲がセリュサの体を浮かべていた。魔力だ。
「ギルド連盟の支部の一つに向かっている。いまは環境に適応できるまでもう少し休め」
クロノスの声以外には風の音しかしない。セリュサは病み上がりの体に逆らえず、再び目を閉じた。次に目を覚ました時には、ベッドの上で疲労は完全に消えていた。クロノスは眠っていた。ディアソルテは彼の前に座り、話しかけてこない。
魔人である彼女には疲労というものがないのだろうか。起き上がったセリュサは現状を確認するために立ち上がった。大きな机の上に置かれている書類からギルド支部の一つに無事に辿り着いたようだ。廊下に出ると緑に蝕まれたものが広がっていた。当たり前だが人の気配はなかった。体のあちこちが悲鳴を上げた。動かしてなかった分、骨の軋みは激しい。動いていれば慣れるだろうとセリュサは無視することにした。
「あれからどうなったの? 」
セリュサは部屋に戻ってディアソルテに尋ねた。主でもない自分の言葉に彼女が答えてくれるのか疑問だったが、返事はなかった。居心地の悪い空気は状況のものだとわかっていたが、セリュサはそれよりも心配していることがあった。
「セリュサ・ルーヴェン・ベルリカとディアソルテですね」
どこからともなく、その声は聞こえてきた。
『異常はないのですね』
「ネリス・ハオラン・ラスティーか、監視役すまなかったな」
「剣姫!? 」
名前というよりも姿に見覚えがある気がした。いや、あの時よりも大人びている。
「二人とも落ち着け、ネリスも挑発はやめろ」
「そうですね」
信じられないセリュサを余所にネリスとクロノスの会話は続けられる。彼女たちの恐ろしさを知っているだけに魔力活性を瞬時に行なった。しかし、彼女に睨まれただけで全身から力が抜ける。セリュサの手の中に収束させていた魔力が霧散し、彼女の力が増大したような気がした。
「どうして彼女がここにいるの? わたしたちを始末しにきたの? 」
「それは名案ね。いずれあなたたちは脅威になるから手負いを消すにはいいのかもしれない」
「なっ」
冗談に聞こえない彼女の言葉はセリュサの中に深く浸透した。クロノスは首を傾げた。彼女に恐れを抱かないところがさすがだと思わされる。
「だけど、わたしとしては無意味な争いは控えたい。エネルギーの問題もあるし、なにより月の使者と戦って生き残る自信がない」
体に力が戻る。いや、逆に力が漲ってくる。魔力は走る。太陽の使者として能力を十分に発揮できる状態だ。ただ、状況把握能力は戻っていないようだ。 「肉体改造されて少しはまともな思考力を得たらしいな」
クロノスは、苦笑する。
「それで、二人とも目覚めたからお前の意見を聞こうか。目的は俺の命か? 」
「わたしは反乱を起こした」
「どういうことだ」
「エイジアス。天空の使者ではなく、あれこそ人類の敵だ。わたしは彼の者を倒すために敵対することにした」
「それでどうして俺の前にきた」
「先程もいったが、お前たちがわたしの脅威であることに変わりない」
ネリスはそう前置きした。
「だが、現状の戦力でエイジアスと戦うには力不足。そこで月の使者の力を借りたい」
「そこまでわかっていてなお、戦う道を選ぶのか」
「それが剣姫たるわたしの使命だ。エイジアスの次はお前だ」
「できるものならやってみろ」
そんなことを言えてしまうのが、生体兵器たる彼女の凄みでもある。あるいはクロノアから派生した別人格なのかもしれない。人造でありながらより人間に近づいた彼女を見るのはとても悲しかった。しかし、もはやこの世界には普通の人間は残されていない。
「エイジアスは、一握りを残して生命を大地に還した」
ネリスが告げた。それは彼女の意思一つで世界が崩壊することを意味していた。
「地上の人間はお前も知ってのとおり魔力汚染によって異形化した上で大地に吸収された。生き残りがいるとしたら再生した大地の片隅で息を潜めている連中だが、気配を感じることが無いところを考えると、エイジアスの侵蝕に巻き込まれて自然と同化した可能性がある」
改めて人類が滅んだことに驚愕した。ネリスの言葉はそれを再確認するだけしかなかった。数えるほどしかいない人間しか残されていない。クロノスにクロノアにレンにセリュサ。
「マリアはどうした? 」
「マリア・フロラリア・ルーチェは音の使者の手に落ちた。すでに彼女の生命は大地の一部になっている」
マリアも死んだ。あとはディアソルテとネリスたち剣姫と、エイジアスだけだ。人間などどこにもいない。わかっていたことだが、彼女がこの世から消えてしまった事実にクロノスの心は感傷できないほど傷ついていた。
「それでお前の考えを聞こうか」
無心になろうとして、尋ねた。
「お前たちの準備がいいなら、すぐにでもエイジアスを倒しに行く」
「無謀だな」
「無謀でも時間がない。戦力差を気にしている間に我々が滅んでは意味がない」
それもまた事実だ。戦うには実力が違いすぎる。
「他の剣姫たちが味方につく可能性はないのか? 」
「可能性はない。わたしは、音の使者の能力の影響を受けて自由を得ることに成功した。だが、他の三人は動く気配がなかった。特にカリンは重点的に肉体改造を施されたようで、天空の使者の命令に背くことはできない」
「面倒な存在だな」
音の使者の力か。ネリスの言葉に、クロノスはどこか納得してしまった。支配系魔術においてレンが対象を自由にさせてしまうとは考えられない。だとすれば、なんらかの考えがあって彼女を自由にさせたように、クロノスは思えた。レンの力を彼女から感じる。ネリスが知らないうちに彼女の中に新しい力を植えつけたのかもしれない。だからこそ、ネリスはこうしてクロノスたちに頼るような行動をとったのだろう。他の剣姫たちのことはあえて考えないようにした。事前知識がないほうが戦いやすいと思えたからだ。ネリスの言葉を信じよう。
「事情は理解した。時間がないから早く行くぞ」
「話がわかって助かるよ。クロノス・ルナリア」
「堅苦しいからその言い方はやめてくれ、ネリス」
フルネームで呼ばれることにクロノスは顔をしかめた。一々、生真面目に同じ顔に言われるのはいい気分ではない。
「わかったわ、クロノス」
ネリスは素直に応じた。
「それでどうするの? 」
「戦力を分散させて各個撃破でいく」
セリュサの問いにクロノスが答えた。一人自信なさげに俯くと、全身を震えさせた。
「わたしにそこまでの力はないよ」
「そんなこと最初からわかっている。だから、それなりに準備はする」
セリュサの手を取ると左の手の甲が光った。次の瞬間、セリュサの左腕を魔力の線が走った。描かれたのは見たこともない魔法陣と紋章だった。
「体から力が溢れてくる」
記述言語としては古代文字をベースにしてあることだけはセリュサもわかった。だが、構成されている術式の難解さが解析を妨げる。淡く光るだけで特に体に変化は起きていないようだ。
「体に馴染むまで魔力活性はやめておけよ。月の魔力を込めた呪印は周囲の魔力を吸収して力に変えてくれる。剣姫と同じ術式だと思ってくれ。異常魔力を吸収しても異形化せず、逆に生体能力を強制的に限界まで引き上げる。付け焼刃の呪印だが、お前ほどの術者ならそれだけで十分だろう」
「とんだ裏技のあったものね。もしかしてクロノスたちも同じものを使っていたりするの? 」
そんなものがあったなら出会ったときにやってくれればよかったのでは? とセリュサは心の中で叫んだ。これがあれば先の戦いも苦戦することがなかったかもしれないのに。
「俺たちの強さは例外だ。世界と戦える魔術師がいたら不自然だろ。その呪印はある程度の実力がなければ効果も意味がないが、適応してしまえば多少無理しても大丈夫だ」
「わたしも化け物になるの? 」
「安心しろ、お前はそうならない」
試しにセリュサは自分で放った炎槐に向かって手を向けると、吸い込まれるように手の中に消えていった。
「名付けるなら『勇気』。お前が諦めない限り、力を貸してくれるはずだ。伝説の女勇者っていうのもいいかも、な」
クロノスの力は彼女に対するサポートしては最高の代物だった。それはこれから戦う場所への心構えができたというのか。準備ができたと考えればいいのか。殺し合いを始めるというのか。言葉にはできないものがこの場にはあった。
「わたしが勇者ならクロノスは大賢者ね」
「馬鹿なことをいうな。俺はそんな大層な役者にはなれない」
それはクロノスにしたらいままで想像したこともない想いだったに違いない。彼の人生観を他人に語ったところで理解できないように、この一時がどこか彼をまた一つ成長させた。月の使者、彼という魔術師の壮絶な人生はここで最後のページに突入した。結局、物語の登場人物としての役割は彼にしか決められない。支部から出るとクロノスはネリスに問いかけた。
「それで、目的地の場所はどこだ」
「古代の都アレイス。超古代の負の遺産が最初に発見された地よ」
空に飛び上がる。十二時間後に全てが終わる。




