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月からの使者 創世編  作者: 朝太郎
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天空の鐘

クロノア・クリスタル・ルナリア。

彼女が振り返る歴史はどれも次元を超えている。世界的に有名な魔術師だから、きっとそうなってしまうのだろう。

背後には無数の屍がある。姿のない魔術師の気配もある。視界から逃れようとする哀れな生き物たちの姿がある。影のように潜み、殺しの機会を狙い定める。それが賢いやり方。それが常識的な考え方だ。

レン・シェリフ・リッジモンド。

彼が動き出そうと自覚した時には、すでに終わっていた。気が付けば掃除係として屍を操って周りをウロウロする害虫の駆除を行なっていた。男も女も子供も老人も、そして戦力外の連中たちも、例外なく彼女を恐れた末に死んでいった。

惨い死に方は精神汚染の禁断症状による反応だ。異常魔力と魔力汚染。異常化と異形化。化け物。

クロノス・クリスタル・ルナリア。

最後の絶対的な超越者だと思われていた世界最高峰の魔術師。クロノア・ルナリアの弟であり、クリスタル王国の王子であり、神の化身(アルビノ)だった。

弟は姉の影になるように自らの存在を隠すのだった。そして、姉弟の違いが現れ始めたところで世論の目を知ることになり、同時に超えることのできない脅威として理解する。苦悩する弟の姿はクロノアにとっては到底理解できるものではなかった。そのことに対して抱いた感情は消化不良を起こす形になったが、そのことを最後まで追及するまではいかなかった。

クロノアにとって世界とは小さな箱庭のような存在であり、本当にどうでもいいように映っていなかった。彼女を崇拝する存在は、純粋な思いとは裏腹になんらかの野心を胸に秘めている野蛮な者であり、クロノアという魔術師に対する罪深き咎人たちだ。

クロノアにとって世界には裁かれるべき悪が溢れている。自分たちの行いを必死で正当化し、結果までの過程がどんなに悲惨なものでも結託する烏合の衆の行動力は馬鹿馬鹿しい。美しくも醜い世界。それが第一印象だった。だがそれは、生まれてから知ったというわけではない。事前知識として彼女はそのことを生前に教えられ、世界の一部として繋がりを持っていた。

おかしな話だが、事実でしかない。彼女は、どこまでも彼女であったからこそ今日まで己の心を失うことなく、生きることができたのだ。しかし、彼女の予想とは裏腹に、彼は成長していなかった。だが、その変化にクロノアは驚くことを諦めた。現実に対して背を見せることを彼女はしない。見せるくらいなら壊すことを選択する。変わらないことは時として残酷だということだ。もう一人の自分。それが、彼女の思うこと。

城塞王国デュライナルにある会議室。実質、世界を裏から見届ける拠点の一室で、クロノアは優雅にお茶を嗜んでいた。その堂々とした姿はその場の空気を変化させ、芳醇な香りを部屋中に広げようとする意思のようなものさえ感じられる。静かな場所ほど時間の流れは穏やかに思えた。彼女の足下には赤い絨毯が赤黒い染みを広げていた。

騒がしい音はレンが遮断してくれているので必要な音しか聞こえてこない。カップの中を満たしていた琥珀色の液体は残り少なくなっていた。口の中で変化するその液体にクロノアは癒しを覚える。制圧はすでに終わっていた。

天井に吊り下げられているシャンデリアの装飾の一部として磔にした死体たちはこの場所でそれなりの地位に就いていた。彼女を見て誰よりも先に逃げようとした愚か者たちを尻目にクロノアは立ち上がり、目的の場所へと向かう。

難攻不落を謳うだけあって何百層もの複合結界を破るのに二撃も使ってしまったことは記憶に新しい。

それでも内部の人間たちの反応は、その分厚い守りの影響で緊張感がまるでなかった。

ここは世界で唯一平和な場所だった。

「遅かったな」

球体状の建物、開けた空間に佇む彼はそう言った。

「出来が悪い部下の余計な綻びを正す必要があったのよ。無能ってこれだから嫌い」

部屋の床全体を使って描かれた魔法陣の各所には死体が置かれていた。その一部が淡く発光している。背中には銀色の羽根の刺繍が見られた。それが十体。魔術的な処置によって肉体の腐敗はなく、生前の健康な血色を保っていた。欠損部分は再生技術で元に戻した。どこにも異常がないことを見て、クロノアを中心に周囲が震えだす。

天井が開き、銀世界が広がる。

そう、ここには欲に塗れた人間の粗悪な部分のない、劣悪な面のない、汚れのない世界だ。だが、クロノアの瞳は嫌悪を宿し、呟きに込められる言霊に死体の光が強くなる。

「嫌な世界だ」

雪化粧によってこの場所は偽りの平和を手にしていた。

「まあ、それももう少しの辛抱よ」

死体から放出された高密度のエネルギーがクロノアの体に入ったところで、変化が始まった。

「天空魔術――天空と炎の流星群(アースメテオ)

黒雲を吹き飛ばして無数の隕石が地上に降り注いだ。瞬く間に見慣れた地表が顔を出す。白銀の髪が金髪に、緋色の瞳が青色に変化するとクロノアの全身から制御しきれないほどの魔力が衝撃波に変わって放たれる。

この瞬間、アルビノとしての真の覚醒を果たしたクロノアの力は化け物の領域から抜け出し、神々の領域に踏み込むのだった。

クロノアにとっては五年も前から住んでいた場所のこと。世界最強の名を受け継いだ後に辿り着いた境地は退屈な世界をより退屈なものに変えてくれた。それはいずれ彼女にとって必要な力だと知ってはいたが、当時のクロノアにとってはそれほどに重要なものに思えなかった。

「どちらにしても、まだまだ時間がかかるから好き勝手していてもいいわ。ただの魔術師ごときにわたしの動きを阻害できる危険因子はいないけど、レンに優しさがあるならギルド連盟を潰し、三騎士を滅ぼし、闇ギルドを根絶やしにしてもらえると助かるかもね」

「ああ、そうさせてもらう。俺に祭を仕切る権利はない。それでも、祭を盛り上げるために少しばかり動くとしよう」

「それは期待していいのかしら? 」

クロノアは苦笑して手を振ると無数の流れ星を見上げることにした。クロノアは頭の中から気配が消えると、体から流れ出す魔力に意識を回すために、深く息を吐いた。

彼女の纏う神々しい魔力は早速、周囲の環境に影響を与える。さらけだされた部分に指先に集めた高濃度の魔力の種を埋めると、小さな芽が生えると同時に増殖し、急速に成長を始めた。

「やれやれ、レンは本当に心配性なんだから」

その言葉を言い終わった頃には、雪原は草原に変わっていた。城塞王国として知られていた国は、太古の遺跡のように植物を着こんで深い眠りについた。大穴の開いた場所も地殻変動によって塞がっていた。

「ここまですれば問題ないかな? 」

そんなことをいっていても結晶化した魔力は地中を通じて効果の根を拡げている。覚醒した彼女の1%にも満たない力が死した大地に命を与え、失われた自然を作り出す。

「生まれたときは広かった世界も、理を知ればこんなに小さなものになるのね」

呟き、風が教えてくれる世界の動きを把握する。耳は遠方の音を拾い、瞳に映りこむ景色は不規則に変化する。

『未練があるのか?  天空の使者』

直接頭に響くように新しい声がした。

「『原初の(エイジアス)』か、別に未練なんてこれっぽっちもないわよ」

質問に素っ気無く答えるも、振り返らずに、情報収集を続ける。

『その割には事の進みが遅く感じる。お前ほどの実力があれば、この世に復帰した段階で、世界の半分は再生の産声を上げていただろう』

「それはあなたの目的であって、わたしの目的と一致しない。やろうと思えばいつでもできることに興味はない」

『そうか』

エイジアスも淡白な声で答える。だが、クロノアの前から消えようとはしなかった。

「まだなにかあるの? 」

『全世界はお前の魔力によって汚染されつつあるが、異形化した者は全体の半分もいない。これはどういうことなのか説明してくれ』

「わたしが意図的に汚染を回避させていると? 」

『そう言っている』

「簡単なことよ。適正者が不足すれば、わたしのほうの目的に支障が出る」

クロノアは二度まばたきをして見上げた。おぼろげに映る影は不気味だった。

「単純にぶっ壊せばどうにでもなるエイジアスの目的とわたしの完璧な計画を同じにされても困るわよ。こうしている間も監視しているんだから、逆に邪魔しないでくれない? 」

『それは悪かった。しかし、契約を破ればどうなるか忘れたわけではないだろう』

「わかっているわよ」

『それなら問題ない』

自分でも読み取ることの出来ない思考、今度こそエイジアスは消えた。

「……気付かれているのかな? 」

この世界を滅ぼしてやろうということに嘘偽りはない。だけど、それを実行するに当たりエイジアスに知られないように動く必要があった。

「気付いていても、いまさら止められることでもない。こうなることは生まれたときから決まっていた。生命を生み出した『創造主』でもわたしの計画には手出しさせない」

創造主。原初の理。全ての生命の祖にして世界創世に大きく関わった神々の内の一人。その素性は生と死を司る神とこの世には伝わっている。その目には物事の本質を見抜く力がある。伝承通りなら、おそらく、クロノアの心も知っている。だが、エイジアスは先ほどのようなやり取りだけで直接的な物言いはしてこない。クロノアと敵対する意思はないようだ。

「いまさら、裏切ることに未練なんてない」

過去の行動を掘り返す。五年前は彼女にとって大きな意味を含む戦いだったが、どうたったか印象としては薄かった。それだけの価値しかもっていなかった。

「それよりも、レンはなにか面白いことをしてくれるみたいね」

ギルド連盟と三騎士と闇ギルド。三大勢力という立場はたった一人の魔術師の手によって掻き乱され、おそらくは完全に消滅するだろう。彼と戦うにしては三大勢力では役不足だ。だが、それでも戦うことを選ぶというなら少しだけ見直してもいいと思えてくる。

生にしがみつく愚か者というのではなく、世界を守りたいと願う気持ちからなら人間としての評価点は高い。しかし、その気持ちを最初からわかってくれていたら、そもそもこんなことにはならなかったのだから、無駄な考えだ。

「この流れに逆らえる者はあなただけよ……」

それだけを考え続けた。あの場所でもずっと考えていた。ここまで、きてしまったなら覚悟を決めて欲しい。世界再生の裏に、彼女の前にはもう一つの道が存在している。それは選ぶことすら躊躇う地獄への入り口だった。いや、死よりも恐ろしいだろう。だから、ここで決めて欲しい。そして、自分の下まで辿り着いたときの言葉を期待する。

「わたしの鎖は切れた。さあ、ここから始めなさい」

黒い歪を抉じ開けてクロノアは異次元空間に消えていった。





クロノスたちは走っていた。カラコルンという名の国だ。貿易が盛んで流通する品物の数は群を抜いている。また、観光地としても有名で町中は常に活気で満ちていた、数時間前までは……冷ややかな風が死を運ぶ。

重々しい気は、そのまま闇を引き連れて新しい死を生み出し、群がる獣を成長させる餌と化している。周囲にはわずかな生存者が結束して混乱を抑えようと、戦っていた。

しかし、彼らの努力も空しく、獣の牙に貫かれては甲高い叫びを上げている。

「本当に次元が違うとしかいえないわね……」

後ろを気にしながらセリュサが呟いた。自分たちが進んでいる道だけ魔獣が襲ってこない。道を譲るように視界の端で石像のように止まっていた。

「立ち止まるな、置いていくぞ」

膨大な魔力による魔縛りによって身動きできずに硬直しているのだ。前を走るクロノスに続いて跳んだ。

人間を超えた魔術師、それの限界を超えたクロノスの跳躍は姿を見せずに視界の奥にあった建造物の上に足をつける。

視界を遮るものがない場所からの眺めは最悪だった。

カラコルン王国の状況はそのまま世界中のどの場所にも置き換えることができる。現在、地上を徘徊する巨大な獣たちと同じように制空権を主張する巨大な怪鳥が飛んでいる。異様な形の羽を降らせながら、はっきりとクロノスの目に映る。複数に分かれた頭を左右に動かして地上を見て回っては、獲物目掛けて急降下を始める。

無音ともとれる突然の空襲に、餌は痛みを覚えることなく食い殺された。汚染された獣たちの成れの果て、合成魔獣(キメラ)

他者を喰い己の体を作り変える種族に限界というものはないのか、それとも重度の汚染によってあらぬ方向に進化してしまったのか、取り込んだ餌の情報が肉体に反映される。人間。クロノスたちとなんら変わらない人の姿を披露してくれた。ただ、違うのは言語能力、彼らの口からは零れるような喘ぎしか聞こえてこない。

「ねえ、これはどうなっているの? 」

セリュサは横に立つ少年に尋ねた。合成魔獣の特殊性は知ってはいるが、人間を捕食したからといって外見がそれになるなんて、肉体の構造からしても矛盾だらけだ。

「……魔力汚染によって肉体制御機能が崩壊したとみていいだろう。自我の損失は精神面の破壊と同時に肉体に変化を引き起こしている。変化は個人の深層意識に大きく影響される。目の前の奴らは魔術師ではない、一般人だった。だから、この世界の変化に対応するために強くなる進化を望んだ結果だ。その思いが合成魔獣を逆に食い殺すことになった」

獣から人の姿に変わる時、骨格と筋肉の動きは見ていられなかった。ゴムのような伸縮性と耐久性、膨張と収縮を繰り返す体は気分をより一層悪くさせ、精神力を減退させてくる。周囲の騒々しさは人型になっても止むことなく逆に増えたように思う。救済することをセリュサが考えていると、高圧縮した魔力の弾道が人影を蒸発させた。非情な瞳をセリュサは見た。

「ここまで変化した以上、どうせ助けられない。殺すなら、痛みもなく一瞬で殺してやれ」

「そこまでしてやらなきゃいけないなんて……」

クロノスたちの目的は、目の前にいる異形者を狩ることではない。

だが、クリスタル王国からここまで、まるでクロノスたちを恐れているような行動が大量殺戮からの強制進化へと繋がっているのも事実だ。

そこに巻き込まれた人間や魔術師も少なくはないだろう。

この魔物騒動など忘却の彼方に飛んでいってしまうほどの騒動の正体を知っている者が、この世界にどれくらいいるだろうか? ただ、常識では考えられないほどの高密度の魔力濃度による原因不明の魔力汚染が魔物を汚染し、世界中に病毒のように蔓延していることぐらいしか情報は流れていないに違いない。

異常魔力で通信網は完全に混乱、自分の目で確かめる以外、なにが起きているのか理解できている者はいないはずだ。自警団、ギルド、三騎士、傭兵集団、多くの戦力が混戦している現在でも、どうして戦っているのか意識している者はいないと思われる。

そんな彼らと同じような場所にいながら、クロノスとセリュサは戦わなければならない存在を知った上で、それ以上に危惧すべき悲惨な運命を抱えている。

「ディアソルテ、この世界があとどれくらい耐えられるか教えてくれ」

『わたしの見立てではよくて七日間……天空の使者が気を変えれば刹那の時間も与えてくれない。もっとも、彼女よりもエイジアスが従っている間だけね』

「わかった。なら、早くいくぞ」

名を聞いてクロノスは顔をしかめた。世界が七日間の制限時間で無に還ることよりも、気分次第で終わることよりも、不吉な名は印象に残った。一五年で詰め込んだ知識が完璧な基準になるわけではないが、結論を急がせるなら一度だけこの世界ではない場所で使う機会があった。エイジアス。どうしてこの場面でそれが出てくるのか、クロノスにはわからない。

『エイジアスというのはこの世界の創造主。『原初の理』を司る事象神の一人』

ディアソルテが口を開いた。

『ただ、わたしやイリティスタと違って彼はこの世界創世から一度も誰かと主従契約を結んだことはなかった。それは彼が司る属性と適合する魔術師が存在しなかったことにも言えるけど、それ以上に彼と契約できるだけの実力者が生まれてこなかったからその存在をわたしたちですら忘れていた。エイジアスの目的は天空の使者と一致している。これが意味することはわかるわよね』

マリアは二人にさらわれた。クリスタル王国で戦っている間に魔力枯渇でクロノスは人間に戻らざるをえなくなった。それがクロノアの命令によるものかは定かではないが、あの場所でマリアが連れ去られたことは現実として受け入れなければならない。

むしろあの時ほど、クロノスの心を乱したことはなかった。もし、レンが味方だったのであれば、マリアは隣に立っていたと思うし、音の使者という戦力が彼女の思想を壊していただろう。それは一つの可能性であった未来の物語だ。

だが、レンはクロノアと手を組んだ。この事態はあまりにも楽観視できない。気にいらなければ肉親であろうと簡単に消し去ってしまえるのがクロノアだ。そのことはクロノス自身、目撃している。

彼女のことを知っているから、こんなにも冷静でいることが難しい。

世界侵略。大規模魔術を使えばもっと早く世界は切り捨てられると考える一方で、別大陸までの移動法に転移魔法陣が使用できないことに苛立ちが募る。肉体へのダメージを度外視した速度で疾走していてもディアソルテが提示した時間内に辿り着けるかわからない。地道に進むしかない。

「考えるのはやめろ。いまは目の前の障害を取り除け」

ここまで進んできた道のりは、国同士を繋ぐ往路だったのでここまでの騒ぎが起きている状況ではなかった。クロノスたちは建造物の上から頑丈そうな屋根に向かって跳びつつ、障害の少ないルートを探す。

だが、世界は異常に飲み込まれている。

汚染されていない極上の餌を逃がす馬鹿はいない。国内のどこにいても感じることができる特殊な嗅覚が三人の動きを完全に網羅している。だが、その先にいる餌に逆に狩られるということまでは把握していない。どの獣も欲求に突き動かされた結果は平等に訪れる。

「お前たちに月の祝福を……」

一瞬の魔力解放が勝負を決するまでコンマ数秒の世界を体感させる。

月の使者としてのクロノスが行なったことは、月属性の特性である『周囲の魔力質の変換』、カラコルン王国全域に換算している魔力全てに干渉して己の手足として操ることだった。魔術でもなんでもない膨大な防ぎようのない魔縛りに獣たち身動きを封じられ、無抵抗のまま地に突き刺さる。

静謐な空気の中で荒々しい気が混じった。

瞬時に方角を察知して障壁を展開する。だが、中央から亀裂が走り、次の瞬間に衝撃が突き破ってきた。外傷はない。だが、破られた。どうやって? クロノスの思考を読み取ったディアソルテが天上から光を叩き込んだ。

弾けるように光の柱が砕け散る光景が見えた。

『命知らずがいるようね』

精神異常をきたす人間は一種の混乱状態に陥ると善悪の判断を委ねるようなことはしない。しかし、その中でも凶暴を含んだ欲求はどちらかといえば悪の部分に強い傾向がある。生きることに絶望したり、死ぬことを前提に事を進めようとしたり、あるいは本当に精神異常患者が自由を得たから溜め込んできたものを晴らそうとする。

それがあの攻撃にあったというなら、素直をクロノスも忘れようと思えたが、攻撃はピンポイントに狙い撃ちしてきた。

混乱状態にあるといっても限界速度を超える動きの者を狙う異常者がいるとは思えない。

「どうするの? 」

セリュサが聞いてきた。

「無視しろ。雑魚を相手にしている時間はない」

「わかった」

相手の真意はわからないが、クロノスの中で行なわれた解析結果では脅威と呼べるものではない。障壁を破っても傷が付けられなければ意味がない。クリスタル王国で解放されてから、クロノスの能力は上がり続けていた。魔術を使うまでもなく、意識するだけで周囲の魔力が自由自在に無限の変化をしてくれる。

「呪印によって五年間も魔力器官に枷が付けられていたから、その反動だろう。属性変換することもなくこの威力を発揮できるのは『神の化身(アルビノ)』として覚醒しつつあるのかもしれない」

ここに来るまでの間に、クロノスは自分の体をそう診断した。

「あの時、一瞬とはいってもクロノアの魔力を体内に叩き込まれたことで神経組織の一部が侵蝕された。汚染されたのは魔力制御を担当する部位、自分の意思で制御できなくなった。それでも魔力器官を潰されなかったのは幸運なのかもしれない。だが、これで俺たちの所在は常に知られることになった」

クロノスのその言葉に、セリュサはなんとも言えない顔をした。自分のパートナーが呪縛から解放されて嬉しいはずなのに喜ぶことができない。そのことにフィンという犠牲があったから、彼女を一瞬でも軽蔑した自分に嫌悪した。

払拭できない思いを引きずることに意味などないのにセリュサは心を痛めている。彼女の純粋な思いを知っていたから。自分が生き残ったことに疑問がある。それはいつだって後悔へと変化するのに、止まらない思いは激しい痛みとして苦しみを与える。

どうして彼女が死ななければならなかったのか。魔獣の動きを完全停止させるクロノスの力。このような圧倒的な部分を見てこそ恐れるべきなのに、彼にはどうしてもあの時のような気持ちが出てくることがない。

化け物として自覚している彼の力は絶大だ。頭に詰め込んである出会った人々の戦闘データと比較することが無駄に思えるほどに、戦いを行なっている。

不殺主義。クロノスが両手をかざすだけで地べたにひれ伏し、それ以上の追走はなくなる。殺さずにして、場を制しているのは魔術ではなくただの魔力の影響だ。この力が攻撃に変化したときのことなどセリュサには想像できない。

「これが月の使者……世界の王」

いままでのクロノスを化け物としたらここにいる彼はなんなのか尋ねられてもセリュサは困ってしまう。空を割ってクロノスは再び跳ぶ。全身を包み込む魔力の残滓がきらきらと星のように輝く様子は、不謹慎だが一時の感情を忘れさせた。

『キリがないからもう少し速度を上げましょう』

黄金の草原を顕現させ、風に揺れる草花の上を走って前に進む。国境付近にきたところで背後から生命の鼓動が完全に消滅したことをクロノスは黙殺した。





魔力循環を最大限まで高め、二人のいる場所へと続く道を疾走する。自然界の理が崩壊したことで地割れ、砂漠、氷河など進むにつれて崩壊が酷くなっている。それは同時に、この星の寿命を意味していた。

クロノスの力があれば命を与えることまではいかなくても大地を修復することができるのだが、いまは時間がない。微かな手がかりを元に道なき道を進み続ける。ここにきて不安なのはセリュサだ。

彼女は力を持ってはいるが、常人の領域で生きている魔術師として現状を想定するような戦闘経験を積んでいない。

そのため、咄嗟の猛威に反応できないでいる。

大寒波や地割れからの熔岩の雨、全方位を警戒して高い集中力を維持していなければすでに死んでいる。クロノスのサポートがあったとしても彼女個人の戦闘センスで学習しなければ話にならない。

本当の敵は自然ではないのだから。ディアソルテは沈黙を保っている。黙っていても彼女の心はクロノスには伝わるからなにも問題ではない。流れていく景色の中にクロノスは一人の姿を見た。といっても人影ではなく、記憶の中に眠っていた映像が飛び出してきたにすぎない。美術館の画廊を思わせるように道を飾り立てている。

その中には二人の姿があった。クロノスだって知っている一番辛くて、一番悲しい思いをした時代だ。並走する二人もきっとなにかしら考えているのかもしれない。死と隣り合わせの戦いを意識すればするほど、思考は現実から遠のいていくことになる。

天空を支配する彼女のオーラを眺めては幻が語りかけてくる。だから、考えた。クロノア・ルナリアという人間のことを考える。

世界のバランスを維持する大国に生まれた王族の姫君。

正反対の性格を持つ弟の面倒を見る姉。

それがクロノアの始まりだった。それがどこからこうなってしまったのか、彼女を中心に世界が回った。人間は誰しも自分を中心に物事を考える生き物だと思っているから規模を除けばこれは彼女が持つ力の大きさを意味する。権力を使用して表舞台に立つ愚か者にはできない芸当である。主役を舞台から引き摺り下ろそうとしたところで、見ている観客が納得するはずもない。

結局のところ、選ばれた者はおのずと出てくる仕組みになっているのだ。

つまり、人間というのは進化論によって行動理念を与えられたように思われがちだが、実際は誰も知らない空想と幻想の主が与えた道のりを進んでいるだけに過ぎない。

それを踏まえれば、自分という双子の半身の人生が哀れな物語だということにも納得がいく。その分、彼女の人生が魅力的な世界像を映していてもなにも問題ではない。姉の物語は人々の目にどんな風に映っていたのだろうか。圧倒的な才能と技術力が紡ぎだす新たな可能性に歓喜の声を上げ、完全勝利が約束された戦局に汚点はなく、堂々と闊歩する前に壁などない彼女が与えられた物語。

最終幕はこの、壊れていく世界が舞台になった。

大自然の猛威を味方につけ、驚愕の侵蝕速度で壊されていく。壊れてはそこで止まらず、クロノアという一人の主人公の意思を反映させるために、生命の声を届けては、再生の時を待ち続ける。それが目覚めた時に彼女の物語も筆を置くことになる。

では、その弟の物語はどういう結末を迎えるか? 姉が現れ、友が立ちはだかった。

姉と戦う決意は五年前に付いていたから、再会してもクロノスは彼女に向かって剣を向けることができる。

だが、友を前にしてはその決意が薄まる。

思い通りにならないのが人生ならいまの状況がまさにそうだ。きっと、こうして前を見ていても心は逃げている。そして、マリアのことを考える。無事でいるのか、それだけを考える。連れ去られても魔力感知には微かに反応がある。

だけど、それが擬似的な偽者である可能性も高い。

様々な不幸が重なってクロノスにもわからない。それに、クロノス自身のこともある。肉体の成長といえばいいのか、細胞の変化が止まる気配がない。クロノスは一時的とはいえ、三度、アルビノとしての覚醒を経験している。クロノア同様、自分にその運命が訪れることは時間の問題に思えた。しかし、クロノスには力を制御することができない。溢れ出てくる力は意思に反して一方的なものだ。

イリティスタの時も、レンの時も、暴走しなかっただけマシだが、次はどうかわからない。わからない……わからない。眼下に広がる光景。濁った色彩は光の世界を奪い取った。地平線の奥から紅の閃光が溶ければ、石炭のような雲は熱を帯び始める。

冷めれば波に消える岩礁の一部になった。かつて、まだこの世界がこうなる前の日常を描いていた頃は、光の中に多くの笑顔が存在し、幸せな風景が見ることができた。侵略戦争が始まっても、世界のどこかでは変わらぬ景色が確かに存在した。

だが、それも長くは続かずに、同族の手によって壊されては、さらなる問題を引き起こし、多くの人間を巻き込む形になった。それをどうしておかしいと思わなかったのか。その結果が、この世界だ。

膨大な異常魔力は大地を枯れさせ、動植物たちを飲み込み、人々の混乱の果てに成長する。

誰もが生きたいように生きた結果が、無限の負の連鎖を作り上げ、絶望に染め上げた。ただ、壊れていく。天空の使者であるクロノアが本格的に行動を起こし、その助力として音の使者の力が加わったことによって。正しいことに全力を注ぐなら、二人の行動力は万人が束になっても敵わないような作業だっただろう。

だが、これは戦争だ。信念の下に行動することを否定はしない。これを間違いだと指摘できる者がいないからこうなったのだと思えばいい。革命家は世界を変えるために自ら立ち上がった。新たな世界を設計するために大規模な侵略作戦を実行しているという筋書きだ。

世界最高の頭脳が描いた完璧な方程式による答えに、きっとミスは含まれていない。三人が進む道中で起きている無差別な魔獣の破壊活動も計算されていると思う。どうしようもないことにクロノスはなにも浮かんでこない。ここまで壊れてしまっては、どうしようもない。世界中の人々を対象にした大規模な計画による被害なんて想像するだけ無駄のように感じる。

壮大な未来像は現実のものに近づいている。

自分が戦ったとしてもなにができるのか? 考えなくとも、自分一人が奮闘したところでこの世界を救う手立ては残されていない。

力が人より強くても、才能があろうとも世界を救えると本気で考える馬鹿はいない。今回は問題と己のスペックに差がありすぎる。気持ちだけならすでに折れている。それでも、クロノスをここまで動かしているとしたらもういない彼女の願いを受け入れたからだろう。だが、それをやり遂げようという気持ちはない。

彼女の願いはあくまでも自分自身を含めてのものだったからだ。自分の本当の気持ちがわからないクロノスにはできない。自分と向き合ったことがないから、彼女の言葉を消化しきれないクロノスは実力があってもここにいる誰よりも足手まといだろう。

荒野をどれだけ走っても永遠と続く大地の風景に変化はなかった。しかし、前方に生い茂る大樹には変化がある。乾燥した空気に揺れる枝葉が微かに発光し、そして波打つように天辺へと向かっている。

魔力の結晶体だ。濃密な異常魔力が結晶化して作られた命の樹。それは世界を支える一つの柱。

実際、大樹から膨大な魔力を感じとれる。

大気中の異常魔力を吸収させ、地下に流している仕組みだ。他にも同じものがあると仮定すると、クロノスたちの足下の奥底にはとてつもない親玉が眠っていることだろう。だが、それがわかっても現段階でどうにもできないのは確かだ。

気持ちだけを焦らせてもこの状況は打破できない。冷静になるように呼吸を整えた。隣では息を荒くするセリュサがいた。休みなく走っていたことに気付いたときには、足を止めていた。肉体疲労は回復できても、精神的疲労は回復でない。青い顔で謝っている彼女にクロノスが近寄った。

その瞬間、大地が光った。

足下から形容できない衝撃が放出させ、暴風に宙に押し上げられた。間一髪でセリュサの体を引き寄せることに成功すると、浮かんでいる岩や木を足場に地面へと降りていった。それでも、揺れは続いており、震動がクロノスの動きを束縛した。

そこに、ディアソルテが魔法陣を形成し、空間を隔離する。強引な力の波動に、ディアソルテの表情は険しさを増していった。

火山が噴火したような衝撃だった。

だが、遠くに見える山が噴火したわけではない。地割れが起きて、熔岩が噴出するわけでもなく、魔獣の気配がないことから能力によるものでもないようだ。

そのまま、先に進むとクロノスの視界に奇妙なものが映った。

それは緑色の草だった。

「止まれ、ディアソルテ」

空中浮遊してからどれくらいの距離を進んだのか、海岸の傍にきていた。

水平線の上から雲が流れると鏡のように闇が広がる。周囲を見回すクロノスはそっと足下の草に触れた。植物が育つはずのない場所で、ここまで生命力に満ち溢れている草がある理由を考える。

「敵もいないのにどうして止まらなきゃいけないの? 」

隣にやってきたセリュサがそう呟いた。

「お前は馬鹿か? ご自慢の頭脳でよく見て考えろ」

そう言われても目の前にはただの草が生えているだけ……いや、草の根の部分が広がっている。不自然な世界を見つめ続けていたから、変わらないことにホッとしていた。

だが、その不変こそクロノスには異常なものだった。脈動する鼓動が、地に着いた足から伝わってくる。それから向こう側、瞬きの間にもそれを境に緑の芝生が広がっている。

乾ききった赤茶色を覆い隠すように、所々には小さな蕾を携えた花が点々としている。急成長を始める。

一気に、ディアソルテの背丈を抜き、複雑に入り組んだ樹海の入り口を見せ付ける。変化として、地面以外の場所にも影響が広がっていた。

いや、目に見えないだけで世界中のいたる所で起きていると思う。互いに発する淡い光を吸収してより強い光として街灯のように道を示してくれる。悪意のない善意からのやり口は、周囲の景観を楽しんでもらうことを目的にしているとクロノスは感じた。

この景色こそ、彼女が動いた合図だということだ。

(始まったか)

クロノスは意を決すると森に入った。予定通りの動きを見せているということに考えをまとめた。刻々と時間が迫っている、というところだろう。ここまでの変化が序章という認識が、自分の中とずれている。

いやでもレベルの違いを実感する。

『本来の力を手に入れたから心配していないけど、相手が相手だから気をつけてね』

月の化身、ディアソルテが呟く。クロノスの魔力を増幅し、周囲への防御円で増殖する植物の壁を裁断して道を切り開いている。

「なにが起きているの? 」

「生命調和。天空の使者の属性を応用した再生魔術だと思う」

クロノスは情報を組み上げて辿り着いた答えに生きている心地がしなかった。死んでいた大地を再生させる。それがどういう意味なのか、セリュサもすぐにわかった。枯れた花に水をあげると同じように彼女は大地に潤いを与えた。

「融合しているってこと? 」

「ああ、汚染者に浸透している自分の魔力を操作して大地に融けこませることでこの星が消費した分の生命力を補充する。数百年、数千年、数万年、数億年、この星の命を喰い続けた人間たちが継いだ命の全てを生け贄にして完成させる究極魔術――――」

あの一瞬のことで、結末が見えてしまった。クロノスは緑の地を踏みしめる毎に、懐かしい感触に寒気を覚えた。人間の手が加えられていない自然の恵みがある。澄み切った空気は活力を与えてくれる。顔をしかめる。人の命を代償にして取り戻した自然は気持ち悪い。世界基準で考えたら戦争によって失われた自然を取り戻せるなら安い犠牲だ。

目の前にある自然はこの星が生まれた状態をそのまま再現しているのだろう。

見たこともないものもあった。漂っている魔力に触れると流れ込んでくる濃密なエネルギーに驚いた。だが、驚きがそのままこの風景に対する評価にはならない。なぜなら、ここはすでに終わった過去として終わっているからだ。

「みんな死んじゃうの? 」

「死ぬわけじゃない。この解釈もかなり曖昧だが、大地と同化する連中は全て星の一部となり、世界と繋がることになる。人の形をしていないだけで、生きているという概念は同じだ」

セリュサの問いに、クロノスは推測の域で答えた。カラコルン国にいた人々と襲っていた魔獣たちは、魔術の発動範囲内にいたために巻き込まれ、星のエネルギーとして変換させられたのだろう。国が保有する総人口を考えると、貿易国ということもあり、その数は頭一つ飛び抜ける。

それだけの人間が、あの一瞬で、すべてを奪われていったのだ。その結果が目の前にある。美しい光景だが、まるで茨に絡め取られた魂の牢獄のようにさえ感じる。だけど、クロノスの心には響かない。

目に見えない訴えにクロノスは応えることができないからだ。生きていれば敵として位置する彼らを見捨てるわけではない。ここまでの術を破るなど不可能に等しく、干渉することもできない。そこにいる無数の命がぶつけてくる感情の波に、圧倒されて言葉にできないクロノスは拳を強く握り締めた。

「俺たちに逃げ場はない」

自分に言い聞かせる。ここは彼女の掌の上。彼女の意思一つで、無数の命が秤に掛けられることになる。自分の行動が、影響を及ぼすことになるのなら慎重に動くことに意味があるとは思わない。

『逃げ場がないなら、進むしかないわよね』

ディアソルテがそう言って、二人に空を見るように促した。

見上げて、言葉を失った。

空を蠢く怪鳥の群れが泳いでいる。巨大な体躯が光を奪った。数十倍の巨大な瞳がこちらを睨みつける。

鎧城のガンジュランズル。

人間の城を背負う奇怪な鳥は本体を地下に沈め、数百年の眠りについた後に一大王国として築いた歴史を一夜にして食い潰す。

『城落とし』の異名も併せ持ち、頑強な肉体に傷をつけた魔術師はいまだにいないとされている。それが、現れたということは、その眠りを妨げられた。こちら側に狙いを定めると金切り声のような鳴き声が子に命令を下した。

『恐いことだけど、この魔物たち全てに強力な洗脳が掛けられている。もしかして、これが音の使者の力? 』

「世界三大王国が一つシェリフに生まれし、歴代最強の魔術師レン・リッジモンドが生み出した音魔術の性質『支配』。物理的干渉を有しない魔術を防ぐには同種の魔術で相殺しない限り不可能に近い」

『不可能に近いだけで、防ぐことは可能なのね』

「決して折れることのない強い意志の力。レンの魔術は外面を破壊するのではなく、内面を破壊する。支配能力はそのおまけみたいなものだ。今回は自律制御できなくなった人形に指向性を持たせるために支配系に特化した術式のようだ」

参考にならない回答を無視して、槍のように落下する豪雨を避ける。空気摩擦で発熱、炎化する勢いは森の中で存在を強めていった。

『支配能力って割には動きが悪いのね。操作系能力者ならもっと複雑な動きで翻弄するのかと思っていたけど、これならさっきの連中のほうが手強いわよ』

ディアソルテは、高圧縮した肉槐を何十個も群れの中枢に投げ返した。

「レンの悪ふざけだ」

クロノスが言った。納得したのか、ディアソルテは一人空に飛び上がった。そこで、足を止めた。セリュサも静かになったことでより一層強く感じる視線に手を止めた。クロノスは目で合図を送ると、ゆっくりと奥に進んでいった。

崩れた建物が広がっていた。

気配の主は誘っている。攻撃的な視線が暗闇に紛れてクロノスに突き刺さる。意思に反して襲ってこないということはこちらの実力を感知できるほどの思考能力をもっているということになる。

破壊の行なわれた場所にただ一つの気配がある。考えるよりも先に、上空から大地を割るように視界を覆う斧がクロノス目掛けて落ちてきた。手を上げる。斧の刃と手がぶつかるも、一瞬で砂のように分解されていく。

手の中で弾ける魔力は絶えず凶暴な力を振るってくるが、絶対領域を超えることはできる力はもっていなかったようだ。

「それでも操られていない奴がいるみたいよ」

セリュサが灼熱の炎を放った。一直線に走る炎が建造物を溶かしていくとぼんやりと姿を見せた。膨大な熱量による熱気が相手の先手を防ぐ。再度、上空からの斬撃が襲ってきた。だがそれも、クロノスの手に遮られる形で消滅していった。

そこに虚空から無数の鉄鎖が放たれる。これも触れる前に消えていく結果に終わった。能力としては一級品でも、使うタイミングと相手を見極めなければ意味がない。

建造物を上空に吹き飛ばすと気配の主が顔を見せた。異常魔力による魔力汚染が全身の身体組織を変異させた姿に覚えがあるのは顔の半面とクロノスを突き刺す視線に込められている憎悪の念だ。

「諦めの悪い奴だ」

上空の一部に穴が開き、そこから漏れる月光が主を照らした。

「真紅の悪魔、アギト・ジークムンド・オベリオン」

蒼銀の天使、フィン・ジークリンデ・ティタルニアの兄。

ガーランド帝国で出会った双子の悪魔の半身。天空の使者に人生の生きる希望を奪われ、世界中の人間を憎み、そして求めるものを最後まで手にすることができなかった哀れな男だ。大切な者を守る立場にも関わらず、自らの手で最愛の者を殺してしまった男が、クロノスの前に立っている。化け物としての姿をしている。

「お前の目的は天空の使者を殺すことだろう。こんなところで寄り道なんて俺たちになにか用か? 」

クロノスは興味のない態度で応えた。それが、アギトの顔に浮かんだ怒りをより強めた。感情に呼応して肉体が奇怪な変化をしている。

『用もなにも俺が探していたのは月の使者、お前のほうだ。天空の使者に打ちのめされ、異常魔力に侵蝕されるなか、目が覚めてみれば俺の身体は人の姿からかけ離れていた』

怒りを発しながらも、人間としての理性を失わずにいるアギトの声は戦慄さえ覚える。

『お前が現れたせいで俺は全てを失った』

「俺の責任にするのは勝手にすればいい。だが、お前自身の罪まで俺の責任にすることはやめてもらおうか」

呆れるクロノスはわかるようにため息を吐いた。

「フィンの命を奪ったのは、お前自身の心の弱さだ」

『クロノスがフィンを惑わさなければ、死ぬ必要はなかった』

「ふざけているとしか思えないな」

クロノスは頭を振る。

「フィンを一人の人間と認めていながら、たった一つの幸せを願うことがお前はできなかった。最初からお前の役目は彼女を救うことではなく、彼女の笑顔を守ることだった」

『黙れ!』

叫ぶアギトを見ながら、一瞬だけ彼女の姿に熱を思い出す自分の心を抑え込む。フィンの気持ちに対するクロノスの思いはいまでは曖昧なものになりつつあった。だが、彼女の心を知ることで、自分の闇を照らすことになったのは覆すことの出来ない事実でもある。孤独の世界で生きている自分には、眩しいぐらいの清浄な光に感じた。アギトの瞳は獣のように鋭く、盛り上がった筋肉は裂傷した部分から木の枝のように別の腕が生えている。口から溢れる牙は、冷徹さと残忍さをイメージさせるには十分だった。

狂気を宿す肉体は、別の生物としてアギト・ジークムンド・オベリオンという存在を喰った。

魔力汚染の脅威から逃れるためには強靭な意志が必要となる。彼女の支配下から逃れるために撥ね退ける意志の強さがあの姿に反映された。

そして飼い慣らすには尋常ではない精神力が必要になるだろう。

彼女の隣に居続けたクロノスだからそう思うだけなのかもしれない。その姿を見ただけで自意識を消失させる人間が多かったから、そういう考えになる。いまのアギトを見て思うことは重度の魔力汚染にさらされながらも生きているという事実と、フィンという自らの半身を殺してしまったという意識を埋めるために、耐え難い苦しみが見せた世界には、限界以上の精神力を要したはずだ。

その全てが、変わり果てた姿なのだろう。

アギトが体勢を低く構える。クロノスに向かって跳躍した。捨て身の特攻に脅威は感じない。だが、彼の体から禍々しい光が滲み出ていることに気付いた。それはオーラが具現化したものだった。意思のない抜け殻だ。空ろな瞳に吸い込まれるクロノスを嘲る彼に重なるように飛び出してきた。

「フィン……」

自分を庇い死んでいった双子の半身の最後の瞬間はまだ鮮明に焼きついている。役目を終えた命として見送られたはずなのに、アギトはそれを呼び戻した。

『創造魔術―幻影の虚人(フィン・ジークリンデ・ティルタニア)

アギトが告げた。

『お前と出会う前のフィンを生み出した。お前がどんなに強くても俺たちの連携を前に敵はない』

宣言とともに、二人が動いた。前後に連なるような動きから、一気に左右に分かれるとクロノスに向かって同質量の魔力を放った。多重結界を構築するも外面から少しずつ削られていった。

魔力性質はクロノスが知っていた頃と特異的な変化を見せていないので、双子が持つ共鳴感覚による性質変化として考えることにした。こちらの手の内を見てから出し手を変えてこられては対処のしようがない。

創造能力は厄介だ。アギトとフィンが手を握り合う。すると、魔力共有によって総量が何十倍にも膨れ上がる。的確に魔力層が薄い部分を狙ってくる。暴走魔力にセリュサは身動きがとれず、立っているのがやっとのようだった。そして巨大な一撃。結界を一気に貫いてクロノスの眼前で止まった。

魔力操作でかろうじて縛っているが、クロノスから余裕が失われた。

こうして守りに徹していればいずれ魔力汚染によってアギトの自我が喰われることになるだろう。目的を失い妄執に頼っている彼にかつての強さは残っていない。

双子の悪魔の連携力はクロノスも認めてもいい。最終防壁まで突破できる魔術師を二人以外知らないからだ。しかし、実力差までは覆せない。どんなに激しい攻撃を続けることができても、クロノスには届かない。

しばらくして、神経組織まで汚染されたのか、アギトは前のめりに倒れた。そこで能力が維持できなくなり幻は消滅した。二度目の別れだが、悲しい気持ちにはならなかった。

「それだけ意識が残っているなら、俺に構わず生きればいいだろ」

『それは生きる理由がある奴のセリフだ』

アギトは吐き捨てるように言った。見上げる瞳には憎悪の他に怨恨のような闇も混ざっていた。

『俺が生きる理由は失われた。最初は家族のために、次は友のために、次は国のために、最後はフィンのために戦っても結局は失敗する。俺が何度やり直してもその度に邪魔が入る。死の洗礼を受けることになる』

「それで本当にいいのですか!」

『もう遅い……天空の使者は、いやエイジアスは全てを終わらせるつもりだ』

アギトははっきりとその名を口にした。

「全てを終わらせるからといってそこで諦めていいというのですか。あなただって小さくてもこの世界を守るために戦ってきたはずです。何度も諦めずに戦ってきたのにどうしてこの場面で諦めてしまうのですか。フィンさんの最後の願いを忘れたとは言わせませんよ!」

恐れることなく、セリュサは寄り添って襟を掴み上げた。

『諦めなさい、太陽の使者。彼になにを言っても無駄です。天空の使者というよりも彼はエイジアスの影響を強く受けているみたいだから』

ディアソルテの手がセリュサを止めた。雲を割って神々しい光を放ちながら上空から降りてくる姿は、女神の名を体現している。

『お前が事象神、月の女神ディアソルテか。エイジアスがお前のことを気にしていたぞ。もっとも“その状態”ではない“本来の姿”をな』

『ちょっと聞き捨てならないセリフね。エイジアスになにを聞いたのか知らないけど、それ以上の言葉はやめてもらえないかしら? 』

ディアソルテの二本の杖が喉元に喰いついた。

『これは滑稽な話だ。最愛の主はなにも知らずにお前を従えていたというのか』

アギトの言うようにクロノスはその質問の意味がわからなかった。だが、ディアソルテがここまで取り乱す姿に言葉は頭から離れなかった。

『わたしの言葉が聞こえていないのは耳がないからよね。それともあなたの中にある邪な善意のせいかな。最低、最悪なエイジアスのことだから、わたしたちの気持ちを一生懸命考えて、吟味して入れ知恵したんだろうけど、あなたごときに邪魔されるのは心外だわ』

怒っている。この時、クロノスの奥底で沸々と滾っていたものが一気に爆発していく感覚が走った。それに追従する形で出てきたエイジアスという単語が火をつけたのは明らかだった。そこから導き出すことのできる可能性の一つとして頭の中に答えが浮かび上がってくる。

だが、ありえない。結論として、論理も、理論も破綻する答えにクロノスの思考は停止した。異世界法則の流れを持ってくるとしたら可能かもしれない非現実的な想像力が嫌になった。

エイジアスとディアソルテの関係性を除いたとしても、ことの注目すべきポイントは“あってはならない存在”が動いていることだ。

存在すら不明瞭で、ありえるなら傍観者でいるべき神の一人が敵にいる。次元が違う、この世界の生みの親、現存する生命体に平等なる生と死を与える使命を持つ一人と、戦うことを運命は望んでいる。

「ディアソルテ……お前」

感覚遮断。

クロノスにはそれ以上、彼女の気持ちがわからなくなった。

『わたしは月の女神ディアソルテ、主君の望みを叶えるためならこの命なんて安いものよ』

ディアソルテの答えは納得できるものではなかった。だが、クロノスはなにもいえなかった。問いただせば教えてくれたのかもしれないが、一歩踏み出すことに躊躇した。

そのことに彼女もなにもいわなかった。

いま目の前にある事実をどう料理するのか、そのことだけを考えているように思えた。

『それなら、見せてみろ。お前たちの力を』

アギトが不敵に笑った。戸惑うクロノスの背を押すように言っているようだった。それが返って不気味に映った。

「そろそろ黙れよ、お前……」

『黙らせるなら殺していけよ。お前たちはエイジアス殺される。天空の使者が死んでも、エイジアスがお前を許さない。そうさ、誰が生き残ってもこの世界はもう死ぬだけだ!』

天空の使者と聞いて、心を衝撃が打った。クロノスはそれを呑みこんで、ゆっくりと腕を動かした。

「俺はクリスタル王国の王族として生まれ、アルビノという異形の力も宿した。それによって存在を否定された。俺の人生はいままで挫折の繰り返しだ。生まれもった敗者として生きてきた。だが、お前を見ていて俺はいま確信した」

アギトの体を青い炎が包み込んだ。

「お前のような負け犬にはなりたくないらしい」

敗者として生きていたクロノスだったが、“生きる目的を諦めよう”という考えになったことはない。

そう思ったからこそ、いまのアギトの姿が印象を強めたのかもしれない。

アギトを生かすことを選んだことに後悔はしていない。

悩むことでもなかった。

フィンを失っても生きてほしいという願いがそうさせたのだ。

天空の使者を執拗に求めることがやめられなければそれでもいい、フィンの願いを聞いてほしかった。燃え上がる炎を背に歩き出す。背後からアギトの笑い声が聞こえてきたが、クロノスたちは誰一人振り返ることをしなかった。

跳躍。

アギトの声を聞こえないように、聴力の強化を止めた。前に進むために。だから、アギトの体が黒く変色した地面に沈んでいったことを知らない。

亡者の手が纏わりつくように全身に絡み付いていったことを知らない。アギトの大口を塞ぎ、なにも聞こえなくしたことを知らない。

誰かが開いた異次元空間に飲まれていったことを知らない。

アギトの姿が消え、再生が始まる。

後には緑豊かな大地と透きとおるような泉に映える優しい光を放つ太陽と月が、空に浮かんでいるのみとなった。


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