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月からの使者 創世編  作者: 朝太郎
14/24

神の雫

反射的に、三人は跳んだ。

クロノスはフィンが抱きかかえ、セリュサは大火口に火炎弾を撃ちこんだ。

驚愕に体内に残った魔力が一時的に力を与える。普段以上の威力に、魔力制御を止めた。

「くそ、こんなときに」

クロノスの小さな呟きは二人にも届いていた。魔力の残滓に引き寄せられ、群がってくる魔物たちはどれも異形化していた。

「ここはわたしが戦うからセリュサさんはクロノスをお願い」

迷いのない言葉はセリュサの意思を拒んだ。

「異形化した上に、二人の残留魔力を吸収して魔術耐性が強化されているのか。そういえば、ここが魔窟の中心だったの忘れていた」

『忘れているなら手伝いは不要かしら? 』

うっすらと人形に光が集まる。

『手負いが二人。その内一人は魔力枯渇で瀕死の重篤状態。あなたはそれだけ魔術を撃てれば問題ないけど、無理はダメよ。わたしの主は人間に戻って、動けない。そこの子も動いてはダメよ。それ以上、無理すればどうなるか自分が一番理解しているでしょ? 』

美しい魔人の登場に魔物たちは動きを止めた。

「『月の女神(ディアソルテ)』どうして出てきた」

『さて、そんなことを言われる筋合いはない。別にわたし自身の魔力を消費しているから負担かけてないからいいでしょ』

疑問だけが、クロノスにはあった。

「そうじゃなくて、どうして“そんな表情”しているのか教えろ」

『あなたが死にそうだから』

「俺とお前は一心同体。どんな言葉を発してもお前の内面が俺にはわかる。深層意識の根源にあるものは悲しみだろ」

彼女はクロノスの中にいる。本来の肉体は過去に超古代の負の遺産に封じ込められた際に失い、いまの肉体の構成は生前の魔力が形作る。必要な時に顕現する彼女とクロノスの精神は常に繋がっている。それは共に生きることを誓い合った日から心を許していた確かな証のように思える。

『人の気持ちを暴露するなんて性根が腐っていんじゃないの? 』

「だとしたら、お前は俺を嫌うか? 」

周りの重力を操作して魔物たちを押し潰しながら、彼女はため息を零した。

『わかっていて聞いてくるからやっぱり腐っているのかもね』

「違いない。とにかく出てきてくれたことには感謝する。お前の診断通り、俺たちは身動きがとれない。安全な場所まで運んでくれ」

変わらないと思っていたからこそ、彼女のことを甘く見ていた。クロノアの復活。レンの裏切り。マリアの拉致。アヴェロスの死。アギトの願い。フィンの気持ち。セリュサの心。ここにきてクロノスの中には多くのものが流れ込み、状況を複雑に悪化させ、自分らしくない行動をしてきたように思う。

ディアソルテという存在はクロノスと長い時間を過ごしてきた。

ただ、一緒にいたにしては過ごしてきた時間の濃密さはクロノアよりも深いものになる。彼女の表情が、精神が訴えかける根本にあるものは一つだけだ。

それをクロノスは最後まで理解することができなかった。おそらくそれが彼の求めていた真実に近い答えかもしれない。

全てを知ることが出来る唯一の答えはここでは語られないで終わった。

この選択に意味はない。

この後の物語は最初から決まっていたのだから。





一変した大陸は戦場と化した。いや、大陸なんて規模ではない。世界そのものが戦場となった。世界中が、異次元空間から解放された異常魔力によって汚染された異形者に成り代わった。これに対して世界中のギルドが総力を結集した連合部隊が鎮圧に当たっている。

二つが衝突することは自然なことだが、連合部隊のほうが劣勢に立たされている。異形者の大半は元人間だ。彼らにはなんの罪もない。その事実が隊員たちの心を揺さぶり、攻撃力を削いでいる。

もしかしたら家族や恋人がいるかもしれない……人間としてかけ離れた存在になってしまっても受け入れることが出来ない彼らの決定力はない。だが、異形者たちはそんな感情を理解できない。

魔力という未知の力が肉体と精神を強制的に作り変える。暴走状態に堕ちればあとはどこまでも化け物としての進化を続けるしかない。屈強な連携の壁を突き破り、必要な栄養を食事で補う。敵味方の区別なく、本能が狙う相手に襲いかかる。

それがまるで、人間そのものの本当の姿であるといわんばかりに、この短時間で生まれ変わった新人類の勢いは止まることを知らない。

その様相を、クロノスたちは空から眺めていた。

ディアソルテの力で閃光となって空を走る。

『細胞レベルからの変質が止まらない。感応する個体は全て変化している。わたしが見ても“純粋なる人間”は魔術師たちを残していない。一般人は全員汚染されている』

「カリンの時と同じように魔力暴走してくれればいいのに、な」

怪鳥の群れに飲み込まれるも、ディアソルテは守護結界で領域を形成して防いだ。接触箇所から魔力を吸収し強度と移動速度を上げていく。悲鳴と絶叫だけが世界に木霊している。足下には暴走した異形者と連合部隊しかいない。他の場所でもギルドマスターを基準とした戦火が始まっていた。

魔力に敏感に反応して手当たり次第に襲いかかる暴走した異形者たちは、ただ一点を見つめて前に進んでいる。まさしく、化け物だ。体表に付着した返り血が皮膚を通して体内に吸収されることから始まり、粉々になった死骸をむさぼり、引き千切る臓物に群がる様子は不快感しか抱かせない。

人間としての本質は汚染されても行動として表れる。もしもこれらのことが汚染されたことでよりひどくなったのならどうすることもできないと思ってしまう。

『そろそろわたしの顕現時間もなくなってきた。近くにある孤島に移動するから、あとは自分たちでなんとかしてね』

ディアソルテがそんなことを言っている横で、クロノスはフィンが手を握り続けてくれていることに意識が向いていた。魔物の気配はすでに自分たちから外れている。異常魔力を自己進化のエネルギーに変え、力として振り回している残りの剣姫たちが戦っている影響なのかもしれない。

このときには異形者の体に物理攻撃は通用しなくなっていた。魔力を込めた一振りの破壊力でも高密度の魔力に強化された肉体によって弾かれ、損傷した場合は手近の肉が傷を癒してくれる。どこにでも餌があるから、自身を守ることをしない。殺されることに恐怖しない。すでにそんなもの忘れてしまっている。孤島の中心に降りると重力波で木々を薙ぎ倒して視界を確保する。海に囲まれた島の向こう側は朝方にも関わらず、夜のように暗かった。

離れていても耳に届いてくるほどの声を恐いと思ったのは初めてだ。この島には魔物がいないらしく静かなものだった。注意するなら怪鳥だが、気配も姿も見当たらない。世界と切り離されているのかもしれない。

「守護結界のおかげで当分はなんとかなりそうだ」

「それでこれからどうするの? 」

安心して座り込む、セリュサにクロノスも腰を下ろした。彼女の思想が五年前よりも現実的のものになってきている。クロノスには力がある。だが、その力を使うことを快く思えない。

こんな状況だからこそ、自ら率先すべきことなのに、恐怖と競って負けてしまう。やるせない思いが繋いだ手から力を奪う。小さな変化に気付いたフィンは顔を上げ、叫んだ。

「伏せて!」

押し倒されたクロノスの瞳にはフィンが映りこんでいる。その近くでセリュサが気付き警戒心を高めていった。突風の中になにかがいる。信じられない速度で動く敵からは憎悪を向けてきた。

「太陽魔術――太陽と地の噴炎(ボルガドン)

「くそ、早くて動きが追えない」

「わたしがなんとかします、創造魔術――異次元の闇鎖(ダルガビッチ)

空間から無数の鎖が突風に絡まる。しかし、なにもいなかった。

『嫌な気配……汚染者のようね』

「安心したところでこれかよ。仕方がない、ディアソルテは結界の維持をできるだけ、セリュサは攻撃に、フィンは守りに専念してくれ」

時間のない状況に妙に焦ってしまう。急いで脱出する、そのことだけを考えた。

「とにかく、奴を倒すぞ」

『いまのお前にそれは無理だ』

「その声……」

クロノスは空から降ってきた黒い塊に対して驚愕した。

『目が覚めたらこの姿だ。空を見上げれば異次元空間に亀裂が生じていた。お前たちがここにいるということは天空の使者が出てきたか』

名付けるなら黒鎧。全身を包み込む鎧から出てきた顔は場に衝撃を与えるには十分だった。

「アギト……お前どうして自我を」

それはクロノスの本心からの言葉だ。

『俺は真紅の悪魔。これくらいの魔力に呑まれる俺ではない』

セリュサは息を呑みながらも動きを逃さないように集中している。フィンはアギトの登場に茫然と見上げている。双子としての生き様がここにきて逆転する形になったのは、手段を選ばなくなったアギトがいけないのか、止めることをしなかったフィンが悪いのかわからない。

その二人から始まった物語は、おそらくすでに天空の使者が復活した時点で完結している。長かった逃走劇はだれにも知られることなく静かに幕を下ろした。

生きることだけに必死だった。生まれた頃から裕福だったクロノスと比べたら双子が飛び出した世界は、多くの人格者たちと出会うだけで一部の例外に出会うことはなかった。遅かった出会いほど、時間を無駄と後悔してしまう。命を狙われたことも過去の記憶として忘れ去られていくだろう。

歴史のこぼれ話として双子の存在がどういう解釈で伝えられるのかどうか、表現されるのかどうか、存在を残されるのかも危うい。異常な兄と普通の妹。自我があったとしても、それを許容できるほどの器が残されていない。

敵対した瞬間から、こうなることは決まっていた運命の流れに乗せられたとしたら嫌なものだ。こうして再会することが心に与える影響は大きい。だから、どうしても回避したいと願うことが出来てしまうのが不思議なものだ。

いまだに信じられない彼女の兄がどういう気持ちでいるのか、洗脳されているなら救えると思う。

「なにが目的だ」

それもまた数ある可能性の中の一つかもしれないが、ここでアギトが攻撃を始めたら全滅するのは火を見るより明らかだ。戦力の著しい低下が、いま眼前にいる不完全な状態の彼にも劣るものにしている。アギトは言った。

『クロノス・ルナリアお前の命だ』

射殺す視線にクロノスの体が激しく震えだした。

「やめて、クロノスには手を出さないで!」

『それは無理な相談だ。この身体になってから俺はたった二つの欲求に支配されている。生物を殺し尽くす殺戮と生物を喰い、自らの肉体を強化する進化。お前を殺して喰えばそれだけで俺は天空の使者を殺す力を得ることができるわけだ』

フィンが鎖を放ち、拘束する。だが、アギトの膨張した筋肉が壊した。小枝を折るように鎖は簡単に切られていく。

「……残念ながら、いまの俺に力はないぞ」

『お前忘れてないか? 』

フィンに暴風を叩き込み、苦しむクロノスに歩み寄る。躊躇なく妹に手を上げたところで本当に変わってしまったことを実感した。

『俺たちは自分で思い描いたことを実現することができる力の持ち主だということを』

「ああ、忘れていたかったよ」

物質創造能力とは違う、事象干渉能力。

『俺がお前の身体に触れて望めばそれだけで呪印の効果は消える』

手をかざすと上半身の衣服が破ける。アギトが魔力を当てるとクロノスの胸の中心に模様が浮かび上がった。

『今度こそお前を殺せそうだ』

だが、悪魔の手を炎が遮る。

「そんなことわたしがさせない」

『お前程度の魔術師が悪魔の前立ったところで無意味なことだとわからないのか? 』

炎剣を握り締め構えるセリュサにクロノスは逃げるように叫んだ。

「それでもわたしがみんなを守る!」

『死ね』

言葉の意味は結果を表す。クロノスが見る前、セリュサの体は空を舞った。頭上を鮮血の飛沫を上げて四方八方に、まるで花吹雪のように広がっては虚空から現れる巨大な剣に弾かれた。その光景に心が叫んだ。

『女に手を上げるなんて最低よ』

『俺の行動がとめられないのはわかっているだろう?  止めたければ殺せ。それができないなら、大人しく殺されて俺の血肉になるんだな』

セリュサを受け止めるディアソルテを見て、アギトは口元を吊り上げた。

『最低……』

『俺はアイツを殺せるなら死神にも魂を売る』

超速と光速がぶつかり合う衝撃は、孤島の外にまで流れていた。いままで感じとれなかった魔物の気配がこちらに向いた。

『急がないと魔物がくるぜ』

『それが狙いね……』

『この肉体になってわかったことだが、俺たちは高濃度の魔力体に惹かれるようだ。魔力とは魔力総量の多い体のこと、向こうで戦っているギルドの奴らは弱いからこっちにきたんだろ。お前自身が魔力で出来ているからお前が犠牲になれば少なくとも半刻は助かるかも、な』

そう、魔物を倒しても魔力を狙うなら戦いは避けられない。とりあえずの危険だけを回避しても、その次に、その次に、と繰り返されては元も子もない。だからといって犠牲になるわけにもいかない。自分たちが有利になることはない。それに、

『体から力が……』

ディアソルテが淡く光り始めた。その瞬間にアギトが間合いを詰めてきた。その瞳はクロノスに視線を注いでいる。

『しまっ――』

咄嗟に腕を伸ばした。だが、腕は粒子となって消滅した。痛みはない。時間がきたのだ。侵蝕するように体が消えていった。守護結界に回している魔力を戻しても身動きがとれない。ディアソルテは見ることしかできなかった。

『クロノスっ!』

声が届かない。アギトの腕がクロノスの胸に伸びた。この場面で限界だった体を魔縛りが容赦なく縛り付ける。

それは、走馬灯のようにゆっくりと穏やかに訪れた。

アギトの腕が体を貫いた。

冷ややかな感触を血の温もりが塗りつぶす。

乾燥した瞳が急速に潤う。

開かれていく口から零れる息は弱々しく吐き出された。

クロノスの胸を染める血は、熱を帯びても言葉にする前にどこかに消えた。



フィンが、クロノスの前に立っていた。



その手は、両手でしっかりとアギトの腕を掴んでいる。外そうとしても握り締めるフィンの表情には燃える炎のように激しい思いが宿されていた。

フィンの体がクロノスの瞳に収まる。

『まさか、そこまで好いているとは思わなかった』

口にしても表情は氷のように無表情だ。

「うそだろ……」

クロノスはそう零す。理解できない状況を、フィンの姿から目がはなせない。

『なあ、フィン。お前はどうしてそうなっちまったんだよ』

そう呟くと、アギトは空いた手で、フィンを突き飛ばした。小さな体が重くのしかかる。濡れる手はどこまでも赤く広がった。

「アギトにはわからない」

フィンの声に苦しげなものはどこにもなかった。いや、胸から血は溢れている。血の気のない顔は青白くなり、潰された内臓が穴から見えている。強がりなら相当な演技派だ。彼女は後悔することなく嬉しそうに笑っていた。

「フィン……」

「人であることを捨てたあなたにはわたしの気持ちを理解できない」

フィンが悲しげに兄を見上げた。それを見てアギトの顔が固く強張り、クロノスにもわかるように怒りを見せた。

もしかしたら、アギトの中にあるフィンへの思いは純粋な思いから生まれたのではなく、どこか使命的な部分から出てきたのではないか、そう思わせるものがそこにある。

「ディアソルテェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェっ!!」

叫んでも彼女はもういない。

『馬鹿な奴だ』

アギトの前でフィンが起き上がり、クロノスに微笑んだ。

「わたしはいままで人の形をした異形者。異人。悪魔。人々から呼称されるそれをそのまま自分の姿と思って生きてきました」

クロノスは首を振った。

「だからって、お前がそんな目に合う必要なんてないじゃないか。フィンは立派な人間だろ?  違うのかよ」

力があるから人間じゃないというのは周りの人間たちの勝手な言い分だ。自分にないものをねだるように溜まりこんだ不満の爆発が、無意識下の言葉となる。

その感覚を不平等だと思わなかったことはない。人間としての幸せ。それをどうして自分たちは手に出来ないのだろうか。

「少なくともわたしはそう思っていたかった。だけど、アギトはそう思わなかったようです。わたし以上に心に闇を宿していたのでしょう」

「違う。闇だの光だの人間はそんなことで決まったりはしない!」

「いいえ、人間は心です。そう、心に闇と光を持つ不安定な生き物です。この二つは常に同じでなくてはいけない。どちらかが強くても自身に悪影響を与えてしまう。周囲に悪影響を与えてしまう。人はそういう生き物ですよ」

そこで、一度だけ笑みが消えた。

「わたしはこんな世界が嫌いだった」

初めて出会った日のようなフィンの表情は、すぐに笑顔になった。

「だけど、ある日わたしの前に一人の男の子が現れました。びっくりしましたよ。生まれてこの方、アギト以外の人に助けてもらったことがありませんでしたから。それにわたしのことを知って隣にいてくれる人もいなかった」

「やめろ、それ以上喋るな……」

手で押えても止まらない血の流れ。無力な自分が水溜りに映し出される。

「いままで消化するだけの日々に鮮やかな色合いが足されてから、わたしの日々は特別なものになった。もちろん、そこにはクロノスがいたからだといまなら思える」

一人で生きてきたことに恐怖したことはなくても退屈であったのは否めない。ずっと憧れていた。人と話すこと。人と触れ合うこと。アギトが連れてきた時に、フィンの心はすでにクロノスの正体を見抜いていた。同じ境遇だと確信していた。だから、フィンはクロノスに心を許すことができた。

「わたしがこの世界を好きになれたのはクロノスのおかげだよ」

呼吸が荒くなる。フィンの顔が近づいてきた。じっとクロノスの崩れている表情を見ては面白そうに笑ってくる。

「わたしが人として生きた時間は長かったけど、人でいられた時間はとても短かった。でも、その間に経験した時間はとても意味のあるものだと思う。わたしは最後に人並みの幸せを手に入れることができたから嬉しかった」

アギトには到底手に入れることの出来ないものを、それが怒りの表れか。フィンの手がクロノスの頬に触れた。美しい瞳は、輝きに満ち溢れていた。クロノスを映しては雫のように零れた。

「わたしはもう、一緒にいることはできないけど、この先なにがあってもクロノスは大丈夫だと思うよ。だって、わたしはクロノスが強いことを知っているから……」

そっと触れる手から温かいものが流れ込んでくる。全身が包まれた頃には力が漲ってきた。朝方を迎えたというのに、体中を駆け抜けるこの感覚。力強い鼓動は制限のない彼自身の本当の姿を意味していた。それが彼女の最後の願い。そっと離れる温もりはすぐに冷たいものとなった。フィンは涙の雨を零しながら、精一杯の笑みを浮かべてクロノスを見つめた。それにクロノスは応えられたのか。なにがいえたのか。

「わたしはクロノス・ルナリアが大好きだよ」

瞬間、クロノスの全身が光に包まれた。

その激しさは孤島を目指してきていた魔物たちの軍勢を一気に再起不能にした。

それは最後の使者がこの世に戻ってきた現れであり、腕の中で眠る少女への返事だったのかもしれない。

クロノスは強く抱きしめることしかできない。

零れ落ちる涙が波紋を広げた。

フィン・ジークリンデ・ティルタニアは、月の使者の腕の中で静かに息を引き取った。





朝方だというのに灰色の波に飲み込まれるように空模様は濁りを見せていった。

夜のように薄暗いなかでも、太陽は自らの存在を証明するように空の一部を明るく照らしている。

だが、世界を覆い尽くす彼女の力からすれば、たかが一部である。惑星そのものを支配下に置いているのだ。そして世界中で起きている混乱を引き起こしているのも彼女だった。

致命的な問題として、人類が不利な立場にあるということだ。それぞれの国がそれぞれの戦力を結束して、迫り来る異形者や魔物たちと混戦している現在、国の上層部は世界の行く末に祈りを捧げていた。

狂気に狩られて自ら命を絶つ者や無理心中を行うために剣を握り締め暴れだす者もいる。少しずつ日常が狂いだしていく。それが五年前の続き。天空の使者の望みだ。

だからこそ、クロノアはどんなことでも情を捨てて行なうことができる。異次元空間から出てきたことを知らしめるために絶望と恐怖の風を巻き起こして自らの思いを伝える。

ありがとう。

さようなら。

一五年分の思いはその二言だった。

その前にも多くの言葉が彼女の中には上がっていたが、これ以上に相応しいと思わなかった。こんな世界に情けはいらない。

クリスタル王国の滅亡から五年前、クロノスを始めとした世界中のギルドメンバーたちが戦った日の記憶も、今日で終わりを告げるときがやってきた。長かった。自分の速度で世界が動かないのは退屈で仕方なかった。

だからこそ、クロノアはこの瞬間に予期せぬ流れが起きたのかについて、自分の感情を処理することができなかった。

「これってどう思う? 」

水鏡に映る下界の光景に、レンに話しかける。

「どうって言われても、人の告白の現場を覗き見するのはよくないと思うぞ。いくら、身内だからってバレたら怒られるに決まっている」

地上より遥か天空を漂う城。目的地までの散歩用にクロノアが用意した空中要塞は雲を砕いて進み続ける。悠長な時間を満喫できるこの場所とは違い、地上には死が満ちていた。

「それもあるけど……いまは置いときなさい。それよりも、わたしの足下のガラクタ」

「お前の実力の1%にも満たないのは、アヴェロスが体内で構築した術式で能力を制限しているからだろ。その枷さえ取っ払えば3%にはなるんじゃないのか? 」

「本当につまらない欠陥品を作ってくれたこと」

「復讐は果たしたからいいじゃないか。ま、それも自分のためというよりもクロノスのためっていうのがお前らしいな。俺も気にいらなかったからちょうどよかったさ」

「珍しいわね。あなたに嫌いな人がいるなんて」

水鏡の映像を切り、クロノアは前を見た。そこでレンは黒海を前に腕を上げた。

「俺だって人間だ。全てを平等に思えるほど、完璧じゃない」

「わたしは完璧でもいるけどね」

「俺お前のそういうところが嫌いだ」

「褒め言葉として受け取っておくよ」

レンが腕を振ると、黒海から巨大な魚が操られるように飛び上がった。暇つぶしの余興にクロノアは目もくれず、腰掛けると亡国の方角を見つめた。

クロノアたちが去ってから、クリスタル王国跡地で最後の使者が目覚めた。戒めとしてクロノスに施した呪印が破壊され、本来の姿を取り戻した。

だが、別段それ自体はさほどクロノアにしては問題にしていない。いつかは“壊れる”ように組み込んでいたから逆によかったと思っている。

特に、いまの世界で人間の姿で生き残ることは不可能に近い。月の加護で守られていても、侵蝕性の高い魔力は確実に命を喰い破る。

(あーあ、それにしても余計なことをしてくれた……)

嬉しい半分、苛立ち半分超、弟の腕の中で眠る彼女に対しての気持ちだ。ガーランド帝国の双子の半身のことは知っていたが、まさか“助けた”ことになっているとは驚きだ。見覚えのない顔が記憶に刻まれた頃には、彼女への興味も消えていった。死人を覚えておく価値などない。

『さてと、時間がないからとっとと済ませようかな』

笑いをひそめた声に、レンが手を止めた。気が付くと、クロノアとレンの間に全身白色の影が立っていた。絵に描いた人形をそのまま切り取ったような形がそこにあり、それがレンの背筋に冷たい痺れを走らせた。気配だけ、だが、危険なものだ。

クロノアに抱いていたものとは根本的に違う。いままで味わったことのない感覚にレンは一瞬たじろぐ。

「天地創造。創造主(エイジアス)がこの世界を生み出す時になにを思って造ったのかわたしは結局理解できなかったな」

足を伸ばして後ろに倒れ込む、クロノアは二つの光を見つめた。隣で覗き込むそれを無視して風を感じているといたたまれなくなったレンが呟いた。

「理解する必要なんてあるのか? 」

自然、体を起こした。

「もしかしたら、俺たちが生まれた頃にあった世界はもしかしたらその瞬間に生まれていたのかもしれないだろ。仮想。空想。幻想。夢想。人間は生まれる瞬間に、自分が生きたい世界そのものを創造した。そう考えると面白いと思わないか? 」

「面白いけど、証明することができなきゃダメよね」

クロノアは困っていた。自分の頭を小突いて軽く舌を出したまま、転がっている人形に近づく。ここにいるのは二体、残りはまだ下界で戦っているのだろう。外傷は術式で自動修復されたので手間がかからなくて済んだ。閉じていた目を開けて立ち上がることができれば、機能面も問題ないといえるだろう。

たとえ、クロノアたちに危害を加えようとしていても、冷静に考えれば驚くことでもない。

彼女たちは元を辿ればクロノア自身であり、彼女の異質な魔力を取り込んで力に変える。近くにいればそれだけで能力が勝手に体を動かしてくれる。

ただ、人形として思考力のない人形たちができることはなにもなかった。

「おっと、わたしたちの魔力で自己回復したのかな?  そこまで能力があったなんてわたしはとても驚いてみようかな」

その時にはすでにカリンのほうが、クロノアに向かっていた。

「ふざけている暇があったらなんとかしろ」

後ろに下がって生えている植物を摘んで、成長を促進させた蔦で手足を引っ掛けて転ばすと圧縮した風で押し潰した。もう一人の美少女は身動きせずに、無表情のままその光景を眺めていた。

「少しこの子たちをいじるから支配よろしく」

「結局、俺かよ」

唇に指を当てて、レンに向かって微笑んだ。言葉とは裏腹にポケットの中からオカリナを取り出すと、息を吹き込む。耳を突くような音は一瞬。それから流れる音は春の暖かさを思わせた。刹那の間にカリンの瞳から闘争心が失われ、ネリスもその場で眠り始めた。

「音魔術――音と太陽の魔笛(マージナルコレクト)

無限に続く音の迷宮は、さしずめ永遠の子守唄。

「レンは遊びが過ぎるから性格悪いって言われるのよ。あと捻くれているってね」

「そのことに関しては二つほど文句をいわせろ。一つ、俺を性格悪いっていうのはお前だけだ。二つ、捻くれているっていうのもお前だけだ」

「そうだったっけ?  異次元空間に長い間いたからど忘れしちゃった」

「一番ありえないことを真顔で言っちゃうところとかお前らしいといったら、お前らしいけど似合わないからやめろ。それと『音と太陽の魔笛(マージナルコレクト)』の支配時間に限りはないから、解除したかったらお前自身で勝手に解いてくれ」

「あなたの魔術って解析難しいから嫌よ」

「世界最強が駄々を捏ねるな」

「はいはーい。いいわよ、勝手にやるから」

演奏を続けるレンの態度に、カリンとネリスを抱きかかえるクロノアはぶっきらぼうに答えた。そこで思い出したように言ってみた。

「ねえ、レンはこの世界が好き? 」

「さあな、そんなこと考えたこともない」

「まあいいけど、もしも好きだったらいまのうちに見納めしておいてもらわないと困るから。あとで元に戻してっていっても戻してあげないから」

「お前は神になったのかよ」

呆れ顔のレンにクロノアは手を振った。

「まさか、時を戻すなんてそんなことできないに決まっているじゃない。全知全能でもそれだけは、因果律に干渉しても不可能。時間退行をしたところで同じ世界を辿るだけで未来は変わらない」

誰にも未来は変えられない。少なくとも“あいつ”はそう思っているはずだ。

「この景色に辿り着くのに五年間も自由な時間を与えてあげたのにこの世界は本当にダメよね。わたしの優しさってなんだったのかしら? 」

「無駄ってことだろ」

でも、もしも変えることができるなら、クロノア自身は不可能だとわかっていても、レンがいてくれるならできることがあるかもしれない。確定した運命に逆らうことになったとしても、クロノアには成し遂げなければならないことがある。

「そろそろ、行くぞ。途中で人形の回収もやらなきゃいけないしな」

「そうね、行きましょうか」

たった一つの希望を胸に少女は、最後の戦いに駒を動かす。たった一人のかけがえのない大切な者のためにも。





空間の亀裂は、その地割れのような形を維持することなく、渓谷のように崩れては地上に異常魔力の結晶を落としていった。

それは氷山の一角でしかないにしても、小さな町一つを呑みこむほどに巨大で、同時に恐ろしさの中に美しさがあるように見えた。

腕の中では、まだフィンが眠っている。クロノスはその空の光景を、世界崩壊が進行する過程をおぼろげに孤島の中心から見上げていた。

戦闘の余韻を感じさせないほどの破壊の雨が広がっている。止まった針が動いたように止まない雨の影響がクロノスの体を避けて吹き抜けていく。ここにこないことを幸運に思った。いまのクロノスなら傷一つ、汚れ一つ、つけずにこの脅威から脱がれることは可能だが、ここにきたならクロノスは彼女を一時でも手放すことになるだろう。

隣にはセリュサがいる。アギトから受けた傷はクロノスから漏れている魔力が治療した。さらに、深く浸透する月の魔力の影響で倒れる前よりも能力も上がった。

セリュサは泣いていた。顔を覆うことなく彼の腕に抱かれている小さな少女を見て大粒の涙を零していた。自分のパートナーを救ってくれたフィンがいる。好きな人を守るために死んだ少女がそこにいる。

一瞬だけ、クロノスと視線が合った時、彼女の瞳は悲しみに染まっていた。

深層意識に刻まれていた罪悪感。それだけでクロノスは理解した。でも、いまさらどうにもできなかった。彼女はもうこの世にいないのだから。破壊の音だけが木霊する。

クロノスの耳に世界の声が聞こえる。月の使者として、この場所にいても世界がどういう状況にあるのかが手に取るようにわかる。クロノアたちの居場所も掴んだ。

そして、非日常に戸惑う人々の叫び。

残された者たちの苦悩と怨念が形作った死体。異常な世界を徘徊する異形者たちは餌を求めて声を上げる。この光景が夢のように思えた。このまま破壊が続けばクロノアの望みが達成されるだろう。それからどうやって世界を再生するのかはわからないが、きっと完璧にやり遂げるに決まっている。

それは彼女だからと思う部分がある。未来を生きる姿を想像できなかった自分としては、彼女の姿だけが未来へ続く光景へと繋がっていた。

あの魔力は生命を創り出し、命を繋ぐことができる。

こうして世界を包み込み、満ち溢れた瞬間にすべてが終わる。

クロノスはその時、どうしているのだろう。なにを思っているのだろう。戦うのか? 否、道は決まっている。

「少しは信じてもらえたのですか? 」

目の前に真剣な表情のアルルが現れた。赤髪を揺らし、塗り替えられる世界の境界線の向こうに立っている。

「全ての駒は盤上に揃いました。もはや、この流れを止めることは不可能です。あなたがここで変わらなければ終わってしまいます」

「変わったところで世界は終わる」

重さのない腕を下げて、クロノスは言った。

「クロノアとレンに勝てるわけがない」

「正面から本気でぶつかったことがないのに、よくそんなことが言えますね」

アルルは動揺もなく、笑うこともなく、ただ淡々と言葉を繰り返す。その背後では十の影たちがクロノスを見つめていた。輪郭だけでも彼らがアルルと同じ気持ちだというのが気迫で伝わってきた。それと一緒に悲しみもまた伝わってくる。様々な思いを感じる。その中の一つが一歩前に踏み出したところで霧が晴れるように流れた。一人が駆け出してくる。でも、その前に姿は消えた。

「変わりなさい、クロノス・ルナリア。あなたがこの世界を救うのです」

声が届いた時には、アルルの姿はすでになかった。

「俺にこの世界は救えないよ、アルル」

そう、呟く。心を強く衝撃が打った。

一瞬だけのいままで感じたことのない痛みだ。

声を殺して泣きじゃくる姿をセリュサはどう思っただろうか。それが、なんなのか、彼女は最後まで言わなかった。腕の中で淡く光りだす少女に向かって、クロノスは小声で彼女だけに呟いた。

綺麗な顔は童話の中のお姫様のようだった。

血に濡れて乾いた手を握り締めると、そっと彼女は空に昇って逝った。耳に触れて魔力を流す。彼女はすぐに現れた。

『まさか、呼び出してくれるとは思わなかったわ』

神々しい光を放つディアソルテは、愛しい恋人の頬を撫でた。指先を濡らす彼の心が、彼女の心にも深く伝わってくる。

「参加者の少ない祭だ。お前が参加すれば少しは賑やかになるだろ」

根拠はなにもない。ただ、クロノアたちの脅威から逃れるためには、それなりの実力者がいたほうがいいと思っただけだ。

「行くぞ、太陽の使者」

セリュサにそう話しかける。潜在能力の変化にセリュサは、身軽に飛び跳ねた。

「ええ、月の使者」

セリュサが落ち着いた声でそう呟いた。それは、死地に赴く彼女なりの覚悟の言葉だったのかもしれない。命を無下に投げ出すことなら、クロノスは名を言わなかった。

おそらくは彼女も自分と同じ気持ちだと思ったから言った。ここにきて芽生える気持ちは行動する以上の意味合いをクロノスに与えた。

(クロノスはこの世界が好き? )

耳を澄ませば彼女の声が聞こえてくる。クロノスの知らない世界に旅立った彼女はいまどうしてるだろうか。

(わたしはクロノス・ルナリアが大好きだよ)

クロノスの胸に残る言葉。いずれ言われると分かっていたのだから、そこまで深く考えてはいないはずなのに、言われてみると違うものが出てくる。

フィンは最後に幸せを手にすることができたといっていた。血に汚れた人生の中で見つけたことが、クロノスのおかげだという意味に小さくも救われたのは確かだ。それが、きっかけだ。

(俺は……)

心の中で復唱すると空高く、クロノスは跳んだ。マリアを助けるために。二人に会うために。

数ある多くの未来の一つを生きるなら、少しだけ生きてみたいと思ったことは彼女だけが知っていればいい。

いまは前に進むだけだ。


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