紅蓮地獄
朱の雫が大地に染み渡る。
異常魔力による国内の乱れはある時を境に、外側へと流れていった。
クリスタル王国領内の動きは濃密な魔力に死肉が寄り集まり、合体した魔物が暴れまわっている。
異形……合成魔獣と化したことにより、魔物たちから死が取り除かれた。肉を引き裂き、咀嚼する獣たちの食欲が満たされることはなくない。腐敗臭と酸化鉄が混ざった悪臭に激しい吐き気に襲われ、壮絶な殺し合いに狂気に犯され、混沌と化す処刑場は激しさを増していく。
だが、もはやその異常な光景こそ、この世界の真の姿だと感じてしまう。
剣姫たちの姿は、処刑場の中で見つかった。アヴェロスに言われたことを忠実に実行している。汚染された者は助けることが出来ない。だから、残さずに処分する。クロノスの前では『自動魔力吸収術式』を発動しなかったから低能力だと思われていたが、異常魔力が満ちているこの場所では剣姫たちはまさにオリジナルに近い猛者と化している。
「「生物としての器は崩壊しても外見レベルは生物を維持しようとするのか。魔力を持たない生物までも異常魔力によって魔力を保有しているのは、魔力汚染の影響というよりも覚醒。クロノアの魔力に感化された結果なのかもしれない。そうすると、異常魔力の供給源さえ、絶つことができれば精神汚染レベルが低下することもありえるのか……」
アヴェロスは眼前の光景から自分なりの考えの可能性について、推測を重ねていく。そこに人造兵器の働きを加えた上で、今回の問題点へと移行する。
「だとしたら、無差別に殲滅するよりも柱を討ったほうが効率的……だが、こいつらの動きは自然体ではなく、操作されているのも想定しておいたほうがいいか。天空の使者だけなら超広域範囲攻撃に注意していればよかったが、敵に音の使者がいるなら汚染者を洗脳して持久戦に持ち込んでくる可能性がある。剣姫……『闇姫』とわたしであの二人に向かうとして残り三体を汚染者に当てるとしよう」
洗脳。それは音魔術の特性でありながら、音の使者レン・リッジモンドが得意とする魔術である。
三大王国として有名なシェリフ王国はクリスタル王国やダースレーブ王国と違い魔術師の育成に力を注いでいなかった。国民を中心にした政治は平等な地位を与え、戦闘する機会も少なかったことが理由だろう。
武力は王の一族と一部の志願した者だけが学ぶシステムだ。だが、永遠に平穏を望むには時代は変わりすぎた。貴族による三大王国を転覆させる事件がシェリフの歴史に終止符を打った。
貴族たちは戦力不足であるシェリフに多くの戦力を投入し、逃げ惑う人々に剣を向けた。
そして戦場と化したシェリフは炎に包まれた。
アヴェロスが救援要請を受けたのは四日後。それから現場に着くのに二日かかった。その時のアヴェロスは絶望した気持ちで、戦火の中に飛び込んでいった。
だが、目の前に飛び込んできたのはたった一人の少年の演奏。美しい歌声を響かせるのが、後の音の使者レン・リッジモンド、正統王位継承権を持つ世代の王の戦う姿だった。誰一人傷つけることなく、終戦は訪れた。
戦果は世界中に広まり彼女の耳にも届いた。
興味を持った彼女はシェリフを訪れ彼を指名し、誰もいない荒野で両国王立会いの下、三日三晩戦いを行った。天空の使者と音の使者の最初の戦いは決着がつかない形で幕を閉じた。化け物と肩を並べる人間をアヴェロスは異端に思った。天空の使者を剛とするなら、音の使者は柔の力、圧倒的な魔術同士のぶつかり合いの衝撃は想像を絶する。
(今度こそ、わたしの理想を形にしてみせる)
氷水の反乱で家族を失った悲しみから独断で行動し続け、彼女たちが生まれた。その試みを不満な結果で終わらせたくないためにも、諦めるわけにはいかない。
「ネリスはわたしに付いて来い。カリンを筆頭にフィエナ、ミランは汚染者の殲滅を開始しろ」
アヴェロスの声は戦闘を続ける彼女たちに届いた。
「『炎姫』、カリン・ハイドラ・イフリート了解しました」
「『嵐姫』、フィエナ・ミストラル・エバーグリーン了解しました」
「『水姫』、ミラン・セシア・アールブリード了解しました」
「『闇姫』、ネリス・ハオラン・ラスティー了解しました」
「殲滅完了次第、クリスタル王国跡地に集結し、指示を待て」
『了解しました』
アヴェロスの命令に四体は揃って声を返す。戦場に変化が起こる。合成魔獣たちの動きが鈍くなり、それから次々と体を構築していた死肉が剥がれ落ちていった。
悲鳴もなく、装飾が色褪せるように消えていくそれは、静かに戦場の中で塵と変わる。
突然の戦況の変化に、魔物たちが一斉に吠える。
各人が両手を広げると、肉体を支配している異常魔力が吸い取られていく。吸収された異常魔力は永久機関の中で肉体を構成している細胞に浸透していき、活性化を促すと共に肉体の再構成を始める。カリンを含め剣姫たちは誕生してから必要以上の戦闘能力を与えられていない。それは、なにも入っていない器に水を注ぐように異常魔力を与えることによって無限の進化を自律的に続ける。
先に誕生したカリンは別として、ここでは三体の肉体の再構成をするために戦わせている。
再構成といっても大きな変化は魔力総量と異常魔力に対する肉体への耐性能力の強化にある。異常魔力の濃度の高い場所で異形化しないようにするための行為だ。
天空の使者の力は甚大だ。その体から放出される魔力が異常魔力に転じても元を辿ればそれは彼女の魔力に変わりない。この世界のどこででも彼女なら理性を失わずに、活動することができる。だが、クローン体としての彼女たちは能力制限によって耐性能力が極端に偏ってしまっている。
模擬戦闘で現れなかった問題が起きてもおかしくない。その一方で背後にも目を光らせる。王国への正規ルートでは剣姫たちと合成魔獣たちとの戦いが続いている。魔獣たちが咆哮を飛ばし、剣姫たちが無情にエネルギーを吸い取っていく。
その陰を走る者がいる。湿り気のある地面の上を熱風で蒸発させて発生させた水蒸気にさらなる熱を加え、揺らめく陽炎に身を潜めて走り抜ける者が一人。
太陽の使者、セリュサ・ルーヴェン・ベルリカ。クロノスとの会話は聞いていた。その言葉をアヴェロスも無謀だと思った。セリュサの戦闘経歴はアヴェロスの頭の中にある。魔物に対する憎悪だけで生きてきた彼女は力を手にするために必死で生きてきた。
一つの思いに身を捧げて結晶化した力にアヴェロスは注目した。
実際、彼女の働きは三騎士でも群を抜いていた。
だが、彼女が表立つ頃には脅威は去っていた。本当に天空の使者と音の使者があの王国の中にいるのであれば、太陽の使者は二度目の挫折を味わうと共に間違いなく命を落とす。
彼女の正義は認めよう。
あの事件以降も、セリュサは星降る家で困っている人々を救済することを怠らず、このボルダラ大陸でも月の使者が動けない間に多くの成績を残していた。故に、セリュサを死なせたくないと思う親心のようなものがアヴェロスにはあった。
アヴェロスがどんなに道を外れた場所にいたとしても、彼がこうなってしまったのは家族を失ったことにある。
根底の裏にあるのは、失うことへの恐怖心。
あの頃に笑顔を見せてくれたもう一人の娘の笑顔だった。
†
灼熱の風が肉を焼き、骨を溶かす。
王国への道は、耐え難い悪臭を放つ合成魔獣と膨大な炎槐の衝突に消えていた。
戦わずにして先に進むことを前提とした無駄のない動きは死肉に覆われながらも、着々に前に進んでいた。炎槐は巨体からくりだされる豪腕の打撃を無効化し、超高温で融解し、熱風で吹き飛ばし、その凄まじさの中に隠れた刃が前を遮る壁を切り崩し、蹴り飛ばし、踏み潰し、爆発させる。
溶け始めた地形は、朝日を浴びたように明るかった。
熱風が止んだ時、そこに命は残っていなかった。
「ひどい……」
自己防衛のためとはいっても形すらまともに残らない死骸の中心で、セリュサは地面と一つになる塊を見つめていた。
絶えず動き続ける姿からは、死にたくないという気持ちを感じた。
ため息を吐いて振り返ると、アヴェロスが姿を見せる。
「集中力を切らすな。常に限界まで高めておかねば、死ぬと教えたはずだ」
「流石ですね」
ここまでの道のりをアヴェロスは苦労せずに突破してきた。剣に付着している血脂を振り払い、セリュサの熱気で溶かしている。
その後ろには剣姫の一人が立っており、湿り気のある黒い衣服からは血が滴り落ちていた。声一つ漏らさない口からは、呼吸すらしていないように感じる。
セリュサよりも後ろでは別の剣姫たちが戦闘している。
爆発と衝撃の轟音が地面を揺らしていた。
崩れた城門を潜り抜けると気配を確かめる。反応はない。古代の遺跡のような風景は神聖な気に満ち溢れていた。ゆっくりと歩いていく。
「すでに生物の領域を超えている。世界中の人々の命が消える前に、神聖騎士として迅速に手を打つのは当然だ」
「アヴェロス様、敵の攻撃がきます」
急に立ち止まるとネリスが二人の前に飛び出る。その姿にセリュサは違和感を覚えた。アヴェロスを見ても、こちらを見ることはなかった。ゴワッと波動が地面をめくり上げる中、ネリスが魔力を吸収する。そのまま黙って歩き続ける。邪魔をする波動はネリスが完璧に防いでくれる。
そのほかには三体が押さえ込んでくれているのか、なにも出てこない状態が続く。
城下町、更地が続いている中で、アヴェロスがネリスに話しかけた。
(本当に人形みたい……人としての意思が感じられない)
アヴェロスの言葉に頷きしか返さない。
(これが人のすることなの? )
昔のカリンといまのカリンの違いが感慨深いものを思わせる。
「ネリスを見て思い悩むか」
「クロノスに出会ってあなたの裏の顔を知りましたから、とても複雑です」
「わたしもこんな人間になるなんて、若い頃は思っていなかっただろう」
実際、才能のなかったアヴェロスにはわからない。才能への複雑化した思いが、努力の人へとアヴェロスを突き動かしたのは本当だ。だが、才能を欲したといったら違う。努力の末に、望んでも手に入らなかった才能を放棄した。それで力に手を染めた。
「未来のことなんて誰もわからないと思いますよ」
セリュサは、どこか投げやりそうに言った。
「過去を振り返る場所を現在と仮定し、未来を想像する」
「なにかの比喩ですか? 」
場にそぐわない言葉に、足を止めて剣を握りなおすと、呼吸を整えて、老人の言葉を静かに待った。
「アヴェロス・ミラアンセス・カーマインという人間は才能のないだった。才能という壁を前にしてわたしは努力で対抗した。しかし、年月が過ぎ去るたびに思い描いていた未来ではない自分自身の姿があるのは苦痛だった」
目を細め、剣を眺める。
「それから何年か経ち、努力が力に変わった頃に、三騎士を作り上げた。自分の理想を形づくれることにわたしは内心とても嬉しかった。だが、どれだけのことをしても世界は変わらなかった。わたしは人だ。人の手でできることには限界があることぐらい理解していたが、なに一つとして世は変わらなかった。自らの正義が崩壊した瞬間だったのかもしれない」
剣を抜き、アヴェロスがこちらを見つめる。
「それで、クロノスたちの力に目を付けたというわけですか。とても愚かな行為ですね。あなたがそのような志で動いき、挫折し、歪んだことを過去のわたしが知ったらどうなっていたか、想像を絶しますよ」
「生真面目に生きているといつかわたしと同じ目にあうぞ」
「あなたに心配されることなどありません」
そう言われても、彼は動じない。
「世の中はよくできています。正攻法だけでは生きていけない。汚いこともしなければ突破できない事態にも遭遇するでしょう。ですが、わたしは絶対に屈しない自信があります。人の限界というものがあるなら、わたしはその限界を打ち破るように努力しましょう。あなたのような見せかけの偽りの正義の志を持ってギルド員にも、三騎士にも、魔導騎士にもなった覚えはありません。わたしは自分の正義を貫きます。それが道化というなら、いさぎよく踊ってあげますよ」
そう呟くと、セリュサはアヴェロスの目を見ていった。
「ただし、あなたには見られたくありません」
そして、走り続ける。城下町を抜けたところで緊張感に死んでしまうかと思った。ネリスの背を見ながら、セリュサは心に重くのしかかるものを感じていた。
(この先に天空の使者がいる)
年齢に似合わない実力を有していることは自分も同じだと思う。でも、自分の実力が世界最強だと思ったことはない。手にしている力もギルドマスターには敵わないものだ。でも、彼女は世界最強の座についている。
(この先に音の使者がいる)
自分と同じ人間でありながら、世界最強と拮抗する力を持つ天才。セリュサは、噂話で聞いていた音の使者を密かに目標としていた。自分も天才と呼ばれていたけど、その頃には彼は英雄としての名を持っていた。超えられない壁として前にいた。その英雄と戦う。
(ああ、なんて恐いんだろう)
二人の最強が目の前に現れることに、自分の中が真っ暗になってくる。現実を意識し始めた。クロノスを殴った時、情けない姿に悲しんだ。小生意気でも誰にも屈することなく戦うことを諦めない彼が戦うことを放棄したことが自分の中で無性に嫌だった。どうして。そればかり考えると、心が乱れるばかりだ。
(近づくたびに全身を圧迫する重圧感……これが人間の放つものなの? )
しかし、それでも戦いが回避できない現実なら背を向けて逃げることは出来ない。戦わないほうがいいのは理解している。二人がどんな戦果を残してきたのか、頭に焼きつくほど調べたから、命を賭けることが無駄だと知っている。
「自信なんて最初からないわよ」
逃げない。両親が死んだときから勝てないとわかっても逃げることだけはしなかった。セリュサの足は止まらない。それほどまでに、セリュサの心には一人の顔が浮かんでいる、そして、二人が現れる。資料に書いてあった通りの容姿。マリアが石のように転がったまま、銀色の長髪をなびかせる世界最強は楽しそうにこちらを眺め、レン・リッジモンドはオカリナを吹いていた。
「音の使者か」
ネリスを見て、レンは演奏を中断した。
「本当にクロノアそっくりだな。諦めなければいつかは叶う、人の持つ無限の可能性をこの目で見ることができるとは思わなかった」
注ぎ込められた時間に対する拍手は、どこか軽く感じだ。その行動で、セリュサは目の前の青年が自分の憧れていた英雄だと認識した。
「あなたが音の使者……」
「初めまして、レン・シェリフ・リッジモンドだ。きみのことは異次元空間から見ていたから自己紹介は必要ないよ、セリュサ・ルーヴェン・ベルリカ又の名を、太陽の使者」
レンは微笑み、頭を下げる。
「音の使者はネリスに任せる。術式の範囲内に入り込まないように注意しろ」
「わかりました」
小声で言い交わす。アヴェロスの声はどこか震えていた。額から脂汗が流れる。ネリスが無言で進むと、間合いを取って止まる。
体内に溜め込んだ異常魔力を高速循環させ周囲の闇を色濃くする。
暗黒の闇を召喚して空間を覆い隠す。レンの姿はその中に捕らわれながらも、圧倒的な存在感だけは闇を押し退けて肌に伝わる。闇を纏い武器とする。長い黒髪をコーティングした魔力が護るようにネリスの周りを漂う。
「三人でこないのか? 俺としては別に構わないぞ」
なにも見えない状況で、レンは笑った。
「クロノスがいなくなってから、クロノアが不機嫌で面倒臭いことになっている。誰でもいいから、クロノス呼んできてくれない? 」
苦笑する。その言葉が聞こえてきただけで、セリュサは絶対的な差を感じとった。異常魔力で見違えるほど強化されているネリスにいまの自分が敵わないと判断しているのに、自然体で振舞っている彼は笑っている。
「音の使者、レン・シェリフ・リッジモンドを確認。アヴェロス様の命に従い、排除します」
粘着する闇が鋭い軌跡を描いて、ネリスが乗じる形で跳ぶ。
「クロノアの顔から「アヴェロス様」って、背筋がゾッとするってこういうことだったのか……気色が悪いというか、うん、気持ち悪いな」
「闇魔術――闇と氷の吹雪」
氷。ネリスの一言で、周りの闇の魔力が変化する。身動きを縛り付ける猛吹雪にレンの足が埋まる。手を動かそうとして凍りついていることに気付くと迫る髪で上手く砕くと指を鳴らして流れを打ち消した。
「おっ、構築術式によるエナジードレインか」
媒介とする音が勝手に消えた。高速回転して迫る髪の毛を魔力付加した手で弾く。だが、それからも魔力が抜き取られる感覚に対し、襲い掛かるネリスの魔力量が上がっているのを感じた。視覚が不自由な状態でも確実に攻撃を受け流せるのは実力よりも経験差、ネリスの乱撃は一撃も届いていない。
「音魔術――音と風の連刃」
「無駄です」
言いながら、不可視の衝撃刃にネリスは手を突き出した。単純に、前に出したように見えるもレンは楽しそうに笑った。
「闇の性質『吸収』か」
「あなたの攻撃はわたしに届かない」
距離を必要としないレンの攻撃も、ネリスには届いていなかった。
「わたしの名はネリス・ハオラン・ラスティー。わたしは三人と違い、唯一守ることを知る個体。体内に宿す『自動魔力吸収術式』のほか、全ての攻撃を吸収し、自らの力に変換することができる」
闇が渦まく。渦中から溢れ出した闇の魔力が、鋭い刃としてレンに飛んでいく。闇色の刃はレンの前で不可視の壁に突き刺さり、そこからエネルギーを吸収し耐久力を奪い取って破壊した。二撃。すり抜けるように刃がレンを通り過ぎた。瞬時にぶれた映像の後ろからレンが姿を見せる。指を鳴らしても響かないことに首を傾げた。
「『自動魔力吸収術式』に闇の特性……普通だったら、厄介なことだが俺としては物足りないな……」
口笛を吹く。息を吸って、息を吐く、なんの動作もなくそれだけで音速を超える弾丸がネリスに迫る。避けることはしない。一瞬で吸収できることに手を出す。ネリスは迎撃すべき攻撃を絶対防御でエネルギーに変換する。衝撃波に乗って加速する打撃は、硬化した髪で叩き落とす。困った顔を浮かべるレンは、軽く手を叩くと大きく息を吸い込んだ。
「音魔術――音と闇の衝撃」
ネリスは危険を察知すると自分自身を髪の毛で隙間なく包んだ。衝撃に宙に舞う。超音波を炸薬とした衝撃の嵐に多方向に叩きつけられる。何度も地面に叩きつけられた後、ネリスは護りを解き、闇を形成し、先端を尖らせた棒を投げる。レンが空気を掴むように手を横に引くと、漂っている魔力が棒を止めた。ネリスが腕を上げると重力が消えたようにレンが浮かび上がった。
「吸収するのは魔術だけじゃなくて、衝撃波の類……空気振動も無効化されるのか。それだと俺の攻撃を届けるのは難しいな」
「言ったはずです、あなたに勝ち目はない」
遮断というよりも消音というほうが正しいだろう。
「勝ち目がない……とても興味深い言葉だ。過去に俺はその言葉を“たった一人”にしか言ったことがない」
「…………」
宙を漂いながら寝転がるレンは、ネリスを見下ろす。
「仕方がない、攻め方を変えてみよう」
「無駄と言ったのが理解できなかったですか? あなたはわたしを前にして死ぬこと以外、選択肢は用意されていません」
冷血の視線がネリスを見る。無情の視線がレンを見る。
「無駄かどうか、やってみなきゃわからないだろう」
突進する手に槍を握る。ネリスの周囲で漂っていた闇の魔力が形を取る。足下からはい出てくる灰色の人形がネリスの魔力を吸収して、湾曲した双剣を握ると、一斉に襲い掛かる。
槍が激突する。一突きで人形たちが波打って消滅した。空いた隙間を埋めるように再び形になる人形に、遠心力を利用して高速回転しながら槍の柄で薙ぐ。槍はしなりながら人形を巻き込み、ネリスまでの道を空けた。
数で勝てないことを察したネリスは人形たちを一つにまとめて巨人を作り上げた。頭上から振り下ろされる拳に槍を投げる。一点に凝縮された魔力の矢は巨人の腕を突き破り、ネリスの頬に傷をつけた。赤い血が線を引いた。
次の瞬間には跡形もなく消えた傷にレンは残念な視線を送ると、なにかを呟いた。その言葉を聞き取れたのかネリスは一瞬驚愕した。視界がぐるりと回転して自分の意思に反して無数の闇が動き出した。
「っ!」
「俺たちを中心に結界を張った。結界を張る行為には大まかに二つの意味がある。一つは対象を守護するため。二つ目は対象を拘束するため。では、いまの現状はどっちに当てあまるかといわれたら、両方に当てはまらない」
二人の距離が縮まっていく。レンのほうから両手を広げて近づいてくる。ネリスは魔力制御を奪われたことにうろたえた。腕一本分の距離。至近距離で見るネリスの顔を観察するレンを瞬速の拳が襲う。だが、あと少しというところで拳は指一本に止められた。
「な……
」優しく返されると壁にぶつかった。
「ちょっとした我慢比べだ」
結界内を魔力が満たす。いや、どんどん増え続ける。
「俺が倒れるのが早いか、お前が倒れるのが早いか勝負しようぜ」
術式が魔力を吸収する。吸収してネリスの能力は上がる。再構成が始まる。だが、動けない。
「楽しませろ」
指一本たりとも動かせない。魔縛りがネリスを捕らえた。この時、ネリスの中で本来ありえないことが起こった。この男には絶対に勝てないと彼女は理解するのだった。
†
一人残されたクロノアを警戒しながらセリュサはゆっくりとマリアに近づいていた。ネリスの発生させた魔力がレンを取り込んでから彼女は言葉を漏らさずにずっと見つめている。
天空の使者クロノア・ルナリア。
予想していたよりも清らかな気質は、当然のことながら弟とは別人の風格を漂わせる。世界中を敵に回すほどの胆力と一騎当千の戦闘センス、女でありながら身を占める膂力、魔力資質は歴史を覆すほどの原石だ。神に愛された魔術師が見る世界がどんなものなのか、一瞬でもセリュサは気になったことを恥じた。
「マスターマリア無事ですか? 」
セリュサは慎重に近づきながら、声をかけた。
「セ……リ……ュサ? それ……になんで――」
衰弱しきっている表情から弱々しい声が返ってきた。
「説明は後だ。マリアを連れて急いで逃げろ。ネリスの巻き添えを受けることになる」
「ど……ういう……こと? 」
「わかりました。協力感謝します」
上手く喋ることができないマリアを抱きかかえると耳元でなにかを呟かれた。呼吸音に混じって聞こえない。マリアは最後の力を振り絞ってセリュサの耳元で叫んだ。
『わたしを置いて逃げなさい』
腕の中で失われていく鼓動にセリュサは我を忘れて走り出した。
冷たくなっていくマリアに肉体活性の魔力を流しながら風になる。死なせたくない。自分のためにも、どこかで馬鹿をしている彼のためにも。セリュサが出会った新しい恩人が苦笑して笑いかけてくれる姿を思い出す。アヴェロスが移動に合わせて結界を張ってくれている。防音効果の高いそれは内部の音を外部に漏らさない上に、気配までも消してくれる。
「どこに行くの? 」
いつの間にか、クロノアがアヴェロスの前に立っていた。
「これは、これは予想以上の大物がかかったわね。これだから釣りはやめられない」
不敵に笑う彼女にアヴェロスは後ろに跳んだ。直後、剣が柄を残して砕け散った。その出来事はただの挨拶でありながらまるでこれから起こる悪夢を想像させた。高密度の魔力の煙がアヴェロスの体にまとわりつき、動けなくさせる。
「異次元空間であなたがなにをしていたのかずっと見ていたわ。アヴェロス・ミラアンセス・カーマイン。大罪人のわたしがなにかを言うのは世論的には間違っているかもしれないけど、どちらかと言えばあなたのほうが人道を踏み外しているわよね。レンと戦っている子とか、世界中を走っているわたしの同類とか……」
「まさか……この空間一帯はネリスの影響下にあるはず、どうして魔術が」
「体内に組み込んである術式のこと? あなたってどこまでお人よしなのかしらないけど、あの子たちはわたしの因子を受け継いでいる。いってしまえば上位のわたしに危害を加える訳ないじゃない。レンに限っては性格が悪いから魔術が使えない素振りをしているだけよ。彼もあなたと違って天才だから」
「聞こえているぞ、クロノア! お前のほうがよっぽど腹黒いだろ」
「ほら、音の使者はとても元気でしょ。彼なりの優しさで生命力でもある魔力を垂れ流しにしてくれているのに、逆に彼女の力が衰えているから面白いわよね。それと、至らないあなたに助言してあげる。わたしたちの魔力を全て吸収するなら五十年は頑張ってくれないとね。もちろん、クロノスも忘れないでね」
暗黒煙の中から聞こえる声にアヴェロスは柄を手放した。
「何故だ! わたしの理論は間違っていないはずだ」
「そこ!まずはそこが間違い! 持論が間違っていないなんて自分自身以外証明できないじゃない。もう一人の自分が存在しない限り、そんな言葉わたしには吐けないし。ま、わたしに限ってはそんな必要ないけどね」
「くそっ」
アヴェロスは会話するのを止めた。すでに思考能力が麻痺してきたのも原因だろう。その体から感覚がなくなる前に、集中力を高めて言葉を選んだ。
「どうして世界を滅ぼそうとする? 」
「あら? いいことを聞いてくれたわね。どうやってそこまで話をもっていこうか悩んでいたのに、さすが年長者ね。そのことに関してわたしはとてもあなたに言いたかったの。語弊があるといけないから訂正するけど、わたしは“あなただけに言いたかった”」
「なんだと」
クロノアは頷いた。自分のために言いたかった、という意味がわからない。だが、次の瞬間その意味を理解した。
「あなたのような人がいるから」
その瞬間、アヴェロスはいままで自分の中に築いていたクロノア・ルナリアが同じ人間に思えた。自分を映す彼女の瞳に宿る、悲しみを見てしまった。圧倒的な実力から周囲に化け物として扱われてきた彼女は、常にそのことを考えていた。どうして自分たちを放っておいてくれないのか。異能力があるからと一方的に殺した。自分を含めて肉親である者も、大切な者も、アルビノというだけで断ち切った。残りは、二人だけになった。
「あなたは正義という言葉を掲げてなにをしたかしら? 」
「なっ」
「己の罪を隠して、わたしとクロノスになにをしたかしら? 」
「くっ」
煙が締め付ける。体の関節が石膏で固められたように動かない。
魔力を放出しようとして、できなかった。
全身から力が抜けていくと、水中に身を投げ出されたような感覚に支配された。
彼女の殺気に脳が危険信号を体中に送り出す。逃げろ――でなければ……筋肉が裂ける音がした。それでも、アヴェロスは魔法剣を握り締めると、強引に左腕を肘から切り落とした。
激痛がアヴェロスに意識を取り戻させた。荒々しくなる呼吸を制し、ゆっくりと傷口に剣身を押し付けて焼き塞ぐと、大粒の汗が顔の傷を舐めた。
気を抜くと、二度と立つことができなくなる。
そう言い聞かせながら、剣を構える。それだけでは終わらない。自分の目指してきたものが構わずに崩壊してしまう恐怖に、アヴェロスは岐路に立たされていた。血が足りず、朦朧とする意識を気力で捻じ伏せ、滑るように走り出し、クロノアに剣を振り下ろした。
「この世界はわたしたちになにかしてくれたかしら? 」
その声が届いたとき、クロノアはいなかった。残像を切り裂いたアヴェロスは頭から地面に倒れこんだ。もう、体が動かない。
「化け物と呼ばれることにいまさらなにも思わない。それは覆せないほどの事実だから甘んじて受け入れる。だけど、わたしたちだって人並みの幸せを願ってもいいはずだった」
彼女の声が上からする。首を掴まれて、持ち上げられた。
「それを壊した世界をわたしは否定する」
全てのアルビノを代表して彼女は立ち上がった。この世界に裏切られた同胞の無念を晴らすために、世界が認めた力で壊すことを決めた。たとえ、最愛の者と戦うことになったとしても。世界を支配する選ばれた能力が、鋼の心が、超越者としての自分の中にある明確な自信が、彼女の胸にある気持ちが芽生えた。それは、クロノアが何事にも替え難いものになった。
「あの子を苦しめる世界なんてわたしが壊してあげる」
彼女の腕に、力が入る。
「ぐ、うう……」
全身を襲う虚脱感、皮膚を浸透する魔力の感触。魔力は皮膚を焼き、筋肉を裂き、神経組織を汚染する。呂律が回らない。
「あなたがこの瞬間、感じている痛みはわたしたちが感じたものに比べたらなんでもないはずよ。あなたが生きてきた年月よりも短い時間しか生きてこなかったはずのわたしたちが受けた傷はとても深く、大きなもの――」
指が首に、爪が喉にゆっくりと喰いこんでくる。意識が落ちていく。
「――だから、あなただけはわたしの手で殺す」
脳天を貫かれたような衝撃が走る。手足が硬直し、表情が硬直し、全身が一気に冷めていく。
そこで視界が落ちた。なにも見えない。全身を雷撃が焼き尽くす。肉が焦げる。眼球が焼ける。全身の水分が蒸発する。内臓が硬直する。肉が焦げる。眼球が焼ける。全身の水分が蒸発する。内臓が硬直する。肉が焦げる。眼球が焼ける。全身の水分が蒸発する。内臓が硬直する。肉が焦げる。眼球が焼ける。全身の水分が蒸発する。内臓が硬直する――――
「ぐあああああああああああああああああああああああああああああっ」
頭が痛い。腕が上がらない。気持ち悪い。気持ち悪い。呼吸ができない。肺に空気がなくなった。視界が暗い。なにも聞こえない。なにもわからない。眼球が溶ける。舌が焼ける。全身がひらかびる。内臓が収縮する。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ――――
「!!!!!!!!!!!!!!―――――」
腕の中で重みが増した。アヴェロスは息を引き取った。黒焦げになった全身はたんぱく質が溶け出し、融解した指は全てくっ付いていた。クロノアはなにも喋らない。セリュサは、目の前で起こった出来事を理解するのに必死に考えた。考えて、なにも浮かばなかった。どうすれば助かるのか、そんな途方もないことを考え出す自分を情けないと思えなくなってしまった。
本能が戦うことを拒絶した。水を打ったように静かに命が散った。恩師は死んだ。自業自得だ…………え? なんで、こんなことを……どうして? この恐怖はどうすれば消えるのか? くろのすは、どこにいるのか? くろのすはどこだ?
くろのすはどこにいる?
「わたしの愛しい弟……これでもう大丈夫よ」
弟。クロノス・ルナリア。月の使者。それはおそらく、同じ女だからわかった一瞬の姿。大きな瞳から流れ出した涙は宝石のように光り輝いて、そして消える。ただ、それだけの瞬間だった。彼女の涙。
「そうそう、人は死んだら生まれ変わるっていうけどさ」
骨が砕ける音がした。地面に死体が転がった。三騎士の三剣が一振り、神聖騎士アヴェロス・ミラアンセス・カーマイン。その剣は多くの悪を断罪した。この剣があったから救えた命があった。だが、どこかで救おうとしない命があった。どうしようもない罪もない命を理不尽な理由で斬り捨てていった。どうしようもない悪党になってしまった。正義という剣は折れ、錆び付いて二度と輝かない鉄屑に変わり果てた。罪人はそれ相応の罰を受ける義務がある。黒炎。
「あなただけは永遠に死になさい」
魂は救われない。
†
体をなにかが突き抜けた。
ただ、全身を震わせるその声は確かに届いた。
ただ、全身を震わせるその音は確かに届いた。
得体の知れない痛みが全身を荒らしたのは気のせいではない。
身動きがとれず、脱出する方法を思考していたその時に、目の前で自分を見つめる彼の背後から膨大な魔力によって一つの存在が消滅したことを感じとった。
それが、一体なんなのかネリスの感覚器官は誤ることなく答えを出した。
ネリスは叫んだ。
生体兵器として不要と判断された感情の高が外れ、その向こう側に行くために叫んだ。
全身から制御できない魔力を解放した。
激痛に顔を歪めながらも魔力を出し続けた。二人を閉じ込めている結界の一部にひびが入る。気付いたレンがすぐに魔力を流し込み、結界の修復にあたる。が、ネリスは一瞬の情報を見逃さずに脳内で算出した結果を即座に実行、張り裂けんばかりの激痛を起こし内側から全てを解放した。
大爆発とともに結界が吹き飛んだ。ため息を吐くレンを余所に煙を割ってネリスは走る。闇で視界を払い、最後の反応のあった場所に走る。
「アヴェロス様!」
呼びかけたが、返事はない。あるのは人型に残った黒い焼け跡。
「結局、こうなるわけか……音魔術――音と無の支配」
背後から心地よい音を奏でて、レンが歩み寄る。
「っ!」
肩から力が抜け落ち、両手がダラリと垂れ下がる。
レンの手が頭を撫でると無言で、彼女は頷き返した。体の中で音が反響している。エナジードレインが無効化されたのか、それともそれを行なうに必要な魔力までも消費してしまったのか。術式が発動しなかった。意識が堕ちる。
「逃げるなら、それでもいいがマリアさんだけは置いていってもらおうか」
セリュサは自問する。レンには殺意がない。だが、無事に逃がしてくれるわけでもないだろう。殺す気がなくても、壊せるということか。どうすればいい?
その問いかけばかりが頭の中で繰り返される。次元が違う戦いでも先に進むためには一歩足を踏み出さなければならない。
だけど、その一歩がこれほど重いものだと感じたことはない。無様な自分を嘲笑う。魔術師としての限界を迎えたということなのだろう。英雄に勝てる見込みも、保証もない。でも、――――床に寝かせるマリアにマントをかける。
「いい目だ」
逃げることはしたくない。
「太陽魔術――太陽と水の薔薇、太陽魔術――太陽と水の花盛り(カプリス)、太陽魔術――太陽と水の聖杯」
水が形を変えて、美しい花園が狂い咲く。急成長する植物の刺々しい蔦。セリュサの背後の透明の器から水が溢れ出ている。
地面を這って飛び掛る。そんな中で、レンの手を叩く音が、セリュサの耳にはっきりと届いた。
超振動からなる超音波に、攻撃は殺された。それが、セリュサの実力不足なのか、レンの実力が勝っていたのか。アヴェロスの死を目の当たりにした結果なのか。
心が折れた。
死ぬ。
勝てない。
ごめん。
さよなら。
太陽が沈んだ。
「月魔術――月と太陽の息吹」
「主役は遅れてやっときたか」
膝をつく後ろから、強烈な光の波動が護ってくれた。振り向かなくても、誰だかわかった。
「レン、どうしてお前がクロノアに手を貸す。あいつは世界を壊そうとしているんだぞ」
クロノスはトンファーを握った。
「そんなこと世界を見ればわかるだろ。いまさら、確認する必要もない」
「答えろ!」
「逃げているだけのお前になにをいっても意味ないだろ」
両手を広げて、口を開く。
「音魔術――音の使者の福音」
透きとおる歌が神秘的な光を生む。天上から降り注ぐ光の柱がレンを照らした、音の使者の証。世界創世から伝わる原始の言葉。クロノスの足場が不安定に揺れ動き、沈んだ。分子レベルからの変化、土が砂となってクロノスの足を飲み込み、螺旋を描いて引きずりこむ。足下を爆発させ風に乗って跳び上がると、全方位から感知できない速度の衝撃に襲われた。
『手を抜くなよ。四大元素の精霊を従える俺の力を理解しているなら全力でかかってこい』
「げほ……相変わらず、デタラメな能力だな」
レンの周囲を四つの光が、輝いて浮かんでいる。溢れ出すレンの魔力に光が反応する。誰も知ることのないレンが唱える言葉の旋律、歌声から伝わる思いを感じとって光が動く。精霊たちは応えるように色が変わる。七色の光だ。
「やめなさい、レン。わたしと戦う前に死なれては困る」
歌声から、精霊たちから波動が出る。魔力波に変化した砂が意思を持ったように、動き出す。蛇のように身をくねらせ、鳥のように空を飛び、水のように流れていく。
頭上を占領する大きさに、クロノスは苦渋の表情を浮かべた。出来上がったのは、巨大な大陸だ。
地層のない、砂漠の庭は中心から外に流れて範囲を広げると、地上に向かって落ちてきた。落下面が無限の剣山に変化する。急速に落下してくる大陸を前に、クロノアが跳び上がると掌を向けた。それからの変化は突然に終わる。
「天空魔術――天空の使者の祈り(アミュレット)」
中央から砂はぼろぼろと崩れだし、しまいには無害な物質に変化した。地上には塵一つ落ちるようなことはなく、安堵のため息が一つ。だが、そのため息が彼女の気分を害させた。
「どうしてあなたはそうなの? 」
呆れた声がクロノスに届いた。
「あなたはいつだって後ろ向きにしか物事を考えていない。そのやり方がいつだって後悔を呼び寄せていることに気がつかないの? 」
「そんなことわかっている」
声はわずかに震えていた。
「いいや、わかっていない。わかっているなら、レンとどうして本気で戦わないの? 」
「…………」
「心のどこかで認められない。信じたくない気持ちのほうが強いからでしょ。目の前の現実を受け入れずに逃げる。五年前と同じね」
「ちがうっ!」
クロノアの声には心を臆させる響きがあった。
「ちがわない。あなたは逃げるだけの臆病者」
端的に、的確に、明確にそれを伝えることがクロノスの全てだと言った。
「永遠の敗北者」
現実を知らしめると、クロノスは怯えるように顔を隠した。
「やめろ……ちがう、俺は」
「いいのよ。そうやって誤魔化して生きていくのがあなたのやり方だもの。生まれた頃からずっとそうだったじゃない。レンと一緒になっても変わらなかった。あなたは常に心のどこかでこの世界を拒絶していた」
「そんなことない!」
そんなこと考えたこともない。クロノスには世界のことよりもアルビノとして生きなければいけないことや自分が未来を生きることへの恐怖だけしかなかった。それと世界は関係ない。それはつまり、クロノスの意志の問題だった。
「力に呑まれないことは素晴らしいことよ。王族な上に、アルビノとして生まれて力に翻弄されて自滅しなかったことは褒めてあげる。だけど、わたしは向き合うこともせず、内面の力に畏怖し、逃げ回ることだけは許さない」
関係ないだろ。
「うるさい!」
「そうやって強がるなら勝手にすればいい。でもね、その分あなたは後悔することになるのよ」
「だから、どうした」
自分の人生に後悔しなかったことはない。それに、後悔ならいまこうしてこの状況を作り出した彼女を殺せないことが最大のものだ。
「後ろを振り向いて生きていられる時代は過ぎたの。そろそろ前を向いて生きなさい」
その言葉もそうだった、そうとわかっているのに彼女は見限ることなく自分に対して言葉を送ってくる。笑みを消して、真剣に言ってくる。影が降りた。膨大な熱量が空間を支配して、爆発する。ただそれだけのことで、状況は変化した。
「標的確認。排除します」
まっすぐクロノアに向かっていくもう一人の彼女に、クロノスはなんともいえない思いを覚えた。
天上が赤く染まるとき、二人が出会った。
天空を統べる使者と炎を統べる灼熱の姫。
もっとも近い双子の姉妹。
零から最高潮へ、初撃から最強は激突する。
カリンは、目の前にいるもう一人の自分が放つ魔力を瞬時に吸収し肉体を再構築していた。純粋なオリジナルの魔力を吸収することで急激な能力増加がカリンの炎に反映される。
すでに常人の限界領域以上に魔力が満ちているこの場所で行動することは不可能、濃密な魔力が場を作る。
「あなたがカリン・ハイドラ・イフリートね。イリティスタのときによく見ていたよ。わたしのクローンの身でありながら、よくあそこまで力を引き出したものね」
環境の変化は、天空の使者が、月の使者に精神的な影響を与えたことで不規則な流れになっているとカリンは判断した。アヴェロスの命令を遂行している最中に伝わってきた違和感を把握することが最優先だと考えたからだ。その結末を彼女がどういう風に判断したのかはわからない。
ただ、剣姫の中でも彼女だけに下された命令を実行するために思考が切り替わる。
カリンは凝縮した炎を、周囲に散布してある魔力に点火させると、すでに燃え上がる炎と混ぜ合わせ、より巨大な塊にした。
激しい燃焼で失われる場所になにを思ったのかクロノアが風を送り始める。風を取り込みさらに大きくなる炎を見上げると、カリンはそこに右手を入れた。
炎の中から獣の顔が生まれ、そのまま胴体に繋がり飛び出す。獅子に似たそれは長いたてがみを振り回すとクロノアに向かって口を開ける。咆哮しながら、獅子がクロノアに襲いかかった。
「天空の使者を捕縛します」
カリンは、炎獣の背に乗ると槍と剣を構える。クロノアは無数にある魔術の中から予測できる戦いを浮かべると同属性の剣と槍を具現化する。
「できるならどうぞ」
だが、カリンの行動にクロノアは少し驚いていた。自分自身の戦闘能力を理解しているだけにカリンの動きが手に取るようにわかる。その未来予測の根には、彼女を生み出したアヴェロスが自分の遺伝子を十分に活かすことに成功したということになる。それも、性格云々は置いてといて、こと戦闘技術や戦闘時の癖が同じだった。面白い、そう思った。才能のない凡人はどんなことをしても結果を残せないものだと思っていたが、必死になることで生涯を費やせば奇跡が起こることを知った。努力の結晶というのか、自分に縁のない行為がとても興味深かった。
クロノアを目指して、三体の獣と背に乗るカリンが吠える。クロノアが気付いたように戦闘能力はアヴェロスが知るものと旧カリンが戦ったときに得たデータを受け継いでいる。
高濃度の魔力汚染によって暴走した経験を活かしてエネルギー変換機構の永久機関を備えた。術式に問題はなく、異常魔力を吸収しても魔力汚染されることはなかった。
勝てる、アヴェロスの思いは達せられると思いがよぎった。
しかし、彼女は呟いた。
「レン、つまらないから洗脳している子、起こして自由にしてくれない? せっかくだから、二人と戦ってみたいの」
「またかよ、お前の我が侭ってどうしてそんなんばっか」
「レンは優しいから絶対にやってくれるわよね? 」
「気色が悪いから、その顔と声を二度と出すな」
「わたしの因子はどこまで優秀かな? 」
彼女は退屈していた。
レンがネリスをクロノアに向かって投げる途中で彼女は目を覚ました。
カリンから送られる思念を受け取りネリスは闇の触手を放った。
カリンは拡げていた炎を収束させ、魔力密度を高めると共にネリスから漏れている闇の魔力と融合させると不気味な黒い炎を身に纏う。灰も残さない、獄炎の極致が踊りだす。赤く美しかった姫が、堕ちたように暗黒の姫となる。その炎の中から黒剣を取り出すとネリスに渡す。腕と融合させ、暗黒騎士のように甲冑を模した夜のドレスが包み込んだ。背中が大きく開いたドレスは彼女の魅力を十二分に引き出した上に、金属製の布地部分に闇の特性を活用して衝撃を吸収するようにしてある。
カリンも似たようなドレスを身に付けるが、彼女のドレスは絶えず燃え上がっていた。形を維持することよりも大規模なエネルギー循環を行い、機能向上を狙っているのだろう。
クロノアかレンが消えない限り、魔力漏出によって機能不全になって動けなくなることはない。
しかし、ここで二人は気付くべきだった。
吸収するエネルギー変換が自分の意思で止まらなくなったまま、体の奥底で進行している肉体の変質と暴走状態の危険性が思わぬ破壊を始めていることに。その対象に味方が含まれていることを予想できればよかった。
クロノアを交えながら仲間同士にも攻撃の手が伸びる。戦闘の激しさは供給される魔力によって比例していった。暴走する剣姫にクロノアはすでに興味を失っていた。
混乱から混沌へ。
彼女がただそこにいるだけで、この二人はすでに攻撃目標を見失っていた。
カリンやネリスも他の剣姫たちもアヴェロスに施された術式で異常魔力による戦闘能力強化が常時行なわれることでどんな強敵にも立ち向かい圧倒する力を得る代わりに、それが裏目に出た。
クロノスの姿はすでに自己回復もできない状態にある。だが、クロノスは自分でも不思議なぐらいに言葉を続けようとした。
「馬鹿の考えだ」
「そうだな」
「わかっているなら、前を向いてみろよ」
レンの言いたいことはわかる。クロノアの前に、彼はいる。
「お前の目的を俺たちは知っている」
「だったら、そこをどいてくれ」
「それなら、俺の願いを聞いてくれよ」
「戦わないといけないのか? 」
「戦わなければ死ぬだけだ」
話は決まった。クロノスは消える。音の使者に物理攻撃が有効でないことは既知の事実として考慮しても足りない手を補うには手段を選んでいられない。
後ろに現れ素手で殴る。横では剣姫たちが衝突し、跡地を壊している。吹き飛ばされてくる散弾石に隠れて、完全な死角をクロノスは探した。音が爆発する。拳を押し退け壁まで飛ばすと空気を吐き出し、地面に倒れた。
普通の魔術師なら肉体強化で内部にダメージを負うほどの威力もないだろうが、いまのクロノスには大きかったようだ。
視界が揺れた。胃の中からくる吐き気を堪え、クロノスは目を光らせる。次の瞬間、背中を重い衝撃が貫いた。辺りに、血が飛び散る。
「やはりまだ無理か……」
その声にクロノスは応えてこない。レンは足で蹴って仰向けに起こすと、ゆっくりしゃがみこんでこめかみを掴んだ。大きな手にも反応できないほど彼は動けなかった。静かな時間の流れだった。あれだけ騒がしかった騒音が一切聞こえてこないことに気付いて、ぼんやりする意識に訴えると別の部分が暴れ始めた。
ドクン……、ドクン……。
ドクン……、ドクン……。
異変にレンの行動は遅れた。素早い動きで右手が足首を掴み、とてつもない力で握り締めてくる。骨が軋む音に一瞬苦渋を浮かべると、衝撃で緩和し抜け出す。立ち上がってくる影からは濃密な魔力が溢れていた。風で揺れ動く髪が銀色から金髪に、緋色の瞳は透きとおるような青い瞳に変わろうとしていた。
猫背で開けっ放しの口の端からは血が垂れている。
それでも意識はこちらに向いている。
それを前兆というならこれがまさに求めていたものだ。普段は心が抑えこんでいる能力の境界線。それがクロノスの中にある、とある可能性を引き出すことを邪魔しているのは昔からわかっていた。容姿が変わるほどの力の奔流というものはレンの知る中で一人しかいない。
互いに動きもせず、ただ威嚇するように見つめ合うだけで見えてしまうものがある。だが、その見えてしまうものが果たして自分にとって求めているものに近づいたといわれれば違った。まだ足りない。この状態にクロノスの意識はない、だとしたら防衛的な本能が動かしているに決まっている。それでは、自分の行動に意味がない。
「音魔術――音と月の記憶」
深く考えて、レンは唸った。吸い込まれるようにクロノスに届く音は彼の中で形を失い炸裂した。衝撃が連鎖反応を起こして、新たな衝撃に変化して体内を走る。過度のダメージを与えては防御力のないクロノスにとっては命に関わる。
クロノアの怒りを買わないようにすることにも手加減中の手加減は続けられる。
体に刻まれた無数の傷跡を呼び覚ます。一度完治していても、体はその時に感じとったリズムを覚えている。それは純粋な記憶だが、この場合は破壊のエネルギーへと変化を遂げる。神経系統の混乱は痛覚を麻痺させ、肉体全体の動きに支障をきたせる。外見の変化が徐々に薄れ始め、元の色素を取り戻していった。
所詮は未完成の紛い物だ。簡単に押し返されるならようはない。求めるものは洗礼された究極体。覚醒。どうせ戦うなら本気でぶつかり合いたいと思う。指先一つ動かせない状態になると、クロノスの体から肉体強化の術が失われた。
すでに、制限時間の四分の三が経過し、西の空が色づき始めていた。
それらが、次々とクロノスから力を奪い取っていく。力が抜けていく。もはや声を出すことも難しくなっていた。魔術師から人間に戻るときに必ず生じる無防備な瞬間が近づいている。実際、この時のクロノスは過剰な異常魔力の海に長時間沈んでいるようなものだった。
月の使者としての状態ならいざ知らず、魔力減少に伴い細胞の一つ一つに浸透する魔力が抗体のない体を汚染していた
。骨を溶かすような熱を帯びても、クロノスの体では侵蝕が続き、細胞の変質が行なわれている。喰われている。それが正しいのかも知れない。
クロノスは時間の経過によって崩壊する心身のバランスに気力も体力も保てなくなり、侵蝕が止められない。魔力汚染者の末路というものをクロノスは知らない。最後には異形の化け物になってしまうということしか、聞いたことがない。
レンはその間、動かなかった。
いつの間にかどこからも音がしなくなっていた。クロノスは霞む視界で姉の姿を探した。銀色だけが目に入った。赤と黒色のなにかを手に持っていた。こちらを見ているのか、足りない力にクロノスの視力は機能せず、近い距離でも離れているという感覚を与えてくる。クロノアはレンに向かってなにかを言っているのか影がよく動いた。
気のせいか、わずかに見える緋色の奥に憎悪が感じられなかった。
彼女から不安の色を見たような気がする。似つかわしくない言葉に考えることを放棄した。自分が彼女に持つのは激しい憎悪と怒りだけで十分だ。
しばらくすると、クロノアはクロノスに背中を向けて姿を消した。
「あーあ、すげー怒られた。クロノアの機嫌ってどうすれば直るか知っているか? 」
レンが呟いた。その呟きにどういう意味があったのか、いまの自分にはわからない。クロノアが怒る要素がいままでの流れで一つでもあったのかどうかも疑わしい。だが、クロノスは動けない。
「いまは諦めろ、それに時期に陽が昇る。物陰に隠しているガールフレンドぐらい助けられないと男として情けないぞ」
レンがいたわる声でそう言ってきた。
「ま……て」
自分の体を月の加護が治してくれているのを感じていた。しかし、ダメージを受けすぎた肉体を治すには魔力も時間も足りなかった。口内に広がる血の味。痛覚の麻痺も収まってきたので鋭痛と鈍痛が交互に走るのもあり、クロノス自身が人間に戻ることもあって、抵抗することもできないようにエネルギーは消えうせた。熱として感じる変化は、時として痛みを増長させ意識を殺ぎにきた。
「呪印の影響で人間に戻る。そうなったら、俺たちの下に辿り着けないかもしれないな」
レンは端的に言うと、放心状態のセリュサからマリアを抱き取った。セリュサは黙って見ていることしかできなかった。
「空で待っている。また会おう、月の使者」
レンの言葉にすぐに答えられない。迷いだけが渦まいている。無責任にいまここで意識を手放してしまったほうがいいとさえ思う。だが、死んでしまったら残された者たちがどうなるのか、マリアが連れて行かれたのはクロノスの責任だ。命の恩人を見放すことが正しいとは思わない。助けに行けばいい。それだけなのに、それをしたくない。
「クロノス、しっかりして」
フィンの叫び声に、セリュサは状況の変化に我に返った。
その時だ。
「なっ!」
いきなり、地面の一部が盛り上がった。熱源反応。地中を高速で移動する物体は間違いなく自分たちに向かっている。それも急速に数を増やしている。土中から這い出ると空に向かって叫んだ。
その咆哮は、間違いなく世界を終らせるに相応しい宣言だった。




