第五話 妖王陛下、世界征服より育児休暇を。
妖王宮《蒼宵殿》において、最も恐ろしいものは何か。
妖王の怒りか。九尾の白狐の本性か。それとも、三界を揺るがす禁術か。
否。
「陛下。煙管を置いてください」
「えー」
「寝台から降りない」
「僕は妖王だよ?」
「知っています。ですから寝てください」
国家退魔師、朔間玄理の看病だった。
藍瀾燈は寝台の上で頬を膨らませた。青灰色の髪は寝癖で跳ね、薄い夜着の襟元から白い鎖骨が覗いている。
「おまえ、恋人になってから随分と偉そうだねえ」
「あなたが自分の命を軽く扱うからです」
「二千年も生きれば、少しくらい雑にもなるさ」
「少しではありません!」
傍らでは、白禧雲が感極まって袖で目元を押さえていた。
「……陛下を叱ってくださる方が、ついに……」
「禧雲。おまえ、僕の味方ではないのかい?」
「陛下の味方だからこそです!」
朱小桃は薬湯を抱えて頷いた。
「玄理様、もっと叱ってください!」
「えー。僕の宮なのに、味方がいないねえ」
妖界の絶対者は、ついに布団へ潜り込んだ。
玄理はその様子に苦笑しながらも、胸の奥に沈んだ不安を振り払えなかった。
昨夜、書庫で見つけた古文書。
『天の血と妖の血、契りて三界を結ぶとき、命灯は一身の器を離れる』
そこに記された方法が正しければ、瀾燈を救えるかもしれない。
ただし代償があった。
術を行う者は、互いの命を分かち合わなければならない。
片方が死ねば、もう片方も無事では済まない。
「……陛下」
「何だい?」
「俺と、命を分け合ってくれませんか」
瀾燈は布団から顔を出した。
「おや」
青い瞳が、静かに細まる。
「……おまえ、僕と一緒に死ぬ気かい?」
「違います」
玄理は寝台の縁へ腰掛け、その手を取った。
「一緒に生きるためです」
瀾燈はしばらく黙っていた。
やがて、小さく笑う。
「……欲張りな男だねえ」
「あなたほどではありません」
「えー」
それでも、その手は離されなかった。
※
古文書の解読により、玄理の血筋が明らかになった。
彼は、かつて天界から人界へ降りた守護者の末裔だった。
その血には妖気と聖気を結びつける力が眠っている。
「つまり、玄理殿の霊力を陛下の命灯へ繋ぎ、三界の霊脈へ分散させれば……」
白禧雲の声が震えた。
「陛下が、おひとりで均衡を支える必要はなくなります」
「……本当に?」
朱小桃が目を輝かせる。
「陛下、ずっと生きていられるんですか!?」
「成功すればな」
玄理は頷いた。
ただし、儀式には三界の霊脈を同時に開く必要があった。
妖界は瀾燈が、人界は玄理が担える。
問題は天界だった。
「天界の門は、聖人の血を持つ陛下にしか開けません」
白禧雲が言う。
「ですが、今の陛下に三界すべての力を扱わせれば……」
「おや。僕を誰だと思っているんだい?」
瀾燈は寝台から起き上がった。
青い長衫(中国風の長衣)の裾が、床を滑る。
「二千年も三界を支えてきたのだよ。門を開くくらい、寝返りを打つより容易いさ」
「陛下! 先ほどまで寝台から降りるなと!」
「えー。今は仕事だろう?」
玄理は額を押さえた。
本当に、この王には敵わない。
※
儀式の場に選ばれたのは、三界の霊脈が交わる《天衡台》だった。
青白い石畳の中央に、瀾燈が立つ。
その背後には妖界の万妖が集い、白禧雲と朱小桃が結界を支えていた。
人界からは、御門厳臣が退魔師たちを率いて現れた。
「……朔間。本当にやるのか」
「はい」
「妖王を生かすことが、人界にとって正しいとは限らんぞ」
玄理は静かに頷いた。
「分かっています」
瀾燈は、これからも人間にとって恐ろしい王だろう。
罪のない人間を傷つける者を許さず、妖を守るためなら容赦なく力を振るう。
その在り方を、玄理は無条件に肯定できない。それでも。
「……俺は、あの人と生きたいんです」
御門厳臣は長く息を吐いた。
「……馬鹿な弟子を持ったものだ」
「申し訳ありません」
「謝るくらいなら、生きて戻れ」
玄理は深く頭を下げた。
※
儀式が始まると、三界の空が青く染まった。
瀾燈が片手を上げる。
「――開け」
たった一言で、天界の門が開いた。
妖界の霊脈が唸り、人界の大地を白い光が走る。
二千年の間、瀾燈ひとりに集まっていた力が、三界へと流れ始めた。
しかし、均衡を失った命灯が激しく揺れる。
瀾燈の唇から赤い血が零れた。
「……おやおや」
「瀾燈!」
玄理が駆け寄る。
瀾燈は笑った。
「やはり、少し早かったかもしれないねえ」
「……諦めないでください!」
「僕は別に、諦めてなどおらぬよ」
瀾燈は玄理の頬へ手を伸ばした。
「ただ、死ぬことを惜しまぬだけさ」
「……俺は惜しみます」
玄理はその手を握った。
「あなたと過ごす明日も、その次の日も、全部惜しい」
瀾燈の瞳が揺れた。
「……玄理」
「俺に、あなたの未来をください」
玄理は瀾燈の額へ口づけた。
二人の霊力が重なる。
聖気と妖気が絡み合い、青と銀の光が三界へ広がっていく。
命灯の炎が、一度だけ大きく揺れた。
そして二千年の間、瀾燈を縛り続けた鎖が、静かに解けた。
※
妖王宮に、史上最大の騒動が起きた。
「陛下ァァァ!!」
白禧雲が泣いている。
「陛下が! 陛下が生きておられる!!」
「禧雲、うるさいねえ」
瀾燈は耳を塞いだ。
「僕は元から生きているだろう?」
「そういう問題ではございません!!」
朱小桃は泣きながら菓子を配り、妖界全土では三日三晩の祝宴が始まった。
玄理は、そんな騒ぎを眺めながら、ようやく息をついた。
瀾燈は生きている。これからも。
その事実だけで、胸がいっぱいだった。
「……玄理」
振り返ると、瀾燈が袖を引いていた。
「おまえ、約束を忘れておらぬかい?」
「……約束?」
「僕の子の父親になる話だよ」
玄理は固まった。
「……まだ覚えていたんですか」
「当然だろう?」
瀾燈は楽しそうに笑った。
「僕は、おまえとの子が欲しいのだよ」
その言葉には、以前のような義務感がなかった。
次代を残すためでも、三界を守るためでもない。
ただ、愛しい人との未来を望んでいる。
玄理は、その変化が嬉しかった。
「……では、まず正式に結婚してください」
「おや。今さらかい?」
「今さらです!」
瀾燈は三日月のように目を細めた。
「それは重畳」
そして、玄理の唇へ軽く口づける。
「……僕の愛しい人。これからも、よろしく頼むよ」
※
それから、妖王宮には新たな問題が発生した。
「……陛下」
白禧雲が、震える手で診断書を握っている。
「……ご懐妊、おめでとうございます」
沈黙。
玄理が固まる。
朱小桃が悲鳴を上げる。
そして瀾燈は、いつものように首を傾げた。
「おや」
青い瞳が、楽しそうに細まる。
「では、しばらく仕事を休もうかねえ」
「陛下! 妖界の政務が!」
「禧雲に任せるよ」
「陛下ァァァ!!」
「えー。僕は産休だよ?」
玄理は思わず笑ってしまった。
二千年もの間、死を惜しまなかった妖王。
その王が今、これから生まれる命と、愛しい人と過ごす未来のために、堂々と仕事を休もうとしている。
「……瀾燈」
「何だい?」
「幸せですか」
瀾燈は少しだけ考えた。
それから、玄理の手を取り、自分の腹へそっと重ねた。
「……そうだねえ」
青い瞳が、柔らかく細まる。
「二千年生きて、初めて明日が楽しみだよ」
窓の外では、春の花が咲いていた。
妖王は、もう死を急がない。
退魔師は、もうその手を離さない。
そして妖界には、新たな掟が生まれた。
――妖王陛下の産休中、緊急の用件以外は絶対に起こしてはならない。
なお、緊急の用件に何が該当するかは、現在も白禧雲と朱小桃の間で激しい議論が続いている。
「……玄理。お団子が食べたい」
「さっき食べたでしょう」
「えー。今度は三つ子の分だよ」
「まだ一人かどうかも分かっていません!」
妖王宮は、今日も平和だった。
たぶん。
第五話・完。




