エピローグ 妖王陛下、今度こそ休暇をいただきます。
妖王宮《蒼宵殿》に、建宮以来最大の危機が訪れていた。
三界の均衡が崩れたわけでも、天界から宣戦布告されたわけでもない。
「陛下! どうか、こちらの書簡だけでもご確認ください!」
九尾の白狐、白禧雲が半泣きで訴えていた。
その視線の先では、妖王・藍瀾燈が長椅子に寝そべり、蜜漬けの桃を頬張っている。
「嫌だよ」
「まだ内容を申し上げておりません!」
「おまえの顔に書いてあるもの。『陛下、お仕事です』って」
「でしたらお仕事を!」
「僕、育児休暇中」
「まだお生まれになっておりません!!」
瀾燈は青灰色の短髪を揺らし、心底不思議そうに首を傾げた。
「では産前休暇だねえ」
「名前の問題ではございません!」
ゆったりとした青い衣の下で、瀾燈の腹部は柔らかな丸みを帯びていた。
天界の聖人と妖王の血を引く瀾燈には、男でありながら新たな命を宿す力がある。
もっとも、二千年を生きた本人でさえ、その力が実際に働くとは思っていなかったらしい。
「まさか僕が母になるとはねえ。人生、何が起こるかわからないものだ」
「二千年も生きておいて今さらですか!」
「ふふ。まだ知らないことがあるなんて、素敵じゃないか」
そう言って微笑む主を見て、禧雲は言葉を失った。
以前なら、その笑顔を見るたびに胸が痛んだ。
三界を支える命灯は、主の命を少しずつ燃やしていたから。
眠りが深くなるたび、鼻血を隠すたび、あと何度この声を聞けるのだろうと恐れた。
けれど今、命灯は三界の霊脈そのものへ繋がっている。
もう、主ひとりの命を犠牲にする必要はない。
「……本当に、よかった」
禧雲の呟きに、瀾燈が目を細めた。
「おや。泣くのかい?」
「泣いておりません!」
「そうかい。では、その鼻水は新しい妖術かな?」
「陛下!!」
そこへ朱小桃が飛び込んできた。
「陛下ーっ! 玄理様がお戻りです!」
「おやおや」
瀾燈は嬉しそうに身を起こした。
「では、お仕事はおしまいだね」
「始まってすらおりません!!」
*
朔間玄理が帰還して最初に見たものは、書類の山に埋もれる禧雲と、その隣で呑気に菓子を食べる伴侶だった。
「瀾燈。医師から休むよう言われただろう」
「休んでいるよ?」
「なぜ庭園に出ようとしている」
「散歩は休暇の一環じゃないか」
「昨日、散歩と言って山を三つ越えたな」
「四つだよ。最後の山は景色がよかった」
「増やすな!」
玄理は眉間を押さえた。
かつて妖王討伐を命じられた退魔師が、今では妖王の外出を阻止するために全力を尽くしている。
人生とは、つくづく予想がつかない。
「それにねえ、玄理」
瀾燈は悪戯っぽく微笑んだ。
「僕はもう、命を削っていないんだよ?」
その一言に、玄理の表情がわずかに変わった。
天衡台で二人の力を重ね、命灯の呪縛を断ち切ったあの日。
消えかけた藍瀾燈の命を繋ぎ留めたときの感触を、朔間玄理は今も忘れられない。
「……だからこそ、大事にしろ」
低い声に、瀾燈の笑みが和らいだ。
「うん。そうするよ」
あまりに素直な返事だった。
玄理が驚いて顔を上げると、瀾燈は彼の袖を引いた。
「だって僕、今は死にたくないもの」
白禧雲が息を呑む。
二千年ものあいだ、主が決して口にしなかった言葉だった。
「おまえと明日も茶を飲みたいし、来年も花を見たい。百年後には、この子がどんな大人になったか一緒に笑いたい」
瀾燈は自分の腹を撫でた。
「……欲張りになってしまったねえ」
玄理はその手に、自分の手を重ねた。
「もっと欲張れ」
「おや」
「百年で足りなければ、二百年でも千年でもいい。俺にも、その未来を見せてくれ」
瀾燈の青い瞳が、ゆっくり細まる。
「ふふ。おまえは本当に、僕を甘やかすのが上手だねえ」
「誰にでもするわけじゃない」
「知っているよ」
瀾燈は玄理の襟を引き寄せ、唇を重ねた。
短い口づけのつもりだった。
けれど玄理の手が腰を支え、もう一度深く唇を塞ぐ。
「……ん、ふふ」
離れた瀾燈が、潤んだ目で笑った。
「おやおや。昼間から随分と情熱的じゃないか」
「煽ったのはおまえだ」
「では、今夜はもっと甘やかしておくれ」
「……体調次第だ」
「えー。堅物」
「当然だ」
「僕の夫は、寝所でも退魔師の規律を守るつもりらしい」
「そんな規律はない!」
「では問題ないねえ?」
玄理が耳まで赤くなった。
背後では禧雲が無言で天井を仰ぎ、小桃が両手で顔を覆っている。
もっとも、その指の隙間は盛大に開いていた。
「小桃。見るな」
「見てません!」
「指を閉じろ!」
*
夜。
春の風が、寝所の薄い帳を揺らしていた。
瀾燈は玄理の腕の中で、珍しく静かだった。
「……玄理」
「どうした」
「僕が壊した、あの三つの村のことを覚えているかい?」
朔間玄理の手が止まる。
妖を奴隷にしていた術者を討つため、藍瀾燈が滅ぼした人間の村。
朔間玄理は今も、その行為を正しいとは思っていない。
「ああ。忘れていない」
「僕もだよ」
藍瀾燈は天井を見つめた。
「今でも、同胞を救ったことに後悔はない。けれど、おまえが怒った理由は、少しわかるようになった」
朔間玄理は黙って耳を傾けた。
「誰かにとっては、あそこにも帰る家があったんだねえ」
それは赦しを求める言葉ではなかった。
藍瀾燈が突然、人間を愛する慈悲深い王になったわけでもない。
ただ、自分の知らなかった痛みを、知ろうとしている。
玄理には、それで十分だった。
「……ああ」
「だから、この子には教えておくれ。僕の知らない、人の心というものを」
「おまえも一緒に教えるんだ」
「僕が?」
「おまえは妖の心を教えろ。俺は人の心を教える。どちらも知らなければ、同じ過ちを繰り返す」
瀾燈は目を丸くし、それから嬉しそうに笑った。
「それは重畳。よい父親になりそうだねえ」
「おまえもな」
「僕は甘やかす担当がいいな」
「駄目だ」
「えー」
玄理は笑い、瀾燈の額へ口づけた。
そのまま頬を撫で、唇を重ねる。
今度は瀾燈から腕を伸ばした。
寝衣の襟元へ忍び込んだ指先に、玄理が小さく息を呑む。
「……瀾燈」
「ふふ。触れるだけなら、医師にも叱られまい?」
「おまえは本当に……」
言い終える前に、瀾燈がまた口づけた。
熱を含んだ息が交わり、玄理の掌が背中をゆっくり撫でる。瀾燈は心地よさそうに目を伏せ、夫の首筋へ頬を寄せた。
そのとき、ぽこん、と腹の内側から小さな蹴りが返ってきた。
二人は同時に動きを止めた。
「……おや」
「……起きているのか」
「どうやら、僕らに抗議しているらしいねえ」
玄理はしばらく沈黙したあと、真剣な顔で言った。
「今日はもう寝よう」
「えー!」
「おまえも子も休め」
「この子は、おまえに似て堅物になりそうだねえ」
「おまえに似て自由奔放になるよりいい」
瀾燈は声を立てて笑った。
*
翌朝、国家退魔機関《鎮幽監》総監、御門厳臣のもとへ一通の書状が届いた。
『朔間玄理は妖王の伴侶として重要な任務に従事しているため、当面返却いたしません。なお、育児休暇は百年を予定しております。』
御門厳臣は書状を二度読み、静かに目を閉じた。
「……朔間」
元部下の顔を思い浮かべる。
妖王討伐を命じたはずだった。
それがどうして、妖王の夫となり、挙げ句に百年の育児休暇を申請してくるのか。
書状の末尾には、別の筆跡で一文が添えられていた。
『本人は反対しております。どうか受理なさらないでください。朔間玄理』
御門厳臣は深く息を吐いた。
そして、返書に一言だけ記した。
『三年なら認める。』
その返書を受け取った藍瀾燈は、たいそう不満そうに頬を膨らませたという。
「えー。人間は本当に気が短いねえ」
*
春の月が、妖王宮《蒼宵殿》を照らしていた。
瀾燈は玄理の腕に抱かれ、静かな寝息を立てている。
かつて命灯が置かれていた場所には、今、小さな花瓶がひとつ。
そこには玄理が庭で摘んだ、名もない白い花が生けられていた。
二千年、妖王は自分の死を惜しまなかった。
死ぬことが怖くなかったのではない。
自分のいない未来にも、守るべき世界が続いていれば、それでよかった。
けれど今は違う。
明日も生きたい。
愛する人と、まだ見ぬ子供と、騒がしい臣下たちと。
くだらないことで笑い、喧嘩をして、また仲直りをしたい。
眠りの底から、瀾燈が小さく呟いた。
「……玄理」
「なんだ」
「僕はね……生きていて、よかったよ」
玄理はその青灰色の髪を撫でた。
「ああ。俺もだ」
腕の中の温もりを確かめるように、そっと抱き寄せる。
今度こそ、誰かが命を犠牲にしなくても朝は来る。
そして、その朝を迎えることを、妖王は心から楽しみにしていた。
――妖王陛下、本日も天下泰平。なお、育児休暇の期間については、現在も協議が難航している。
【完】




