第四話 余命二年の妖王、恋人に叱られる。
朔間玄理は、恋人ができれば人生は少しばかり穏やかになるものだと思っていた。
少なくとも、恋人が朝っぱらから寝台へ潜り込み、胸元に頬を寄せながら、国家機密の書類を尻に敷くような事態は想定していなかった。
「……陛下。起きてください」
「えー。まだ眠いねえ」
藍瀾燈は薄い夜着のまま、玄理の腰に腕を回した。青灰色の髪が鎖骨をくすぐり、柔らかな唇が首筋に触れる。
「おまえ、温かいねえ。もう少し貸しておくれ」
「俺は湯たんぽではありません」
「では抱き枕かい?」
「国家退魔師です!」
「それは重畳。強い抱き枕だねえ」
二千年を生きた妖王は、恋人というものを盛大に勘違いしていた。
いや、分かっていて楽しんでいる節もある。
玄理が身体を起こそうとすると、瀾燈はその胸に指を滑らせた。
「昨夜はあんなに熱心に口づけてくれたのに、朝は冷たいねえ」
「……っ、それを今言う必要がありますか」
「おや。顔が赤い」
「誰のせいです!」
瀾燈は喉の奥で笑った。
その笑顔があまりに無防備で、玄理は叱る言葉を失いかける。
けれど、ふと気づいた。
以前なら日の出とともに宮殿中を歩き回っていた妖王が、最近は寝台を離れたがらない。
「……陛下。体調が悪いのでは」
「そうかい?」
瀾燈は眠たげに瞬いた。
「よく眠るようになったねえ」
「それを体調が悪いと言うんです」
「人は心配性だこと」
そのとき、扉が激しく叩かれた。
「陛下! 玄理殿! 緊急の報告が!」
白禧雲の声だった。
瀾燈は頬を膨らませる。
「えー。今、恋人と仲良くしているのに」
「国家の危機です!」
「僕の国ではないねえ」
「陛下ァ!」
玄理は深々と溜息をついた。
恋人ができても、人生は少しも穏やかにならないらしい。
※
妖王宮《蒼宵殿》に届いた報告は、笑って済ませられるものではなかった。
人界で暴走した妖たちに刻まれていた呪印。
その術式を使った退魔師の一派が、《鎮幽監》の地下施設で禁術を研究していたことが判明したのだ。
「妖を意図的に暴走させ、人間の恐怖を煽る。そうして妖界への全面討伐を正当化する……」
玄理は報告書を握り締めた。
組織の内部に、これほど卑劣な者たちがいた。
さらに、押収された帳簿には、妖王の命灯に関する記録まで残されていた。
『妖王の衰弱を確認。三界の均衡に綻びあり』
「……どういう意味だ」
玄理が顔を上げると、白禧雲の表情が強張った。
「それは……」
「おやおや」
瀾燈が煙管をくゆらせた。
「僕の身体まで調べていたのかい。熱心なことだねえ」
まるで他人事だった。
玄理の胸に、小さな違和感が残る。
「陛下。何か隠していませんか」
「さあ?」
瀾燈は笑った。
「まずは僕の子らを助けようか」
その言葉に嘘はない。
だからこそ、玄理はそれ以上追及できなかった。
※
禁術の拠点は、人里に隣接する古い寺院の地下にあった。
玄理が結界を破ると、薄暗い広間には無数の妖が鎖で繋がれていた。
幼い狐妖も、翼の折れた鳥妖も、皆、黒い呪印を刻まれている。
「……ひどい」
玄理が呟く。
その隣で、瀾燈は静かに笑った。
「おや。僕の子らを、ずいぶん可愛がってくれたようだねえ」
声が冷たい。
広間の奥にいた術者たちが、一斉に札を構えた。
「妖王! ここで貴様を討てば、人界は救われる!」
「そうかい?」
瀾燈は煙管を指先で回した。
「では、試してごらん」
無数の呪符が宙を舞う。
玄理が剣を抜くより早く、瀾燈は指を鳴らした。
それだけだった。
呪符は灰となり、結界は砕け、術者たちは見えない力に押し潰されるように床へ伏した。
「……っ、化け物……!」
「おや。今さらかい?」
瀾燈は微笑んだ。
「僕は妖王だよ」
青い瞳が、三日月のように細まる。
「……おまえたちが、同胞にするように」
その瞬間、地面が震えた。
寺院の外まで、青白い妖気が広がっていく。
玄理は息を呑んだ。
このままでは、周囲の人里まで消える。
「陛下!」
瀾燈の手首を掴む。
「罪のない者まで巻き込むおつもりですか!」
「人のことなど知らぬよ」
「俺が困るんです!」
瀾燈の動きが止まった。
「……おまえが?」
「俺は、人を守るために剣を握ってきました。あなたが人を殺せば、俺はあなたを止めなければならない!」
玄理は、その青い瞳を真っ直ぐ見つめた。
「……俺に、あなたと戦わせないでください」
瀾燈はしばらく黙っていた。
やがて、ふっと笑う。
「……まあ、よいさ」
青白い妖気が、静かに収束していく。
「玄理が言うのならば聞こう。僕の愛しい人だからね」
玄理の胸が、痛いほど締めつけられた。
瀾燈は人間を許したのではない。
ただ、玄理が悲しむことを嫌がった。
それだけの理由で、里ひとつが救われたのだ。
※
術者たちは玄理が拘束し、捕らわれていた妖たちは白禧雲と朱小桃が救出した。
駆けつけた御門厳臣は、地下施設の惨状を見て唇を噛んだ。
「……鎮幽監の名を汚した者は、必ず裁く」
「総監。お願いします」
玄理は深く頭を下げた。
その背後で、瀾燈が小さく欠伸をした。
「……陛下?」
「おや。少し眠いねえ」
青い唇から、赤い雫が落ちた。
玄理は目を見開く。
「……血?」
瀾燈は鼻先を拭い、指についた赤を眺めた。
「おやおや。妖の血も赤いのだと知れるね」
「陛下!」
身体が傾く。
玄理は咄嗟に抱き留めた。
驚くほど軽かった。
あれほど強大な力を持つ妖王が、腕の中で静かに目を閉じている。
「……瀾燈!」
初めて、名を呼び捨てにした。
返事はなかった。
※
妖王宮の私室で、白禧雲はとうとう真実を告げた。
「……陛下の命灯は、二千年にわたり三界の均衡を支えてきました」
「……それで?」
「残された寿命は、長くとも二年。ですが、最近は衰えが早く……」
玄理は言葉を失った。
二年。
あまりにも短い。
「……治す方法は?」
「次代の妖王が生まれれば、三界の均衡は保たれます。しかし、陛下ご自身の命は……」
白禧雲は俯いた。
「……戻りません」
そのとき、寝台から声がした。
「おやおや。何をそんなに騒いでいるんだい?」
瀾燈が目を開けていた。
「……陛下」
玄理の声が震える。
「なぜ、黙っていたんですか」
「何を?」
「あなたの寿命です!」
瀾燈は不思議そうに首を傾げた。
「僕ひとり消えたところで、次代がいれば構わないだろう?」
その言葉に、玄理は息を呑んだ。
「……子供を置いて逝くつもりですか」
「妖は親の情など求めぬよ。次代も同じだろう」
「……違う」
玄理は寝台へ歩み寄った。
「違います、瀾燈」
「おや。何が違うんだい?」
「俺が、嫌なんです」
瀾燈の瞳が、わずかに揺れた。
「……俺は、あなたに生きていてほしい」
玄理はその手を握った。
「妖王だからでも、三界の均衡を守るためでもない。ただ、あなたと一緒に生きたいんです」
瀾燈は黙っていた。
二千年もの間、数えきれない命を見送ってきた。
誰かが死ぬことも、自分が死ぬことも、ただ巡る季節のように受け入れてきた。
それなのに目の前の人間は、自分が死ぬことを許さないという。
「……おまえは、本当に困った男だねえ」
瀾燈は小さく笑った。
「僕が死ぬと、そんなに困るのかい?」
「……困ります」
玄理は、その手に額を寄せた。
「だから、二年と言わず、ずっと幸せに暮らしましょう」
瀾燈は目を細める。
「……それは、夢のような話だ」
声は穏やかだった。
けれどその指が、ほんの少しだけ玄理の手を握り返した。
※
その夜。
玄理は妖王宮の書庫に籠もっていた。
三界の霊脈、妖王の血統、命灯の継承。
古い文献を読み漁るうち、ひとつの記述に目が止まる。
『天の血と妖の血、契りて三界を結ぶとき、命灯は一身の器を離れる』
玄理は息を呑んだ。
天の血。
妖の血。
そして、自分の身体に流れる、正体の知れない聖なる霊力。
「……まさか」
窓の外では青い月が静かに輝いていた。
玄理は文献を握り締める。
「……絶対に、死なせない」
その決意を、妖王はまだ知らない。
第四話・了。




