第三話 妖王陛下、初恋の相手が堅物すぎる。
朔間玄理は、国家退魔師になって以来、数えきれないほどの妖を相手にしてきた。
だが、財布を人質に取る妖は初めてだった。
「玄理、あれが欲しい」
「先ほども買いました!」
「えー。あれとは違うだろう?」
「色が違うだけです!」
「色が違えば別物だねえ」
藍瀾燈は、青い飴細工を手に満足そうに微笑んだ。
人界の市場は朝から賑わっていた。
軒先には色鮮やかな布が揺れ、蒸籠から立ち上る湯気が、焼き菓子の甘い香りと混ざり合っている。
そんな庶民の暮らしの真ん中を、妖界の絶対者が堂々と歩いていた。
青い長衫(中国風の長衣)に、長い房飾りの耳飾り。人目を引く美貌を隠す気配は微塵もない。
「……陛下。少しは目立たない格好を」
「おや。僕は十分地味だよ」
「どこがですか!」
「冠を置いてきた」
「基準がおかしい!」
今回の人界訪問は、妖を操る禁術の調査が目的だった。
前日の検分で、幼い狐妖の首に刻まれた呪印が《鎮幽監》の封妖術と酷似していると判明した。
玄理は術式に使われた特殊な朱砂の流通経路を追い、城下の薬材商へ向かっている。
本来なら単独行動の予定だった。
ところが出立直前、妖王宮《蒼宵殿》では壮絶な押し問答が繰り広げられた。
『陛下! 人界など危険です!』
『えー。僕にとって危険な場所などあるのかい?』
『そういう問題ではございません!』
白禧雲の九本の尾が逆立ち、朱小桃は旅支度と称して菓子を荷車いっぱいに詰め始めた。
結局、玄理が連れてきたのは、妖王本人と、なぜか大量の菓子だった。
「玄理、あれも」
「買いません」
「まだ何も言っておらぬよ」
「目が言っています!」
瀾燈は唇を尖らせた。
「おまえは本当に堅物だねえ」
「誰のせいで堅物になったと……」
言いかけた玄理の足が止まった。
路地の奥で、幼い少年が痩せた小妖を蹴っていた。
「化け物! あっち行け!」
小妖は抵抗もせず、汚れた手で頭を庇っている。
玄理が駆け寄るより早く、瀾燈の姿が消えた。
「おやおや」
次に見たとき、妖王は少年の前にしゃがんでいた。
「その子に、何をしているんだい?」
声音は穏やかだった。
けれど少年の顔から血の気が引く。
瀾燈の指先に青白い光が灯った。
「陛下」
玄理はその手首を掴んだ。
「子供です」
「だから?」
「俺に任せてください」
瀾燈はしばらく玄理を見つめ、それから光を消した。
「……玄理が言うのならば、聞こうかね」
玄理は少年を叱り、小妖の傷を手当てした。
小妖は涙を浮かべながら、妖王の袖を握る。
「陛下……」
「痛かったねえ」
瀾燈は小さな頭を撫でた。
その手つきは、先ほど人間の子を消そうとしたものと同じとは思えないほど優しかった。
玄理は複雑な思いで二人を見つめた。
この王は、変わらない。
人を慈しむようになったわけではない。
ただ、自分の言葉を聞いてくれた。
それが、なぜか胸に残った。
※
薬材商で得られた情報は、玄理の予想以上に不穏だった。
禁術に用いられた朱砂は、一般の退魔師には扱えない特級品。その購入記録には、《鎮幽監》本部の認可印が押されていた。
「……内部の者が関与している」
玄理は帳簿を閉じた。
御門厳臣総監が関与しているとは思いたくない。だが、組織の印が使われている以上、誰かが権限を悪用している。
「おまえの巣にも、悪い鼠がいるのだねえ」
瀾燈は面白そうに笑った。
「……笑い事ではありません」
「そうかい? 僕の宮にも昔、茶葉を盗む鼠がいたよ」
「規模が違います!」
「盗んだのが僕の茶葉だったから、山を一つ吹き飛ばしたよ」
「もっと規模が違う!!」
瀾燈は声を立てて笑った。
その笑顔を見て、玄理はふと気づく。
妖王がこれほど楽しそうに笑うのは、自分と話しているときが多い。
「……何だい?」
「いえ」
「おや。僕の顔に何か?」
「……綺麗だと思っただけです」
言ってから、玄理は硬直した。
瀾燈が瞬きをする。
「ほう?」
「……忘れてください」
「えー。せっかく褒められたのに」
妖王は嬉しそうに目を細めた。
「もう一度言っておくれ」
「絶対に嫌です!」
※
夕暮れ、二人は川沿いの茶屋で休んでいた。
水面には茜色の光が揺れ、対岸の柳が風に枝を遊ばせている。
玄理が茶を注いでいると、背後から声を掛けられた。
「朔間班長!」
振り返れば、《鎮幽監》の若い同僚が立っていた。調査で何度か組んだことのある退魔師で、玄理の無事を知ると、心底安心したように笑った。
「ご無事で何よりです。総監も心配しておられましたよ」
「……そうか。後ほど報告する」
短いやり取りを、瀾燈は興味深そうに眺めていた。
同僚が去ると、青い瞳が三日月のように細まる。
「大事な人か。よいな」
「……ただの同僚です」
「おや。では、いつ僕を大事な人だと言うんだい?」
玄理は茶を吹きかけた。
「なぜそうなる!?」
「僕はおまえを大事にしているよ」
あまりにも自然な声音だった。
玄理は、返す言葉を失う。
「……陛下。それは、どういう意味ですか」
「さあ?」
瀾燈は首を傾げた。
「おまえが傷つくと、面白くない。おまえが笑うと、少し嬉しい。おまえがいなくなれば、退屈するだろうねえ」
煙管を弄ぶ指が止まる。
「……不思議なものだ」
玄理の胸が、静かに締めつけられた。
この妖王は、二千年もの間、数えきれない命を見送ってきたのだろう。
それでも、誰かを失う寂しさを、こんなふうに口にしたことはなかったのかもしれない。
「……それは、好きということです」
瀾燈は目を瞬かせた。
「ほう」
「……人間は、そう呼びます」
「では、僕はおまえが好きなのだね」
夕風が、二人の間を抜けた。
玄理は息を呑んだ。
瀾燈は微笑んでいる。
いつもの気まぐれな笑顔。
けれど、その瞳は真っ直ぐ玄理だけを見ていた。
「玄理」
「……はい」
「おまえは、僕が好きかい?」
逃げ道のない問いだった。
玄理は、ゆっくりと息を吐いた。
「……好きです」
瀾燈の目が、わずかに見開かれる。
「……おや」
「あなたが人間をどう思っているか、俺は知っています。あなたのしたことを、許せるわけでもありません」
玄理はその手を取った。
「それでも、あなたを好きになってしまった」
瀾燈は、しばらく黙っていた。
やがて、ふっと笑う。
「……困った男だねえ」
「あなたほどではありません」
「えー」
頬を膨らませる妖王の手を、玄理は引き寄せた。
唇が触れる。
瀾燈は驚いたように瞬いたが、逃げなかった。
むしろ、玄理の襟を掴み、もう一度自分から唇を重ねた。
「……っ、陛下」
「これが接吻かい?」
「……初めてですか」
「二千年も生きて、こんなことをする相手がいなかったからねえ」
瀾燈は楽しそうに笑った。
「もう一度、しておくれ」
玄理は答える代わりに、その細い腰を抱き寄せた。
夜の帳が降りる川辺で、二人の影が重なる。
※
妖王宮へ戻ると、白禧雲が玄関で待ち構えていた。
「陛下! 遅いお戻りで……」
瀾燈は上機嫌に答えた。
「玄理と接吻してきたよ」
白禧雲の九本の尾が、見事に逆立った。
「…………は?」
「なかなかよいものだねえ」
「陛下ァァァ!!」
朱小桃が奥から飛び出してくる。
「おめでとうございます! 婚礼衣装、仕立て師に急がせますね!」
「だからまだ結婚は……!」
玄理の抗議は、歓声に掻き消された。
瀾燈は笑いながら、そっと玄理の手を握る。
「……玄理」
「何ですか」
「これからも、僕と一緒にいておくれ」
玄理は、その手を握り返した。
「……ええ。もちろんです」
瀾燈は目を細める。
「……それは、夢のような話だねえ」
その言葉の意味を、玄理はまだ知らなかった。
※
夜更け。
誰もいない私室で、瀾燈は胸元を押さえた。
最近、眠る時間が増えた。
今夜も身体が重い。
「……おやおや」
鼻からつつと、赤いものが垂れる。
瀾燈は鼻先を拭い、窓の外を見つめた。
「……少し、惜しくなってしまうねえ」
それは、二千年の生涯で初めて芽生えた感情だった。
けれど、彼はまだ知らない。
自分の命を惜しむことと、誰かに生きていてほしいと願われることが、まったく違うのだと。
第三話・了。




