第二話 国家退魔師、妖王の婿に内定する。
朔間玄理は、人生で初めて暗殺を検討していた。
相手は妖王でも、凶悪な妖でもない。
目の前で嬉々として採寸紐を伸ばしている、妖王宮《蒼宵殿》の仕立て師だった。
「花婿様、もう少し腕を上げてくださいませ」
「俺は花婿ではない」
「では、婿殿?」
「呼び方の問題ではない!」
朝から三度目の抗議も、針山を腕につけた仕立て師には届かなかった。
昨夜、討伐対象である藍瀾燈から突然、子の父親にならないかと誘われた。
断る以前に話が通じず、気づけば妖界全土へ婚礼の噂が広まっていた。
国家最高位の退魔師として、これほど屈辱的な任務はない。
「おや。よく似合うねえ」
衝立の向こうから現れた瀾燈は、青い長衫(中国風の長衣)の裾を揺らしながら、満足そうに目を細めた。
「……誰のせいだと」
「僕かな?」
「自覚があるなら中止してください!」
「えー」
頬を膨らませる二千歳。
玄理は額を押さえた。
この妖王、顔さえ見なければ殴れる気がする。
問題は、その顔が腹立たしいほど美しいことだった。
「それにしても、おまえは肩幅があるねえ」
瀾燈は背後へ回り、採寸途中の玄理の腰に腕を回した。
「っ、陛下!?」
「ふうん。腰も硬い」
「触らないでください!」
「おや。昨夜は手首だけで騒いでいたのに、今日は腰でも騒ぐのかい?」
耳元で囁かれ、玄理は思わず息を詰めた。
青い髪が頬を掠める。甘い香と、衣越しに伝わる体温。人ならざる者のはずなのに、その肌は妙に温かい。
「……あなたは、誰にでもこういうことを?」
「いいや?」
瀾燈は不思議そうに瞬いた。
「おまえが面白いからねえ」
それが余計に始末に悪かった。
※
妖王宮の朝議は、玄理の常識を根底から覆した。
巨大な玉座に腰掛ける瀾燈の前には、虎妖や蛇妖に混じって、掌に乗るほど小さな花の妖まで並んでいた。
「陛下、東山の水が枯れました」
「北の大蛇が、また小妖の住処を奪っています!」
「僕のお団子を兄ちゃんが食べました!」
最後の訴えに、宰相の白禧雲が眉間を押さえた。
「陛下。最後の件は家庭内で解決させましょう」
「えー。団子は大事だろう?」
瀾燈は真顔だった。
「水は西の霊脈から分けておやり。大蛇には住処を返すよう伝えなさい。従わぬなら、僕が直接話そう」
その一言で、大蛇の使者が青ざめた。
「それから団子は二つずつ。兄弟喧嘩は腹が減るからするんだよ」
「陛下、それは違うかと……」
「そうかい?」
玄理は思わず口元を緩めた。
王は小さな妖の訴えを笑わない。どれほど弱い者にも目を向け、必要なら上級妖すら罰する。
だが、その認識はすぐに覆された。
「陛下、人界から抗議が届いております」
朱小桃が差し出した書簡には、妖の暴走によって焼かれた村の被害が記されていた。
瀾燈は一瞥すると、興味を失ったように煙管を持ち直した。
「それは人の王に言えばよいだろう?」
「……人が死んでいるんです」
玄理の声が低くなる。
「妖王として、何とも思わないのですか」
「人のことなど知らぬよ。蟻の顔の区別がつくかい?」
あまりにも穏やかな返答だった。
玄理の胸に、冷たい怒りが広がる。
「人間を蟻と同じだと?」
「おまえたちも妖をひとまとめにしているだろう?」
瀾燈は煙管を置いた。
「人を襲った妖は討つ。襲わぬ妖も、妖だからと討つ。僕の子らがどれだけ殺されても、おまえたちは同じ言葉を使うねえ」
「……それは」
「僕は妖の王だよ。人を守るために生まれたわけではない」
玄理は反論しかけ、口を閉ざした。
彼自身、無実の妖が討伐される現場を知っている。
だからこそ、今回の暴走事件にも疑問を抱いたのだ。
「……ですが、罪のない者を巻き込んでいい理由にはなりません」
「おや」
瀾燈の目が三日月のように細まる。
「よいことを言うねえ」
褒められたはずなのに、背筋が冷えた。
※
妖を操る術の痕跡は、妖王宮へ運ばれた幼い狐妖の身体にも残っていた。
小さな狐は朱小桃の腕の中で震え、首には黒い呪印が浮かんでいる。
玄理が印を調べると、見覚えのある術式が現れた。
「……鎮幽監の封妖術に似ている」
「人の術かい?」
瀾燈は笑った。
だが、その笑みから温度が消えていた。
「昔も、こういうことがあったねえ」
「……昔?」
「僕の子らを操り、同胞同士で殺し合わせた人間がいたんだよ」
瀾燈は、幼い狐の頭を優しく撫でた。
「術者が分からなかったから、人の里を消したよ」
玄理の指が止まる。
「……何を?」
「三つ目の里を消したときに止まったねえ」
庭先で風鈴が鳴った。
瀾燈は懐かしい菓子の話でもするように、淡々と続ける。
「術者は二つ目の里にいたらしい。三つ目を消す前に名乗り出ればよかったのにねえ」
「……そこにいた人間は、全員が術者だったわけではないでしょう」
「そうだろうね」
「それでも、殺したのですか」
「僕の子らを止めるためにね」
玄理は拳を握り締めた。
目の前にいるのは、弱い妖を慈しむ王だ。
同時に、無関係の人間を殺すことに躊躇しない化け物でもある。
どちらか一方が偽物なのではない。
どちらも、藍瀾燈なのだ。
「……俺は、そんなやり方を認めません」
「おや。では、どうするんだい?」
「術者を捕らえます。あなたが人里を消す前に」
瀾燈はしばらく玄理を見つめていた。
やがて、ふっと笑う。
「それは重畳」
「……何がです」
「では、僕の代わりに働いておくれ」
「最初からそのつもりだったのか!?」
「えー。ばれてしまったねえ」
玄理は本気で頭を抱えた。
※
その夜、玄理は御門厳臣へ報告書を送った。
妖の暴走に、人間の術が関与している可能性。
妖王の力は、討伐を試みること自体が危険なほど強大であること。
そして、妖王が人間を守るつもりなど毛頭ないこと。
最後の一文を書き終えたところで、背後から声がした。
「おや。僕の悪口かい?」
「……いつからそこに」
「おまえが眉間に皺を寄せ始めた頃かな」
瀾燈は窓枠に腰掛けていた。
月光を受けた青い髪が、銀色に透けている。
「陛下。あなたは、なぜ俺をそばに置くんですか」
「面白いからだよ」
「……それだけ?」
「それに、おまえは僕を怖がらぬ」
玄理は答えなかった。
怖くないはずがない。
ただ、目を逸らしたくないだけだ。
瀾燈は机へ近づくと、玄理の頬に指を添えた。
「おまえは不思議だねえ。僕の子らを傷つけぬと言いながら、人のために僕へ怒る」
「……両方を守りたいだけです」
「欲張りだこと」
くすりと笑う唇が、近い。
玄理の喉が小さく動いた。
「……陛下」
「何だい?」
「そういう顔で近づかないでください」
「どんな顔?」
「……自覚がないなら、なお悪い」
瀾燈は目を瞬かせ、やがて楽しそうに笑った。
「おやおや。おまえ、僕の顔が好きなのかい?」
「違います!」
「えー」
頬を膨らませた妖王は、わざとらしく肩を落とした。
「僕はおまえの顔、好きだけれどねえ」
玄理は返す言葉を失った。
その沈黙をどう受け取ったのか、瀾燈は満足そうに微笑む。
「では、明日もよろしく頼むよ。僕の婿殿」
「婿ではありません!!」
廊下の向こうで、白禧雲が小さく咳払いをした。
「……陛下。婚礼衣装の仕立て師が、明朝また参ります」
「帰らせろ!!」
玄理の怒号が宮殿に響き渡る。
瀾燈は声を上げて笑った。
その笑顔が、なぜか少しだけ嬉しそうに見えたことを、玄理は認めたくなかった。
一方、妖王宮の奥では、命灯が静かに揺れていた。
青い炎は、昨日よりもわずかに小さくなっている。
白禧雲はその前で目を伏せた。
「……陛下。どうか、あの方が間に合いますように」
誰にも届かぬ祈りだけが、夜の静寂に溶けていった。
第二話・了。




