第一話 妖王陛下、討伐対象をお茶に誘う。
国家退魔機関《鎮幽監》には、妖王に関する三つの記録がある。
ひとつ。その妖力は底なしであり、天界の聖人を母に持つがゆえ、聖術すら意のままに操る。
ふたつ。その声には万妖を服従させる権能が宿り、たった一言で妖界全土を跪かせる。
そして最後に、その容貌は傾国の美女すら裸足で逃げ出すほど美しい。
「……最後の一文を書いた馬鹿は誰だ」
朔間玄理は密命書を閉じた。
二十七歳にして特務第一班長。数多の妖を討伐してきた国家最高位の退魔師である彼に、今回下された任務は妖王・藍瀾燈の実態調査だった。
人界で妖の暴走事件が相次いでいる。しかも、襲撃者には本来人を害さない小妖まで含まれていた。
妖王の関与が認められれば討伐せよ。
上官・御門厳臣の命令は簡潔だった。
もっとも、相手は二千年を生きる化け物だ。
玄理自身、生きて帰れるとは思っていなかった。
※
妖王宮《蒼宵殿》は、月光を吸い込んだような青い宮殿だった。
玄理が結界を越え、屋根へ降り立った瞬間、甘い香の匂いが鼻先を掠めた。
「おや。鼠にしては大きいねえ」
声のほうを向く。
欄干に腰掛けていたのは、青髪の青年だった。
透き通る青い瞳に、左耳から垂れる長い房飾り。
身体の線をなぞる青い長衫(中華風の長衣)は脇の切れ込みが深く、組んだ脚の白い肌が月明かりに晒されている。
細い指には銀の煙管。
あまりにも美しい。
そして、あまりにも異質だった。
青年の周囲には妖気がない。
いや、違う。
あまりに膨大すぎて、玄理の感覚では捉えきれないのだ。
「……名を名乗れ」
青年は目を細めた。
「名を?」
含み笑いを浮かべ、煙管を唇から離す。
「まあいいさ。答えてやろう。藍瀾燈。おまえたちが妖王と呼ぶ者だよ」
玄理は即座に剣を抜いた。
「鎮幽監特務第一班、朔間玄理。妖王、貴様に問う。人界で妖を暴走させているのは、おまえか」
「違うねえ」
「即答か」
「僕は忙しいんだよ。そんな暇があれば寝ているさ」
「妖王の仕事とは何だ!?」
「昼寝の邪魔をする者を叱ることかな」
玄理は剣を握り直した。
国家の威信を背負って来たというのに、相手は欠伸をしている。
「……なぜ、俺を攻撃しない」
「おや。先に質問したのは僕ではないかい?」
「質問?」
「おまえは、なぜ僕の子らが人を襲っているのか、わざわざ尋ねに来たんだい?」
玄理は眉を寄せた。
「罪のない妖まで暴れている。何か理由があるはずだ」
瀾燈は、ふっと笑った。
「それは重畳」
煙管の先が、玄理の胸元を指す。
「僕も、おまえたちの区別がつかぬもの。善い人も悪い人も、見ただけでは分からないだろう?」
その言葉に玄理が答えるより早く、宮殿の扉が勢いよく開いた。
「陛下ァァァ!!」
白銀の長髪を振り乱した男が飛び込んでくる。
九尾の白狐にして妖王宮の宰相、白禧雲。
「また人間を拾ってきたのですか!?」
「拾ってないよ。勝手に来たんだ」
「では殺して捨てましょう!」
「えー」
瀾燈は頬を膨らませた。
「せっかく面白いのに」
「陛下! 人間は玩具ではありません!」
「おまえが言うのかい?」
玄理は深く息を吸った。
「……俺は帰る」
「おや。茶も飲まずに?」
「命を狙われて茶など飲めるか!」
「では、毒見は禧雲にさせよう」
「そういう問題ではない!!」
※
騒動を打ち破ったのは、廊下を駆けてきた火鼠の侍女、朱小桃だった。
「陛下! 西の人里で、また妖たちが暴れています!」
瀾燈の煙管が止まった。
「……またかい」
「今度は幼い狐妖まで! 人間の退魔師に斬られた子もいます!」
青い瞳が、三日月のように細まった。
「そう」
たった一言。
宮殿を満たしていた気配が消えた。
玄理は息を呑む。目の前の青年は微笑んでいる。けれど、その笑みには先ほどまでの愛嬌が欠片もなかった。
「――伏せ」
静かな命令だった。
それだけで、遠く離れた山々の妖気が一斉に沈んだ。
朱小桃は膝をつき、白禧雲さえ深く頭を垂れる。
玄理は悟った。
この青年にとって、妖を従わせることは呼吸と同じなのだ。
「小桃。傷ついた子らを連れ戻しておくれ。手当てを先に。それから、誰が術を掛けたのか調べなさい」
「はい、陛下!」
「……術?」
玄理が問うと、瀾燈は煙管の灰を落とした。
「僕の子らが、好き好んで同胞を傷つけるものかね。何者かが糸をつけているのさ」
「術者を見つけたら、どうするつもりだ」
瀾燈は微笑んだ。
「……おまえたちが、僕の同胞にするように」
その声に怒りはなかった。
だからこそ、玄理は背筋が凍る思いがした。
「無関係の人間まで巻き込むつもりか」
「人のことなど知らぬよ。蟻の顔の区別がつくかい?」
「……貴様」
「でも、おまえは区別がつくんだろう?」
瀾燈は楽しそうに首を傾げた。
「ならば、見つけておくれ。僕が里ごと消す前にねえ」
冗談ではない。
玄理は、その美しい笑顔を見つめながら確信した。
この妖王は、本当にやる。
※
結局、玄理は蒼宵殿に留まることになった。
共同捜査という名目だったが、実際には妖王が勝手に決めたことだった。
「おまえ、妙な霊力を持っているねえ」
瀾燈は玄理の手首を取り、指先を滑らせた。
肌が触れた途端、玄理の体内で聖気が跳ねる。
「……っ、何を」
「ふうん。僕の妖気を嫌がらぬのか」
瀾燈は興味深そうに目を細める。
深い衣の切れ目から覗く脚が、玄理の膝に触れた。
柔らかな香りと、近すぎる美貌。
玄理は反射的に身体を引いた。
「……距離が近い!」
「えー。触れたくらいで騒ぐものかい?」
「あなたには慎みというものがないのか!」
「二千年生きて、そんなものは覚えなかったねえ」
瀾燈は愉快そうに笑った。
そして、ふと思いついたように尋ねる。
「おまえ、僕の子の父親になる気はないかい?」
「…………は?」
「僕は子を宿せる身体でねえ。そろそろ次代を残さねばならぬのさ」
玄理の思考が停止した。
「……待て。なぜ俺だ」
「強いし、霊力もよい。それに顔も好みだねえ」
「最後の理由は何だ!?」
「おや。褒めたのに」
瀾燈は頬を膨らませる。
「嫌ならよいさ。無理強いは好かぬもの」
「嫌というか、まず順序というものが……!」
「では、接吻から?」
「そういう意味ではない!!」
廊下で白禧雲の悲鳴が上がった。
「陛下に婿が!?」
「朱小桃! 婚礼衣装の仕立て師を呼べ!」
「はいっ! 妖界全土へ号外を!」
「誰も結婚するとは言っていない!!」
玄理の絶叫を聞きながら、瀾燈は腹を抱えて笑っていた。
人間とは、本当に愉快な生き物だ。
※
月が傾き、宮殿に静寂が戻った頃。
白禧雲は妖王の私室で、青白く揺れる命灯を見つめていた。
「……陛下。お身体に変わりは?」
「よく眠るようになったねえ」
瀾燈は煙管を弄びながら答えた。
ふと、鼻先に温かなものが伝う。
指で拭えば、鮮やかな赤。
「おや。妖の血も赤いのだと知れるね」
「陛下……!」
「そんな顔をするでないよ」
瀾燈は笑った。
「思ったより早いかもしれないな」
命灯の炎が、かすかに揺れる。
「……次代が生まれるまでは、どうか」
「分かっているさ」
瀾燈は窓の外へ目を向けた。
「僕ひとり消えたところで、次代さえ産まれていれば問題ないだろう?」
あまりにも、けろりとした声音だった。
白禧雲は何も言えなかった。
二千年を生きた王にとって、己の死など季節が巡るのと変わらない。
けれど、その王を失う者たちにとっては違う。
「……陛下は、残酷なお方です」
「おや。今さらかい?」
瀾燈は三日月のように目を細めた。
「それより、あの退魔師は面白いねえ」
客間では、朔間玄理(さくま げんり)が頭を抱えていた。
討伐対象は、想像以上の化け物だった。
人の命には酷薄で、妖には絶対的な慈悲を注ぎ、そして何より、常識が通じない。
「……なぜ俺が婿候補になっているんだ」
枕元には、いつの間にか婚礼衣装の採寸表が置かれていた。
しかも、花婿の欄には既に自分の名前が書かれている。
玄理は天井を仰いだ。
国家最高位の退魔師。
妖王討伐の密命を帯びた男。
その初日の戦果は、妖王の首ではなく、婚礼衣装の採寸予約だった。
「……御門総監、俺はどう報告すればいいんですか……」
翌朝、妖王宮には人界からの新たな報告が届く。
暴走した妖たちの身体から、退魔師の禁術に似た痕跡が見つかったという。
そして瀾燈は、まだ知らない。
自分の残り少ない生涯に、死を許さぬ人間が現れたことを。
第一話・了。




