06_希くは
暗く、湿ったカビと埃の匂いが充満する物置小屋。
外から重々しい錠前が下ろされた木扉の向こうからは、ただ冷ややかな静寂だけが返ってくる。
カサカサ、と暗闇の天井で小さな足音が走り、鼠が滑稽な鳴き声を上げた。
(……あぁ、嫌……ここだけは……っ……)
固い床の上で、エレノアは己の肩を抱きしめるように身震いさせた。
―――屋敷の中で、彼女が最も恐怖し、忌み嫌っている場所。
幼い頃のあの酷く醜い記憶。あの悪魔に手首を掴まれ、無理やりこの狭い暗闇へ連れ込まれた記憶が、肌の奥で害虫のように這い回る。
あの匂いがこびりついて、今も離れない。
三日前からここに閉じ込められ、水すら与えられていない身体は立つ気力すら持てずにいる。
幼い頃から打たれ慣れた鞭や暴力の『最中』なら、心を身体の外へと切り離し、痛みを殺す術を身につけていた。けれど――暴力が去った後、手当てすらされず放置された傷痕が化膿し、じくじくと熱を浮かべて肉を腐らせていくような生々しい痛みには、どうしても慣れることができなかった。
―――忘れて……ただ――忘れて……―――
熱に浮かされる頭の中で、エレノアは呪文のように繰り返す。
―――忘れろ
――――――忘れろ
――――――――全て―――全てを……
――――――忘れてしまえ―――――
繰り返すたび、意識の境界線が摩耗し、己という存在が薄く溶けていく。
感覚はとうに麻痺し、どこまでが自分の肌で、どこからが暗闇なのかすら分からない。心を殺さなければ、今度こそ完全に壊れてしまいそうだった。
男のあしらいなど、とうの昔に覚えた。欲望や蔑みを含んだ無数の『視線』に晒され続け、期待も絶望も捨てて微笑みを貼り付けていれば、傷つくことだけは最小限で済む。
そうやって死んだように生き抜いてきたはずだった。
――それなのに
薄れゆく意識の向こう側でそっと瞼を閉じると――
『改めまして……ご挨拶を――』
―――忘れろ
『悪くないものですね、誰かと合わせて踊るというのも』
―――忘れてしまえ
『あなたのその輝く髪と……瞳が、その花を想わせるのです』
―――忘れて…
『素晴らしいスズランの刺繍ですね。朝露に濡れる本物の花のようで―――』
――――
「……お似合い、……だって……」
絶望に麻痺していたはずの心の奥が、あの熱を思い出すだけで、かすかに息を吹き返してしまう。
「ふ……ふふ……愚かにも夢を見てしまいそうになるなんて……罰が当たったんだわ……」
――もう二度と、あの熱に触れることはないのだろう。自分はこの不潔な暗闇の中で、誰にも知られず、ただ静かに腐り落ちていくのだから――
エレノアは冷え切った指先を震わせて、二度と会うことのない青年の面影を胸の奥深くに抱きしめるように、遠のく意識の中で夢を見た。
◇
同じ刻、都オルランドのペントハウスでは――
コンコン、と控えめな扉のノック音。「入れ」と短く命じると、入ってきたのはルーカスの忠実な従者だった。
「旦那様。情報屋より、急ぎの報告書が届きました」
従者は恭しくお辞儀をすると、銀のトレーに載せられた一通の密書を差し出した。
ルーカスは奪い取るようにして羊皮紙を引っ手繰り、封蝋を指で裂いて開いた。急遽作成させたために文字は不格好に乱れ、悪夢のような現実が書き連ねられている。
愛人を侍らせて別邸へ逃げ回る義父――贅沢を貪り連夜パーティーへと繰り出す義母と義妹――そして、通い詰めた情報屋が老メイドを説得し、難攻不落だった使用人たちの口から――本日やっと引きずり出した痛々しい事実の数々と――彼女の背景。
(あぁ……あの…スズランの花は……)
ぐらりと視界が歪む。猛烈な吐き気と、己の無力さに対する凄まじい羞恥が肺を満たす。思わず足の力が弱まり、机に手を掛けて体重を支えた。
――自分が能天気に浮かれていたその裏で、彼女がどれほどの痛みに耐えていたか――
そして、本日届いたばかりの最新の追記を目にした瞬間、ルーカスの頭の中でプツリと何かが切れた。
『――本日までの調べにて判明。エレノア様は三日前より外から鍵をかけられ、水すら与えられず敷地内の外にある物置小屋へ閉じ込められております。なお、子爵夫人と義妹は新調したドレスで今宵も出かけており、屋敷は手薄状態であり――』
「だ……旦那様……?」
感情の容量を遥かに焼きちぎるほどの、苛烈でどす黒い「殺意」が脳味噌を駆け巡る。
―――今この瞬間も、暗く冷たい小屋で息を殺し苦しんでいるというのに、奴らは今頃高笑いしているというのか――
―――ドンッ!!
「ヒッ……!?」
激しい衝撃音とともに、重厚なマホガニーのデスクに大きな亀裂が走った。跳ね上がったインク瓶から溢れた黒い液が、悪夢のような羊皮紙を不気味に塗り潰していく。
握りしめたルーカスの拳からは爪が肉を突き破り、鮮血が床へボタボタと滴り落ちていた。
「馬車を……馬車を回せ! 今すぐに!!」
恐ろしいほどの表情で怒号を上げるルーカスに、従者は背筋に氷を突きつけられるかのごとく生気を失った顔で「は、はいっ!」と必死に部屋を飛び出していった。
パタン、と扉が閉じ、部屋は静寂と夜の暗がりに包まれた。
一人取り残された空間で、ルーカスは微動だにせず立ち尽くしている。
視線の先では、羊皮紙を塗り潰した黒いインクが床へ溢れ、そこに拳から落ちる鮮血がポタリ、ポタリと混ざり合っていた。闇の中で黒と赤がドロリと濁っていく。
「………生かすなど……生ぬるい」
次回更新日は7日(金)20:00です。
引き続き、お楽しみください。




