07_可惜夜の夢
夜の王都を、一騎の黒馬が猛烈な速度で駆け抜けていた。
従者らに後を追うよう命じ、ルーカスは狂気じみた焦燥とともに単騎でヴィルディエ子爵邸へと乗り込んだ。
その屋敷は異様な空気に包まれていた。
数少ない使用人たちが松明を掲げ、血相を変えて暗がりを走り回っている。
「―――りません!」
「もういいから早く! 斧でも持っ――」
地を蹴り上げる馬片の足音に驚き振り返った使用人たちの前に、夜の闇よりも濃い漆黒を纏ったルーカスが降り立った。
「だ、誰ですかこんな夜な――」
「エレノア・ヴィルディエ嬢はどこだ」
その只ならぬ覇気に誰もが後ずさる中、老メイドのマリーだけが真っ直ぐに彼を見つめ、安堵と悔しさが入り混じった涙をこぼした。
「あぁ……貴方が、貴方様があの…」
言葉を交わす猶予すら惜しみ、ルーカスは促した。
「案内を頼む」
マリーが駆け出したのは、屋敷の裏手にひっそりと佇む古い木造の物置小屋だった。
走りながら、マリーは震える声で絞り出す。義母がエレノアを屈服させるため、過去のトラウマを利用して定期的に閉じ込めていたこと。そして、鍵を持ったまま夜会へ向かってしまったことを。
「お嬢様に呼びかけても返事がないのです...! 鍵を探させていますが、見つからず……!」
その時、背後から車輪の音が響き、追いついたルーカスの従者たちが馬車で駆けつけてきた。手持ちの医療鞄と水袋を抱えて走り寄ってくる。
マリーは血の気の引いた顔で、ルーカスを見上げた。
「――扉ごと、壊してください! 責任は私が取ります、どうかエレノア様を……!」
「……言われるまでもない」
ルーカスは迷いなく小屋の扉へと踏み込んだ。
取ってつけたような鉄の掛け金に、分厚い南京錠がぶら下がっている。
ルーカスは素手でその南京錠ごと掛け金を鷲掴みにした。
捲くり上げた袖から太い筋が浮き立ち、歯を食いしばる頬が硬く強張る。
――みし、と不吉な軋みがあがり、次の瞬間には掛け金を留めていた古い木枠が豪快に砕け散った。
金属が石畳に転がる乾いた音が響く。ルーカスはそのまま打ち破られた扉を力任せに開け放った。
カビと埃の入り混じった酷く淀んだ空気が鼻をつく。月明かりが差し込み、夜風に舞う埃がまるで灰雪のように漂っていた。
松明の灯りが照らし出した暗闇の奥―――
冷たく硬い床の上に、身を丸めてうずくまる彼女の姿があった。
従者らの視界の中で、ルーカスは彼女の側で静かに膝をついた。
彼女に触れるその手つきは、まるで時が経って脆くなった硝子細工を扱うかのように、過剰なまでに慎重で、痛いほどに、酷く優しいものだった。
彼の指先が彼女の首筋へと伸ばされる。触れるか触れないかの圧力で皮膚に添えられた指の下で、ごく微かに、けれど慌ただしく打つ小さな脈動が、薄い皮膚を押し上げている。
次に、指の甲が彼女の口元へとかざされる。彼女の胸の上下は極めて浅く、着ている衣服の皺ひとつ動かない。差し出された彼の手のひらに、かすかな吐息が当たっているのかどうか、少し離れた位置に立つ従者の視点からは判別がつかないほど、呼吸というよりは、体内に残った微かな熱が漏れ出しているだけのように見えた。
最後に、彼の親指の腹が、彼女の唇にそっと滑らされた。
水分を失った唇は白く乾き、幾重もの細かい亀裂が走っている。彼の指先は、そのひび割れを押し広げてしまわぬよう、ただ温もりの重みだけをそっと置くように、一瞬だけ留められていた。
その光景に、誰一人として声を上げることはなかった。使用人たちは固く口を結び、込み上げる嗚咽を必死に喉の奥へ押し殺している。静まり返った空気の中、ただ神に救いを乞う無言の祈りだけが充満していた。
彼は、従者から差し出された革の水袋を受け取り、水を含ませたハンカチで彼女の乾いた口元を湿らせる。微かに戦ぐ唇に、直接水滴を落とそうと試みたが、意識の混濁した彼女の口の端から透明な筋となって無情にも水が零れ落ちていく。
ルーカスは迷いなく自らの口に大量の水を含むと、躊躇いすら置き去りにして彼女の唇を塞いだ。
己の舌先で水流を繊細に制御し、喉へと滑り込ませていく。一度、二度――失われかけた命の灯火を繋ぎ止めるように、何度も、何度も自らの息吹とともに命の滴を流し込んだ。
やがて、彼女の胸元が途切れ途切れに小さな上下を始めたのを確認すると、ルーカスは羽織っていた重厚なジャケットでその華奢な躯体を優しく包み込み、そっと抱き上げた。
「……彼女の部屋へ」
擦り切れたルーカスの低い声に応え、マリーが頷いて先導する。
案内されたのは、子爵令嬢の私室とは到底思えない。報告書に書かれた通りの、狭く、冷たい空気が溜まった屋根裏部屋。
換気のために開け放たれた小窓から、夜風が吹き込んでくる。
ふわりと煽られた風によって、机の上に積み上げられていた分厚い束が床へと舞い散った。
視界の端に掠めたその紙片には、びっしりと書き込まれた領地運営の計算式や、当主である義父が決済すべき書類の数々が残されていた。この狭小な部屋で、彼女が背負わされていた不条理の重責がそこら中に転がっている。
ルーカスは、軋む狭いベッドへエレノアの体をそっと横たえた。
「う……ぅ……」
背中が冷えた布地に触れた瞬間、エレノアの口から痛みに耐えかねた小さな呻きが漏れる。
「私が、お着替えを……」
手当てのためにマリーが一歩進み出ようとしたが、ルーカスは無言でそれを片手で制した。
「……俺がやる」
「で、ですが、未婚の淑女の肌を殿方が――」
「分かっている。……だが」
喉の奥で言葉を押し潰す。
「……今だけは、他の誰にも…彼女に触れさせたくない」
それは、立場を捨て倫理も理性も塗りつぶしてしまうほどに昏く、逃げ場のないほどの強い感情。
「……君は水を汲んできてくれ。手当ての布と、足りなければ薬も」
「……はい、承知いたしました」
マリーたちが静かに退室し、重い扉が閉まる。足元に医療鞄を置いたルーカスは、ベッドの縁に重く腰を下ろし、微かに息を乱すエレノアの顔を覗き込んだ。
「……すまない。あなたの尊厳を踏みにじるなど…許さなくていいから…」
熱を帯びた低音で謝罪を落とし、彼女の着ているシュミーズへと指を伸ばす。
すべてを一気に脱がせることはせず、慎重に、背中の布地だけを剥がそうと試みた。しかし、乾ききった血と体液によって、生地はすでに彼女の肌へベったりと固着している。
強引に引っ張れば、皮膚ごと引きちぎってしまう。
ルーカスは呼吸を止め、極限まで神経を研ぎ澄ませた指先で、ミリ単位の慎重さをもってリネンを静かに引き剥がしていく。
――めり、と、耳朶を撫でるような微小な音が響いた。
それは布地と共に剥がれ落ち、引きちぎられたその合間には白濁した黄濁の膿が溜まり、生々しく腫れ上がったミミズのような溝に沿って、濁った体液とともに静かに零れ落ちていく。
胸の奥を強烈な毒で満たされるような、あるいは刃で何度も刻まれるような感覚―――
何という言葉を使えばこの感情を定義できるのか、ルーカスは喉を焼き尽くす思いのまま、ただ声を上げて叫び出したい衝動に駆られていた―――
―――
手当てを終え、綺麗に拭われたエレノアは、吸い込まれるような深い眠りについていた。かすかな規則正しい胸の上下。先ほどまでの死の気配は消え去り、穏やかな体温を取り戻している。
傍らに腰掛けたルーカスは、その寝顔から片時も視線を外すことができずにいた。
トントン、と遠慮がちな小さなノックの音が静寂を割る。
「旦那様……そろそろ戻らねば、時刻が……」
入り口から顔を出した従者が、返事のない主人の横顔へ申し訳なさそうに視線を向けた。だが、ルーカスは彼女の細い手首にそっと触れたまま、動こうとしない。
「……ブランシェ伯爵様。奥様たちが夜会から戻られる前に……どうかお帰りになってください」
マリーの静かな促しにも、ルーカスは心ここにあらずといった様子で、愛おしそうにエレノアを見つめ続けている。彼女の肌の温もりが消えてしまうのを恐れるかのように――
やがて、長い沈黙のあと、ルーカスは断腸の思いでゆっくりと立ち上がった。
「……彼女の意識が戻ったら、手紙を…出してくれないか」
低くかすれた声で、ルーカスはマリーに言い含める。
「私は今……仮住まいに滞在しているゆえ…どこで誰の目が光っているか分からないんだ。情報が漏れるのを防ぐため、宛名は書かず、あの者に手紙を渡してくれ」
「……ええ、分かっておりますわ。あの方から名刺を預かっておりますので、そちらへ確実にお届けさせます」
ルーカスは一度視線を落とし、絞り出すように言葉を足した。
「……勝手に屋敷の事情を詮索させた無礼は、深く詫びる。申し訳なかった。―――だが、後悔はしていない」
エレノア自身は詮索されたことすら知らない。だからこそ、事情を知るマリーだけに向けた真摯な謝罪だった。マリーは深く首を振った。
「謝られることなどございません。…ブランシェ伯爵様が来られなければ今頃お嬢様は……」
涙ぐむマリーの言葉を受け止め、ルーカスはエレノアの額に一度だけ熱い視線を落とすと、再び夜の闇の中へと消えて行った。
マリーは彼が見えなくなるまで頭を下げ続けた。
(本当…逞しくなられて…)
◇
翌朝、まだ夜明かりの残る薄暗い空の下で、エレノアは静かに目を覚ました。
マリーが替えの水桶を手にして部屋に入ると、ベッドの上で体を起こし、じっと小窓の外を見つめているエレノアの背中が目に入った。
「お、お嬢様……! お目覚めになったのですね……! 気分はいかがですか? 吐き気や、お痛みは……?」
水桶を置き、血相を変えて駆け寄るマリーに、エレノアはゆっくりと振り返った。その瞳には、昨日までの悲壮感はなく、どこかぽかんとした温もりが宿っている。
「…いい夢を見たわ」
「……え?」
「とても……優しい夢を見た気がするの」
エレノアは自分の唇にそっと指先を当てた。冷え切っていたはずの喉に満ちる水の感触や、自分を包み込んでくれた重く愛おしい体温の記憶。それが夢なのか現実なのか、今の彼女には区別がつかない。
「……そうですか。いい夢を……」
マリーは込み上げる涙を必死に押し殺し、優しく微笑んだ。
「そうだ……マリーがこの傷口を手当てしてくれたのね。ありがとう、あなたには助けられてばかりね」
自分にかけられた清潔な布と、丁寧に手当てされた背中の痛みを感じながら、エレノアは微笑む。
マリーは一瞬言葉を詰まらせ、胸の奥を刺されるような愛おしさと切なさでいっぱいになりながら、深く深く頭を下げた。
「……いいえ、お嬢様。私は……ただ、お傍にいただけですのよ」




