04_薔薇の庭園とその主
サロンが始まり、10名ほどのゲストたちがミシエル夫人のお茶会を楽しんでいた。
齢70を迎えてなお背筋を美しく伸ばし、圧倒的な品格と凄みを放つミシエル夫人は、エレノアとルーカスへ静かな視線を送っていた。
「久しぶりね、エレノア。貴女は会うたびに、その静かな美しさに拍車がかかるわね」
「お久しぶりでございます、ミシエル夫人。身にあまるお言葉でございますわ。
ですがかつて『薔薇の夫人』と社交界を平伏させた夫人の気品には、到底及びません」
「ふふ、上手な口を叩く子。……それにしても、まさかエレノアが連れてきたお供が、あの『ルーカス坊』だなんてねぇ」
ミシエル夫人は可笑しそうに扇で口元を覆うと、ルーカスをジロリと眺めた。
「ルザリアとリュシーの跳ねっ返り娘らは、元気にしているかしら?」
「ええ、もちろんです。姉たちは遠方の嫁ぎ先で、相変わらず悠々と夫を尻に敷いて過ごしておりますよ」
「まったく、あの暴れ馬たちがよく名家に嫁いだものだわ。――それはそうと、普段は顔も見せない引きこもりの伯爵様が急に参加したい、と手紙を寄越したときは目を疑ったわよ。ほんと、薄情者よね。
今日は私の隣に座って、老人の退屈を紛らわせなさいな」
「はは、『薔薇の夫人』の引き立て役に指名されるとは、光栄の至りにございます。どうぞ忘れぬよう、この薄情者をしっかりと目に焼き付けてください」
かつて二人の姉を一人前に社交界へ送り出してくれたミシエル夫人に対し、ルーカスもどこか砕けたユーモアを交えて親愛を示す。
ミシエル夫人は満足そうに頷くと、エレノアへ視線を移した。
「そうだわエレノア、久しぶりに貴女のピアノが聴きたいわね。今のこの穏やかな木漏れ日にふさわしい旋律を、弾いてくださるかしら?」
「ミシエル夫人のご望みとあらば、喜んでお応えいたしますわ」
エレノアは静かに立ち上がり、部屋の隅に鎮座する象牙の鍵盤の前へと腰掛けた。
鍵盤に細くしなやかな指が触れた瞬間、サロンの空気が一変した。
奏でられたのは、春の芽吹きと光の粒子を感じさせるような、優しく、けれど胸を打つほど美しく切ない旋律だった。
エレノアは途中でそっと目を閉じた。視界を閉ざしてもなお指先には一切の迷いがなく、まるでピアノという楽器そのものと深く対話しているかのような音楽を紡ぎ出していく。
「……なんと、素晴らしい」
ルーカスの口から、感嘆の息とともに言葉が漏れた。彼の鋭い感性が、その美しい音楽の中に隠された圧倒的な気品と、どこか深く静かな「孤独」を感じ取っていたのだ。
その呟きを聞き逃さなかったミシエル夫人は、ルーカスの真の目的に感づいたように、低く静かな声で語り始めた。
「素晴らしいでしょう。私自らが手ほどきをして、その才能を開花させたのよ。初めは聴くにも堪えない硬い音だったというのに……まぁ」
ルーカスの熱い眼差しの先を追いかけてミシエル夫人はくすりと悪戯っぽく微笑み、言葉を継いだ。
「ふふ、貴方もエレノアの音の前では毒気が抜かれるようね。
……もしもあの子の両親が生きておられたなら、今頃この国の社交界の頂点に立っていたのは、ヴィルディエ子爵家だったでしょうに」
誇らしげに、けれどどこか悲しげに語るミシエル夫人に対し、ルーカスは片眉を上げた。
「……それは、どういう意味でしょうか? ヴィルディエ子爵家に、何か特別な事情でも?」
ミシエル夫人は優雅な手つきで扇をパチンと閉じると、静かにため息をついた。
「あら……ルーカス坊が領地に引きこもっていたというのは、どうやら噂通りだったのね。都の社交界で、彼女がどのような環境に置かれているかを知らぬ者などいないというのに。耳にも届いていなかったなんてね」
「ミシエル夫人。不躾を承知で伺います。詳しくお聞かせ願えませんか」
「―――ここで話すには、少々風情を欠く内容だわ。老婆の戯言だと思って流しなさいな。あぁ――それとも、なりふり構わず参加してきた無鉄砲な坊やには、若い淑女の背景一つ自力で調べる根性もないかしら?」
刺のある言い回しとは裏腹に、ミシエル夫人は切ない瞳でピアノに向かうエレノアを見つめた。
「不憫なものよ。あのように気高く、洗練された才能と聡明さを持った娘が不当な扱いに耐え、その美しき羽を毟られているのだから……」
ミシエル夫人の言葉はそこで切れた。しかし、ルーカスの胸には重く鋭い楔が打ち込まれたようだった。
「ルーカス、一つだけ忠告をしてあげるわ。あの子を追い詰めないことね。エレノアは自らの立場を冷徹なまでに理解し、引き際を知る子よ。……極めて細い糸の綱を渡るようにして、生き抜いてきたのだから。
追い詰められれば彼女は一切の未練もなく、特別な感情も――己の存在すらも、容赦なく捨て去ることができるわよ。
――そうやって身を守ることを選ぶしかないからね」
先程までのからかいを止め、静かに諭すような声音。
「貴方の溢れんばかりの自信と熱意は美徳だけれど、今のあの子にとっては身を切り裂く刃にしかならないわ。
―――しかしまぁ……取り憑かれてしまったのね、ルーカス」
エレノアが最後の美しい和音を響かせ、静かに鍵盤から手を離すと、サロンは割れんばかりの拍手に包まれた。エレノアは立ち上がり、慎み深く頭を下げた。
ルーカスは重い息を吐き出し、ミシエル夫人に向き直った。
「……金言、胸に刻みます。改めて、本日の参加をお許しいただいた礼を―――
はは……おっしゃる通り、私は取り憑かれてしまったようです」
ルーカスはミシエル夫人の手の甲にそっと唇を寄せ、静かに口角を上げた。夫人もまた、ふっと息を漏らす。
「……お行きなさい」
ルーカスはまっすぐにエレノアの元へ歩み寄った。その瞳には先ほどまでの熱気に加え、深く重い思慮の色が混ざり合っていた。
「素晴らしい演奏でした、ヴィルディエ嬢。あなたの奏でる旋律には、人の魂を揺さぶるものがあります」
エレノアはルーカスの視線を受け止め、先ほどとは違う、柔らかく穏やかな笑みを浮かべた。
「お褒めいただき光栄ですわ――ですがこれは、本日の穏やかな木漏れ日のおかげ――そして何より、ミシエル夫人の素晴らしいサロンの空気が私に旋律を与えてくださったのです」
ルーカスはその慎ましい姿を見つめながら、固く心に誓っていた。ミシエル夫人が言った「不憫な環境」とは何なのか。
(調べ上げなければ―――そして、彼女を——)
「よろしければ、庭園を散策いたしませんか? ここまで素晴らしい薔薇の香りが漂ってきており、ぜひお近くで拝見したく」
「……え? ですが、皆様が――」
「エレノア、案内して差し上げなさいな。気になったら猪突猛進で止まらないのは、この坊やの悪い癖なのよ。
まったく、幼い頃からの悪癖が今も抜けないなんてねぇ」
いつの間にか後ろに立っていたミシエル夫人が、そっとエレノアの肩を撫でた。
「……はい。では、ご案内いたしますね」
庭園には、色とりどりの薔薇が溢れんばかりの日差しを浴びて咲き誇っていた。
公爵家の名に恥じぬ、派手さに頼らない素材の良さと計算された配置。その品格ある佇まいに、エレノアはいつ見ても圧倒される。
「素晴らしい。これほど見事に手入れされているとは」
「はい。庭師もおりますが、薔薇の多くはミシエル夫人自らがお世話をなさっているのですよ」
「流石の一言ですね、愛がなければこうはならないでしょう。
ヴィルディエ嬢も花はお好きですか?」
「そうですね――幼い頃はよく押し花をして、本に挟む栞を作っておりました。美しい花を嫌いな令嬢など、おりませんでしょう?」
「なるほど。ならば私も、今後は花を愛でる勉強をせねばなりませんね――特にお好きな花はございますか?」
「好きな花、ですか――?」
「深く悩まないでください。ただ――次にお会いするとき、あなたに贈ろうと考えていただけですから」
(――この人は、その言葉の意味をわかって言っているのかしら)
エレノアは立ち止まり、意を決して振り返った。
「ブランシェ様―――そのようなお心遣いは、ぜひ他の可憐な若い淑女様方へお贈りくださいませ。私には、あまりにも身に余るものでございますから」
ルーカスの穏やかだった表情が一変した。声音が低く沈み込む。
「……なぜです? ……もしや私の提案がご迷惑でしたか? それとも、私が何か失礼を?」
「いいえ……! 滅相もございません―――違います、違うのです―――ただ……。どうか、慈悲深い伯爵様のお心で…この身勝手な私をお許しくださいませんか」
「―――なぜ許しを乞うのですか? まるで……もう二度とお会いできないとでも仰るような
まさか―――本気で…?」
「……ブランシェ様が、私に同年代としての親しみを持って接してくださったことは重々承知しております。ですが……先日の華々しい夜会で、すでに多くの素晴らしい淑女様方とご縁ができたはずです。これ以上私と――」
「はっ…――だから他の女のところへ行けと?」
言葉を遮り、ルーカスの射抜くような鋭い視線が突き刺さる。
エレノアは静かに微笑みを浮かべていたが、その指先が小さく震えているのを、ルーカスは見逃さなかった。
(——しまっ……)
彼女の怯えと震えを察した瞬間、ルーカスは一気に冷や汗をかき、頭を白くさせた。
ミシエル夫人の「あの子を追い詰めないこと」という忠告が頭の中を駆け巡る。
「……申し訳ありません。つい、焦ってしまいました」
ルーカスは頭を下げ、深く悔いるように言葉を絞り出した。
「ですが、ヴィルディエ嬢。……あなたの取り巻く環境や境遇をすべて知った上で、それでもなお私があなたを強く焦がれたなら……その時は―――」
顔を上げた先、そこにあるのは光を固く閉ざした枯れたひまわりのような―――それを見つめ、ルーカスは言葉を飲み込むと深く息を吐き出した。
「―――いえ。ひとまず、戻りましょう。風が出てきました、お体が冷えてしまいます」
先ほどまでの自信に満ちた自分はどこへ行ったのか。社交界の無駄な駆け引きなど容易いと高をくくっていた男が、彼女の前ではことごとく計算を狂わされ、無様に焦って冷や汗をかいている。
距離を縮めようと足を踏み出すたびに、彼女は優雅に、けれど決定的な一線を引いて遠ざかっていくのだ。
(くそ……我を見失っていた。これではただの分からず屋ではないか―――あんなにも困らせた顔をさせるなど……!)
不規則な脈を打ち続け、ミシエル夫人の「自分自身を容赦なく捨て去ることができる」という言葉が、不気味なリアリティを持ってルーカスの胸を締め付けた。
おぼろげな記憶の中、なんとかエレノアを馬車までエスコートすると、見送りに立っていたミシエル夫人がルーカスの背中をバシリと強く叩いた。
「ここで逃げ出したら、承知しないわよ」
「……ええ。何としてでも」
―――
ペントハウスへ戻ったルーカスは、追従してきた若い従者に冷徹な声で命じた。
「至急、調べてもらいたいことがある」
指示を受けた従者は、青ざめた兎のように部屋を飛び出していった。
いつも落ち着き払って余裕のある姿が消え、まるで別人かのような当主のその表情に、身の毛がよだつほど――
ミシエル夫人は口が悪いです、本人はそれを歳のせいにしています。




