03_星夜の焦がれと境界の朝
ミシエル夫人の邸宅で開催されるサロンの朝――エレノア・ヴィルディエは薄暗い屋根裏部屋の姿見の前で、目の下に落ちた影をそっと撫で、それを覆い隠すように丁寧に粉をはたき、化粧を厚くした。
先日の夜会でルーカス・ブランシェ伯爵と踊ったこと、そして彼が本日のサロンに参加すると知った義妹・ブリジットの憤怒は、想像の域を越えたものだったのだ。
―――
屋敷では静寂を切り裂くように、耳を鳴らせるほどのわめき声が響いていた。
「あぁ! 許せない……っ!! お母様……! 早くあの女を追い出してよ! きっとルーカス様は、あの女狐に巧みに唆されたに違いないわ!」
「落ち着きなさい、ビディ。私たちが一番よく分かっているでしょう?
この国一番の富を誇る伯爵家の若き当主が、婚期の遅れた子爵家の余り物を本気で欲するわけがないってこと。
それに、あの方はダンスなどろくに嗜まないお人だと噂じゃない。外聞のために、足を踏みつけても文句を言わない大人しい『練習台』を選んだだけよ」
「―――だとしても! 目を合わせたことも、その手を取り合ったことにも腹が立って仕方ないのよ! 私が行くはずだったのよ!? 本来なら私がルーカス様と舞踏会を舞って――あのサロンにだって……っ!」
「あぁ…ブリジット、貴女の悔しさはよく分かるわ……けれど今回、『お仕置き』は厳禁よ。今の貴女では、加減できずに顔にまで痕を残してしまうでしょう?
亡き子爵の娘の顔に傷など作って、もし貴方が非難を浴びたとしたら――?
――ねぇビディ?賢い貴方なら分かるわよね」
茶を含ませた赤毛を逆立て、涙を流して激高する義妹。
噂でしか聞いたことのない幻のような男と、やむを得ず欠席した夜会でまさかあのエレノアが出会った――その事実に、ブリジットは狂乱に近い怒りを抑えきれなかった。
怒り狂ったブリジットはエレノアの部屋へ踏み込むと、部屋を荒らし、彼女がサロンのために用意していた唯一のまともなドレスをハサミでズタズタに切り刻み、踏みにじっていった。
目の前で行われた凄惨な光景に、エレノアはただ言葉を失っていた。
(あぁ……安易だったわ。あの夜会での振る舞いが、これほどまでに妹を刺激してしまうなんて……。このままでは、本当に命の危険すら――)
エレノアはあの夜会で胸の奥に芽生えた熱い感情に固く鍵をかけ、冷たい暗闇の底へと深く沈めた。
ブリジットが去った後、無惨に切り刻まれた布切れを拾い上げるエレノアのもとへ、怒号を聞きつけた老メイドのマリーが静かに忍び込んできた。
「エレノア様……! まぁなんということでしょう… よろしければ、あのラベンダー色のドレスに刺繍を施しましょうか…? 生地も形もお綺麗なものですし、そうすれば――」
「ダメよ、マリー……。ただでさえ、貴女は屋敷の仕事で手一杯でしょう?」
「ですが、これでは……っ」
「―――そうね。なら……私に刺繍の針と糸を貸してくれないかしら…? その…無くなってしまって」
エレノアの珍しい頼みに、マリーはほっと息をつかせて心から頬を緩めた。
「もちろんでございます……! こういったこともあろうかと、大事にとっていた素晴らしい銀と緑の糸がございますのよ!」
シワの刻まれた優しい手の温もりに、先ほどまで凍てついていたエレノアの心が少しずつ解けていくのを感じた。
「本当、頼もしいわ……どうもありがとう」
―――
マリーからそれらを受け取り、サロンの日までエレノアは夜通し針を動かし続けた。
装飾の削ぎ落とされたシンプルなラベンダー色のドレスに、細やかな銀と薄緑の糸で繊細なスズランの意匠を施していく。
(ミシエル夫人のサロンに集うのは、社交界でも屈指の慧眼をお持ちの方々……。手を抜くことはできないわ)
刺し上がった一着は、派手な華やかさこそないものの、慎ましくも凛とした気品を漂わせる洗練された装いとなっていたが、仕立てた本人は途方に暮れるほど自信を持てずにいた。
小鳥が鳴き初め、冷たい空気の中、窓からは眩い朝日が差し込む。
そこでようやく指先の痛みを感じた。
(もう―――やってきてしまったのね)
古い馬車へ向かう足取りはどこか重い。
目を閉じれば、あのルーカスの情熱的な眼差しが脳裏をかすめる。洗練された佇まいの中に覗いた、あの真っ直ぐで不器用な瞳。
今日は彼に、明確な『線』を引き、去らなければならない。
(……ちゃんと、言えるかしら)
―――
古い馬車に長く揺られた末、ミシエル夫人の威厳あふれる格式高い邸宅が見えてきた。
ミシエル夫人のサロンは、社交界において特別な意味を持つ。
かつて「薔薇の夫人」と称され、数多の貴族の子女にマナーと教養を叩き込んできた彼女の威厳は、第一線を退いた今もなお絶大だ。
エレノアの義母や義妹でさえ、ミシエル夫人の招待には一切の不敬も嫌がらせも仕掛けられない。前公爵夫人という格上の相手では為す術が無いのだ。
それゆえに、エレノアにとってこのサロンは、息を吸うことができる数少ない「聖域」であった。
門を守る騎士に会釈をし、館の前庭へ足を踏み入れようとしたその時、重厚なブランシェ伯爵家の馬車から一人の男が降り立つところだった。
「……ヴィルディエ嬢」
ルーカス・ブランシェ―――彼はエレノアの姿を認めると、吸い寄せられるような確かな足取りで歩み寄ってきた。
仕立ての良い濃紺のジャケットを纏った姿は、朝の柔らかな光の中で息をのむほど美しい。
「ごきげんよう。さあ、どうぞ手を」
エレノアは戸惑いながらも、滑らかな動作で差し出された彼の手にそっと手袋を重ね、馬車を降りた。
「ブランシェ様、ご親切にありがとうございます」
「いえ――先日は失礼いたしました、ヴィルディエ嬢。……恥ずかしながら、本日という日を待ち遠しく思うあまり、昨夜は幾度も夜空の星を眺めて夜を明かしてしまいました」
ルーカスは真面目な顔で、しかしどこか不器用な熱を込めてそう告げた。
皮肉屋でストレートな物言いゆえに、腹の探り合いばかりの社交界からは浮いてしまう頑固者のルーカス。
だが、目の前のエレノアに対してだけは、慣れない言葉を整え、胸にある本音を不器用なまでに真っ直ぐ差し出してしまう。
エレノアは動揺を隠して優雅に微笑んだ。
「まあ、星をご覧になっておられたのですか。昨夜は素晴らしい秋晴れの夜空でしたから、きっとブランシェ領の美しい星空をお思い出になられていたのでしょうね。本日のサロンでも、それほどにロマンチックで素晴らしいお話を伺えることを楽しみにしております」
またしても見事にかわされたルーカスは、己の浮ついた動揺を悟られまいとするように深く一礼した。
「……えぇ、はい――まさに仰る通りでございます。えぇ―――我が故郷の星に思いを馳せておりました」
そのまま隣に立ち、当然のように腕を差し出してエスコートの姿勢をとるルーカス。
その時、彼の視線がエレノアのラベンダー色のドレスへと落ちた。
エレノアの背中に一瞬、緊張が走り、扇を握る指先に力が入る。
(可笑しくはないわよね……? 貧相だと失笑されてしまうかしら)
仕立ての良い装いを纏うルーカスと自分を比べ、その圧倒的な「差」からこみ上げる羞恥に身を隠したくて仕方がなかった。
(あぁ――どうか見ないで――)
あばら骨を突くほど暴れる心臓の音が、自分の惨めさを嘲笑っているようだった。
彼に見つめられるたび、刺繍の縫い目の荒や、型遅れの生地を誤魔化した痕跡が見抜かれてしまうのではないかと嫌でも気にしてしまう。
しかし、ルーカスは目元を柔らかな笑みで緩めると、低く心地よい声で囁いた。
「素晴らしいスズランの刺繍ですね。朝露に濡れる本物の花のようで……大変可愛らしく、あなたによくお似合いです」
( あぁ―――ああぁ―――)
建前であっても構わなかった。
その温かな響きにエレノアの胸がギュッと締め付けられる。
感謝の言葉すらすぐには出てこず、こみ上げてくるものを抑えただ必死に微笑みを保つのが精一杯だった。
そんなエレノアのかすかな機微を、ルーカスが見逃すはずはなかった。
目の下に隠された疲労の影、そしてどこか怯えるように自身と距離を置こうとする気配。
腹に一物抱えた連中の無駄な駆け引きには嫌気がさしていたが、目の前で自分の腕にそっと手を添えている彼女の態度は、駆け引きなどではなく明確な「拒絶と諦め」に見えた。
手を差し出し、すぐ隣を歩いているというのに、手中に収めたと思った瞬間に指の隙間からすり抜けていくような捉えがたさ。
完璧な淑女の微笑みの裏に、決して誰にも踏み込ませない深淵を隠している。
(もし……私が結婚というものを考えるとするならば――)
そこまで思考して、ルーカスはハッと息を呑んだ。
エスコートのために折った己の腕に、そっと触れているエレノアの白く繊細な手袋。そして、横を歩く彼女の横顔へと思わず視線を落とす。
生まれて初めて「掴みきれない」と焦燥を覚えた存在。
この感情が何なのかも分からぬまま、ただこれほど近くにいながら捉えきれない彼女の存在が彼の理性を激しく揺さぶっていた。
そして、先ほど一瞬よぎった己の思考の飛躍に思わず呆れ果てる。
(……ったく、気が早すぎるだろ)
自嘲気味に胸中で呟いたルーカスは、手繰り寄せるように口を開いた。
「ヴィルディエ嬢はミシエル夫人と仲がよろしいのですか? あの方は人をよく選ぶ」
「――昔、母が世話になっておりましたの。赤子だった私を抱いてくださったこともあるのだとか……。
それゆえによくしていただいております。ブランシェ様は面識がおありで?」
「えぇ、もちろんです。とは言っても長い間顔を出していなかったのでね……トゲを刺されるのではないかと不安でたまりません」
「…ふふ、それならば募るお話もございましょう」
館に近づくにつれ、庭園の花の香りが濃くなり、集う者たちの話し声が耳に入り始めた。
もう少し、あと少しだけ――そう拒むように、ルーカスは合わせていた歩幅をわずかに小さくした。
この些細な機微を、エレノアは感じ取っていただろうか。
差し込む陽光から彼女を守るように無意識に陰を作り、腕に添えられていた手をとってエスコートし直す。
その指先のあまりの柔らかさが、先ほど気が早まったはずの思考を再び不条理なまでに燃え立たせた。
「……さあ、到着いたしましたよ、ヴィルディエ嬢」
こんにちは和久井です。
ルーカスの言葉にエレノアはどれほど救われたのでしょうね。
あと、女性慣れしている男性が気になる女性の前ではことごとく不器用で愚かなのが好きです。
頑張れ、ルーカス




