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02_視線の先には

「さて、せっかく素晴らしいご友人と出会えたのだ。記念に踊ってはどうだ?」


ジュリアンの提案に、ルーカスは即座に首を振った。


「遠慮しておこう。淑女の足を踏みつける趣味はない。私はダンスなどとは無縁の男だ」


「あら、まあ」


エレノアは意外そうにルーカスを見つめた。

「見事な体躯をお持ちで、乗馬もお得意と伺いましたのに、ダンスはお嫌いなのですか?」


「嫌いというより、訓練をしていないのです。わざわざ他人の機嫌を取るために踊る理由が見当たらなくて……あ、いえ、すみません。また失礼を…」


言葉遣いを正そうと気を遣いかけたものの、またしてもひねくれた本音が口を突いて出てしまい、ルーカスは気まずそうに口元へ手を当てて眉をひそめた。


(ふふ、案外表情がころころ変わるのね。親しみやすいお方だわ)


ルーカスの素直な態度に、エレノアの唇が自然と綻ぶ。


そんな三人の間に流れる打ち解けた空気を読み取ったのか、先ほどからルーカスに話しかける機会を伺っていた令嬢が一人、勇気を振り絞るように近づいてきた。


「ごきげんよう。何のお話をされていらっしゃったのですか、エレノア様?」


繊細で透き通るような声の主は、昨年デビュタントを終えたばかりの若い令嬢、セシリア・ローランド子爵令嬢だった。

頬を綺麗な桃色に染めた彼女は、エレノアから見てもとても可愛らしく可憐であった。

そんな美しい令嬢も間違いなく社交界の珍しい客人であるルーカスに目を奪われている様子だった。


「あら、セシリア様。本日も大変お美しいわ。その真珠の髪飾りが、貴女の上品な髪によく映えてとても素敵ですね。

先ほどブランシェ様とご挨拶を交わしたばかりなのです」


「あら、左様でしたのね」


セシリア嬢は恥ずかしそうにルーカスへ目を配り、優雅にお辞儀をした。ルーカスもまた紳士としての辞儀を返し言葉を交わし合う。しかし、そのさながらルーカスの視線はエレノアから離れていなかった。


「あ、あの……ブランシェ様。よろしければ、私とダンスを……」

「あぁ、失礼ですが――」


恥ずかしそうに手を差し出すセシリア嬢に対し、ルーカスがすかさず断りの言葉を口にしようとしたその瞬間、エレノアが滑らかな声でそれを遮り、ジュリアンに向かって尋ねた。


「ジュリアン様。ブランシェ様の運動神経はよろしい方なのかしら?」


「ん?ああ、もちろんさ。 馬術も剣術も完璧で、一度見たり教わったりした動作は、完璧に再現してみせる男だよ」


「まあ、それは頼もしいことですね」


(ここで間髪入れずに断ってしまっては、セシリア令嬢のお心が傷ついてしまうわ)


エレノアはルーカスに向き直ると、静かに自らの白い手袋に包まれた手を差し出した。


「では、ブランシェ様。素晴らしい運動神経をお持ちのあなたに、私からご提案がございます。

…素敵な殿方とのファーストダンスを夢見る可憐な少女たちのために、まずは私が手ほどきをさせていただきますわ」


「まあ! それはとても心強いですわ」

「おいルーカス、エレノア嬢の足を挫かせるなよ」

セシリア嬢が嬉しそうに声を弾ませ、ジュリアンはここぞとばかりにからかう。


ルーカスは戸惑ったように彼女の手と、そのひまわりの瞳を見つめた。


「……本気ですか? 私に教える時間などあなたにとって無駄でしょう。ジュリアンの言った通り足を――」


あれやこれやと断りの算段をたてるルーカス。


(余程苦手なのかしら――?)


「無駄などではありませんわ。……それに」


エレノアは、ルーカスだけに聞こえるような小声で、ふっと優しく囁いた。


「遠くでお帰りを待っていらっしゃるお姉様方へ、最高のお土産話になるのではございませんか? 『都で淑女と見事に踊ってみせた』と報告できれば、皆様きっとお喜びになるはずです」


ルーカスは必死に戸惑いを隠した。彼女の手に宿る温もりと、どこまでも穏やかでありながら芯のある瞳。その完璧な理屈と、かすかな情けに打たれ、ルーカスは降参したように深くため息をついた。


(あぁ――彼女の前だとどうして強気になれないのか)


「……あなたのその口回りには、誰も勝ち目がないようだ」


ルーカスは静かに彼女の手を取った。


曲が始まり、二人はフロアの中央へと進み出

た。最初はぎこちなかったルーカスのステップだったが、ジュリアンの言った通り彼は一度エレノアが導いたリズムをすぐさま身体に馴染ませていった。

洗練されたルーカスの佇まいと、エレノアの優美な身のこなしは、周囲の視線を奪い去った。


「驚きました――本当に一度で完璧に覚えてしまわれるのですね。

謙遜されていらっしゃったのですか?」


「あなたの導きが良いからでしょう――悪くないものですね、誰かと合わせて踊るというのも」


「ふふ、光栄なお言葉です」


手を取り、互いの呼吸を合わせてリズムに乗る。色めき立つ会場の熱気をエレノアは肌で感じとっていた。


「ところで、ヴィルディエ嬢のパートナーはどちらに?」


「あ――いえ、本日は代理ですので」


「代理? 貴方はたしか、ヴィルディエ家の長子では……」


不意に影を落としたエレノアの表情に、ルーカスはほんの小さな違和感を覚えた。しかしエレノアはすぐさま柔らかな笑みを浮かべ、話題を変えた。


「……それよりも、お聞きしたいことがあったのです。ジュリアン様との会話から、結婚する気がないわけではないとお見受けいたしましたけれど」


「――ええ、もちろんです。私はこのブランシェという家名と領地を愛しておりますから。高望みしているわけではありませんが…私と同じように誇りを持ち、それらを愛してくれる女性と添い遂げたいと思っているのです。……馬鹿らしいとお笑いになっても構いません」


「いいえ、滅相もございません」


(意外だわ……家のために政略結婚を結ぶのが当たり前のこの時代に『愛』を基盤にしていらっしゃるのね)


ダンスの最中、初めてだと言っていたルーカスがささやかな気配りでエレノアを疲れさせないようリードしてくれているのが手に取るように分かる。エレノアは心からの温もりを込めて微笑んだ。


「そのお言葉を聞いて、確信いたしました。……貴方の手を取り、心を通わせる令嬢は、きっとこの国で一番幸せでしょうね」


「…それは、とても有り難い賛美ですね」


旋律が終わり、二人は辞儀を交わした。

曲が終わるや否や、ルーカスの周りには大勢の淑女たちが押し寄せた。「孤高の伯爵」が踊ったという事実に、社交界の令嬢たちが色めき立ったのだ。


ダンスの相手を務めたエレノアは美しく気高いが、歳は彼のひとつ上。社交界では「行き遅れ」と噂される女であり、ブランシェ伯爵には不釣り合いだという冷ややかな目論見が周囲の頭をよぎっていた。

あわよくば自分を伯爵に紹介してもらおうと、エレノアの周りにもルーカスへ熱い視線を送る令嬢たちが集まり始める。

その腹の底をエレノアが知らないわけではない。

渦中にいたはずのエレノアは、わずかに身を引いてから空気を読んでそっとその場を離れた。少し離れた場所からルーカスの様子を見守ると、満足そうに小さく頷く。

元より顔が広く人脈も豊富だったエレノアは、こうしてルーカスを社交界の輪へと見事に引き入れたのだ。



(……さて、長居は無用ね)


家では、血の繋がらない妹が「熱が出た」と称して夜会を欠席し、エレノアに押し付ける形で参加させていた。

遅くなれば、また義母らから不当な罰を受けかねない。エレノアは知人たちへ手短に挨拶を済ませると、誰にも気づかれないよう颯爽と館を後にした。


(――あぁ…どうしてこんな時に…)


馬車へ向かう前にあまりの痛みに足が止まる。

ダンスで身体を動かしたせいか、背中の鞭の傷跡がドレスと擦れ、その熱を思い出すかのように疼いていた。


(少しだけ……心を落ち着かせましょう)


ひんやりとした夜風が吹き抜ける月明かりの庭園。エレノアは人目のない深い木立の影にある大理石のベンチを見つけ、ドレスの裾を乱さぬよう、背中の痛みを悟られない美しい姿勢のままそっと腰を下ろした。

耐え忍ぶように浅く息を吐き、母の形見のネックレスにそっと手を伸ばす。




その時――。


「……こんなところにいらっしゃったのですね、ヴィルディエ嬢」


落ち葉を踏む静かな靴音とともに、低く落ち着いた声が夜の静寂を揺らした。


驚いて顔を上げると、そこには自分を探していたのか、少し眉をひそめたルーカスが立っていた。普段の隙のない雰囲気の中に、どこか影のある表情を浮かべている。


エレノアは背中に走る激痛を必死に押し殺し、悟られぬように笑みを顔に貼り付けた。



「……ブランシェ様? どうされたのですか、このような人気の少ない場所へ―――」



ルーカスは彼女の前で立ち止まると、腕を組み、どこか不満そうに、けれど深く探るような眼差しでエレノアを見下ろした。


「それはこちらの台詞です……ひどいではありませんか、ヴィルディエ嬢」


「え……?」


「私の『ファーストダンス』を強引にさらっておきながら、終わった途端に私を淑女方の群がりの中に放り出し、お一人でこんな暗がりに隠れていらっしゃるなんて。これがあなたの言う『真の紳士の嗜み』を教える者のすることですか?」


言葉とは裏腹に、ルーカスの瞳には強い光が宿っていた。会場のシャンデリアの下ではアメジストのように見えた深い瞳が、いまは月光に照らされてより一層濃く、まっすぐにエレノアだけを捉えていた。


エレノアは一瞬呆気にとられたが、彼が心底不満そうにしている姿がおかしくなり、小さく微笑んだ。



「申し訳ありません、ブランシェ様。まさか……私のような行き遅れを探してくださるとは思ってもみませんでしたの」


「……行き遅れ?」


ルーカスは激しく眉をひそめた。その言葉の響きに含まれる歪な違和感を、彼は決して見逃さなかった。


「誰がそのような愚かな呼び方をしているのですか? あなたほどの——」


(―――あぁ…この方は…知らないのね)


「いえ、気にするほどのことでもございませんから。それよりも、ブランシェ様。淑女様方が心配されないうちに、お館へお戻りになられた方がよろしいのではありませんか?」


背中の疼きが強まり、エレノアはこれ以上長居できないと悟って静かに立ち上がろうとした。その一瞬、痛みに耐えるためわずかに指先が震え、息が詰まる。


ルーカスはそのわずかな変化——彼女が何かを隠し、必死に耐えているような気配を敏感に察知した。


(何かがおかしい……体調が悪いのか? それとも――)


歩きだそうとするエレノアの手をとっさに引き止めそうになり、寸前で思いとどまる。自らの内に芽生えた見たこともない感情の揺らぎに、ルーカス自身が最も困惑していた。

一目惚れなどという言葉で表すほど安直なものはない。


彼女の言葉、優美な身のこなし、そしてその背後に隠された「何か」に対する強い好奇心と、決して手放したくないというほどのそれにルーカスは酷く渇きを覚えた喉を潤す。




「……私は、すぐに領地へ帰ると執事に豪語していました」


ルーカスは静かに、しかし力強い声で言った。


「ですが、予定を変更しようと思います。――ヴィルディエ嬢、あなたが次にお顔を出されるお茶会や夜会は、どちらですか?」


思いもしなかった言葉に、エレノアは意外そうに瞳を瞬かせた。


「……なぜそこまで?」


「決めるのは私です。……教えていただけますね?」


夜風に揺れる白銀の髪と、凛とした彼女の立ち姿。ルーカスは心の中で固く誓っていた。社交界の虚飾の中で出会った唯一この女性のことをもっと知りたいと。

そしてエレノアもまた、目の前の不器用で真っ直ぐな伯爵に対して、胸の奥がほんのりと温かくなるのを感じていた。


だが同時に、自らの境遇——持参金もなく、義母たちに虐げられ、いつ追い出されるかもわからない身の上であることを思い出し、背中の痛みとともにすぐその小さな感情に蓋をした。


(思い違いよ…きっと今日過ごした時間で友人として親しみを持ってくださってるのよ)


「……来週、ミシエル夫人のサロンがございます。小規模な集まりですが……」


「あぁ、ミシエル夫人のサロンですか。

ちょうどいい機会です、久方ぶりに顔を出さないとお叱りを受けるところでした。」


先ほどの会場の喧騒が嘘のように静まり返った庭園で、妙な胸騒ぎが走る。そよ風がエレノアの髪を弄び、月光を浴びて結晶のように輝く白銀の髪に、ルーカスは思わず息を呑んだ。


「……まるで、シルフィルスの花のようです」


「…え?」


思わずこぼれ落ちた言葉にルーカスの瞳が揺れた。


「あ…いえ――我が領地に……非常に珍しく、標高の高い険しい崖にしか咲かない純白の花がありまして――


――あなたのその輝く髪と……瞳が、その花を想わせるのです」


(しまった…これではそこらの輩と同じではないか)


「……まあ。そんなにも素晴らしいお花に似ているだなんて。いつか拝見してみたいものです」


心の中で焦るルーカスに反して、エレノアは密かに高鳴る胸を抑えた。

ひんやりとした夜風が、熱を帯びていく自分の頬と背中の傷口を冷ましてくれるのをありがたく感じながら。




「――失礼、長居をさせてしまいましたね。……では、来週のミシエル夫人の集いでお会いしましょう」


「え、ええ……」


有無を言わせぬルーカスの言葉に頷き、エスコートをするルーカスの腕にそっと手を添えた。

エレノアは今度こそ優雅にお辞儀をして、待たせていた古い馬車へと乗り込んだ。


ルーカスは馬車が遠くになるまで視線を外せずにいた。彼女が触れた腕は服を通してじくじくと熱くなり、服から微かに漂う彼女の甘い香りに脈が早くなるのを抑えきれなかった。



「やはり……窮屈だな…この服は」


ルーカスは踵を返し絢爛な夜の館へ向かうも、手短に挨拶だけ済ませてその場を去った。



―――



「不釣り合いよ…そうよね…」


小さく独り言を吐くエレノア。

目を閉じると月明かりの下で輝くあの瞳を思い出す。あの力強い眼差しを忘れることができるのだろうか。

夜の闇へと疾走を始めた馬車の激しい揺れによって、今感じている胸の鼓動が激しくなっているのだと結論づけた。

とっくに背中の痛みなど忘れてしまっているというのに。


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