01_夜会の対峙と、静かな挑発
賑やかな音楽と、色とりどりのドレスが揺れる夜会。白銀の髪を美しく編み上げ、シンプルなドレスを纏ったエレノアは、壁際で静かにシャンパングラスを傾けていた。
控えめな装いであるものの、その美貌と柔らかな微笑みに周囲の男たちは熱い欲望を、女たちは憧れの視線を送っていた。
無論、悪意ある者たちは陰で「行き遅れ」と噂しているのだろうが、彼女はそれらを静かにかわしていた。
「エレノア嬢! なんと今日は君が来ていたのか」
声をかけたのは、エレノアと交流がある子爵家の青年・ジュリアンだった。
エレノアより歳が一つ下ではあるが、彼と結婚をしたミーネ夫人と深い親交があり、彼とも今では友人のような関係となっている。
「あらジュリアン様、ごきげんよう。
えぇ――今日は妹の代わりに」
「そうかそうか! 久しぶりにこういった夜会に出るのではないか?」
「そうですね、お茶会に参加することはありますが…あまりにも人が多くて驚いてしまいました」
「あはは! 無理もないさ、だって今日は珍しい人物が来るからね。その顔を見ようと、ここぞとばかりに人が集まったのさ」
「……珍しい?」
エレノアが首を傾げたその時、会場の入口がにわかに騒がしくなった。人々が息を呑み、さっと道を開ける。
滅多に都に姿を現さない「孤高の伯爵」、ルーカス・ブランシェである。
彼はわずか12歳の頃、不運な馬車の事故によって両親を失った。
まだ幼き少年の肩に、広大なブランシェ伯爵家の重責が突如として圧しかかったのだ。
二人の姉がそれぞれ遠方の名家へと嫁いでいき彼は孤立無援の中、その家名と広大な領地を守り抜いてきた。
そして25歳となった今、領地をかつてないほど発展させ、いまやこの国一番の財力を誇る至高の当主として、その名を轟かせていたのである。
継母たちの手によって社交界から遠ざけられ、滅多に夜会へ参加することのないエレノアの耳にすら、彼の壮絶な生い立ちと圧倒的な功績は届いていたほどだった。
漆黒のタキシードを身に纏う高身長で洗練されたその姿は、今日の夜会の主人公と言っても過言ではなかった。
並外れた苦難を潜り抜けてきた男特有の気品と凄みが溢れ、周囲の令嬢たちは一瞬で頬を染め、この魅惑的な男とのロマンスを心の中で夢見ていることだろう。
「やあ、ルーカス! まさかとは思ったが本当に来たのだな!あの引きこもりの君が都の夜会にいるなんて、明日は槍でも降るんじゃないか?」
ジュリアンは歩み寄り、からかうように爽やかに笑いかけた。幼い頃からルーカスと親交があるからこその軽口だった。
「槍でもなんでも降るがいいさ。
ところで、君の愛する子爵夫人はどうされた?」
「ははっ、もうすぐ出産予定でね。安全をとって実家に帰省しているところだ」
「そうか、それはめでたいな。今度祝いのものを用意しよう」
ルーカスの視線がエレノアに向く。エレノアは穏やかに微笑み、ルーカスへ優美なお辞儀をした。
「お初にお目にかかります、ブランシェ伯爵。ヴィルディエ子爵家が長女、エレノアと申します」
「初めまして、ヴィルディエ嬢。ルーカス・ブランシェです」
ルーカスはその瞬間、エレノアの姿に息をのんだ。雪の結晶のように輝く白銀の髪、そして冷たさを溶かすような、ひまわりを連想させる黄色と緑の不思議な瞳。
これまで見てきたどんな令嬢とも違う美しさに一瞬目を奪われたが、すぐに(どうせこの女も、他と同じ着飾った人形だろう)と心を冷ややかに閉ざした。
エレノアはルーカスの洗練された紳士的な仕草の裏にある、冷めきった視線を見逃さなかった。
(まあ……お気の毒に。このお方は、今すぐにでもここから逃げ出したいのね)
エレノアはそっと首を傾げ、尋ねた。
「伯爵様、本日はどのようなお風が吹いて、このような賑やかな場所へお越しになられたのですか? 噂では、領地を深く愛していらっしゃると伺っておりましたが」
ルーカスは紳士的な一礼を保ちつつも、誤魔化すことなくストレートに、身も蓋もない溜息を吐き捨てた。
「風など吹いておりませんよ、ヴィルディエ嬢。我が家の姉たちが、私が結婚しないからと何ヶ月にもわたって毎日のように金切声を上げた手紙を送りつけてくるものでしてね。
さらには出がけに執事が涙を流して『たまには社交界の華やかな空気を吸ってきてください』と私を馬車に押し込んだのです。そうして、はるばる今日の夜会に参った訳です。
――やらなければならないことが多いというのに、今は社交シーズンですからね」
ルーカスの言葉はあまりにも率直で、社交界の人間を真正面から否定するものだった。「また始まった」とジュリアンは冷や汗をかきながら苦笑いする。
しかし、エレノアは腹を立てることも、気まずそうに目を逸らすこともなかった。彼女はふっと目元を和らげ、どこまでも優しく、包み込むような微笑みを浮かべた。
「まあ……本当に素晴らしいご家族と従者様をお持ちですこと」
エレノアがそう呟くと、ルーカスは呆れたように片眉を上げた。
「素晴らしい……? あぁ、その素晴らしい者たちによって、まるで出荷される牛のように送り出されたわけですがね」
「全く、君はここでもその減らず口が直らないな。やはり結婚など遠い夢だぞ、ルーカス」
「あぁ、分かっているからこそ、この口なのだ」
ルーカスとジュリアンの不毛なやり取りに、エレノアはくすっと小さな鈴を転がすように笑った。
「ふふ…伯爵様は、使用人にも深い愛を向ける情の熱いお方なのですね」
「……はい? 私の情が深ければ、とっくに結婚して子供もいるかと思いますが?」
「そんなことございませんわ。お姉様方の心配を考慮され、はたまた執事様の涙一つで、愛する領地からはるばるお越しになってくださったのですから。
結婚を適当に済ませないことを考えるに、確固たる信念がおありなのでしょう」
エレノアはひまわりの瞳をまっすぐに向け、穏やかなトーンで続けた。
「それに――王都の図書館で過日拝読いたしました『王国領地治水史』の記録。2年前、ブランシェ領の暴れ川を治め、広大な水害を最小限に抑え込んだあのみごとな事業……。ただ富に頼るのではなく、土木工学の古典を紐解いて設計されたと記載がございました。領民の命と暮らしを第一に考え、日頃から学問を惜しまないお方でなければ、あのようなご手腕は振るえませんわ。今頃、領地の皆様も安心して生活を営んでいらっしゃることでしょう」
ルーカスは目を丸くし、言葉を失った。
(まさか貴族のご令嬢自らが足を運び、そこまで見識を深めているとは……)
社交界の令嬢たちが話すことと言えば、他人の醜聞か、最新のドレスかだとばかり考えていた。だが目の前の女性は、誰から聞いたわけでもなく、自ら足を運んだ図書館の書物を通じて自らの実績を正当に理解してくれていたのだ。
(なんということか―――偏見で頭を固めてしまっていたようだ)
エレノアはそのまま、包み込むような声色で語りかける。
「ですが……お姉様方や執事様が本当に心配しておられるのは、伯爵様が社交界の空気を吸うことそのものよりも……ご自身の世界に閉じこもることでお心が少しだけ窮屈になってしまわれないか、ということではありませんか?」
ルーカスは一瞬、息を呑んだ。
「―――私の心が……窮屈、ですか?」
「ええ。大切な皆様がそれほどまでに心を砕いて背中を押してくださったのですから…
今日という日をただ『退屈な時間』と決めつけてしまわれるのは、あまりにも勿体ないではありませんか。
たまにはそのご好意をあたたかく受け取られて、目の前のお茶一杯でも楽しんでみせる――それこそがご家族を安心させる一番の優しさであり、素敵な当主様の佇まいではございませんでしょうか。
慈悲深い伯爵様なら、分かってくださると信じておりますわ」
エレノアの言葉には、ルーカスを責めるような鋭さは微塵もなかった。
ただ、彼の直球すぎる愚痴を優しく受け止め、彼を心配する家族の愛情と当主としての責任に光を当てる、あまりにも穏やかで芯のあるお説教だった。
社交界においてストレートすぎる物言いは控えるようにと、柔らかく釘を刺したのだ。
「……」
言い返そうとしたルーカスだったが、彼女の澄んだひまわりの瞳と温かな微笑みを前にして、ぐうの音も出なくなった。
ストレートな自分の物言いが、まるですべて優しく包み込まれ、完璧に解かされてしまったような感覚だった。
それを見ていたジュリアンが、耐えきれずに「ぶっ」と吹き出した。
「ハハハ! いやあ、見事だ! ルーカス、君のその身も蓋もない愚痴をこんなにも上品に、しかもぐうの音も出ないほど完璧に諭されるとはな! さすがはエレノア嬢だ。」
ジュリアンはルーカスの肩をポンと叩き、可笑しくてたまらないといった様子で彼を覗き込んだ。
「いつも社交界の令嬢たちを容赦ない一言で凍りつかせている君が、まさか手も足も出ずに素直にお説教を聞いているなんてね。明日は本当に槍でも降るかもしれない。あぁ、君のお姉様方に伝えたいものだ!」
「……黙れ、ジュリアン」
ルーカスはジュリアンを低い声で制したが、その表情に不快感はなかった。驚きに目を見開いた後、彼は喉の奥で「ふ……」と可笑しそうに息を漏らした。
「――お見事なご指摘です、ヴィルディエ嬢。どうやら私の視野が狭くなっていたようです。家族の思い遣りすら見落とすところでした。どうか失礼をお許しいただきたい。
――改めまして、挨拶をさせていただいてもよろしいでしょうか」
「いえ、滅相もございません。差し出がましいことを申し上げ、大変失礼いたしました。
――では改めて」
そう応じたエレノアに対し、ルーカスはふっと目元を細め、端正な唇の端を穏やかに持ち上げた。
先ほどまでの冷ややかで虚無的な眼差しは影を潜め、そこには一人の魅力的な淑女と向き合う男の、真摯でどこか艶やかな笑みが浮かんでいた。
「光栄です、ヴィルディエ嬢。
親しみを込めて、私のことはどうぞ名前でお呼びください」
ルーカスは優雅に腰を折り、自らそっと手を差し伸べた。
エレノアが戸惑いながらも自身の手を重ねると、手袋越しに伝わってきた彼の掌は、会場の冷えた空気とは正反対の、誰よりも熱く確かな体温を宿していた。
その皮膚の熱さに、エレノアの胸がわずかに跳ねる。
「――ではブランシェ様とお呼びいたしますね」
二人の間に、心地よい緊張感と熱を帯びた空気が走る。
ルーカスの中で、社交界に対するうんざりとした退屈さが、エレノアという女性への深まる興味――まだ恋とは気づかぬ、けれど確実に彼女だけを捉えた特別な感情へと完全に塗り替えられた瞬間だった。




