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00_プロローグ

かつて子爵家の愛娘として温かな光と誇りの中で育ったエレノア・ヴィルディエは、7歳の時に猛威を振るった流行り病によって両親を一度に失った。



幼い彼女の元へ血眼になって押し寄せてきたのは、かつて事業の失敗で傾きかけていた遠い親戚筋の男とその妻、そしてその連れ子だった。


この国において、法律は残酷なまでに男系男子の相続しか認めていない。

いくら実の長女であろうと、「女性」というだけで後継としての法的な効力は一切削がれ、権利を主張する術すら持たなかった。



さらに当時、両親が愛娘の未来を案じて遺したはずの遺書は、幼いエレノアの知らぬ間に義父母の手によって巧妙に書き換えられていた。

家督も財産もすべてを乗っ取られたエレノアの立場は、瞬く間に子爵家の「正当な長女」から「名ばかりの厄介者」へと転落したのである。



―――


「あらやだ! こんなところに誰も欲しがらない行き遅れが居るわ!

分かってらっしゃる? 貴女がこの家の品格を落としていること」


廊下の影から甲高い声を上げて嘲笑うのは、義母の連れ子であるブリジットだった。


彼女はエレノアの雪の結晶のように美しい白銀の髪と、ひまわりを思わせる瞳を激しく妬み、事あるごとに言葉のナイフを突きつけてくる。


「申し訳ありません。私がこの家で静かに呼吸をしているだけでも、貴女の気に障ってしまうようですね」



エレノアは穏やかな微笑みを崩さず、優雅に首を傾げてみせる。しかし、その隙のない気品がかえってブリジットの苛立ちを煽った。



「……ふふ―――あぁそうよ、今日はまだ『お仕置き』が済んでいなかったわね。教育し直してあげるわ」


ブリジットはエレノアの腕を容赦なく掴み、爪を食い込ませて強引に連れ去っていく。

すれ違う使用人たちは心配そうに視線を送るが、それも今やこの邸の日常の一コマに過ぎなかった。



義母たちの目的は明確だった。

エレノアを社交界で「行き遅れた醜聞の女」に仕立て上げ、持参金を持たせず財産をも一切渡さぬまま価値を暴落させ、最終的に家から完全に追い出すこと。


両親が残した金銭全てを自分たちのものにするためであった。


もちろん、無体に追い出せば「子爵家を乗っ取り、亡き前当主の娘を惨めに追い払った」と自分たちが社交界から非難を浴びかねない。


だからこそ彼女たちは、エレノア自身に深刻な過失があるように仕向け、あるいは『あまりの行き遅れゆえに、家を救うためやむなく修道院へ送った』『身勝手に家を飛び出した』といった完璧な大義名分(口実)ができるその時を、虎視眈々と狙っていたのだ。


そのために勝手な理由をつけては持ち込まれる縁談をことごとく断り、家の中では日常的に不当な罰という名の嫌がらせを繰り返していた。


ある時は冷え切ったスープの底に虫やねずみの死骸を混ぜられ、またある時は理不尽な言いがかりで背中にムチを打ち据えられた。


薄暗い屋根裏の自室で、痛みに耐えながらベッドに腰掛けたエレノアの元へ、両親の代から仕える古いメイドのマリーが涙を流しながら忍び込んできた。


「エレノア様……! あぁお可哀そうに……!」


手当てのための布と小さな薬瓶を握りしめ、マリーはボロボロと大きな涙をこぼした。


「泣かないで、マリー」


「ですが……! あんまりです…血が出るほど鞭を打つなんて……!

うぅっ――申し訳ありません、私共にはこうして手当てすることくらいしかできなくて……」


悔しさに肩を震わせるマリーに、エレノアは陶器のように白い頬を緩め、そっとその手の上に自分の手を重ねた。


「いいのよ……貴方たちが私のために、ひっそりと温かい食事を持ってきてくれているじゃない。その心遣いだけで、私がどれほど救われているか分からないわ」


エレノアの瞳には、絶望の影などなかった。彼女は自らの置かれた凄惨な運命に、ただ耐え忍んでいるわけではなかったのだ。


―――泣いて過ごす時間なんてないのよ、エレノア…


26歳となった今、彼女は思う。

法や社会の仕組みすら知らず、自らの権利を奪われるがままにしていた、あの幼く浅はかだった自分を。

無知ゆえに何も守れなかった過去の自分を、彼女は強く静かに苛んでいた。


だからこそ、二度と誰にも己の人生を弄ばせないための「知識」という武器を求めた。


エレノアが義母たちの目を盗み、都の大きな図書館へ通い詰めて猛勉強を重ねるのには、こういった極めて切実な理由があった。


いつかこの家を完全に追い出された時、女一人で自立して生きていくためだ。


学園時代には首位を守り抜き、すでに4カ国語を自在に操る彼女だったが、知識の追求の手を緩めることはなかった。


貴族の子女へマナーや教養を教える家庭教師や講師の道を考えてはいたものの、女性の家庭教師は数が少なく、賃金も驚くほど低い。


おまけに貴族の家計が傾いた際、真っ先に雇い止めに遭うのは「子女」の家庭教師であり、子息の家庭教師に比べて定職率が極めて低かったのだ。


(一つの道に頼っていては、路頭に迷ってしまうわ。マナー講師、学園の講師、あるいは通訳や翻訳……

どんな時代の荒波が来ようとも切り抜けられるよう、誰も奪うことのできない知識を完璧に蓄えておきたい)


ある意味、それは強迫観念に近かった。

不安は常に影のように纏い付き、両親の温もりを思い出しては、一人静かに涙をこぼす夜もあった。


それでも、生き抜くための冷徹な現実を見据えながら、彼女は決して心を荒ませなかった。

静かに生きるため、ただ穏やかに、人に親切に、己の中に築き上げた誇りと信念を抱き続けていた。


その人柄と聡明さは、彼女と交流する者ならば誰もが知るところであった。


悪意ある噂一つで転落する恐ろしい社交界において、義母たちの企みに反しエレノアを密かに慕う確固たる人脈が広がっていたのは、この10年間で彼女自身が築き上げた信頼の証だった。


しかし、26歳という年齢は社交界において決して若くはなく、冷ややかな嘲笑に耐え続けねばならない足枷でもあった。


小さな窓際に座り、夜空を眺める。打たれた痛みでどうにも眠れそうにない。

エレノアは母の形見である小さなネックレスを優しく撫でながら、そっと息を吐いた。




―――




一方、豊かな森林と広大な領地を治めるブランシェ伯爵家の当主、ルーカス・ブランシェは、都会の喧騒と社交界の虚飾を心底嫌っていた。


「……はあ。なぜ私がわざわざ都へ出向き、このような無意味な夜会に顔を出さなければならないのだ、オリバー」


「旦那様、これで5年も都を離れていらっしゃったのですから当然です。

お姉様方からの手紙の束をお忘れですか? 『早く結婚して温かい家庭を持ちなさい』と、毎日数十通も届いていたのですよ。

終いには使用人たちに泣きつかれ、鼻をすする音が消えやしない。


それに――ご両親も空の上からさぞ心配なさっていることでしょうに…」


仕立ての良い漆黒のタキシードに身を包んだルーカスは、姿見の前で不機嫌そうにカフスボタンを弄りながら、老執事のオリバーに愚痴をこぼしていた。


洗練された美しい顔立ちと、恵まれた体躯。伯爵家としての圧倒的な財力と気品を兼ね備えた彼には、毎日のように令嬢たちからの縁談が殺到していたが、今では仕事関係の紙束しか送られてくることはない。


「群がってくる女たちの頭の中にあるのは、我が家の財産とドレスの価値だけだ。

教養の皮をかぶった浅薄な会話に付き合わされる身にもなってほしいものだな。

これなら、領地で馬を走らせていた方が100倍有意義だ」


端正な容姿とは裏腹に、社交界の貴族女性を「うわべだけの愚か者」と切り捨てるひねくれ者のルーカス。

彼は政略結婚など毛頭考えておらず、いつかは真に心を通わせ合える相手と巡り会いたいという、誰にも言えないロマンチストな一面をひた隠していた。


かつては希望を抱いて見合いや小規模なパーティーに出向き、理想のロマンスを求めたこともあったがルーカスの心を動かすような女性は一人として現れなかった。


期待と落胆を繰り返すことに疲れ果てた彼は、いっそ生涯独身で過ごし、二人の姉が産んだ5人のうち3人の甥の誰かに爵位を譲ろうと本気で考えている。



「いいかオリバー。明日の夜会に顔を出したら、私はすぐに退散する。姉たちへの義理はそれで果たせるはずだ」



不敵な笑みを浮かべるルーカスに、オリバーは諦めのように肩を落とし小さく息を吐いた。


「…ったく。全くもって、窮屈な服だ」


「おや、サイズが小さいのですか?」


「はっ、息が詰まるという意味だ」


「これは失礼……。このオリバー、生きているうちに主人の奥様のお顔を見たいものですな……」



遠くを見るような目で呟く老執事に、ルーカスは低い声で鼻を鳴らした。



「現れるものか」



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