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第八話 数字は嘘をつかない

 キッドが見習いになって、最初に渡されたものは銃でも操縦桿でもなかった。


 文字表だった。


「まず、これを覚えてください」


 ベンゾーが食堂の机へ端末を置く。


 画面には、見慣れない記号が並んでいる。


「何だ、これは」


「文字です」


「知ってる」


「読めますか?」


「読めない」


「ほな、知ってるとは言いません」


 ベンゾーは椅子へ座り、細い棒で文字を一つずつ示した。


「船で仕事をするなら、読み書きは必要です。契約書も、航海記録も、荷札も読めへんようでは話になりません」


「見れば覚えられる」


「文字の形だけ覚えてもあきません。意味を理解してください」


 キッドは画面を見た。


 一列目。


 二列目。


 三列目。


 並び方を頭へ入れる。


「覚えた」


「まだ一回しか見せてませんけど」


「全部言える」


 キッドは端から順に文字を読み上げた。


 ベンゾーは途中で眼鏡を直し、最後まで聞くと、深く息を吐いた。


「なるほど。形を覚えるのは得意なんですな」


「ああ」


「せやけど、これは何と書いてあります?」


 ベンゾーが短い単語を示す。


 キッドは黙った。


「分からない」


「でしょうな」


「形は覚えた」


「それは覚えたとは言わんのです」


 ベンゾーは端末をキッドの前へ押し出した。


「言葉は部品と違います。同じ形でも、前後で意味が変わります。書いてある通りに読めても、何を言うてるか分からなければ役には立ちません」


「面倒だ」


「世の中、大事なことほど面倒なんです」


     ◇


 キッドは文字を覚えた。


 三日で簡単な荷札を読めるようになり、十日で食料庫の品名を判別し、一か月後には短い航海記録を読んでいた。


 書く方は遅かった。


 頭の中には正しい形があるのに、手がその通りに動かない。


 最初に書いた文字は、ライトに「酔った虫の足跡みたいだ」と笑われた。


 キッドはその言葉を覚えていた。


 翌日、ライトの食事の皿に、酔った虫の絵を描いた紙を置いた。


「冗談も覚えたのか?」


「仕返しだ」


「それはもっと厄介だな」


 読み書きの次は、数字だった。


 数字そのものは、回収場でも使っていた。


 重さ。


 数。


 時間。


 部品の識別番号。


 だが、ベンゾーが教えたのは、それとは別の数字だった。


「この水、一容器いくらやと思います?」


 寄港地の市場で、ベンゾーが尋ねた。


 キッドは店頭の表示を見る。


「十二クレジット」


「ほな、あっちの店は?」


「二十」


「同じ水です。何で値段が違うんでしょう」


「片方が騙してる」


「そうとも限りません」


 ベンゾーは高い方の容器を持ち上げた。


「こっちは長期保存用。容器も頑丈で、汚染検査も済んでます。安い方は、この星で飲む分には問題ありませんが、船へ積むには向いてません」


「水は水だ」


「飲む場所と、飲む時期が違います」


 別の星では、逆のことが起きた。


 普段なら十二クレジットの水が、五十クレジットまで上がっていた。


「高い方が長く持つのか」


「ちゃいます。先月、浄水設備が壊れたんです」


「壊れただけで値段が上がるのか」


「欲しい人が多くて、売る物が少なければ上がります」


「元の水と同じだ」


「物は同じでも、状況が違うんです」


 キッドは店の列を見た。


 水を求める人々。


 残りの在庫。


 輸送船が次に来る日。


 店主の顔。


「店主は、まだ値段を上げる」


「どうしてそう思います?」


「奥に隠してある水がある。売り切れそうに見せてる」


 ベンゾーが目を細める。


「見えましたか?」


「店へ入った時、扉の奥に同じ容器が二十六あった」


「なるほど」


 ベンゾーは店主と短く話し、水を正規の値段に近い額で買った。


 店を出た後、キッドは尋ねた。


「脅したのか」


「交渉したんです」


「何を言った」


「相場を知ってることと、隠し在庫を衛生局へ報告するかもしれんことを、丁寧にお伝えしました」


「脅してる」


「言い方が大事なんです」


     ◇


 キッドは物の数を覚えた。


 次に、値段を覚えた。


 だが、ベンゾーはそれだけでは足りないと言った。


「これ、売ったらいくらになります?」


 机の上に、古代遺跡から回収した小さな金属片が置かれていた。


 青白い模様が刻まれている。


「買値は?」


「ありません。拾った物です」


「なら、全部利益だ」


「違います」


 ベンゾーは指を一本立てた。


「遺跡まで行く燃料代」


 二本目。


「現地で使った弾薬と食料」


 三本目。


「壊れた装備の修理費」


 四本目。


「持ち帰るための保管費」


 五本目。


「売買にかかる税金」


 キッドは眉を寄せた。


「拾ったのに、金がかかるのか」


「拾いに行ったでしょう」


「宝を見つければ儲かると思ってた」


「見つけるだけなら、子どもでもできます」


「俺も子どもだ」


「自覚があって結構です」


 ベンゾーは金属片を布で包む。


「宝は持ち帰って、価値を調べて、買い手を見つけて、代金を回収して初めて儲けになるんです」


「買う奴がいなかったら?」


「ただの荷物です」


「宝なのに?」


「値段と価値は別です」


 キッドはその言葉を覚えた。


 数日後、別の仕事で回収した古い記録装置を、ベンゾーは安値で売った。


 キッドは納得できなかった。


「もっと高く売れた」


「誰にです?」


「分からない」


「ほな、売れません」


「待てば買う奴が来たかもしれない」


「その間、保管料がかかります。壊れる可能性もある。金が入らなければ、次の燃料も買えません」


「安く売ったら損だ」


「売らずに船が止まったら、もっと損です」


 ベンゾーは端末へ数字を打ち込んだ。


「正しい値段なんてものは、最初から決まってません。誰が、いつ、どこで、何のために買うか。それで変わるんです」


「数字は変わるのか」


「数字そのものは変わりません」


 ベンゾーがキッドを見る。


「数字は嘘をつきません。嘘をつくのは、それを見せる人間です」


     ◇


 三か月が過ぎた。


 キッドは船の在庫を一人で確認できるようになった。


 食料、水、燃料、医薬品、弾薬、交換部品。


 何がどこに、いくつあるか。


 どの星で買えば安いか。


 どのくらい消費すれば、次の寄港地まで持つか。


 端末を見る前に、ほとんど答えられた。


「保存食、残り八十二」


「帳簿では八十三ですけど」


「ライトが一つ持っていった」


「またですか」


 ベンゾーが席を立つ。


 その瞬間、食堂の扉が開き、ライトが保存食を棚へ戻した。


「食べてないよ」


「聞いてはったんですか」


「偶然だ」


「嘘です」


 キッドが言う。


「扉の前に三分いた」


「何で分かるんだよ」


「影が見えてた」


 ライトは保存食を置き、何事もなかったように去っていった。


 ベンゾーは帳簿へ目を戻す。


「では、もう一つ問題です」


「まだあるのか」


「仕事は一生続きます」


 ベンゾーは今月の収支を表示した。


「今月は三件の仕事をしました。全部成功。報酬も受け取った。それなのに、船の金は先月より減ってます。どうしてでしょう」


 キッドは数字を見る。


 燃料費。


 修理費。


 弾薬費。


 食料費。


 着陸料。


 医薬品。


 ライトが壊した操縦席の部品。


「仕事の報酬より、使った金が多い」


「正解です」


「なら、仕事をしない方がよかった」


「それは半分だけ正解です」


「半分?」


「一件目では遭難者を助けました。二件目では、古い航路情報を手に入れた。三件目では、次の依頼人と知り合った」


「金になってない」


「今は、です」


 ベンゾーは収支表を閉じた。


「目の前の金だけ見てたら、商売はできません。逆に、未来の儲けばかり夢見てても、今日の飯が食えません」


「難しい」


「せやから、わしがいるんです」


 ベンゾーは得意そうに胸を張った。


 直後、通信機からクライの声がした。


『ベンゾー。次の仕事、依頼料は出ないそうだ』


 ベンゾーの顔から笑みが消えた。


「断ってください」


『困ってるらしい』


「余計に断ってください!」


『もう引き受けた』


「何でですか!」


 ベンゾーは立ち上がり、通信機へ向かって叫んだ。


「正義では船は飛びませんよ!」


『燃料はまだあるだろ』


「そういう問題やないんです!」


 通信が切れる。


 ベンゾーはしばらく無言で天井を見上げていた。


「これが悪い例です」


「でも、引き受けるんだろ」


「船長が決めましたからな」


「金にならないのに?」


「困ってる人がおるそうです」


 ベンゾーはため息をつき、端末を開く。


「仕方ありません。できるだけ赤字を減らします」


「断らないのか」


「船長が引き受けた仕事です」


「怒ってた」


「怒るのと、やらんのは別です」


 ベンゾーは必要な燃料と食料を計算し始めた。


 キッドはその横顔を見る。


 金がなければ船は飛ばない。


 それでも、金にならない仕事へ向かう。


 その矛盾を、ベンゾーは誰より理解している。


「何を見てるんです?」


「難しいと思ってる」


「何がです」


「金のこと」


「今さら分かりましたか」


「でも、覚える」


 キッドは収支表を自分の端末へ開いた。


「全部」


 ベンゾーは少しだけ笑った。


「全部覚えるだけでは足りませんよ」


「分かってる」


 キッドは数字の列を見つめる。


「どの数字を見るか、だろ」


 ベンゾーは眼鏡を押し上げた。


「よろしい」


 それが、ベンゾーから初めてもらった合格だった。

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