第九話 身体は覚えない
キッドは、見たものを忘れない。
ライガの立ち方。
拳を出す前の肩の動き。
踏み込む時に、わずかに沈む重心。
全部見えた。
全部覚えた。
だから避けられると思った。
「遅い」
次の瞬間、天地が逆さまになった。
背中から床へ落ちる。
息が詰まった。
「……今のは分かってた」
「そうか」
ライガが倒れたキッドを見下ろす。
「なら、もう一回だ」
差し出された手を取る。
立ち上がる。
構える。
今度は右から拳が来る。
その前に、ライガの左足が半歩前へ出た。
見えている。
拳が頬へ届く軌道も分かる。
キッドは首を傾けた。
避けた。
そう思った。
だが、拳は頬へ当たった。
軽く触れられただけなのに、身体が横へ流れる。
「どうしてだ」
「何が」
「避けた」
「避けようとはしたな」
「動きは見えてた」
「見えてるだけだ」
ライガは自分のこめかみを指で叩いた。
「頭で避けても、身体が遅けりゃ撃たれる」
キッドは立ち上がった。
「もう一回」
「今日は終わりだ」
「まだできる」
「足が震えてる」
「震えてない」
「なら、その場で跳んでみろ」
キッドは床を蹴った。
ほとんど身体が浮かなかった。
ライガは訓練室の出口を指さす。
「飯を食って寝ろ」
「もう一回やれば避けられる」
「今やったら、さっきより遅くなる」
「覚えてる」
「身体は覚えてない」
それが、ライガの最初の教えだった。
◇
翌日から、キッドの朝は走ることから始まった。
船内を十周。
屈伸。
腕立て。
腹筋。
足腰を鍛える運動。
終わる頃には、床へ倒れていた。
「戦い方を教えてくれるんじゃないのか」
「教えてる」
「走ってるだけだ」
「走れない奴は逃げられない」
「逃げるためか」
「追う時にも使う」
キッドは床へ手をつき、もう一度立ち上がる。
「あと何周だ」
「今日は終わりだ」
「まだ走れる」
「なら明日、一周増やす」
「今走る」
「明日だ」
ライガは決めたことを変えない。
無理だと判断すれば、どれだけキッドが訴えても訓練を終わらせた。
反対に、できると判断したことは、泣いても吐いてもやらせた。
キッドは泣かなかった。
だが、二度吐いた。
「汚した場所は自分で掃除しろ」
「分かってる」
「次から食事の直後に走るな」
「先に言ってくれ」
「自分で考えろ」
厳しい。
理不尽でもある。
だが、監督役とは違った。
監督役は、子どもが壊れても気にしなかった。
ライガは、壊れる寸前で必ず止める。
その違いに気づくまで、少し時間がかかった。
◇
一か月後。
キッドは船内を三十周走れるようになった。
二か月後。
受け身を覚えた。
三か月後。
ライガに投げられても、息が止まらなくなった。
「進歩した」
キッドは床から立ち上がった。
「最初よりはな」
「今のは負けじゃない」
「投げられてる」
「立てた」
「負けた後に立てるようになっただけだ」
「それなら前よりいい」
ライガは否定しなかった。
次に教えられたのは、ナイフだった。
刺すためではない。
まず、持ち方。
抜き方。
落とさない方法。
奪われない方法。
刃を自分へ向けない方法。
「相手の喉を狙えばいい」
キッドが言うと、ライガは木製の訓練用ナイフで頭を叩いた。
「痛い」
「喉しか見てないからだ」
「当たれば倒せる」
「当たればな」
ライガはナイフを構えたキッドの手首をつかみ、簡単にひねり上げた。
木のナイフが床へ落ちる。
「武器を持つと、人は武器だけで戦おうとする」
「ナイフで戦うんだろ」
「手も足も頭も使え。逃げ道も壁も床も使え」
ライガが足元のナイフを蹴り上げる。
宙に浮いた柄をつかみ、そのままキッドの首元へ突きつけた。
「自分と相手だけを見るな。周りを見ろ」
それはキッドに向いていた。
船内の構造。
壁までの距離。
床の段差。
置かれた荷物。
全部覚えられる。
だが、覚えているだけでは使えない。
どれを使うか。
いつ使うか。
そこまでは、自分で決める必要があった。
◇
銃を持たされたのは、さらにその後だった。
本物ではない。
光を当てた場所を記録する、訓練用の短銃だ。
「クライは撃つ前に決めろと言った」
「それは本物を持つ時の話だ」
ライガは訓練室に障害物を並べた。
「今日は撃て。考えるのは終わった後でいい」
壁の陰から標的が現れる。
キッドは撃った。
命中。
次も命中。
三つ目も外さない。
「簡単だ」
四つ目の標的が現れた。
キッドは引き金を引く寸前で止まった。
人の形をしている。
小さな子どもを抱いていた。
迷った。
直後、別方向から光が飛んできた。
胸の記録板が赤く点灯する。
「死んだな」
ライガが言った。
「あれは撃てない」
「撃つなとは言ってない」
「子どもがいた」
「標的の手を見たか」
キッドは記憶をたどる。
右手。
子どもの身体に隠れていた。
握っていたのは銃だった。
「見えてなかった」
「見えてた。見なかっただけだ」
ライガは標的を戻す。
「顔を見て、子どもを見て、撃てないと決めた。ほかを見るのをやめた」
「撃てば子どもにも当たる」
「腕を撃てた」
「外したら?」
「外さないために練習してる」
キッドは黙った。
「もう一回だ」
同じ標的が現れる。
今度は右手を見る。
銃口。
指。
腕の位置。
キッドは撃った。
光が標的の手首へ当たる。
「遅い」
「でも当てた」
「実戦なら、その前に撃たれてる」
「もう一回」
ライガが標的を戻した。
「今度は子どもが動く」
「そんなの聞いてない」
「敵も先に教えてはくれない」
◇
半年が過ぎた。
キッドの身体から、回収場にいた頃の細さが少しずつ消えていた。
背も伸びた。
腕や足には、薄く筋肉がついた。
ライガを倒すことは一度もできなかった。
それでも、百回に一度なら攻撃を避けられた。
二百回に一度なら、反撃までできた。
その一度を、キッドはすべて覚えている。
失敗も覚えていた。
転んだ回数。
殴られた場所。
判断が遅れた瞬間。
忘れられないなら、使うしかない。
同じ失敗をしないために。
「今日はここまでだ」
ライガが訓練用ナイフを腰へ戻す。
「まだできる」
「明日は仕事だ」
「俺も行くのか」
「船で待機だ」
キッドは不満を顔に出した。
「その顔をやめろ」
「どんな顔だ」
「勝手についてきそうな顔だ」
「行かない」
「本当か」
「命令なら守る」
ライガはしばらくキッドを見た。
「少しは覚えたらしいな」
「最初から覚えてる」
「そういう意味じゃない」
ライガは訓練室を出ていく。
扉の前で一度だけ足を止めた。
「明日は武器庫の管理を任せる」
「留守番だろ」
「武器庫を守るのも仕事だ」
キッドは床に落ちた訓練用ナイフを拾った。
「誰か来たら?」
「扉を閉めて、ライトを呼べ」
「それだけか」
「それだけだ」
「戦わなくていいのか」
ライガは振り返った。
「戦わずに済むなら、それが一番いい」
「戦うために教えてるのに?」
「生きて帰るために教えてる」
ライガはそれ以上何も言わず、扉の向こうへ消えた。
キッドは手の中のナイフを見る。
相手を倒すためではない。
自分が生きて帰るため。
仲間を生きて帰すため。
その二つが、同じではないことを。
キッドは、まだ完全には理解していなかった。
けれど、覚えておくことにした。




