第十話 昨日の宇宙
星図を覚えるだけなら、一日もかからなかった。
主要航路。
補給可能な惑星。
帝国軍の検問所。
海賊が出没する宙域。
過去十年分の事故記録。
ライトが端末に表示したものを、キッドはすべて頭へ入れた。
「ここからアルダ星系までの最短航路は?」
「第三航路を七十八万キロ。赤色巨星の重力圏に入る前に右へ十一度。その後、第五中継点を通る」
「燃料を節約するなら?」
「惑星ヴェトラの重力を使う。到着は九時間遅くなるけど、燃料消費を十二パーセント減らせる」
「海賊を避けるなら?」
「第四航路」
「帝国の検問に引っかかる」
「なら、航路の外を通る」
「そこには磁気嵐がある」
「発生周期は三十七日。今日は周期から外れてる」
キッドが答えるたび、ライトの笑みが深くなった。
「完璧だな」
「ああ」
「よし。じゃあ、飛んでみよう」
◇
小型艇は、四人の船へ搭載されている連絡艇だった。
二人乗り。
惑星への降下や、短距離の偵察に使われる。
キッドが操縦席へ座ると、足が操縦桿の下へわずかに届かなかった。
ライトが座席を前へ動かす。
「まずは発進。手順は覚えてる?」
「見た」
「それは聞いてない」
「覚えてる」
主電源。
生命維持装置。
推進器。
航法装置。
接続部の解除。
キッドは教えられた順番どおり、装置を起動した。
操作に迷いはない。
小型艇が母船から離れる。
眼前に、無数の星が広がった。
「進路、前方の標識灯」
ライトが指示する。
キッドは操縦桿を倒した。
機体が急に加速する。
身体が座席へ押しつけられた。
「少し強いな」
「同じだけ倒した」
「何と同じ?」
「お前が昨日やってた」
「あの時は荷物を積んでた」
キッドは操縦桿を戻す。
今度は戻しすぎた。
推力が急に落ち、身体が前へ引かれる。
「船の重さが違えば、同じ操作でも動きは変わる」
「先に言え」
「操縦桿を倒す前に考えよう」
ライトは笑っている。
キッドは腹が立った。
もう一度、ゆっくり操縦桿を倒す。
小型艇が前へ進んだ。
今度は揺れない。
「そう。それくらい」
「簡単だ」
「その台詞は、着陸してから言おう」
◇
初日の操縦は、散々だった。
加速が強すぎる。
旋回が遅い。
止まる位置を間違える。
障害物は避けられても、避けた後の姿勢が崩れる。
キッドはライトの操作をすべて覚えていた。
だが、同じようには飛べなかった。
「どうしてだ」
母船へ戻った後、キッドは操縦席に座ったまま尋ねた。
「同じように動かした」
「同じじゃなかったよ」
「動きは合ってた」
「操縦桿の動きだけはね」
ライトは計器盤を軽く叩いた。
「あの時と今日じゃ、船の重さが違う。燃料の量も違う。風も重力も違う」
「宇宙に風はない」
「場所によってはある。恒星風、噴出物、磁場の流れ。目に見えないだけだ」
「計器を見れば分かる」
「計器に出る頃には遅いこともある」
ライトは座席の背へ身体を預けた。
「キッド。お前は、昨日の俺を飛ばそうとしてる」
「昨日?」
「俺が昨日やったことを、今日そのまま繰り返してる。でも昨日の宇宙と、今日の宇宙は違う」
ライトは正面窓を指さした。
「星図は昨日の宇宙だ。今の宇宙は窓の外にある」
キッドは窓を見た。
星の位置は、星図と変わらないように見えた。
だが、近くを漂う小さな岩は動いている。
母船も動いている。
小型艇の燃料は減っている。
自分の身体も、昨日とは違う。
「覚えたものは役に立たないのか」
「そんなことはない」
ライトは笑った。
「昨日を知らなきゃ、今日がどう変わったか分からないだろ」
◇
それから、キッドは何度も小型艇へ乗った。
発進。
加速。
減速。
旋回。
着陸。
最初は、計器だけを見た。
次に、窓の外を見るようになった。
その次は、船体の音を聞いた。
推進器が唸る高さ。
床から伝わる振動。
操縦桿へ返ってくるわずかな重さ。
ライトは、それらを言葉で教えなかった。
「今、左の推進器が少し弱い」
「計器には出てない」
「音が低い」
「正解」
「どうして教えなかった」
「自分で気づいた方が覚えるだろ?」
「俺は言われても覚える」
「そうだったな」
別の日。
ライトは小型艇の貨物室へ、重りを積んだ。
そのことをキッドには告げなかった。
発進直後、機体が左へ傾く。
キッドは操縦桿を切り、姿勢を戻した。
「荷物を積んだな」
「どうして分かった?」
「重心が後ろにずれてる。それと左が重い」
「どれくらい?」
「百二十……いや、百三十キロ」
「百二十八」
ライトは口笛を吹く。
「惜しい」
「次は当てる」
「当てるために操縦してるんじゃないぞ」
操縦を始めて一か月。
キッドは小型艇を真っすぐ飛ばせるようになった。
二か月後には、母船の周囲を一人で回れるようになった。
三か月後には、ライトが隣に座っていれば惑星へ降りられるようになった。
ただし、着陸は苦手だった。
地面へ降りる直前になると、キッドは地形と速度と角度を正確に合わせようとした。
すべてを正しくしようとする。
そのせいで、判断が遅れる。
「もっと早く機首を上げろ!」
「まだ角度が合ってない」
「地面は待ってくれないぞ!」
小型艇が跳ねる。
地面へ一度接触し、再び浮き、二度目でようやく止まった。
機体が激しく揺れた。
ライトは座席の背へ頭をぶつけていた。
「着陸した」
「これを着陸と呼ぶなら、墜落も半分くらい着陸だな」
「壊れてない」
「俺の首が壊れかけた」
◇
その日、二人は辺境惑星から母船へ戻る途中だった。
小型艇の貨物室には、ベンゾーが買い付けた医薬品が積まれている。
操縦はキッド。
ライトは隣で、眠そうに欠伸をしていた。
「母船まで、あと十二分」
「うん」
「進路に障害物はない」
「本当に?」
キッドは窓の外を見る。
小さな岩塊がいくつか浮かんでいる。
どれも進路から外れている。
計器にも異常はない。
「ない」
「なら問題ないな」
その直後、小型艇がわずかに揺れた。
計器の一つが点滅する。
「磁場が乱れてる」
「どこから?」
「分からない」
星図に磁気嵐の記録はない。
発生周期からも外れている。
それでも、船体へ伝わる振動が変わっていた。
キッドは操縦桿を握る。
右手から、わずかな抵抗を感じる。
「右へ引かれてる」
「どうする?」
「進路を左へずらす」
「それで?」
「分からない」
「分からないなら、見る」
ライトは何もしない。
窓の外を見る。
遠くに漂っていた細かな金属片が、同じ方向へ流れている。
右下。
その先に、大きな船骸が浮かんでいた。
船内に残された重力発生器が、壊れたまま動いている。
星図には載っていない。
昨日までは、そこになかった船だ。
「船骸に引かれてる」
「そうだな」
キッドは推力を上げた。
だが、真っすぐ離れようとはしなかった。
船骸の引く力に合わせ、機首を斜めへ向ける。
重力へ逆らうのではなく、その周囲を回るように飛ぶ。
小型艇が加速した。
船骸の脇を回り込み、引力を使って前方へ飛び出す。
機体の振動が収まった。
母船が正面に見える。
「今のは?」
キッドが尋ねた。
「今のは何だ?」
「正しかったのか」
「帰れたんだから正解でいいだろ」
「操縦は、正解が決まってないのか」
「決まってたら、端末にやらせるよ」
ライトは大きく伸びをした。
「その時、その場所、その船で、無事に着く方法を選ぶ。それが操縦だ」
「昨日と同じように飛ばなくていい」
「昨日と同じ宇宙じゃないからな」
母船の格納庫が開く。
キッドは速度を落とした。
格納庫の幅。
小型艇の角度。
母船の速度。
すべて見える。
だが、すべてを完璧に合わせようとはしなかった。
今の船の動きを感じる。
操縦桿を少しだけ倒す。
小型艇は一度も跳ねることなく、格納庫の床へ降りた。
静かな着陸だった。
ライトが隣で拍手する。
「初めてまともに降りたな」
「前も降りた」
「あれは落ちたんだ」
格納庫の扉が閉まる。
キッドは操縦桿から手を離した。
星図は忘れない。
昨日見た船の動きも、ライトの操縦も。
すべて頭に残っている。
だが、それを繰り返すだけでは足りない。
覚えた昨日と、目の前の今日。
その違いを見つける。
そこに航路がある。
「次は一人で飛ぶ」
「まだ早い」
「できる」
「その台詞を言ううちは早いな」
「どうして」
ライトは席を立ち、キッドの黒髪を乱した。
「本当に飛べる奴は、飛べるかじゃなく、帰ってこられるかを考えるからさ」
キッドはその言葉も覚えた。
今度は、意味まで忘れないように。




