第十二話 ストレンジャー
キッドがその文字を読めるようになったのは、船に乗ってから半年ほど経った頃だった。
船首に近い外殻。
何度も塗り直され、傷だらけになった装甲板の上に、白い文字が残っている。
――STRANGER。
「ストレン……ジャー」
キッドは一文字ずつ読んだ。
「読めるようになったんですな」
近くで整備費の計算をしていたベンゾーが顔を上げる。
「この船の名前か?」
「ええ。《ストレンジャー》です」
「どういう意味だ」
「よそ者とか、素性の知れん者とか。まあ、そんなところです」
キッドは船を見上げた。
帝国船とも違う。
反乱軍の船とも違う。
船体には製造元を示す紋章も、型式番号もない。
「ぴったりだな」
「そうでしょうか」
「誰がつけた」
ベンゾーは、少し離れた場所で港の整備員と話しているクライへ目を向けた。
「クライはんです」
「どうして、この名前にしたんだ」
「さあ」
「聞いてないのか」
「聞きましたよ」
「何て言った」
「格好ええから、と」
キッドはクライを見る。
ありそうな答えだった。
◇
《ストレンジャー》が寄港しているのは、中立交易港コルサだった。
惑星ではない。
複数の小惑星をつなぎ合わせて造られた、巨大な宇宙港だ。
帝国商人も、反乱軍の協力者も、素性を隠した海賊も、ここでは同じように金を払って船を停める。
ベンゾーによれば、金を払う限り、誰が客かは問題にしない場所らしい。
「金を払えなくなったら?」
キッドが尋ねると、ベンゾーは眼鏡を押し上げた。
「その時点で客ではなくなります」
分かりやすい。
《ストレンジャー》は、しばらく本格的な整備を受けていなかった。
外殻の傷。
推進器の摩耗。
冷却管の交換。
キッドは整備員たちに交じり、船内外を走り回っていた。
「おかしいな」
一人の整備員が、船体を読み取る端末を叩く。
「何がです?」
ベンゾーが尋ねた。
「測定が合わない。外から測った大きさと、内部の容積が一致していない」
「機械の故障やないですか」
「三台で測った」
整備員は船体図を表示する。
「船体重量もおかしい。これだけの装甲と機関を積んで、この質量で収まるはずがない」
「軽い分には、燃料代が安うなって助かります」
「そういう問題じゃない」
「こちらとしては、そういう問題なんです」
ベンゾーは平然としていた。
だが、キッドは船体図から目を離せなかった。
外から見た《ストレンジャー》。
船内を歩いて覚えた通路。
居住区。
貨物室。
機関室。
すべてを頭の中で重ねる。
合わない。
船の中央に、何もない空間がある。
機関室の奥。
貨物室と居住区に挟まれた場所。
幅は七歩ほど。
高さは二層分。
だが、そこへ入るための扉がない。
「ベンゾー」
「どうしました?」
「この中に、部屋がある」
「部屋?」
「入れない部屋だ」
ベンゾーの表情が、ほんの少し変わった。
◇
「とうとう気づいたか」
ライトはそう言って、キッドを機関室の奥へ連れていった。
普段使われている機関のさらに裏側。
配管と配線の間に、黒い壁がある。
扉ではない。
継ぎ目も、留め具もない。
光を当てても反射せず、触れると金属より冷たかった。
「ここが、さっきの空間か」
「たぶんね」
「たぶん?」
「俺たちも中を見たことがない」
キッドは黒い壁へ手を当てた。
「切れないのか」
「ライガが試した」
「撃った」
いつの間にか後ろへ来ていたライガが言った。
「傷一つつかなかった」
「爆薬も使いました」
ベンゾーが続ける。
「修理代が恐ろしいんで、二度とやめてもらいましたけど」
「壊れなかったんだろ」
「壊れるかどうかと、試してええかは別の話です」
キッドは壁の向こうへ耳を澄ませた。
低い音がする。
船の機関音とは違う。
一定ではない。
遠くから響く鼓動のようだった。
「何が入ってる」
「分からない」
ライトは黒い壁へ背を預けた。
「ただ、この船の重力制御と慣性制御は、たぶんこいつがやってる」
「たぶんが多い」
「分からないものは分からないからね」
帝国の船は、急な旋回をすれば船体と乗員へ大きな負担がかかる。
だから速度を落とす。
進路を変えるにも時間がいる。
だが、《ストレンジャー》は違う。
暗礁を最高速で抜け、船体を横へ滑らせ、常識では壊れるはずの角度で曲がる。
ライトの腕だけではなかった。
この黒い壁の向こうにある何かが、船へかかる力そのものを変えている。
「誰が造ったんだ」
「分からない」
「どこで手に入れた」
「それは船長に聞いて」
◇
「拾った」
クライは一言で答えた。
食堂には、いつもの四人とキッドが集まっている。
キッドは正面に座るクライを見た。
「宇宙船を拾う奴がいるのか」
「ここにいる」
「どこで」
「宇宙で」
「宇宙のどこだ」
「広いからな。忘れた」
「嘘だ」
「少しは大人の嘘を見逃せ」
クライは飲み物を口へ運ぶ。
答える気はないらしい。
「船長はん、そろそろ話してもええんやないですか?」
ベンゾーが言った。
「お前だって知らないだろ」
「せやから聞いとるんです」
「俺が持ってきた。ライトが飛ばした。ライガが敵を追い払った。お前が金を払った。それで十分だ」
「最後だけ納得いきませんな」
キッドは四人を順番に見た。
考えてみれば、知らないことばかりだった。
クライは帝国軍の暗号や階級を知っている。
軍人の敬礼も、貴族の作法も知っている。
だが、帝国軍にいたとは言わない。
ライトは軍用艦の動きを知りすぎている。
帝国式も反乱軍式も、見ただけで操縦の癖を言い当てる。
けれど、自分はただの天才操舵手だと言って笑う。
ライガの速さは、普通の人間のものではない。
短い間だけ、銃弾より先に動く。
その理由を尋ねても、答えない。
ベンゾーは、帝国領でも海賊港でも顔が利く。
役人の税金の抜け道も、密輸商の符丁も知っている。
善良な商人だと自称しているが、たぶん善良なだけの商人ではない。
「あんたたちは、何者なんだ」
キッドが尋ねた。
「船長だ」
クライが答える。
「宇宙一の操舵手」
ライトが胸を張る。
「用心棒」
ライガは短い。
「善良な商人です」
ベンゾーが微笑む。
「それは今だ」
キッドは言った。
「その前は?」
誰も、すぐには答えなかった。
ライトが椅子の背へ身体を預ける。
「昔のことを知って、どうするんだ?」
「知りたい」
「それだけ?」
「それじゃ駄目なのか」
以前、クライへ言った言葉と同じだった。
知らない船。
知らない星。
知らない道。
そして、知らない人間。
キッドにとっては、どれも同じだ。
知らないなら、知りたい。
クライが小さく笑った。
「誰にだって、この船へ乗る前の航路がある」
「なら、教えてくれ」
「船へ持ち込まない荷物もある」
「ずるい」
「大人だからな」
キッドはライトを見る。
「ライト・スタッフも、本当の名前じゃないのか」
ライトの笑みが、一瞬だけ止まった。
すぐに、いつもの調子へ戻る。
「格好いいだろ?」
「質問に答えてない」
「名前なんて、自分が気に入ってればいいんだよ」
「本当の名前は」
「昔、どこかへ置いてきた」
冗談めかした声だった。
だが、キッドはそれ以上聞かなかった。
ライトが笑っている時には、二種類ある。
本当に面白がっている時。
もう一つは、何かを隠している時だ。
「ライガは?」
「聞くな」
「ベンゾーは?」
「昔は、もう少し大きな帳簿をつけてました」
「どれくらい大きい」
「さあ。昔のことですから」
やはり、誰も答えない。
キッドは最後にクライを見る。
「クライは」
「宇宙一の早撃ちだ」
「自称だろ」
「最近、口が悪くなったな」
「誰のせいだ」
ライトが吹き出し、ライガがわずかに口元を緩める。
ベンゾーは困ったように肩をすくめた。
答えは得られなかった。
だが、それでよかった。
今すぐ、すべてを知る必要はない。
船の中に入れない場所があるように、人にも触れられたくない場所がある。
ただし、忘れはしない。
いつか自分で確かめる。
◇
整備を終えた《ストレンジャー》は、中立交易港コルサを離れた。
キッドは操縦室の後ろに立ち、星の海へ向かう船首を見つめる。
「《ストレンジャー》」
小さく口にする。
「気に入った?」
操縦席のライトが尋ねた。
「よそ者って意味なんだろ」
「そうだよ」
「この船も、あんたたちも、どこから来たのか分からない」
「キッドもだろ?」
キッドは少し考えた。
「俺には、帰る部屋がある」
船の中の、元物置だった小さな部屋。
狭くても、自分だけの場所だ。
ライトは前を向いたまま笑った。
「なら、お前はもう、よそ者じゃないな」
《ストレンジャー》が加速する。
星々が窓の外を流れ始めた。
船の中央。
誰も入れない黒い壁の向こうから、低い音が響いている。
キッドはまだ知らなかった。
この船がどこから来たのか。
四人が何から逃れ、何を捨てて、この船へ乗ったのか。
知らないことばかりだった。
だから、知りたいと思った。
知らないものは、恐ろしい。
だが同時に。
まだ見ぬ行き先でもあった。




