第十三話 旗の下にいる者
帝国は悪い。
以前のキッドなら、そこで考えるのをやめていた。
帝国認可第七船骸回収場。
あの場所は、帝国の法の下にあった。
監督官は、帝国の認可を盾に子どもを番号で呼び、壊れるまで働かせた。
役人は帳簿を見て、賄賂を受け取り、何も見なかったことにした。
だから、帝国は悪い。
間違ってはいない。
だが、それだけでは足りないのだと、今のキッドは知っている。
《ストレンジャー》に乗ってから、一年と少しが過ぎていた。
文字は読めるようになった。
数字の裏に隠れた嘘も、少しは見えるようになった。
銃は腰にある。
ただし、抜く前に考える癖もついた。
ライガには、まだ一度も勝てない。
ライトの操縦にも、まだ追いつけない。
ベンゾーの商談は、聞いているだけで頭が疲れる。
クライの言葉は、短すぎて腹が立つ。
それでもキッドは、もう拾われたばかりの子どもではなかった。
「アルカディア法、ですか」
食堂で、ベンゾーが端末を覗き込みながら言った。
「正式には、帝国星間秩序法。初代皇帝アルカディア・ヴェルグラントの名を冠した、帝国最大の法体系です」
「星間航行、船籍、交易、サルベージ、武装船舶、植民地管理」
キッドは指を折る。
「あと、危険技術の管理」
「よう覚えてますな」
「覚えただけだ」
「意味まで分かれば、もう少し可愛げがなくなります」
「今でもないだろ」
「自覚があるのは結構です」
ベンゾーは肩をすくめた。
アルカディア法。
かつては、星々を戦乱と海賊から守るための法だったという。
だが今では、船を持つ権利を縛り、航路を帝国が握り、認可業者へ特権を与える鎖になっている。
キッドにとっては、もっと簡単だった。
あの回収場を合法にしていた法。
それだけで十分だった。
「今回の仕事も、その鎖の隙間を通るわけですか」
ベンゾーの言い方を少し真似ると、本人が目を細めた。
「嫌な言い方を覚えましたな」
「誰かに似た」
「わしではないと信じたいです」
◇
目的地は、惑星ラダン。
帝国領の外縁にある鉱山惑星だった。
帝国企業が鉱山を押さえ、住民の多くは安い賃金で働かされている。そこへ反乱同盟――彼ら自身は自由航路同盟と名乗る勢力――が入り、労働者たちが帝国施設の一部を占拠した。
今、ラダンは封鎖されている。
依頼は、北部第三居住区にある診療所への医薬品輸送。
名目は民間輸送。
実態は、帝国軍の封鎖線を抜ける仕事。
「正規の許可は?」
操縦室でキッドが尋ねる。
「ありません」
ベンゾーが答えた。
「偽物ならあります」
「堂々と言うな」
「こそこそ言うと、後ろめたいみたいですやろ」
「後ろめたいことをしてるんだろ」
「薬が届かんかったら、病人が死にます」
キッドは黙った。
以前なら、悪いことは悪いと言っていた。
今でも、そう思っている。
だが、悪いことを避けた結果、誰かが死ぬこともある。
それを知ってしまった。
「帝国軍の封鎖線まで三分」
ライトが操縦桿を軽く動かす。
「キッド、通信を聞いておけ。相手が何を見てるか、分かる?」
「積み荷か、船籍か、乗員か」
「いいね」
「撃ってきたら?」
「避ける」
「説明が雑だ」
「一年以上聞いて、まだ慣れない?」
「慣れた。納得はしてない」
ライトは楽しそうに笑った。
◇
ラダンの軌道上には、帝国軍の艦艇が並んでいた。
巡洋艦が二隻。
警備艇が六隻。
補給艦が一隻。
その中央に、黒地に金の双頭獣を描いた帝国旗が投影されている。
『前方の船へ告げる』
通信機から低い声が響いた。
『こちらは帝国軍ラダン封鎖部隊。船名、所属、航行許可番号を提示せよ』
ベンゾーが端末を操作する。
「民間輸送船。所属は帝国公認ベイル商会。医療物資の輸送許可を取得済みです」
キッドは窓の外を見た。
船名からして嘘だ。
だが、ベンゾーの声は少しも揺れない。
『許可番号を照合する。そのまま停止せよ』
《ストレンジャー》が減速する。
いや、今は《スターリング》だった。
嘘の名前。
嘘の所属。
嘘の通行証。
けれど、積み荷の薬は本物だ。
『医療物資の届け先を確認する』
「ラダン北部第三居住区です」
『第三居住区は反乱勢力の支配下にある』
「存じております」
『反乱軍へ物資を運ぶつもりか』
通信を聞きながら、キッドは考える。
相手は積み荷より、届け先を気にしている。
武器ではないと分かっている。
それでも通したくない。
断る理由を探している。
クライがちらりとキッドを見た。
「どう聞こえる」
「薬を疑ってるんじゃない。渡す相手を疑ってる」
「理由は」
「質問が積み荷から届け先へ移った」
「悪くない」
クライは通信機へ目を戻した。
少し、嬉しかった。
顔には出さない。
ライガに見つかると、また褒めてほしい顔だと言われる。
『輸送船。私は帝国軍ラダン封鎖部隊、エイデル中尉だ』
声が変わった。
若い男の声だった。
『積み荷を検査する。医薬品以外の物資がなければ、第三居住区への降下を一度だけ許可する』
ベンゾーの指が止まる。
「よろしいんですか?」
『住民を飢えさせるための封鎖ではない』
「ありがとうございます」
『礼は不要だ。ただし、反乱軍の武器や兵員を運び出した場合、次は撃墜する』
「承知しました」
通信が切れる。
警備艇が近づいてくる。
キッドは窓の向こうの帝国船を見た。
「帝国軍でも、通す奴がいる」
「いるさ」
クライが言った。
「帝国軍なら、全員監督官みたいな顔をしてると思ったか」
「前は、そう思ってた」
「今は?」
「分からない」
「上等だ」
分からない。
昔なら、それは弱さだった。
今は、たぶん違う。
◇
第三居住区は、戦場の匂いがした。
焦げた建材。
破れた水道管。
古い血の跡。
遠くでは、今も砲声が鳴っている。
診療所の医師は、薬の箱を開けると深く息を吐いた。
「助かりました。これで一カ月は持ちます」
「一か月だけですか」
ベンゾーが眉を寄せる。
「患者が増えています。水道設備が壊れて、感染症が広がっているんです」
「帝国軍の攻撃で?」
キッドが尋ねる。
医師は少し迷ってから答えた。
「最初に爆破したのは、同盟の部隊です」
「どうして」
「帝国軍の駐屯地へ水を送らせないためです」
「住民も困る」
「帝国を追い出せば、すぐ直せると言っていました」
「直ってない」
「技術者の多くが、戦闘へ連れていかれました」
キッドは、壊れた窓の外を見る。
自由のために戦う者が、水を奪った。
秩序を掲げる帝国軍人が、薬を通した。
面倒だった。
世界は、いつも少しずつ面倒になる。
「正しいことを言う人が、正しいことをするとは限らないんだな」
キッドが呟くと、医師は疲れた顔で笑った。
「ええ。残念ながら」
◇
薬を運び終え、船へ戻る途中だった。
崩れた建物の陰から、武装した男たちが現れた。
五人。
正面に二人。
左右の建物に一人ずつ。
後方の路地に一人。
腕には、自由航路同盟の印。
「荷物を置け」
先頭の男が銃を向ける。
「医薬品は全部、診療所へ渡しましたよ」
ベンゾーが両手を上げた。
「船にはまだ積んでいるはずだ」
「帰りの分とうちの薬だけです」
「それでいい。負傷兵が待っている」
「診療所にも怪我人はいる」
キッドが言う。
「帝国に従っていた連中だ」
男は吐き捨てた。
「自由のために戦う者が優先だ」
「子どもよりも?」
「犠牲なしに革命はできない」
銃口がベンゾーへ向く。
キッドは腰の銃に触れなかった。
抜けば、左右が撃つ。
後方の一人も動く。
ベンゾーが前にいる。
ライガの声を思い出す。
敵を見るな。
戦場を見ろ。
「下がってください」
ベンゾーが小声で言った。
「名目上、わしの護衛なんでしょう」
「名目はもう外していいか」
「そういう判断は帰ってからお願いします」
先頭の男が銃を持ち直した。
その瞬間。
乾いた銃声が響いた。
男の手から銃が弾き飛ばされる。
路地の向こうに、クライが立っていた。
「そこで何してる」
男たちの顔色が変わる。
「キャプテン・クライ……」
「知ってるなら話が早い。消えろ」
「これは同盟の作戦だ。部外者が――」
二発目。
男の足元が弾けた。
「次は外さない」
五人は互いの顔を見た。
そして、武器を拾わずに逃げていった。
キッドはその背中を追わなかった。
「撃たなかったな」
クライが言う。
「撃てなかった」
「違う」
ライガが背後から現れた。
「撃たなかった。今のはそれでいい」
キッドは振り返る。
「本当に?」
「ベンゾーを守るのが先だ。敵を倒すのはその後でいい」
短い評価だった。
だが、ライガがそう言うなら、本当に悪くなかったのだろう。
ベンゾーが胸を撫で下ろす。
「いやあ、ええ護衛でした」
「名目は外れたか」
「調子に乗るのは早いです」
◇
《ストレンジャー》は、再び帝国軍の封鎖線へ向かった。
エイデル中尉の警備艇が進路を開ける。
『積み荷を確認した。通過を許可する』
通信が切れる前に、キッドは口を開いた。
「一つ聞いていいか」
『何だ』
「帝国軍人なのに、どうして薬を通した」
短い沈黙。
『帝国軍人だからだ』
「分からない」
『私の任務は反乱の鎮圧だ。住民を殺すことではない』
「アルカディア法は、回収場を合法にした」
『……何の話だ』
「子どもを働かせて、死んだら捨てる場所だ。帝国の認可があった」
また沈黙があった。
『それが事実なら、帝国の恥だ』
「帝国軍人でも、そう思うのか」
『帝国を正しい国にしたいと思うから、軍人をしている者もいる』
通信はそこで切れた。
帝国旗が遠ざかっていく。
黒地に金の双頭獣。
かつては秩序の象徴だった旗。
今では、多くの星にとって鎖の印でもある。
「帝国にも、悪くない奴がいる」
キッドは言った。
「同盟にも、悪い奴がいる」
「逆もある」
クライが答える。
「旗を見て人を決めるな」
「そいつが何をしたかを見る」
「覚えてるじゃねえか」
「覚えるのは得意だ」
「意味は?」
キッドは少し考えた。
「まだ分からない」
クライは笑った。
「それでいい」
窓の外で、ラダンが小さくなっていく。
あの星では、明日も誰かが帝国のために撃つ。
誰かが自由のために撃つ。
誰かが、そのどちらにも撃たれる。
世界は、思っていたよりずっと複雑だった。
少し、面倒だと思う。
けれど、知らなかった頃へ戻りたいとは思わない。
キッドは腰の銃へ触れた。
抜かなかった銃だ。
それでも今日は、少しだけ重く感じた。




