07
「大丈夫ですよ。ここにあなたを傷つけるものはいません」
そう言って握られた手。
レアの手はとても柔らかく、ひんやりとしたその体温はとても心地が良かった。
ヒト族が俺を見るときの嫌な光は、その薄紅色の瞳には少しも見えない。陰りのないその紅はまるで血の色のようで、見つめられると胸の鼓動が早まるのを感じた。
「綺麗な瞳だな」
思わずそう呟いていた。
するとレアは一瞬きょとんとした後、恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「まぁ、幼い狼さんはお世辞がお上手ですね」
「むっ、世辞じゃない。綺麗なものは綺麗だ。それに俺は幼くない。一人前のヒト狼だ」
「それはごめんなさい。どうぞゆっくり休んでくださいね」
レアはそう微笑むと部屋を後にした。
俺を運んでいた馬車は事故に遭ったらしい。あの憎い商人はその事故で死んだ。
倒れていた俺はこのお屋敷の娘レアに助けられた。
レアが出ていくと部屋には俺ひとりが残された。
きっと次レアが部屋にくるまでは誰も来ないだろう。
このお屋敷のヒトはあの商人たちとなにも変わらない。
扱いはまったく違う。けれど、俺を見る目。それは何も変わらない。
レアがいなくなるとあからさまに周囲のヒトたちは態度が変わった。
それでも暴力が振るわれないだけマシだ。
身体が良くなっていくのを日々感じた。
まだうまく動かせないし、痛みもあるが以前とは比べるまでもない。
しかし良くなるほどに、この後のことを考えてしまう。
もう帰る場所はない。
捕まっていた時は復讐することを考えていた。そのためにも生きようと奮い立った。
けれど、こうなって気づくんだ。
「俺は」
本当に復讐するつもりがあったのだろうか。
あの状況で俺は何もできなかった。だから復讐しよう、とその火を胸に灯すことができたんだ。
確かに俺を痛めつけた商人は死んだ。それでも仲間たちを殺した兵士、その指示を出した領主や星光神教のヒトたちはまだいる。
わかってしまう。
レアは言った。
自由にしていい、と。
おそらくは本当にレアは俺の自由にさせてくれる。
自由を目前にして、俺は足が竦んでしまった。
復讐?
そんなもの無理に決まっている。
何が一人前だ。たった一匹。まだ子供だ。
何もできない。
捕らえられて、痛めつけられて何もできないから、復讐を誓って自分を慰めていただけに過ぎないんだ。
たった一人生きている負い目を感じないために、復讐を願っていただけに過ぎないんだ。
治りたくない。
治らなければここにいられる。
あの綺麗な子といられるのに。
どうすればいいんだろう。
すっかり暗くなった室内。窓から見える空に浮かぶ月。凶兆の赤い月。けれど俺の脳裏にはレアの綺麗な瞳が連想される。ヒト族はあの赤い月をどう見ているのだろう。
「レア」
思わずその名を呟いていた。
「どうしましたかザジ?」
「え?」
返事があるとは思わず間の抜けた声が出た。
「ふふっ。驚かせてごめんなさい。それとあまり大きな声を出さないでくださいね」
「レア」
空にあった赤い月がふたつ、薄暗い室内で俺を見つめていた。
レアが一人でいるのを俺は初めて見た。
「他の方々がいてはザジもお話しにくいと思ったので、目を盗んで忍び込みました」
ベッド脇の椅子にレアは腰を下ろす。
「どこか痛いのですか? なんだか不安そうな顔をしています」
「俺はどうすればいい?」
助けを求めるような声が絞り出された。
レアは少し驚いたように息を漏らした後、優しく俺の手を握った。
「ザジが目を覚ました日にもいいましたが何をするのもあなたの自由ですよ」
「俺は何がしたいのかわからないんだ。仲間はみんな殺された。帰る場所もない。憎むべき相手も……あの事故で死んだ」
少しの嘘。
本当に憎い相手はまだまだたくさんいる。けれど俺にはどうしようもない。
それに憎んでいると声に出せば、俺は彼らに復讐しなければ仲間を裏切ることになる。
「いいえ。そんなことはありませんよ」
レアの声は変わらず穏やかで、母の声を思い出す。
「あなたから大切なものを奪った人々はまだたくさんいますよ」
「レア?」
「調べさせていただきました。あなたの暮らしていた集落を襲ったのはこの国の南方、レッドメイン侯爵領の騎士ですね」
「レッドメイン」
そんな名前だったのか。けれど、それを俺に教えたところでどうすることもできない。
「そしてそのレッドメイン侯爵に獣人討伐を依頼したのは星光神教の司教です」
「どうして」
どうしてそんなことを俺に伝えるんだ。
そう言いたかった。けれどレアはその言葉を遮って続ける。
「星光神教は亜人種を認めません。ただそれだけの理由です。そしてレッドメイン侯爵は力ある星光神教に擦り寄ることで、かつての栄光を取り戻そうとしたのでしょうね。だから教会に良い顔をしたかった」
「……どうして」
怒りよりも虚しさがこみ上げてくる。
「どうして?」
レアが続きを促す。
「どうして、どうしてそんな理由で俺たちは、仲間は殺されなければならなかったんだ」
「それは人の世の社会のためです」
「え」
変わらぬ穏やかな声。しかし、そこには明確な嫌悪感と怒りが込められていた。
「すべての生物は存続することを、何かを伝え紡ぐことを最上の目的とします。そのために食べ、眠り、繁殖を繰り返します。そしてそれらを円滑に行うための手段として家族があり、それらを束ねて群れとします」
レアの握る手に力が入る。
「けれど、人はその先へ向かってしまいました。群れを束ねて国家として、社会を構築した。本来必要のない階級や権力、そんなものが増えていき、存続という目的のための手段であった『繋がり』は変容して『権力社会』という人を支配するシステムへと独立してしまったのよ」
「何を言っているんだ」
「私はねザジ。ただただ平和を望んでいます。世界の平和です。世界に生きるすべての『生物』が等しく、その生存目的に則って生きる世界です」
「世界の平和」
「えぇ、えぇ、平和です。もしもザジ、あなたがその自由に悩むのならば私に協力してくださいませんか?」
「俺に何ができるんだ」
「あなた一人では何もできないかもしれない。それは私も同じです。いくら公爵家の娘だろうと、か弱い小娘。ですが、あなたと私の二人なら何かができるかもしれません」
「レアと俺で」
その言葉に胸の鼓動が高鳴る。
「そうです。私たちで為しましょう。この世界を平和にするのです」
まるで夢物語、現実味のない話なのにレアが語ると本当に実現できてしまいそうだ。
「さぁ、そのためにもザジは早く身体を治してくださいね。治ったらたくさんお手伝いしてもらいますからね」
「あぁ、わかった」
心地よい暖かさが胸に広がる。
ひんやりとしたレアの手が俺の頬を撫でる。
夜風のように冷たく、夜空のように穏やかな、星の光を宿すようなその髪、今宵の赤い月のように魅入られる瞳。
俺はきっと夜毎にレアを想う。
久々に俺は穏やかな眠りにつけた。
「おやすみなさい、ザジ」
読んでいただきありがとうございます!
仕事の辛さにも、社会の寂しさにも、夏の暑さにも負けないよう頑張ります。
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