第13話「あれは、誰だ……?」
白髪の女性は自分の名前を八重代 冬那と名乗った。
そしてどうやら、この日記によると、俺の事が好きだったみたいだ。
「この人と一緒なら」この文がよく使われている。
「なんか……重いですよね」
書いた諜報人はとても恥ずかしそうに顔を赤らめている。
でもどこか他人事のように達観している。
「でも、ごめんなさい。私はまだ……好きではないです」
「分かってますよ」
そんなことよりも、この謎の日記について話をしたい。
「これを書いた記憶はないんですか?」
「ないです……」
じゃあ一体、なんだって言うんだよ……
本当に何も知らないのか疑問に残るからこそ、苛立ちが隠せない。
「ストーカーじゃないんですよね……」
「違います」
正体を名前しか知らない。
頭が痛い。
「病院からついてきた訳じゃないんですよね……」
「……違います」
「その日記、本当にあなたのものなんですか?」
「……そうです」
「俺のこと、なんでこんなに細かく知ってるんですか」
「分からないです……」
「分からないって……」
「……ごめんなさい」
「あなたは危害を加えるつもりはないんですよね」
「はい。でも、もっと情報が欲しいんです」
「はぁー……ちっ、」
じゃあ……
「じゃあ何か安全だという証拠出してくださいよ……!」
俺とて恐怖を隠せるわけじゃない。
本当にこの人は何も知らないんじゃないかと思う気持ちもある。
でも、それを凌駕する恐怖と言うものは現れてしかるべきだ。
「私も……わかんないですよ!!」
女性は叫んで俺の肩を突き飛ばした。
その顔は混沌そのものだった。
悲しみ、痛み、怒り、苦しみ、疑問、色んな感情が交錯する顔だ。
「いや、それじゃ筋が――」
「私だって何も分かんない! いきなりあなたが好きとか書かれても、何も覚えてないし! 私だって飲み込むのに苦労して、それでも向き合いたくてあなたの場所に来たのに……! もういいです!!」
女性は日記を俺に投げつけては部屋から出ていった。
……なんなんだよ
謝罪したい気持ち半分、怒りだけを食らわされて落ち着かない心が半分だった。
でも、体が自然と部屋から出ていた。
心は嫌な気持ちでいるのに、まるで糸でつながっているみたいに、女性を追いかける俺がいる。
嫌いだ……大嫌いだ……あんなやつ知らない……! 放っとけよ……!!
心でそう叫ぶのに、息が苦しくなるほど、器官が熱くなるほど苛立っているのに、体だけが彼女を追いかけている。
俺は言葉を発することもなく、彼女の手首を掴んだ。
「離してください……!」
「俺も離したいさ!!」
俺がそう叫ぶと、彼女はその矛盾に気づいたのか、意味が分からないと息を切らしながらこちらに振り返った。
「俺も、あなたと話したくなんてないさ! でも、体が勝手に動くんだよ……!!」
「何を言ってるんですか……? 離してください」
彼女は落ち着いて、冷静に手首を掴む俺の手を掴んだ。
体が彼女を引き離そうとしない。
なんなんだよ……!!
俺も彼女と一緒になって手を殴ろうとしたが、その手が今度は彼女の肩に触れた。
「え……」
そのまま体は勝手に彼女を壁まで追いやった。
「何してるんですか……」
彼女は怯えた目で涙を流した。
「だから俺も分かんないんだよ……!」
「やだ……やめてよ……」
なんなんだこの体は……一体何があったんだよ……!!
「分かりました……止まります。止まるので、お願い……離して……」
「違う。俺は止めたいわけじゃない」
「じゃあ、なんなんですか……? 何が望みですか……?」
「だから、それが分かんないんだよ」
「何を言ってるんですか……」
彼女の涙を見るたびに、俺の心がどんどん苦しめられる。
心の奥底の方から、彼女の涙を拭えと言葉が聞こえてくる。
離せよ……!
俺にも意味が分からない。感情での行動は彼女を放って部屋で寝ているはずだ。
でも、今のこの体はまるで別人が乗り移っているかのように制御が利かない。
まるでゲームのチュートリアルのように、俺の思う意思が反映されない。
彼女は次第に諦めて、ただ俯いて涙を流すだけになった。
心がとげとげしい。
言いたくない。絶対に言いたくない。でも、言わないと俺が死んでしまいそうになるくらい、痛くて苦しい。
ああ、もう……!!
「ごめん……」
その言葉を吐くと同時に、俺の心の呪縛が消えていった。
息がしっかりと吸えて、体に融通が利く。
すぐに手を離して、彼女から距離を取った。
「もう、関わらないでおこう」
俺はそう言い残して背を向けた。
これ以上、何か接点を増やしてしまうとまた今みたいに変なことが起きてしまうかもしれない。それは避けたい。
「待って……ください」
背を向けた俺の服の袖を、女性が掴んだ。
「なんですか……? もう互いに疲れましたよね……もう、関わらないほうがいいですよ」
「違います……日記だけ、返してほしいです」
あー……
「……分かりました。日記取ったらすぐに帰ってください」
淡白にそう言い切ると、女性は涙を拭きながら頷いた。
彼女は俺の部屋から日記を取り、少しページを確認して、俺に顔を合わせた。
「これだけ……」
そう言って日記の一ページだけを震える手で俺に見せてきた。
そこには「きっと今度は二人とも記憶がなくなるから、辛い経験をするかもしれない。でも、私はあきらめない。この理由があるときだけはまだ、生きられるから。待ってて夜船さん。今逝くから」そう綴られていた。
「ちょっとは……頭冷やして下さい」
女性は毒を吐くように、俺の顔も見ずにそれだけをつぶやいて走り去って行った。
確かに、日記を全て見た訳でもなく、確認を取ったわけでもなかった。
その点を上げるのであれば俺の落ち度が大きい。
でも、何の情報もなしにいきなりあんなことを言われる身にもなってほしい。
俺はそのことだけを頭に、今日はもう寝ることにした。
この奇怪な現実に顔を背けたかったから。
翌朝、また嫌な気分で目が覚めた。
昨日のことが刻印のようにずっと頭に残る。あの変な日記、俺の体の謎。全てが謎めいていて、矛盾のない的を射たもの。
恐怖と好奇心と、相反する心情が俺の心を刺激する。
俺の記憶にまるで泥を塗られたような気分がする。
シャワー入って、部屋にこもるか……
外に出たらあの女性と出会ってしまうかもしれない。
今の俺には苦痛以外の何物でもない。
「……あ」
シャワールームに入ると、またあの女性が居た。
しまった……化粧中か
俺は静かに扉を閉め、いそいそと部屋に戻った。
スマホの電源を付けると、確かに昨日会った時と同じ時間帯だ。
何も考えずに行くんじゃなかった……
横になって天を仰ぐと、段々と瞼が重くなってきた。
きっと今頃何も食べず、頭をフル回転させていたから疲れたのだろう。
このまま、死ねたらいいのに……
もう何もかも、忘却の彼方へ消え去ってしまえばいい。
このまま誰にも見られずに、誰にも聞かれずに、誰にも言わないままで……
ん……
次に目を開けたとき、俺の手に何か変な感覚があった。
なにこれ……
ぼやけた視界と、途切れ途切れの脳で確認すると、それは何かの手紙のようだった。
なんだ……?
俺は今までずっと寝ていたはずだ。夢遊病も患ってはいない。
これが意味すること、それはつまり誰かが勝手にこの部屋に入ったということだ。
別に取るお金も、大事な身分もくそもない。
世界の端くれで、ゴミ箱に入ったような人間だ。
特段気にすることもなく、手紙を広げてみると、俺の眠気はすぐさま引いていった。
なんなんだよ……
書き手はどうやらあの女性らしい。
体を起き上がらせて、溜息を吐きながら目を通した。
『まずは、この前いきなり押し入ってしまってすみませんでした。夜船さんが怒るのも無理ないですし、私の拙さを露見してしまったことを、恥ずかしく思います』
はぁ……
『でも、どうかもう一度だけ話ができないでしょうか。日記を見る限り、夜船さんはこれから数日でこの世を去る決断をされているかと思います。だからせめて、その時間を少しだけ、貸していただけないでしょうか。どうしても気になるのです。怖いという気持ちの半面、この謎を解かなければきっと後悔すると、誰かにずっと耳元で言われている実感があります。もし、話をしてもいいと思ってくれたなら、明日の朝、今日と同じ時間で待っています』
胸が痛くなった。
ここまでしっかりと謝られて、低姿勢の状態で接せられると、俺も罪悪感が募ってしまう。
こんなの人間なら行く以外の選択肢がないのと同じだろ……
醜悪な心のまま、俺は再度横になった。
きっと今日は眠れない。寝てしまったら、きっと朝に会えなくなるから。
「ちっ……」
手紙に舌打ちをしながら、俺はスマホをいじって夜を越した。
でも、女性を捕まえて壁まで追いやったあれは、一体誰だったんだろうか。
分かっている俺だ。でも、俺じゃない。
――あれは、誰だ……?
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