第五章 王女アリーシャの召喚
「ベルカ、この者は」
銀髪の女性は、馬から下りた。
背は俺よりやや低く、年は十代後半に見えた。
銀の縫い取りの入った白いドレスに、緑のマント。
帯刀していたが、それは儀礼用らしく、装飾の方が目立った。
ベルカ翁が深々と一礼した。
「第三王女、アリーシャ様。この者は儂が今朝、井戸のそばで見つけた、設計師でございます」
第三王女。
俺は自分の置かれた状況をようやく、半分くらい飲み込んだ。
ここは王国で、目の前にいるのは、その王族らしい。
そして、その王族がわざわざ村まで来ている。
アリーシャと呼ばれた王女は村人たちにねぎらいの言葉をかけて回った。
傷ついた者を抱きしめ、子供の頭を撫で、鍛冶屋に肩を貸して立ち上がらせた。
その所作には、装飾も派手さもなかった。
ただ、目の前の一人ひとりを、しっかり見ていた。
王女がようやく俺の前に立った。
銀の睫毛の下の瞳は、深い灰色だった。
夢の中の声と、本物の声が重なった。
「あなたは夢の中で会いましたね」
俺の方が、ぎょっとした。
向こうも、覚えていた。
「俺も、見ました。あなたが俺を呼んでいる夢を」
俺の言葉に、王女の眉がぴくりと動いた。
「やはり、そうだったのですか」
そばで、ベルカ翁が白い眉を上げた。
「王女様、まさか」
「ええ、ベルカ。私は、毎晩のように、見知らぬ世界に立つこの方の夢を見ていました。古代設計師の儀式を、私が無意識に行っていたのかもしれない」
王女は馬の鞍に手を置いて、しばらく考え込んでいた。
そして、こちらに向き直って、ゆっくりと言った。
「お願いがあります。私の馬車で、王都までお越しいただきたい」
俺ははっきり言って、戸惑った。
昨日まで東京で残業していた人間が、いきなり異世界の王女に「王都へ」と誘われている。
普通の感覚で言えば、現実逃避にもほどがあった。
だが、ここはもう、普通の世界ではなかった。
「行ってもよいが」
俺はベルカ翁を振り返った。
「私はまだ、この世界のことを何も知らない」
「儂も同行する」
ベルカ翁は即答した。
「儂は、王女様の侍医でもある。儂が、お前を導こう」
ミラが俺の袖を引いた。
「お兄ちゃん、行っちゃうの?」
寂しそうな声だった。
俺は、しゃがんで少女の目を見た。
「行くけど、戻ってくるよ。約束する」
「絶対?」
「絶対」
ミラはぐっと唇を結んで頷いた。
赤いリボンが、夕日に揺れた。
王女の馬車は、村を出て、街道を西へ走った。
馬車の中は、思ったよりも揺れた。
革張りの座席に、ベルカ翁と俺が並んで座り、向かいに王女が座っている。
窓の外を、見たこともない景色が、流れていた。
広い麦畑、その奥に低い山並み。
ところどころに、石造りの村が点在している。
日本では決して見られない、奥行きのある風景だった。
道の両脇には、丈の高い赤い花が、群生していた。
名前を、知らない花だった。
風が吹くと、花の頭がいっせいに、こちらにお辞儀するように、揺れた。
御者の鞭の音が、ぴしりと、街道に響いた。
馬の蹄の音が、四つ、規則正しく、土を叩いた。
車輪が、車軸で、軋む音も聞こえた。
その音の隙間で、王女が、控えめに、咳を、ひとつ、した。
「司殿」
王女がこちらに身を乗り出した。
「司、と呼んで構いません」
「では、司」
彼女は少し笑った。
頬に、薄くえくぼができた。
「単刀直入に申し上げます。私は、この国の腐敗を、なんとかしたいのです」
俺は姿勢を正した。
「腐敗、と言いますと」
「父は、年老いてから、派手なものばかりを好むようになりました。宮殿には飾りが増え、儀式は長くなり、税は重くなりました。民の声は、誰にも聞かれていません」
王女の声は、淡々としていた。
怒りはなく、ただ、現実を述べていた。
「兄の王太子は、武勇には長けますが、政治には興味がありません。私の上の姉二人は、すでに他国へ嫁いでいます。残った私は政略結婚の駒として、扱われそうになっている」
俺は息を呑んだ。
王女の灰色の瞳は、まっすぐ俺を見ていた。
「夢に、あなたが現れるようになったのは、ちょうど三月前です」
彼女は続けた。
「夢の中であなたはいつも何かを書いていました。誰かのために、ひたすら、何かを書いていた」
「……それはたぶん、ペルソナです」
俺は自分のノートを膝の上に置いた。
そして、ペルソナとは何か、自分の世界での仕事について、ぽつり、ぽつりと話した。
利用者を一人の人物として設計すること。
その人の困りごとを汲み取って、サービスを組み立てること。
誰にも褒められない、地味な仕事だということ。
話し終えたとき、王女は両手で口を覆っていた。
その目が、潤んでいた。
「それです、司」
彼女の声が、震えていた。
「それが、古代設計師の魔法そのものです」
王女は自分の首から、銀の鎖を引き出した。
そこには、小さな羊皮紙の切れ端が、ペンダントのように下がっていた。
「これは私が幼い頃、宮殿の地下で見つけたものです」
切れ端には、知らない文字で、何かが書かれていた。
その下に、小さな図解があった。
それは紛れもなく、ペルソナのフォーマットだった。
「名前、年齢、職業、悩み、願い……これらの欄を埋める者が、人を救う」
王女は声を低くした。
「私は、ずっと、これを書ける人を、待っていたのです」
馬車の中の空気が、しんと張り詰めた。
ベルカ翁は目を閉じて頷いていた。
俺は震える指先で、王女の差し出した切れ端を、受け取った。
日本のオフィスで、誰にも見られずに作っていたペルソナ。
それがここでは、王女の探し求めていた魔法だった。
「司」
王女は、俺の手を両手で包み込んだ。
彼女の手は、思ったよりも冷たかった。
「私のために、私のペルソナを、書いてくださいませんか」
馬車の窓の外で、夕日が麦畑を金色に染めていた。
俺は自分の心臓の音を、はっきりと聞いた。
「……書かせてください」
俺は頷いた。
ノートのページを、新しく一枚、開いた。
そして、王女の灰色の瞳を、まっすぐ見つめ返した。
「教えてください。あなたは、いつ、いちばん心が落ち着きますか」
王女はしばらく考えてから、答えた。
「……雨の日の、宮殿の裏庭です。誰も来ません。雨音だけが、私を私のままにしてくれます」
俺は書き留めた。
「逆に、いちばん辛いのは、いつですか」
王女の眉が、わずかに曇った。
「父の傍に立つときです。父は、私を姫としてではなく、駒として見ます。私の言葉は、いつも、聞き流されます」
「あなたが本当はやりたいことは」
彼女は目を伏せた。
睫毛が、薄く震えた。
「……国を、変えたい。けれど、女の身では、できることが少ない。だから、人を見つけたかった。設計師を、見つけたかった」
俺はペンを止めなかった。
書き続けた。
「アリーシャ・フォン・グランエル・十八歳・第三王女・銀髪灰の瞳・雨の裏庭で安らぐ・父への怒りと諦め・国を変えたい・誰かに認められたい・本当は自分の名前で呼ばれたい」
書き終わると、ノートが、ふわりと淡い光に包まれた。
今度は、誰の身体にも降りなかった。
代わりに、王女の胸の前で、光がぽつりと結ばれた。
小さな、青い光だった。
王女は、自分の胸の光に、手をあてた。
そして、長い長い息をゆっくり、吐き出した。
「……息が、軽い」
彼女はぽつりと言った。
「私を、初めて、私として見てくれた人が、いた」
ベルカ翁が目元を拭った。
ぽつりと、白い髭の下から、涙の粒が落ちた。
「儂は、五百年ぶりに、ペルソナ魔法の発動を、見た」
俺はノートを抱えて、何も言えなかった。
ただ、王女の灰色の瞳が、夕日の中で淡く濡れているのを、見ていた。
その瞳を、忘れないでおこうと、俺はなぜか、思った。
それが後にどんな意味を持つのか、そのときの俺はまだ、知らなかった。
馬車は、坂を上り始めた。
窓の外に、白い城壁が見えてきた。
夕日に染まった石壁の上に、銀色の旗がはためいていた。
「あれが、リエンガルド王国の王都、エルダンです」
王女は窓の外を見つめながら、つぶやいた。
「あなたを、私の故郷に、迎えます」




