第三章 異世界の朝、銀髪の少女
家の奥から、深い声が近づいてきた。
杖の音が、こつこつと、床の木目を踏んで響く。
扉の影から現れたのは、白い髭をたっぷり蓄えた老人だった。
背中はすこし丸まっているが、目だけは、子供のように澄んでいた。
頭には、何かの皮をぴったり巻いた帽子。
腰の革帯には、いくつもの小瓶が、ぶら下がっていた。
その小瓶の中には、緑や、赤や、青の、液体が揺れていた。
彼が動くたびに、小瓶が、しゃらしゃらと、低く鳴った。
薬師の身体は、何十年も、彼の仕事と馴染んでいるようだった。
「儂はベルカ。この村の薬師であり、最後の設計師だ」
設計師。
その言葉に、俺の身体は無意識に反応した。
それは俺の職業のことなのか。
それとも、似て非なる、別の何かか。
「あなたが私を運んできてくれたのですか」
俺は上半身を起こそうとした。
肩から腰にかけて、鈍い痛みが走った。
寝かされていたのは、麻のような布が敷かれた寝台だった。
枕の代わりに、丸めた毛布が頭の下にあった。
「儂が運んだのではない。お前は空から落ちてきた」
ベルカ翁は寝台のそばの木の椅子に、ゆっくり腰を下ろした。
「光に包まれて、村の井戸のそばに横たわっていた。ミラがそれを見つけた」
少女ミラが得意げに胸を張った。
赤いリボンが、髪に揺れた。
「水を汲みに行ったらね、いきなりピカッて光ってさ、そしたらお兄ちゃんが倒れてたんだよ」
俺はゆっくり上半身を起こした。
窓の外を、もう一度、よく見た。
緑の屋根の家々が、低い丘の斜面に、点在している。
屋根の上に、煙突から、白い煙が、まばらに立ち昇っていた。
道は、舗装されていない、土の道。
そこを、犬を連れた老人がゆっくり、歩いていた。
老人の上着は、麻と、何かの皮で縫い合わされていた。
東京で、絶対に目にしたことのない、装いだった。
俺は混乱していた。
当然だった。
昨日まで、駅のホームのコンクリートに頬を擦りつけていた人間が、知らない国の知らない家で目を覚ましている。
「私は夢を見ているのでしょうか」
ベルカ翁は首を振った。
「夢ではない。お前は別の世界からこの世界へ呼ばれた」
別の世界。
そんな言葉を、平然と口にする老人を、俺はまじまじと見つめた。
冗談を言っているようには見えなかった。
彼の目の奥には、何百年もの時間が沈んでいるような重さがあった。
「証拠を見せよう」
ベルカ翁は懐から、古ぼけた羊皮紙を取り出した。
それを、寝台の脇の小卓に広げる。
紙の上には、見たことのない文字と図形が、びっしりと書き込まれていた。
だが、見ているうちに、その図形が、少しずつ、別のものに見えてきた。
それはユーザージャーニーマップに、よく似ていた。
ジャーニーマップというのは、サービスを使う人の感情の動きを、時系列で描いた図のことだ。
朝、サービスを知る。
昼、登録する。
夜、利用してみて、嬉しさや戸惑いを感じる。
そういう「人の感情のたどる道のり」を、図にして残しておく。
俺の仕事の、もう一つの基本道具だった。
「これは……」
俺の声が、震えた。
「ユーザーの感情の流れを、書き出した図、ですよね」
ベルカ翁の白い眉が、ぴくりと動いた。
「儂はそれを『魂の経路』と呼んでいる。お前の世界では、別の呼び方があるようだな」
俺はもう一度、羊皮紙を見つめた。
書かれている言語は読めない。
だが、図形の流れは、見間違いようがなかった。
時系列の左から右へ、感情の上下を波のように、描いた線。
線の上には、人の動きを示す、小さな絵が添えられていた。
水場で水を汲む絵、市場で商人と話す絵、夕暮れに家路を急ぐ絵。
日本のオフィスのホワイトボードに描く、ユーザージャーニーマップと、まったく同じ構造だった。
五百年前、海の向こうの見たこともない文化圏で、同じ手法が使われていた。
俺の指が、無意識に震えていた。
ベルカ翁がそれを見て、静かに頷いた。
「五百年前、この大陸には、設計師と呼ばれる職能の集団があった」
ベルカ翁はゆっくりと語り始めた。
「人々の魂の経路を読み解き、悩みを汲み取り、必要な仕事と居場所を与え、国を栄えさせた者たちだ」
ミラは口を半分開けて、爺の話を聞いていた。
窓の外で、誰かが薪を割る音が、こん、こん、と遠くから響いてきた。
「だが、設計師は滅びた。派手な装飾を好む者たちに、地味な仕事を軽んじられ、追われ、やがて誰も継ぐ者がいなくなった」
俺は息を呑んだ。
それはまるで、俺の話のようだった。
「お前の魂には、設計師の徴がある」
ベルカ翁は俺の額を指さした。
「儂は薬師として、長くこの徴の浮かぶ者を待ってきた。この国は、いま滅びかけている」
俺は何も言えなかった。
信じる、信じない、そういう次元の話ではなかった。
だが、頭の中のどこか一番奥の場所で、何かが、こん、と鳴った。
それはずっと俺が探していた音のような気がした。
「儂は、お前に頼みたい」
ベルカ翁の声が、低く沈んだ。
「この国の、人々の魂の経路を、もう一度読み解いてほしい」
俺の手が、無意識に自分のシャツの胸ポケットを探っていた。
そこには、いつもなら、小さなノートが入っているはずだった。
だが、何もなかった。
俺は何も持たずに、この世界へ来てしまっていた。
ミラがぱっと立ち上がった。
「あ、そうだ。これ、お兄ちゃんの隣に落ちてたの」
少女が差し出したのは、見覚えのある、表紙の擦り切れたノートだった。
俺の五冊目のペルソナノートだった。
俺は震える手で、それを受け取った。
表紙の角の、見覚えのある潰れ方。
背の方に滲んだ、コーヒーの染み。
ページの端を折って印をつけた癖の跡まで、全部、俺のものだった。
そっとめくると、紙のにおいまで、東京で買ったあのときのままだった。
ノートを買ったのは、新宿駅の地下にある文具店だった。
あの店の、レジ前のカゴから、無造作に一冊だけ手に取った記憶が、唐突に蘇った。
「これはお前の魔導書か」
ベルカ翁が興味深そうにのぞき込んだ。
「いえ、ただの……仕事の、メモです」
表紙を開くと、いちばん最初のページには、知らない女性のペルソナが、俺の字で書かれていた。
東京の電車の中で書いた、あの三十二歳の女性。
彼女はここにはいない。
だけど、俺の字は、確かにここにあった。
「メモ、か」
ベルカ翁は少し笑った。
頬の皺が、深く折り重なった。
「お前は自分が何を持っているかまだ、わかっていないようだな」
ベルカ翁はノートに視線を落としたまま、続けた。
「儂らは、紙に書いたものに、力が宿るのを知っている。お前が誰かのことを真剣に書き留めた言葉には、その者の魂の輪郭が、薄く写し取られておるはずだ」
俺は信じきれないまま、それでも自分のノートを抱きしめていた。
これだけが、いまの俺の世界と、向こうの世界をつなぐ、唯一の証拠だった。
そのとき、家の外で大きな鐘の音が鳴った。
ごおん、ごおんと、立て続けに、三度。
ミラの顔が、さっと青ざめた。
「ベルカ翁、魔物の襲撃よ! 村の南門の方!」
俺は思わず立ち上がった。
身体はまだ、ふらついた。
だが、ミラが青ざめた顔で外を指さしているのを見て、座っているわけにはいかなかった。
「儂は薬の準備をする。お前たちは、外を見てこい」
ベルカ翁の声は、落ち着いていた。
「設計師よ、お前のノートを忘れるな」
ノートを?
こんな状況で、何の役に立つというのか。
だが、俺はなぜか、それを胸に抱えて、家の外へ走り出していた。
南門の方角から、悲鳴と、土埃と何かの咆哮が聞こえていた。
夕暮れに沈みかけた村の屋根の向こうに、黒い影が、いくつも跳ねていた。
俺はまだ、自分の足が動くことに驚いていた。
東京で倒れた身体は、ここでは、なぜか軽かった。
ミラが俺の手を引いて、走り出した。
俺は握りしめたノートの、表紙の手触りだけを、頼りにしていた。




