第二章 ペルソナノートと過労倒れ
翌朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
天井の木目を見上げて、夢を思い出した。
銀色の髪の少女。
あなたを、待っていた、という声。
あんなに鮮明な夢を見たのは、いつぶりだろう。
身体を起こすと、肩が軋むように重かった。
鏡の中の自分は、相変わらず青白い顔をしていた。
電車に乗るとまた、車両の中で人の観察が始まった。
朝のラッシュ、つり革は満員、誰かの肩と誰かの背中が押し合っている。
ドアの近くに立つ女性、子供の手をしっかり握っている。
左手にはスマホ、画面には保育園の連絡帳。
肩から下げたトートには、保冷剤と弁当箱。
靴は、踵の片方だけが、少し擦り減っていた。
ぼくの中で勝手にペルソナが立ち上がる。
「三十四歳・パート勤務・乳児と幼稚園児を抱える・帰宅後一時間で夕飯と入浴を回す・夜十一時にだけ自分の時間がある」
俺はこういう細部に気づくのが好きだった。
彼女がいま欲しいのは、たぶん片手で操作できる連絡帳アプリだ。
ボタンの位置は、右下にひとつだけ。
通知音は、小さく、振動と組み合わせて。
帰り道に必要なのは、五分でわかる夕飯レシピ集。
材料を三つに絞って、冷蔵庫の中身から逆引きできるもの。
誰も頼んでいないのに、頭の中で勝手にサービスが組み上がっていく。
これが、俺の仕事だった。
誰にも気づかれない、地味でおせっかいな仕事。
電車が大きく揺れた。
吊り革を握る指が、白くなるほど力を込めていた。
眠気とも空腹ともつかない疲れが、骨の奥にたまっていた。
会社に着くと、机の上に大きな付箋が貼ってあった。
「司、午後イチで例の案件のリサーチ追加。三件分、夕方までな。横田」
赤いマジックで、太く書かれていた。
電話越しでも済む内容を、わざわざ机に貼っていく。
そうやって、横田は俺の机に印をつけていく。
おまえはおれのものだと、人目に見えるかたちで残していく。
俺はペンを握って、付箋を剥がした。
紙の縁で、人差し指の腹を、薄く切った。
血がにじんだ。
舐めると、鉄の味がした。
「司、それ、結構深いよ」
通りすがりの宮原が眉をひそめた。
「絆創膏ある?」
「いい、たいしたことない」
宮原は何か言いたそうな顔をした。
でも、隣の島から横田が大声で笑う声が聞こえてきて、彼女は唇を結んで、自分の席に戻っていった。
午後三時、コーヒーで誤魔化しながら、三件分のペルソナリサーチをまとめていた。
案件は、子育てアプリの新機能の調査。
俺は街の中で観察してきた母親たちの姿を、十枚の資料にまとめていく。
朝のあのお母さん。
保育園の前で立ち話をしていた二人組。
夜のスーパーで、片手にスマホを持ってカートを引いていた女性。
それぞれの人物に、悩みと、願いと一日の動きを書き込んでいく。
気づくと、外はもう、暗くなっていた。
オフィスの蛍光灯がまた、ジーと鳴っていた。
「お、できたか」
夜八時、横田が戻ってきた。
今日も酒の匂いはしないが、表情だけは酔っているみたいに弛んでいた。
「これ、明日のクライアントに送るから、印刷しといて」
俺の作った資料の束を、横田は片手で持ち上げた。
表紙の俺の名前のところを、ピッと自分の万年筆で塗りつぶした。
そして、その下に自分の名前を書いた。
「センス、磨いとけよ」
横田は笑った。
俺は笑い返せなかった。
帰り道、駅のホームがやけに遠かった。
階段を一段上がるたびに、頭の奥がぐらぐら揺れた。
視界の端に、白い砂のようなものがちらついた。
これは貧血のときに見るいつものやつだ。
そう思った時にはもう、足が言うことを聞かなくなっていた。
朝、何を食べただろう。
コンビニのおにぎりだったか、それすら、食べたかどうか怪しい。
昨日の夜、何時に寝ただろう。
机に伏したまま、朝になっていた気がする。
思い出せなかった。
ホームに着いたとき、足がふっと止まった。
身体が、自分のものじゃない感じがした。
線路の向こうの広告が、ぐにゃりと歪んだ。
広告の中の女性が、こちらを見て笑っているように見えた。
それがペルソナで作ったあのお母さんと、重なった。
ああと、心の中で思った。
これはたぶん、よくないやつだ。
「……すみま、せん」
声を出したつもりだった。
誰にも届かなかった。
俺の膝が折れた。
コンクリートの冷たさが、頬に触れた。
持っていた鞄から、ノートが滑り出て、ホームの端に転がっていく。
あの五冊目のペルソナノートだった。
遠くで、悲鳴のような声が聞こえた。
誰かが走ってくる足音。
それもすぐに、遠くなった。
最後に見えたのは、駅のホームの天井の蛍光灯だった。
真っ白で、強くて、目を細めずにはいられなかった。
ノートの白いページが、ふわりと宙に開く。
そこには、何も書かれていない、まっさらな余白が広がっていた。
そのとき、頭の奥で誰かの声がした。
「あなたを、待っていた」
夢で聞いた、銀色の少女の声だった。
俺は目を閉じた。
意識の糸がふっと切れた。
落ちていく感覚があった。
深い深い底のない井戸を落ちていくような。
でも、不思議と怖くはなかった。
むしろようやく、休めるのだという、安堵だけがあった。
落ちていく途中で、いろんな景色が見えた。
小学校の頃の教室、絵が下手だと笑われた図画工作の時間。
中学の美術室、構図の取り方を褒められた一瞬。
大学の研究室、夜中までユーザビリティテストを回した記憶。
全部、人の顔を観察してきた時間だった。
俺は、ずっと誰かのことばかり見てきた。
自分のことは、見てこなかった。
光が、視界の隅で揺れた。
銀色の髪が、その光の中をふわりと流れた。
夢の少女が、ぼくに向かって、手を差し伸べていた。
「あなたの仕事は、終わっていない」
少女の声は、鈴のようだった。
「ようやく、はじまるのです」
俺は、少女の指先に自分の指先を伸ばした。
触れた瞬間、世界が、白く、爆ぜた。
次に目を開けたとき。
俺は見たこともない天井を見上げていた。
石造りの、ごつごつした天井。
天井の梁の節目に、見たことのない蝶のような虫が、ひらひらと止まっていた。
触角が、青く、光っていた。
東京では、絶対に見ない種類の、虫だった。
梁に、木で組まれた装飾。
窓から差し込む光は、東京の朝の光ではなかった。
それはもっと黄色く、もっと柔らかく、もっと深い。
鳥の鳴き声が遠くから聞こえる。
聞いたことのない種類の鳥だった。
「気がついた!ベルカ翁、起きたよ!」
枕元で、明るい声が弾けた。
振り向くと、銀色の髪の少女が、こちらをのぞき込んでいた。
夢の中で見た顔だった。
ただし、夢よりずっと小柄で、頬がふっくらしていた。
歳は、十二、三歳ほどだろうか。
赤いリボンを、髪に結んでいた。
左頬の上に、小さな黒子が、ひとつ、あった。
「あなたは、誰?」
俺はかすれた声で訊いた。
少女は、にっこり笑った。
歯が一本、欠けていた。
それがなんとも、人懐っこい笑顔だった。
「私はミラ。ベルカ翁のところで働いてるの」
そして、悪戯っぽく言葉を続けた。
「あなた、空から落ちてきたんだよ?」
「空から……」
「うん。井戸のそばで、ピカッて光って、ぼとんって、倒れてた」
ミラは両手で、空から落ちる仕草をしてみせた。
彼女の指先には、土埃がついていた。
水汲み仕事の途中で、駆け込んできたのだろう。
俺はゆっくり首を巡らせた。
壁にかけられたランプ。
床に敷かれた毛皮。
窓の外に見える、緑の屋根の家々と、その向こうにそびえる、白い城。
ここは、東京じゃない。
日本ですらないと、本能で悟った。
「……これは夢、か?」
俺はそう呟いた。
ミラは肩をすくめた。
「夢じゃないよ。でも、ベルカ翁が言うには、あなたは『呼ばれた人』なんだって」
呼ばれた、人。
そのとき、家の奥から、低くて深い、老人の声がした。
「目を覚ましたか、設計師よ」




