第一章 終電と手柄泥棒
深夜二時のオフィスは、蛍光灯の音だけが鳴っていた。
ジー、と低く響く音が、誰もいない天井から落ちてくる。
窓の外は黒く沈んで、隣のビルの非常灯だけが赤くまばたいていた。
俺、高梨司は、机の上に開いたノートに細い字で書き込んでいた。
インクの匂いが鼻先に薄く立ち上る。
万年筆のペン先が紙を滑る、しゃりしゃりという音。
それと、自分の呼吸の音だけが、この階に残っているすべてだった。
「三十二歳・女性・育児中・通勤時間五十分・スマホ操作は片手だけ」
明日のプレゼンで使うペルソナだった。
明日というかもう、今日だ。
壁の時計は、二時十分を指している。
ペルソナというのは、デザインの仕事で使う手法の一つだ。
サービスを使う人を漠然とお客様と考えるのではない。
名前、年齢、職業、悩み、一日の動き、そういう細かい情報を一人の人物として設計する。
朝何時に起きて、どんな気持ちで通勤して、何に困っているのか。
そうやって、その人の本当の困りごとが見えてくる。
地味な作業だ。
誰にも褒められない。
徹夜してまでやることか、と笑われたこともある。
それでも俺はこの時間が嫌いではなかった。
ノートの中にだけ、確かに人がいる気がした。
名前のない誰かの悩みに、俺は耳を澄ます。
そのとき俺ははじめて自分の輪郭を取り戻せる気がした。
「司ぁ、まだ残ってんのか」
廊下の奥から、ガラの悪い声がした。
クリエイティブディレクターの横田剛志、五十二歳。
革ジャンの下にだぼついたシャツ、首には金のチェーン。
酒の匂いが、開いたドアからむわっと押し寄せてくる。
銀座あたりで飲んできたのだろう、頬がうっすら赤い。
「明日のプレゼン、俺がやるから資料くれ」
横田は当然のように、俺の机に手を伸ばした。
「これ、まだ調整中で……」
「いいから貸せって。お前が説明したって、クライアントは寝ちまうだろ」
笑いながら、横田はノートの束を奪っていった。
紙の角が、俺の指先にかすかにかすった。
俺は何も言えなかった。
喉の奥が、ざらりと乾いていた。
「お前の作るペルソナとかさ」
ドアの向こうで、横田が振り返らずに言った。
「正直、地味なんだよ。デザインってのは、センスだろ、センス」
ドアが、ばたんと閉まる。
彼の足音が、廊下を遠ざかっていった。
蛍光灯の音だけが、また戻ってきた。
俺は奪われたノートのあった場所を、しばらく見ていた。
机の上に薄く長方形の埃の跡が残っていた。
そこに何かがあった証拠がもう、それだけになっていた。
翌朝、会議室。
窓から差し込む日差しが、長いテーブルの上に細い縞をつくっていた。
「えー、今回我々が提案するのは、こちらのペルソナ設計に基づく改善案でございます」
横田は俺が三週間かけて作った資料を、まるで自分の頭から出てきたように語っていた。
身振りが大きい。
声が高い。
ペンの先で空中を切るような仕草、それは俺がいつもやらない仕草だった。
クライアントの目が、ぱっと輝く。
「素晴らしい。横田さんならではの洞察ですね」
「いやあ、私の感性ですから」
横田がはにかむように笑ってみせる。
俺は会議室の隅で目を伏せていた。
ホワイトボードに映る俺の輪郭は、薄くて、誰の視線にも引っかからなかった。
椅子の脚に置いた靴のつま先がいつの間にか、内側に寄っていた。
「ここの、利用者の悩みの優先順位の出し方が、特に面白いですね」
クライアントの一人が、資料の一点を指さした。
そこは、俺が一番悩んで、一晩寝かせてから決めた順番だった。
「ええ、そこは私のこだわりでして」
横田が頷く。
俺は、口の中で自分の歯と歯がかちりと当たる音を聞いた。
誰にも、聞こえない音だった。
会議が終わると、横田は俺の肩をぽんと叩いた。
「資料運び、ご苦労さん」
それだけだった。
エレベーターのドアが閉まる前に、横田はクライアントに向かって大きく手を振っていた。
俺は階段で下に降りた。
踊り場の窓から見えた空は、嘘みたいに青かった。
昼休み、給湯室。
「司、大丈夫?」
同期の宮原瑞希が、湯気の立つマグカップを持ってきてくれた。
ベリー系のティーバッグの匂いが、つんと甘く香る。
「うん、別に」
「別にじゃないでしょ。あれ、全部司が作ったやつだよ」
「……うん」
宮原は俺の隣にそっと腰を下ろした。
細い指が、湯飲みの縁を撫でる。
窓の外で、雀が一羽、給湯室の換気扇のそばに止まっていた。
「あのさ」
「うん」
「お前の仕事ってさ、誰にも見えないけど」
「うん」
「絶対、価値あるよ」
俺は笑おうとしたけれど、うまく笑えなかった。
代わりに、マグカップの熱が、手のひらにじんわり伝わってくるのを感じた。
「ありがとう」
「お礼、いらないって」
宮原は肩をすくめてみせた。
「ただの、事実だから」
そう言ってくれるのは、いつも宮原だけだった。
そして俺はその言葉を信じることが、どうしてもできなかった。
信じてしまったら、これまでのすべてを、もう一度、見直さなければいけなくなる気がしたから。
夜家に帰る電車の中。
窓の外を、知らない街の灯りが流れていく。
俺は鞄から、五冊目になるペルソナノートを取り出した。
表紙はもう、角が擦り切れていた。
向かい側の席に、疲れた顔のサラリーマンが眠っている。
鞄の中から、ボールペンが一本、半分こぼれ落ちていた。
「四十代・男性・営業職・本当は絵を描きたかった・娘のために本音を飲み込んでいる」
そう書き付けながら、俺はぼんやり考えた。
人のペルソナばかり書いている俺はいったいどんなペルソナなんだろう。
二十八歳。
独身。
中堅デザイン会社のUXデザイナー。
仕事は奪われる。
評価はされない。
それでも、誰かの役に立ちたいと、まだ思っている。
ばかみたいだ、と笑いそうになった。
笑えずに、ノートを閉じた。
車窓の中の自分が、こっちを見ていた。
青白い顔、落ちくぼんだ目。
俺は知らない人のペルソナなら五分で書けるのに、自分のペルソナだけは、書けない。
家に帰ると、玄関に積みっぱなしのダンボールがあった。
取り寄せた専門書、もう中身も覚えていない。
台所の蛍光灯が、ちかちかと点滅していた。
冷蔵庫の中には、賞味期限の切れたヨーグルトが二つ。
ベランダに出ると、雲の切れ間に星が見えた。
息を吐くと、夜の空気が肺の中で冷たく広がった。
洗濯バサミにつままれた靴下が、風に揺れていた。
「……もう一度、ゼロからやり直したいな」
ぽつりと呟いた声は、誰にも聞かれずに、夜の街に溶けた。
雲が、ゆっくりと月を覆い隠していった。
俺はノートの一番後ろのページを開いた。
そこには、何も書かれていない、まっさらな白があった。
ペンを当てた。
何も書けなかった。
その時の俺はまだ知らなかった。
この呟きが、世界をひっくり返すきっかけになることを。
ベランダの手すりに置いた指先がいつの間にか、震えていた。
それが寒さのせいなのか、別の何かのせいなのか、自分でもわからなかった。
俺は部屋に戻って、机の上に積み上がったノートの山を眺めた。
カフェで書いたペルソナ。
電車で書いたペルソナ。
公園で書いたペルソナ。
全部、見ず知らずの誰かのためだった。
俺自身のためのページは、一行もなかった。
シャツを脱ぐ気力もなく、ベッドに倒れ込んだ。
天井の木目が、知らない国の地図に見えた。
明日も、横田の声を聞かなければいけない。
明日も、笑えない笑顔を作らなければいけない。
目を閉じる前に、もう一度だけ、心の中で呟いた。
「やり直したい」
今度は声にもならなかった。
その夜、俺は夢を見た。
銀色の髪の少女が、誰もいない広場の中央に立っていた。
彼女はノートを抱えていた。
それは俺のノートだった。
「あなたを、待っていた」
少女がそう言った瞬間、視界が白く弾けた。




