第9話 偶然を買う親たち
日曜の午後、修一はリビングで進路関係の情報を流し見していた。
見るつもりだったわけではない。
朝、悠真の学校から来ていた連絡を一件確認したせいで、端末が教育関係の記事をまとめて出してきただけだった。
奨学制度。
研究課程の説明会。
受験生向けの夏季講座。
その中に、見覚えのある言葉があった。
非最適化教育。
修一は指を止めた。
開く。
最初に出たのは、山でも教室でもなかった。
参加条件だった。
AI支援なし。
事前の行程固定なし。
参加者の事前情報なし。
失敗時の運営介入、原則なし。
期間、14日間。
参加費、100万円。
修一は最後の数字を見直した。
「高くない?」
向かいのソファで端末を見ていた悠真が顔を上げた。
「何が」
「これ」
修一は画面を送った。
悠真が受け取る。
上から読んでいき、途中で一度眉を上げた。
「AIなし?」
「うん」
「二週間?」
「うん」
「予定なし?」
「そう」
「百万円?」
「そこは俺も今見た」
悠真は画面を送った。
説明は短かった。
初対面の参加者同士で行動し、現地で起きた問題に対して、自分たちで方法を探す。運営側はすぐには答えを出さない。
その下に、小さく注意書きがあった。
特定の進学評価、非モデル適応性指標の改善を保証するものではありません。
「保証しないって」
「教育だから、そんなもんじゃない?」
「百万円払って?」
「百万円は高いけど」
悠真はもう一度最初へ戻した。
「これ、何しに行くの」
「書いてあるだろ。自分で考えて動くんだよ」
「何を?」
「それを決めないんじゃない?」
「決めないことを決めてるじゃん」
修一は少し黙った。
学校の面談以来、似たような会話を何度かした気がする。
予定して予定外のことをやる。
予測されないように何かをする。
考えるほど、言葉が変になる。
それでも、画面に並んだ条件は少し気になった。
AIを使わない。
知らない相手と動く。
先が分からない。
失敗してもすぐ直してもらえない。
悠真が普段やっていることの、かなり逆だった。
だから悪い、という意味ではない。
むしろ普段の悠真は、修一よりずっとちゃんとしている。
忘れ物は少ない。
提出は早い。
使える支援は使う。
調べれば避けられる失敗は、だいたい避ける。
それで学校から一度だけ出た文字が、
非モデル適応性:低
だった。
修一は画面を指した。
「こういうの行ってみたら?」
悠真が父親を見た。
「失敗するために百万円払うの?」
「経験だよ」
「父さん無料でいっぱい失敗してきたじゃん」
修一は口を閉じた。
「お前、人の人生を安く使うなよ」
「無料なんでしょ」
「俺にもコストはかかってる」
「誰が払ったの」
「俺だよ」
「なら無料じゃん」
「そういう意味じゃない」
悠真が少し笑った。
修一も一瞬笑いかけたが、画面を見るとまた百万円が目に入った。
「でも、最近こういうの増えてるらしいよ」
「だから?」
「いや、だからっていうか」
修一は紹介欄を送った。
申込者の保護者向け説明、参加後の振り返り、本人が希望した場合の記録返却。
派手なことは書いていない。
非モデル適応性が上がるとも書いていない。
失敗すれば成長する、とも書いていない。
ただ、普段の最適化された教育環境では起きにくい経験を、意図的に作る。
そこだけは分かった。
悠真は画面を戻した。
「俺、別に何も自分で決めてないわけじゃないけど」
「分かってるよ」
「研究だって途中で条件変えることあるし」
「それも分かってる」
「AI使ったら自分でやったことにならないの?」
「そういう話じゃない」
「じゃあ何」
また同じところへ戻りかけた。
修一は学校の面談を思い出した。
悠真の能力が低いとは、一度も言われていない。むしろ逆だった。事前情報を使うのがうまく、大きく崩れない。問題は、その先だった。
「学校が言ってたのは、未知の条件でどう動いたかの記録が少ないって話だろ」
「うん」
「だから、そういうのがあってもいいんじゃないかって」
「記録作るために行くの?」
「記録だけじゃないよ」
「じゃあ評価?」
「それだけでもない」
「どっちでもないのに百万円?」
「金額から離れろよ」
「父さんが最初に高いって言ったんじゃん」
それもそうだった。
悠真が言った。
「父さん、これ俺が低かったから見てるの?」
「まあ、それはある」
「まだ試験の項目なんでしょ」
「今はな」
「これで学校決まるわけでもない」
「今はな」
「さっきから今はなって何」
修一は画面を閉じなかった。
「来年どう使われるか分かんないだろ」
「先生も分かんないって言ってたじゃん」
「だから気になるんだよ」
「分かんないのに?」
「分かんないからだよ」
言ってから、自分でも少し面倒なことを言っていると思った。
悠真は画面を返した。
「行かない」
「即答?」
「二週間もAIなしで、知らない人と、何するか分かんないんでしょ」
「そういう経験が」
「父さん」
「何」
「俺を人間変数にしたいの?」
修一は悠真を見た。
「そうじゃない」
「じゃあ何」
返事が出なかった。
人間変数。
会社では、その言葉で金をもらっている。
予測から外れる。
モデルが拾わない方を選ぶ。
そこに価値があると言われた。
悠真の学校で見たのは別のものだ。
同じではない。
修一にもそれは分かっている。
ただ、画面の中で「低」と出たものが、この先もずっと大した意味を持たないのかは分からない。
今の悠真には、特に直すところがない。
成績もいい。
志望先も本人が選んでいる。
友達もいる。
健康だ。
それでも一つだけ、低い。
「別に、お前に問題あるって言ってるわけじゃないよ」
「じゃあいいじゃん」
「そうなんだけど」
「何がそうなんだけどなの」
「だから……」
修一は止まった。
きれいな言い方が見つからなかった。
見つかったとしても、たぶん今は言うと余計に変になる。
悠真が先に端末へ戻った。
「俺、普通に受けるから」
「それは分かってる」
「第一志望も変えない」
「変えろって言ってない」
「じゃあ、この話終わり」
「資料くらい見とけよ」
「見た」
「全部?」
「百万円まで」
「そこしか見てないだろ」
「AIなしも見た」
「十分見てるな」
悠真は自分の画面へ戻った。
修一は非最適化教育の案内を閉じようとして、最後にもう一度注意書きを見た。
指標の改善は保証しない。
当然だと思う。
保証した瞬間、たぶん別のものになる。
それでも百万円だった。
修一は保存だけして、画面を閉じた。
*
数日後、夕食後のリビングで、修一の端末に短い動画が流れてきた。
題名は、
予測残差チャレンジ、5連勝。
「何だこれ」
再生した。
若い男が、自分の行動予測を画面に出している。
昼食。
いつもの麺類、74%。
男はカメラへ向かって笑い、隣の店で定食を注文した。
予測不一致。
大きな文字が出る。
残差獲得。
「獲得って何だよ」
次の動画へ送る。
今度は女性だった。
休日の移動。
自動運転車、68%。
女性は電動自転車を選ぶ。
予測不一致。
また大きな表示。
「流行ってるよ、それ」
悠真が言った。
「知ってるの?」
「動画では見る」
「やった?」
「やらない」
「なんで」
「面倒だから」
修一はさらに二本見た。
一人は普段買わない飲み物を買い、もう一人はいつもの帰宅経路を変えていた。
どれも大したことはしていない。
社会現象というほど大きなものには見えなかった。
修一の会社でやっている人も知らない。
ただ、動画のおすすめにはここ数日よく混じる。
三本目の男は、予測を外した直後に得意そうな顔をしていた。
コメント欄も速かった。
面白がっているもの。
「明日はカレーを選ぶ人」と先回りしているもの。
わざと外す行動まで学習されたら終わりだ、と書いているもの。
投稿者自身も、四日目には「逆張り傾向」を予測されて一度失敗していた。
「ほら」
修一がそこを指した。
「何」
「ちゃんと読まれてる」
「そりゃ毎日やったらね」
「人間変数、そんな簡単じゃないんだよ」
「父さんの話になってる」
「別にいいだろ」
「これ、わざと逆を選んでるだけじゃない?」
「だいたいそう」
「それで残差って増えるの?」
「最初は増えるんじゃない」
「最初は?」
「ずっとやったら、逆を選ぶ人って予測されるでしょ」
「だよな」
修一は少し安心した。
何に安心したのかは分からない。
次の動画を開いた。
今度はチャレンジではなかった。
予測残差を高めるAIコーチ。
修一は止めた。
「何これ」
説明を開く。
過去の選択履歴を解析。
予測されやすい行動パターンを抽出。
固定化した選択を崩すための候補を提案。
修一はもう一度題名を見た。
「AIに予測されない方法をAIに聞くの?」
悠真がすぐに言った。
「父さんもハルに俺の対策聞いてた」
修一は黙った。
台所でハルが食器を収納している。
音はほとんどしない。
修一は何か言おうとした。
やめた。
確かに聞いた。
悠真に予測不能な経験をさせる方法。
そう言った。
ハルは最適なプログラムを生成すると答えた。
それじゃ意味ないだろ、と返したところまで覚えている。
画面ではAIコーチの説明が続いていた。
個人の生活目標を維持したまま、未経験の選択肢を提案します。
「生活目標は維持するんだ」
修一が言った。
「全部捨てたら困るからじゃない」
「まあ、そうだな」
さらに送る。
注意書き。
予測残差の増加、教育・採用上の評価改善を保証するものではありません。
「こっちも保証しないんだ」
「当たり前じゃん」
「何が売りなんだろ」
「提案してくれることじゃない?」
「予測されないための提案を?」
「そう書いてある」
「変だろ」
「父さんもやった」
もう一度言われた。
「二回言うなよ」
「一回目で反論なかったから」
「反論考えてただけ」
「できた?」
修一は少し考えた。
「まだ」
悠真が笑った。
修一も画面を閉じた。
テレビでは普通のニュースが続いていた。
電力価格。
交通情報。
スポーツ。
予測残差チャレンジは出てこなかった。
修一はソファにもたれた。
横で悠真が何かを見ている。
たぶん学校関係だった。
「なあ」
「何」
「百万円のやつ」
「行かない」
「まだ何も言ってないだろ」
「その話なら行かない」
「分かったよ」
修一はそう言った。
今度は本当に、その話を閉じた。
*
夜。
悠真は自室で課題の確認を終えた。
提出済み。
研究レポートも修正なし。
来週の予定も問題ない。
進学AIから、志望課程の最新情報が一件来ていた。
開く。
選考方針に変更なし。
非モデル適応性についても、前に見た説明とほとんど同じだった。
試験運用中。
複数資料の一つ。
評価方法は継続検討。
悠真は閉じた。
父親が大げさなのだと思う。
百万円払って、予定なしの予定へ行く。
AIを使わないことを決めて、知らない相手と二週間過ごす。
それで何か変わるかもしれない。
変わらないかもしれない。
少なくとも、今すぐ行きたいとは思わなかった。
端末を閉じかけた。
止める。
自分の進路資料を開いた。
成績。
研究活動。
志望分野。
前と変わっていない。
その下。
非モデル適応性:低
悠真は数秒見た。
別にこれだけで落ちるわけではない。
分かっている。
同級生より低かったことも、もう何週間も前の話だ。
検索欄を開く。
前は、
非モデル適応性上げ方
まで入力して、消した。
今回は少し考えてから、もっと長く打った。
学業成績を維持しながら非モデル適応性を改善する方法
検索を実行した。
最も効率的な非最適化経験プランを生成しますか?
選択肢が二つ並んだ。
生成する。
生成しない。
悠真は少しだけ指を止めた。
「生成しない」
押した。
画面消灯。




