第10話 母の土地
母の家へ着いた時、和江は庭にいた。
修一が車を降りると、縁側の脇からケイが出てきた。両腕に浅い箱を抱えている。中には切った枝と枯れた葉が入っていた。
「来た」
和江が言った。
「見れば分かるよ」
「じゃあ言わなくてもよかった」
「そういう意味じゃない」
美咲が助手席側から降りた。
「こんにちは」
「はいはい」
和江は軍手を外した。
家は修一が子どもの頃からある木造住宅だったが、中身は何度か変わっている。耐震補強が入り、窓が替わり、廊下の段差がなくなった。ケイが通れるよう扉の幅も広げられている。
庭はあまり変わっていない。
広すぎず、狭くもない。低い植木と、小さな菜園と、和江が何度植え替えたのか修一も知らない草花がある。
その外側へ行けば、旧畑と休耕地、その先に雑木林が続く。
昔は畑だった場所も、今は半分ほど草地になっていた。
さらに遠くには、以前より増えた産業施設の屋根が見える。
高萩の内陸側は、古い集落がそのまま消えたわけでも、新しい産業地に全部変わったわけでもなかった。山と家と工業施設が、妙な距離で隣り合っている。
「それ持つよ」
修一がケイの箱へ手を伸ばした。
「運搬支援は不要です」
「俺が持つ」
「重量は六・二キログラムです」
「それくらい持てるよ」
ケイは和江を見た。
「修一さんへ渡しますか」
「好きにして」
ケイが箱を差し出した。
受け取った修一は思ったより重くて、少し腕を下げた。
「六・二あるな」
「申告しました」
「そうだな」
美咲が笑った。
和江は先に家へ入った。
「お茶あるよ」
「ケイが?」
「今日は私」
「へえ」
「何、その言い方」
「別に」
修一は箱を置いて家へ入った。
台所には急須と湯飲みが出ていた。ケイが冷蔵庫から小さな容器を取り出し、和江の前へ置く。
「昼の服薬が一件残っています」
「忘れてない」
「現在、予定時刻から二十三分経過しています」
「お茶飲んだら」
「確認しました」
それだけでケイは離れた。
修一は座った。
「厳しいな」
「何が?」
「薬」
「忘れる時あるから言わせてるの」
「ああ」
和江が湯を注ぐ。
ケイはその間に修一が置いてきた箱を外の作業場所へ戻し、今度は玄関脇の買い物袋を持って入ってきた。
中身を台所へ運ぶ。
豆腐。魚。野菜。
「買い物もケイ?」
「重いのはね」
「楽?」
「楽」
即答だった。
修一はケイを見る。
ハルより少し大きく、外装も厚い。和江が転んだ時に支えることを考えれば、このくらいでいいのだろう。
「風呂も?」
「手伝ってもらう時ある」
「病院は?」
「予約はやってもらう」
「飯は?」
「作らせる時もある」
和江が茶を飲んだ。
「昨日は私」
「今日は?」
「まだ決めてない」
「自由だな」
「私の家だから」
修一は少し笑った。
それから、何となく聞いた。
「ケイばっかりで寂しくない?」
和江が修一を見た。
「何が?」
「……いや」
それ以上、聞くところがなかった。
美咲は黙って茶を飲んでいた。
ケイが台所で魚を冷蔵庫へ入れている。
和江は薬を飲んだ。
誰も、そのことを特別なこととして扱わなかった。
*
午後の説明会は、車で十分ほどの地域施設で開かれた。
入口には人が多かった。
高齢者ばかりではない。仕事着のまま来ている人もいれば、小さな子どもを連れた夫婦もいた。
「結構来てるな」
「自分の土地の値段変わるかもしれないんだから、来るでしょ」
美咲が言った。
「母さんは?」
「来いって書いてあったから来た」
「興味は?」
「あるよ」
和江が普通に答えた。
三人は後ろの方へ座った。
正面には計画区域の地図が出ていた。
既存の工業団地。
高速道路。
送電設備。
工業用水の系統。
その間に複数の色が重なっている。
AI計算センター。
蓄電設備。
ロボット整備・再製造拠点。
自動物流基地。
修一は地図を拡大した。
「でかいな」
「全部一か所ではありません」
近くにいた事業者側の担当者が答えた。
「複数の用地を接続して運用します」
「なるほど」
和江の家がある旧集落は、計画区域の端に近かった。
ただし、無関係ではない。
説明が始まった。
最初に長い企業紹介が出るかと思ったが、すぐ地図に移った。
計算設備は既存工業地域側。
大規模蓄電設備は送電設備に近い区画。
ロボット整備と物流は高速道路側。
それらを道路と送電接続でつなぐ。
その途中に、住宅地と農地と雑木林がある。
和江の土地もそこにあった。
前の席から手が上がった。
「水、大丈夫なんですか」
最初の質問がそれだった。
事業者側の担当者が工業用水の計画を表示した。
「冷却用水は既存の工業用水系統を基本とします。ただ、最大稼働時には追加負荷が発生しますので、生活用水との分離と取水上限を協議中です」
「夏も?」
「夏季条件を含めてです」
「足りなかったら?」
「計算側の負荷調整を先に行います。生活用水を計算設備へ優先する運用にはしません」
別の男性が聞いた。
「夜、うるさくなる?」
「物流路沿いは増えます。車両自体の騒音は小さいですが、積み替え設備と冷却設備の音があります」
「小さいってどれくらい」
「予測値を出します」
画面が切り替わった。
担当者は数字を読み上げず、区域ごとの予測を表示した。
今度は別の人が手を上げた。
「道路は広がるんですか」
「二路線を拡幅する計画です」
「税収は増えるんですか」
「増収を見込んでいます」
「病院の話は?」
「地域医療拠点との契約協議が進んでいます。常勤機能の拡充案があります」
そこで会場の空気が少し変わった。
「本当に来るなら助かるな」
誰かが小さく言った。
別の声がした。
「でも固定資産、上がったら困るよ」
「評価変更については市側から別途説明があります」
「売る人はいいよ。住み続ける方は払うんだから」
「そこはそうだな」
今度は別の場所から、
「若い人が戻るならいいんじゃない」
という声が出た。
「戻るかどうかは分かんないだろ」
「仕事なきゃ戻りようもない」
誰も怒鳴ってはいなかった。
賛成か反対かというより、自分の家の前にどんな道が通るのか、水は足りるのか、税金はいくらになるのか、病院は残るのかを聞いている。
修一には、その方が分かりやすかった。
自分でも同じ立場なら、たぶんそこを聞く。
説明の後半で、用地取得の予定区域が表示された。
修一は母の土地を探した。
すぐ見つかった。
「ここじゃん」
「そうよ」
「知ってた?」
「通知来てるもの」
「言えよ」
「今日見るでしょ」
和江の土地は、計画の中心ではなかった。
計算センターが建つ場所でもない。
物流基地が建つ場所でもない。
それなのに色が濃い。
修一は表示を開いた。
複数の計画用地の間に、細長く入り込んでいる。
アクセス路。
蓄電設備の増設候補。
送電接続の拡張帯。
「これか」
修一はようやく分かった。
土地そのものが広いからではない。
ここを使えると、離れた用地をつなぎやすい。
逆に避ければ、道路も送電も回り込む。
「嫌な場所にあるな」
修一が言った。
和江が見た。
「何が?」
「いや、企業から見たら欲しい場所って意味」
「じゃあいいじゃない」
「母さん側は?」
「高く買うならいいんじゃない」
やはり話が早かった。
*
個別条件は、その日のうちに届いた。
説明会から家へ戻ると、和江の居間の壁面に取得提案が表示された。
まだ契約書ではない。
買収対象。
概算条件。
複数の取得案。
今後の協議手順。
修一は最初に金額を見た。
次に、もう一度見た。
「ちょっと待って」
「何」
「これ全部?」
「そう書いてある」
「見間違ってないよな」
美咲が隣から確認した。
「合ってる」
「高くない?」
「必要なんでしょ」
和江はそれだけ言った。
修一は対象図を開いた。
旧畑。
休耕地。
雑木林。
合計約2.6ヘクタール。
土地の評価欄には、通常の周辺相場とは別に、接続価値が加算されていた。
アクセス路。
蓄電設備。
送電接続。
三つの計画にまたがっている。
修一は金額へ戻った。
「母さん、これ売ったら普通に相当だぞ」
「見れば分かる」
「驚かないの?」
「数字は変わらないでしょ、私が驚いても」
「まあ、そうだけど」
美咲が笑った。
修一は条件を下へ送った。
現金だけではなかった。
そこで手が止まった。
永久優先電力権。
隣接する複合拠点の長期契約容量から、一定容量を個人契約として確保する条件が付いている。
「これ付くの?」
「らしいね」
修一は詳細を開いた。
需給逼迫時の優先供給。
契約容量には上限がある。
通常料金は別。
完全な停電保証ではない。
それでも、意味は分かる。
岡村の家では、洗濯も給湯も車の充電も、その日の料金を見ながら勝手に時間を動かしている。
電気がなくなる社会ではない。
だが、安く、必要な時に、必要な容量を使えるとは限らない。
会社でも、最近は施設契約に電力容量の条件が付くことが珍しくなかった。
「これ、現金より価値出るかもしれないぞ」
「そう」
「そうって」
「説明に書いてある」
「読んだの?」
「私の土地なんだから読むでしょ」
「それはそうだけど」
和江は茶を飲んだ。
修一はもう一度、優先電力権の条件を見る。
今すぐ使う価値より、先の方が大きいかもしれない。
電力需要がさらに増えれば、一定容量を先に押さえられる権利そのものが重くなる。
「これ、かなりいい条件じゃない?」
「そうでしょうね」
「母さん、興味ない?」
「あるよ」
「そう見えないんだけど」
「騒げば増えるの?」
「増えない」
「じゃあ同じ」
修一は黙った。
ケイが台所から来て、和江の前へ水を置いた。
「本日の水分摂取量が推奨量を下回っています」
「あとで飲む」
「いつにしますか」
「夕飯まで」
「確認しました」
ケイは戻った。
修一は水を見た。
「そこは交渉するんだ」
「何が」
「ケイに」
「私の水だから」
「強いな」
「普通よ」
美咲が取得案の別ページを開いた。
「こっち、家を残す案もある」
「あるよ」
和江が言った。
修一も見る。
二つ目の案だった。
住宅と庭を取得対象から外す。
その場合、アクセス路と送電接続を一部変更する必要があり、買収条件は下がる。
「結構下がるな」
修一が言った。
「全部まとめた方が企業は楽なんでしょ」
美咲が言った。
「そりゃそうだろうな」
修一は地図を見た。
家と庭だけを残すと、その脇を避けるように道路が曲がる。
蓄電設備の配置も少し変わる。
計画ができなくなるわけではない。
ただ、面倒になる。
「まだ決めなくていいんだよな」
「協議期限は先」
和江が答えた。
「売る気は?」
「あるよ」
修一は母を見た。
「あるんだ」
「何でないと思ったの」
「いや」
自分でも分からなかった。
金額を見れば売る選択は理解できる。
企業が必要としている理由も分かる。
土地の大半は、今では畑として使っていない。
売れば金になる。
優先電力権まで付く。
条件としては悪くない。
それなのに、母があっさり「あるよ」と言うと、修一の方が少し引っかかった。
*
夕方、修一は一人で庭へ出た。
正確には、一人ではなかった。
少し遅れて和江も出てきた。
「何してるの」
「見てる」
「何を」
「土地」
「さっき画面で見たでしょ」
「現物」
庭の先に古い畑がある。
その向こうは草地になり、さらに先で雑木林へつながっていた。
反対側には細い道路があり、その先に集落の家が続く。
遠くに工業施設の屋根が見える。
昔から全部同じだったわけではない。
道路も変わった。
家も減った。
工場も増えた。
それでも修一にとっては、まとめて母のところの景色だった。
和江が横へ立った。
「売るの?」
「まだ決めてない」
「でも売る気あるんだろ」
「ある」
「ずいぶん簡単だな」
「難しく言えば値段上がる?」
「上がらないけど」
「じゃあ簡単でいい」
修一は草地の向こうを見た。
計画図では、あの辺りを道路が通る。
雑木林の一部には蓄電設備が置かれる。
今見えている景色はかなり変わる。
「昔からの土地だぞ」
「だから?」
修一は和江を見た。
「景色変わるぞ」
「変わるでしょうね」
「それでいいの?」
「変わらない方がいい理由は何?」
修一は口を開きかけた。
止まった。
昔からあるから。
父の実家側から続いた土地だから。
自分も何度も来た場所だから。
どれも頭には浮かんだ。
ただ、それを母に言って、だから変えない方がいい、と続ける理由にはならなかった。
和江は別に、土地を嫌っているわけではない。
金のためなら何でもいいと言っているわけでもない。
開発が正しいとも言っていない。
ただ、売ってもいいと思っている。
それだけだった。
修一はもう一度、土地を見た。
「まあ……母さんのだしな」
「そうよ」
「俺が決める話じゃない」
「そうね」
「でも、あの金額はすごいな」
「そこ戻るの」
「大事だろ」
「好きね、お金」
「嫌いじゃないよ」
「私も」
和江は庭の植木へ目を向けた。
葉の一部が伸びている。
「明日そこ切る」
「ケイにやらせれば?」
「届くところは私がやる」
「なんで」
「やりたいから」
「そうですか」
二人で家へ戻った。
居間には、まだ取得案が表示されたままだった。
美咲が二つの案を並べている。
全区画を取得する案。
家と庭を除外する案。
修一は座り、もう一度金額差を見た。
やはり小さくない。
「これ、家と庭残すと結構下がるよ」
「知ってる」
「道路回すからだって」
「読んだ」
「じゃあ全部売った方が――」
そこまで言って、修一は止めた。
和江が画面を見た。
「周りは売ってもいい」
「うん」
「ただ家と庭は売らない」
「なんで?」
「好きだから」




