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人間変数 ― MADE BY HUMAN ―  作者: 花房清澄


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第6話 人間の時間


 午前十時過ぎ、美咲が病棟へ入ると、廊下の途中で移乗ロボットが止まっていた。


 ベッド脇に座った男性患者が、右手を少し上げている。


「右肩、今日は上げると痛い」


 ロボットは動作を止めた。


「右肩への荷重を回避します。立位補助を変更します」


 支持位置が腰と左側へ移る。


 そばにいた看護師が患者の顔を見た。


「昨日より痛み強いですか」


「ちょっとだけ」


「あとで見てもらいましょう。今は椅子まででいいですね」


「うん」


 看護師が承認すると、ロボットが患者を立たせた。体重をほとんど預けたままでも、動きは滑らかだった。


 美咲は横を通り過ぎた。


 昔なら二人で抱えていた。


 三人必要なこともあった。


 無理に一人でやって、腰を痛めた看護師も何人も知っている。


 今は、わざわざ人間の腰を使う理由がない。


 スタッフ端末に病棟状況を出す。


 投薬確認。


 処置予定。


 離床予定。


 Human Care。


 未処理が三件あった。


 その前に薬剤確認の通知が一件入った。


 美咲が病室へ入ると、投薬ユニットが患者のベッド横で待っていた。


「朝の薬、まだ?」


 患者が聞いた。


「一種類だけ確認待ちです」


 美咲は画面を見る。


 今朝の血液検査結果を受け、投与量の再確認が必要になっている。


 医師側にはすでに通知が飛んでいた。


「これだけ待ち。ほかは飲めます」


「機械に止められた?」


「機械が止めた」


「昔なら?」


「人が気づけば止まった」


 患者は少し笑った。


「じゃあ今の方がいいな」


「そうね」


 医師の承認が届いた。


 投薬ユニットが新しい量を確認し、薬を出した。


 美咲は患者が飲むところだけ見届け、次の病室へ向かった。


 廊下では清掃機がベッド搬送を避けて壁際へ寄っている。その横を食事用の搬送機が通った。まだ昼食には少し早いが、個別の食事時間が設定されている病室から順に運んでいる。


 見守りも、転倒検知も、排泄記録も、昔より人間が張り付く時間はずっと少ない。


 若い看護師が隣に並んだ。


「高瀬さん」


「何?」


 彼女はさっきの移乗ロボットを振り返った。


「昔、本当に人間が全部やってたんですか?」


「やってた。腰も壊してた」


「全部?」


「だいたい」


「ベッドから車椅子も?」


「やってた」


「夜も?」


「夜も」


 若い看護師は少し考えた。


「無理じゃないですか」


「無理だったから辞める人もいたの」


「ああ」


 納得したらしい。


 美咲は端末を送った。


「十一号室、昼前に離床予定。ロボットだけで大丈夫だけど、一回顔見て」


「はい」


「十五号室は薬変更入ったから、午後の眠気だけ確認」


「分かりました」


 若い看護師が離れていく。


 美咲はHuman Careの未処理を開いた。


 三件から四件になっていた。


「増えてる」


 誰に言うでもなく呟いた。


*


 最初の依頼は七十二歳の女性だった。


 治療は順調だった。歩行も問題ない。移動補助も今はほとんど必要がない。


 美咲が病室へ入ると、女性は窓際の椅子に座っていた。


「高瀬さん、今日の午後って空いてる?」


「私?」


「誰でもいいの。人の人」


「人の人って」


「分かるでしょ」


 分かる。


 Human Careの希望だった。


「何したいですか」


「歩きたい」


「歩くなら補助いらないですよね」


「いらない」


「じゃあ何で人?」


「腕、持ってもらって歩きたいの。話しながら」


「支援ロボットでもできますよ」


「知ってる。昨日やった」


「じゃあ今日は?」


「人がいい」


 理由はそれだけだった。


 美咲は端末を確認した。


「今日の有料枠、もう埋まってます」


「あら」


「明日の午後なら取れます」


「明日退院なんだけど」


「午前は?」


「息子が迎えに来る」


「じゃあ今日じゃないと無理ですね」


「そうなのよ」


 美咲は空き状況をもう一度見た。


 ない。


「一般の看護で歩行確認はできます。ただ、人が付き添って長く歩くとなると別です」


「十分でも?」


「十分なら、空きが出れば」


「じゃあそれで」


「空きが出れば、です」


「分かってる」


 女性は不満そうではなかった。


「機械が嫌なわけじゃないのよ」


「はい」


「昨日のもちゃんとしてた」


「はい」


「でも、ずっとちゃんとしてるのよね」


 美咲は返事をしなかった。


 それが嫌なのかどうかも分からない。


「空いたら呼びます」


「お願い」


 病室を出ると、次の依頼が入った。


 今度は二十代の術後患者だった。


 二日前に手術を終えている。


 経過は良好。


 問題は離床だった。


 痛みは管理されている。血圧も安定している。歩行支援ロボットを使えば安全上の問題も少ない。


 それでも、朝の離床を一度断っていた。


 美咲が行くと、青年はベッドを少し起こした状態で画面を見ていた。


「歩けそう?」


「たぶん」


「たぶん?」


「できるとは思います」


「じゃあやる?」


 返事がない。


 美咲はベッド脇に立った。


「痛い?」


「痛みは大丈夫です」


「気持ち悪い?」


「それもないです」


「じゃあ何」


 青年は画面を閉じた。


「昨日、立った時に急に怖くなって」


「倒れそうだった?」


「違います」


「息苦しかった?」


「少し」


 記録には出ていた。


 身体的な異常は確認されていない。


「支援ロボット付けますよ」


「それは分かってます」


「じゃあ使おう」


 また黙った。


「高瀬さん」


「はい」


「最初だけ、誰か一緒にいてもらえませんか」


「ロボットは一緒にいます」


「人で」


 美咲は青年を見た。


「何分くらい?」


「分かんないです」


「それだと枠取れない」


「じゃあ二十分」


「急に具体的」


「十分だと短そうだから」


 少しだけ笑った。


 美咲も画面を開いた。


 医学的には、歩行そのものを人間が介助する必要はない。


 ただ、離床を繰り返し拒否すれば回復に影響する。


「これ、お金かかります?」


「今日は必要枠で申請する」


「通ります?」


「それをこれから決めるの」


「高瀬さんが?」


「私だけじゃない」


 申請を上げた。


 画面に、臨床情報と心理社会情報が自動で付いた。


 青年がそれを見ている。


「低かったら落ちます?」


「何が」


「必要度」


「点数だけで決めない」


「じゃあ誰が決めるんです?」


「人」


 答えてから、美咲は少し嫌になった。


 青年は安心した顔もしなかった。


「そうですか」


「午後の離床、一応入れとくよ」


「人が来なくても?」


「来なくても」


「厳しいですね」


「寝てる方があとで厳しい」


「それは分かってます」


「ならいい」


 病室を出た。


 端末のHuman Care申請は五件になっていた。


*


 午後三時。


 Human Care配分委員会は二十分の予定だった。


 開始時点で、三十分に変更された。


 美咲を含めて四人。


 医師一人。


 看護側二人。


 心理社会支援側一人。


 画面には翌日までの申請が並んでいる。


 全部を見るわけではない。


 既存基準で処理できるものは、すでに振り分けられている。


 問題になるのは、必要性がある。


 でも、人が足りない。


 その両方に当てはまるものだった。


「四件」


 医師が言った。


「供給枠は?」


「この時間帯で九十分です」


 美咲が答えた。


「希望は?」


「百三十分です」


「足りないね」


「はい。見てのとおりです」


 一件目。


 八十一歳。


 独居。


 肺炎治療後で、明後日退院予定。


 身体機能は回復している。


 Human Care希望、三十分。


 退院後の生活そのものは成立する。自宅支援も入っている。


 ただし、本人は退院後の生活について、人間スタッフと話したいと希望していた。


「遠隔支援は?」


「設定済みです」


「家族」


「遠方です。月一程度」


「本人は?」


 美咲が記録を開いた。


「機械の支援で困ってはいない。退院前に人と話して決めたいことがある、とのことです」


「何を?」


「それは話す時に決める、とのことです」


 誰かが小さく息を吐いた。


「決めたいことが決まってないのか」


「はい」


 二件目。


 二十六歳。


 美咲が午前中に会った術後患者。


 離床時の強い不安。


 身体状態は安定。


 Human Care希望、二十分。


 午前の申請後、支援ロボット付きで一度立っている。ただし、歩行開始前に中止していた。


「身体的な原因は?」


「今のところありません」


「パニック反応?」


「可能性はあります。ただ、診断するほどの情報はありません」


「人が付けば歩ける?」


「分かりません」


 美咲は言った。


「本人はそう思っています」


 三件目。


 七十六歳。


 認知機能低下。


 治療環境が変わると、一時的に場所や予定が分からなくなることがある。


 ロボットの見守りそのものに問題はない。


 転倒も防げている。


 ただ、人間スタッフが同じ順序で短く説明すると、その後しばらく落ち着く傾向が記録されていた。


 Human Care希望、三十分。


「これは効果出てるね」


「出ています」


「優先でいいんじゃない?」


「たぶん、そうだと思います」


 美咲は次を開いた。


 四件目。


 六十八歳。


 末期がん。


 家族なし。


 疼痛管理は安定。


 意識も清明。


 Human Care希望、五十分。


 希望内容には、


 話したい。


 とだけあった。


「五十分」


「長いね」


「本人希望は」


「五十分です」


「短くできる?」


「確認すれば、短縮はできると思います」


「それは全員できるでしょ」


 画面の端に、AIの優先案が出ていた。


 1位 認知機能低下患者


 2位 術後不安患者


 3位 末期患者


 4位 独居高齢者


 その下に理由が並ぶ。


 認知機能低下患者は、人間介入による短期的な安定効果が過去記録から確認されている。


 術後患者は、離床遅延が回復過程へ影響する可能性がある。


 末期患者は心理社会的必要度が高い一方、現在の症状管理は安定。


 独居高齢者は孤立要因があるが、退院後支援は確保済み。


 美咲は上から読んだ。


 変な順位ではない。


 冷たいとも思わない。


 自分が同じ資料を渡されれば、似た順番を考えるかもしれない。


 医師が言った。


「AI案のままなら、上から九十分?」


「希望時間をそのまま取ると、三人目の途中で終わります」


「時間調整する?」


 支援担当者が末期患者の記録を開いた。


「この人、昨日も二十分取ってます」


「昨日と今日では、話すことが違うかもしれません」


「それはそう」


「独居の方は?」


「Human Careは今回初めてです」


「退院前なら明日しかない」


「末期の方も、明日がどうなるかは分かりません」


 誰も続けなかった。


 美咲は四人分の希望時間を横に並べた。


 三十分。


 二十分。


 三十分。


 五十分。


 百三十分。


 供給できるのは九十分。


「認知の方、二十分にする?」


 医師が聞いた。


「二十分でも効果はあると思います」


「術後は?」


「二十分は取りたいです」


「末期を三十分」


「独居二十分」


「それで九十」


 支援担当者が計算した。


 画面が更新された。


 全員に入った。


 一瞬だけ、きれいに見えた。


 美咲は独居患者の記録を開いた。


「この方、三十分希望されています」


「二十分なら入る」


「末期の方も五十分希望されています」


「全員希望通りは無理」


「分かっています」


 認知機能低下患者の二十分。


 過去の記録では、十五分から三十分程度で安定している。


 術後患者の二十分。


 これは本人が今朝、十分では短そうだからと決めただけだ。


 末期患者の三十分。


 五十分を三十分にする医学的根拠はない。


 独居患者の二十分。


 三十分を二十分にする根拠もない。


 ただ、足せば九十分になる。


「きれいすぎる」


 美咲が言った。


「何が?」


「九十分にきれいに収まりすぎています」


「収めたからね」


「そうですね」


 医師が別案を出した。


 AIが数秒で再配分した。


 臨床効果を優先すれば、認知三十分、術後二十分、末期四十分。独居は翌日以降。


 心理社会的必要度を強めれば、認知二十分、術後二十分、末期五十分。独居はなし。


 継続性を重くすれば、結果はまた変わる。


 どの案にも理由が付いた。


 どれも、理由だけ読めばおかしくなかった。


 美咲は椅子にもたれた。


「結局、一番嫌なところだけ残したのね」


 隣にいた同僚が言った。


「昔から人間の仕事って、そういうところじゃない?」


 美咲は同僚を見た。


 同僚も、別に名言を言ったつもりはなさそうだった。


 美咲は「そうね」とは言わなかった。


 四人の名前をもう一度見た。


「独居の方、今日の一般看護で誰か話せていますか」


「午前に七分。午後は処置だけ」


「末期の方は?」


「昨日二十二分。今日はまだ」


「認知の方は?」


「午前に八分」


「術後の方は、私が十分くらい話しています」


 正式なHuman Careではない時間も、人間は少しずつ使っている。


 だからゼロではない。


 だから足りているとも言えない。


「独居の方、二十分で入れましょう」


 美咲が言った。


「認知?」


「二十分です」


「術後」


「二十分です」


「末期」


「三十分です」


 合計九十分。


 最初の案に戻った。


 医師が確認した。


「これでいい?」


 美咲は画面を見た。


「これでいいかどうかは、分かりません」


「決めないと枠が出ない」


「分かっています」


 最終確認が表示された。


 AI推奨案との差分。


 各患者の配分時間。


 再評価条件。


 委員会承認。


 美咲は自分の欄へ署名した。


 ほかの三人も続いた。


 四人分の枠が確定した。


 その瞬間、新しいHuman Care申請が一件入った。


 誰もすぐには開かなかった。


*


 家に帰ると、修一がリビングで何か食べていた。


「何それ」


「プリン」


「夕飯前だけど」


「小さい」


「大きさの話してない」


「ハルにはもう言われた」


 台所からハルが答えた。


「夕食まで四十七分です」


「ほら」


「ほらじゃない」


 美咲は上着を預けた。


「悠真は?」


「上」


「今日、何か言ってた?」


「普通」


「ならいい」


 美咲はソファに座った。


 修一の前には仕事用の画面が開いていた。


「仕事してたの?」


「終わった」


「何分?」


「八分くらい」


「八分」


「今日は早かった」


 美咲は画面を見た。


 三つの商品案。


 一つに修一の選択済み表示。


 その横に、今回の追加報酬が出ていた。


 美咲は金額を見た。


 次に実施時間を見た。


 8分12秒。


「また?」


「何が」


「これで?」


「そう」


「何選んだの」


「容器」


「どれ」


「真ん中」


「理由は?」


「蓋」


「何が」


「開けやすそうだった」


「それだけ?」


「それ聞くなら会社に聞いて」


 修一はプリンを食べた。


 美咲はもう一度、報酬表示を見た。


 午後、自分たちは九十分を四人に分けた。


 十分削るか。


 二十分にするか。


 明日に回すか。


 四人で三十分話した。


 修一は八分で蓋を選んだ。


 どちらが正しいという話でもない。


 修一の会社が払いたいなら、それはそれで成立している。


「人間の判断が高いって、こういうことなのかな」


「知らん」


「あなたは本当にそれで金もらってるのね」


「ちゃんと働いたよ」


「八分」


「八分十二秒」


「細かい」


「そこ表示されてるから」


 修一は画面を閉じた。


「そっちは?」


「何が」


「今日」


 美咲は少し考えた。


「九十分を四人に分けた」


「何の?」


「Human Care」


「ああ」


「希望は百三十分」


「足りないじゃん」


「足りない」


「どうしたの」


「九十分にした」


「どうやって」


「削った」


「誰の?」


「全員」


 修一がプリンのスプーンを止めた。


「嫌な仕事だな」


「うん」


 それ以上は話さなかった。


 ハルが夕食の準備を始めた。


「本日は十九時二分に提供予定です」


 修一が時計を見た。


「あと四十七分って言ってなかった?」


「二分前の時点では四十七分でした」


「そういうところだよ」


「どの点を指していますか」


「いい」


「承知しました」


 美咲は少し笑った。


 修一もプリンを食べ終えた。


*


 夜十一時前。


 美咲は寝室へ行く前に、翌日の勤務予定だけ確認した。


 午前に病棟。


 午後に調整業務。


 Human Care配分確認。


 その項目に新しい数字が付いている。


 美咲は開いた。


 Human Care 翌日


 希望数 42


 供給可能数 14


 美咲は画面を閉じた。


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