第16話 売るもの、残すもの
買収条件の回答期限は、その日の午後五時だった。
修一が高萩へ着いた時、和江は居間で契約画面を開いていた。
ケイが台所から湯飲みを二つ運んでくる。
「もう見てるの?」
「私の契約でしょ」
「まだ何も言ってないけど」
「言いそうだったから」
修一は向かいへ座った。
画面には最終取得案が出ていた。
旧畑。
休耕地。
雑木林。
土地の大部分が取得対象になっている。
その下に対価条件。
現金。
永久優先電力権。
地域サービス権。
さらに下へ送ると、取得対象から外された部分が小さな図面で表示された。
住宅。
庭。
家の周囲だけが、計画区域の中に残っている。
道路はその脇を回る。
蓄電設備の配置も、最初の案より少しずれていた。
その分、買収条件は下がっている。
「最終案これ?」
「そう」
「全部売る方も残ってる?」
「比較用にね」
和江が隣へ表示した。
二つの数字が並ぶ。
差はやはり小さくなかった。
修一はもう一度図面へ戻した。
「そこ残すと値段下がるぞ」
「知ってる」
「なんで」
「好きだから」
修一は母を見た。
「それだけ?」
「それ以外いる?」
和江は茶を飲んだ。
修一も画面を見る。
説明を足されても、たぶん数字は変わらない。
和江は全区画取得案を閉じた。
家と庭を除外した方だけが残った。
「これでいい」
「本当に?」
「何回聞くの」
「だって結構違うから」
「見た」
「優先電力権も条件変わるぞ」
「読んだ」
「地域サービスも」
「読んだ」
「ちゃんと全部?」
和江が修一を見た。
「誰の土地?」
「母さんの」
「じゃあいいでしょ」
「はい」
ケイが和江の前へ別の表示を出した。
「取得条件の確認期限まで、三時間四十二分です」
「分かってる」
「回答を保留しますか」
「まだ」
「確認しました」
ケイは表示を閉じた。
和江は何事もなかったように茶を飲んだ。
庭の向こうで、細い道路を工事車両が一台通った。
以前より大きな車だった。
窓ガラスが少しだけ震えた。
*
周辺の取得済み区画では、もう工事が始まっていた。
全部が一斉に変わったわけではない。
道路脇に新しい杭が立った。
旧畑の一部が囲われた。
少し離れた場所では、蓄電設備の造成工事が進んでいる。
送電接続工事の案内板も出た。
その先には以前からある家が並んでいる。
洗濯物も干してある。
庭に車も停まっている。
修一が和江と歩いていると、向こうから作業着の若い男が来た。
「あ、おばさん」
和江が手を上げた。
「戻ったの?」
「先月から」
「仕事?」
「ロボット整備の方。こっちで採用あったから」
「そう」
「まだ仮の事務所ですけど」
男は会釈して通り過ぎた。
少し先の家では、玄関前に箱が積まれていた。
高齢の女性が小さな荷物を車へ載せている。
和江が声をかけた。
「決めたの?」
「うん。息子の近く行く」
「そう」
「一人で残るよりいいかなって」
「そうね」
女性は道路の向こうを見た。
「ここも変わるしね」
「変わるでしょうね」
「和江さんは?」
「いるよ」
「家残すの?」
「うん」
「そう」
それ以上は聞かなかった。
角を曲がると、別の家の門に紙が貼られていた。
追加の水利用計画について再協議を求める文書だった。
その向かいでは、地域施設から出てきた男性二人が話している。
「病院、本当に人増えるなら助かるけどな」
「まだ決まったわけじゃないだろ」
「でも工事は始まった」
「工事はな」
大型車がゆっくり横を通る。
一人が顔をしかめた。
「これ毎日来るならうるさいぞ」
「仕事増えるなら仕方ないだろ」
「仕方ないで済ませるなよ」
怒鳴ってはいない。
そのまま二人は別の方向へ歩いていった。
少し先では、道路の拡幅予定線が地面に引かれていた。
和江の家の方へ行く線だけが途中で曲がっている。
修一は立ち止まった。
「これか」
「何が」
「母さんの家避けるところ」
「ああ」
「本当に曲がるんだな」
「図面にあったでしょ」
「図面と現物違うじゃん」
和江は先へ歩いた。
「道は道よ」
「雑だな」
「何が?」
「いや」
家へ戻ると、ケイが庭にいた。
切った枝をまとめている。
和江は玄関へ行かず、そのまま庭へ入った。
「それ、まだやってたの?」
「何が」
「枝」
「朝の続き」
ケイが顔を上げた。
「高所部分は処理済みです」
「そう」
和江は剪定ばさみを取った。
届くところの枝を一つ切った。
工事車両の音が遠くで聞こえた。
ケイが切った枝を受け取る。
和江は次の枝を見た。
修一はしばらく庭に立っていたが、手伝うほどのこともなかった。
*
森崎から新しい契約を見せられたのは、その数日後だった。
修一は会議室へ入って、最初に題名を見た。
HV-TAKASE
人格モデル利用契約変更
「また増える?」
「今回は期間と利用条件も変わります」
「嫌な言い方するな」
「事実です」
修一は座った。
契約画面が開く。
最初に報酬欄が見えた。
修一の指が止まる。
「……これ?」
「はい」
「全部?」
「今回の契約対価です」
もう一度見た。
前までの追加契約とは比較にならなかった。
「結構っていうか」
「はい」
「森崎さん、こういう時くらい驚いてよ」
「契約金額は事前に確認しています」
「知ってたら驚かない?」
「高瀬さんは今知ったので、驚いているんですか」
「そうだけど」
修一は金額をもう一度見た。
正直、かなり気になる。
閉じる理由にはならない。
むしろ逆だった。
修一は一番上へ戻した。
「で、何売るの」
「HV-TAKASE の人格モデル利用です」
「今も使ってるよね」
「使っています。今回は恒久利用を含む契約です」
「恒久」
修一はその文字を押した。
期間。
恒久。
終了日の表示はない。
下に利用目的が並んでいる。
商品。
教育。
都市計画。
研究。
安全保障。
「安全保障まで?」
「利用範囲には入ります」
「広いな」
「広いです」
「前も広いって言った気がする」
「前回も広がりました」
「今回もっと広いじゃん」
「はい」
その下に再許諾。
本人表示。
更新。
いつもなら重要条項の一覧を確認して、そのまま進めるところだった。
修一は一つ開いた。
読んだ。
戻った。
次を開いた。
再許諾条件。
外部利用。
派生モデル。
既に生成されたモデルの扱い。
途中で森崎が言った。
「時間はあります」
「急かしてない?」
「急かしていません」
「黙ってると急かされてる気がするんだよ」
「では席を外しますか」
「それはそれで不安になるからいて」
「分かりました」
修一はまた送った。
期間の下に、別の項目があった。
死後利用。
指が止まる。
「これ、恒久とは別なの?」
「別です」
「恒久なら、死んだあとも使うってことじゃないの?」
「期間と死後利用は別の契約項目です」
「ややこしいな」
「分けない方が問題になります」
「それはそうか」
修一は死後利用を開いた。
人格モデルそのものは、本人死亡後も契約用途に利用できる。
ただし、その下に用途区分がある。
研究。
商品。
公共計画。
教育。
その他。
さらに送る。
私的代替。
修一は止まった。
「これ何」
森崎が画面を見る。
「本人に代わって、家族や知人への私的な連絡や会話を行う利用です」
「俺のモデルが?」
「許諾した場合は」
「俺として?」
「本人代替として利用する設定も含まれます」
修一は画面を見た。
「例えば、美咲から連絡来たら、俺の代わりに返す?」
「許可範囲によっては」
「俺が生きてる間も?」
「設定できます」
「死んだあとも?」
「死後利用と私的代替の両方を許諾した場合は可能です」
森崎の声は普通だった。
修一も画面を見る。
別に隠されていたわけではない。
項目として並んでいる。
利用するか、しないか。
その下には細かな設定があった。
音声。
文章。
対話。
継続応答。
本人表示。
相手側への通知。
修一は一番下まで見た。
「これ、変更できる?」
「できます」
「私的代替、なし」
「全部ですか」
「家族への連絡はなし」
森崎が修正欄を開いた。
修一はもう一度、死後利用を見る。
「死んだあとも、研究とか商品で使うのはそのままでいい」
「はい」
「でも俺として家族とか知り合いと話し続けるのはなし」
「分かりました」
森崎が条件を入力した。
私的代替。
禁止。
死後利用の欄にも例外が加わる。
本人を装い、家族・知人と継続的な私的対話を行う用途を除外。
修一は表示を読んだ。
もう一度読んだ。
森崎が聞いた。
「そこは残しますか」
「うん」
「理由は?」
「嫌だから」
「分かりました」
森崎はそれ以上聞かなかった。
修一は次へ送った。
更新条件。
再許諾。
既に適法に生成され、利用先へ提供された派生モデルの扱い。
一度許諾範囲内で生成されたものは、後から新規利用を止めても、すべてを回収できるわけではない。
前にも似た条項を読んだ。
修一はそこを開いたまま森崎へ聞いた。
「これ、あとで嫌になっても全部消せないんだよね」
「既に適法に生成・提供されたものは、契約条件に従います」
「世界中から回収とかは?」
「できません」
「そうだよな」
修一は閉じなかった。
しばらく読んでから、次へ送った。
最後まで行く。
報酬欄へ戻る。
「やっぱ高いな」
「そこへ戻るんですね」
「大事だろ」
「否定していません」
修一は少し笑った。
まだ署名は押さなかった。
*
夜。
美咲はリビングで翌日の勤務予定を見ていた。
修一が隣へ座り、契約概要を送った。
「何?」
「今日来たやつ」
美咲が開いた。
最初に利用目的を見る。
次に期間。
「恒久?」
「うん」
美咲は下へ送った。
「これ、あなたが変えたの?」
私的代替の欄だった。
「そこはね」
「ふうん」
さらに送る。
報酬欄で少し止まった。
「大きいね」
「だろ」
「嬉しそう」
「嬉しいよ」
「そう」
美咲は最初へ戻した。
「売るの?」
「うん」
「自分なのに?」
「俺が減るわけじゃない」
修一はそこで止まった。
「たぶん」
美咲が修一を見た。
「最初もそれ言ってたよ」
「そうだっけ」
「言ってた」
「覚えてないな」
「私は覚えてる」
美咲は契約画面を修一へ返した。
止めもしなかった。
勧めもしなかった。
「明日?」
「最終版来たら」
「じゃあちゃんと見てね」
「今日かなり見たよ」
「珍しい」
「俺だって見る時は見る」
「前も同じこと言ってた気がする」
「それは覚えてない」
美咲は自分の勤務予定へ戻った。
修一は契約画面を閉じなかった。
金額を見た。
期間を見た。
私的代替。
禁止。
そこだけもう一度見てから閉じた。
*
翌日、高萩では和江の最終契約が届いていた。
ケイが居間の画面へ表示する。
「用地取得契約の最終版です」
「出して」
和江は眼鏡をかけた。
取得対象。
旧畑。
休耕地。
雑木林。
住宅および庭。
除外。
図面の線は家の手前で曲がっている。
買収条件。
現金。
永久優先電力権。
地域サービス権。
和江は一つずつ送った。
最後に取得価格を見た。
全区画を売る案より低い。
その数字も見た。
戻らなかった。
「署名手続きへ進みますか」
「進めて」
本人確認。
取得範囲確認。
権利条件確認。
ケイは何も選ばない。
和江が自分で押す。
最後の画面が出た。
この条件で用地取得契約を締結します。
和江は署名欄へ指を置いた。
本人認証。
契約成立。
署名完了。
*
同じ日の午後、みなとみらいの会議室で、修一の前にも最終版が届いた。
森崎が言った。
「修正は反映されています」
「見ます」
修一は最初から送った。
利用目的。
商品。
教育。
都市計画。
研究。
安全保障。
期間。
恒久。
再許諾。
本人表示。
更新。
死後利用。
修一の指が止まる。
死後利用そのものは許諾。
その下。
私的代替。
禁止。
本人を装って家族・知人と継続的な私的対話を行う用途。
禁止。
「これでいい」
「では署名できます」
報酬額が最後にもう一度表示された。
修一は見た。
「やっぱすごいな」
「署名前の最終確認です」
「分かってる」
修一は金額を閉じなかった。
少し眺めた。
それから上へ戻した。
契約内容確認。
恒久利用。
修正条項。
全部に確認済みが付いている。
最後に署名欄が出た。
修一は指を置いた。
本人認証。
契約成立。
署名完了。




