婚約の利
強引に連れ込まれた店は、高価な装飾品を並べる装飾店だった。
今は何故か、ローゼリアの意思に反する形で、レクティが婚約の証を示す耳飾りを品定めしている。
「これなんかどうですか?」
選び取った耳飾りを、ローゼリアに見せるレクティ。
品定めされたそれは、華美な飾り気が無いが美しく磨き抜かれた銀で、非常にローゼリア好みだったが、それらを買う気は毛ほども無かった。
「私は、婚約する気ないから必要ない」
ローゼリアに取って、これは不要なモノなのだ。
耳飾りは、慣例として婚姻をしている男女が対となる耳飾りを身に着ける事で、互いに伴侶が存在するという事を周知させる為の物だ。
華やかな装飾で彩られる貴族の世界でもそれは変わらず、婚姻を結んだ者以外が身に付ける事は在り得ない。王族で合ってもそれは同じだ。
耳飾りを身に付ける女性に、言い寄る男は不義を強要する者であり、信用ならざる者だと後ろ指を指される程、卑下される。
つまり、耳飾りを身に付けた女性は、王族の権力さえも跳ね除ける絶対の守護を得ることができる。代わりに決して不義を働かないと言う暗黙の掟が存在している。不義を働いた女は、耳を塞ぎたくなるような悲惨な末路を送ることになる。物語の中では、奴隷に落とされ地獄のような人生を死ぬまで歩む女の姿が描写されている物も多い。
耳飾りを身に付けるという事実は、それだけ重いのだ。
「『絶対やる』とおっしゃられたのは、嘘という事になりますね」
「言葉を違えたのは謝る。でも、解決策が常識の範囲を超えてる」
「そうでもありませんよ。貴方が予想していなかっただけで、同じ方法で問題を解決した事例は山のようにあります」
「それは……」
ローゼリアは言葉を詰まらせた。レクティの言葉は事実だ。
耳飾りの力は、愛し合う男女にとって実に都合が良い。
男からすれば身分の高い人間の横槍で、恋人や妻を奪われることが無く。女からすれば望まぬ形で身を穢される危険を避けることができる。生きとし生けるもの全てに与えられた絶対の権利なのだ。誰であろうとその聖域を犯すことはできない。
事実、王侯貴族の間でも耳飾りの力は、必殺の手札として使われることがある。
「全ての者に等しく与えられた権利なのですから、利用しないと勿体ないと思いませんか?」
「私がこの街に居るのは、婚約者候補を探す為と言った筈。なのに、関係のない相手と婚約してしまったら本末転倒になる」
「その相手が御眼鏡に掛からなかった場合、困ると思いませんか?もしかして下種な上に醜悪な男かもしれませんよ」
その言葉にローゼリアは、カチンと来た。
自らが悪く言われるのは構わないが、父親が自分の幸せを願って推してくれた相手が下種で醜悪であると言われれば、例え話であっても看過できない。
「父が見込んだ男が、そんな人間な訳がない。これ以上の侮辱は許さない」
(随分とお父上を信頼されているようですね)
意外な切り返しに、レクティはローゼリアへの評価を改めた。
「お父上が騙されていると言う可能性もありますよ。どれほどの時を掛けて見定めたのかは知りませんが、それほど長い時間では無かったのではありませんか?」
「そんなことない」
聞いた限りでは、旅先の村で意気投合し日期を迎えるまで毎日のように語らったらしい。夜期が明けると、そのままグラスダールまで同伴させ、結局、一月以上連れまわったと聞いている。
その話しからも分かるように、相手のことを相当気に入っていた。あれほどご機嫌な父を見たのは、ローゼリアの弟が生まれた時以来だった。
長くはないが短くもない。人となりを判断するには、十分すぎる時間のように思う。それに父親の人の見る目は確かだと思っている。だからこそ話を聞いて直ぐに家を飛び出したのだ。
「一月以上、行動を共にしたと聞いてる」
「世の中には、幼少の頃から知っている人間が裏切ったと言う話しもあります。どうして赤の他人を、見定めることができますか?」
「それは極端な例。大体、親兄妹のですら知らない一面があるのに、他人の全てを見定めようとするのは傲慢な考え」
まさに正論だった。
心を揺さぶることを目的とした言葉だったが、レクティの思惑に反して強い拒絶にも似た言葉が返って来た。
(この方向で、突き崩すのは難しそうですね)
このまま話を進めてもローゼリアの牙城を崩すことは、不可能と判断した。しかし、自身の企みを無くすつもりは無かった。
「貴方の言う通りかもしれませんね。でも、言い寄る男が多すぎるのは事実ではでしょう?」
「だから困ってる」
「主様と婚約をすると言うのは、少なからず利があると思いますよ」
レクティは、話を振り出しに戻した。
「問題を解決する点だけに限って言えば、その通り。だけど目的から遠ざかることになる」
婚約してしまえば、レクティの言葉通り発生する問題は格段に減るだろう。だが、それをやるのは本末転倒だ。父親の認めた男と将来婚約する為に、今こうして行動しているのであって、別の男と婚約する為ではないからだ。
「もう少し頭を柔らかくして下さい。何も夫婦の間柄に成れと言っている訳ではありませんわ。一緒に見られがちですが、婚姻と婚約は別物です」
確かに、婚姻と婚約は別物だ。
婚約は文字通り、婚姻をすると言う約束をしたと言う証であって、夫婦となった訳ではない。婚姻をして初めて夫婦となるのだ。婚約までならどちらかの意志次第で白紙に戻すことができる。
ここまで考えてローゼリアは、ようやくレクティの意図を理解した。
「婚約だけで、婚姻はしなくていいってこと?」
「その通りです。事実上、不利益を蒙ることはありません。身の安全の為と理由を立てれば、御家にも言い訳が立ちます」
言われて見ればその通りだ。婚姻には、不利益が伴うが婚約には不利益は伴わない。
男に対して絶対的な守護を得られる利があるだけだ。報せれば心配性の両親も少しは安心させることが出来るかもしれない。
「相手の殿方が、意に沿わぬ方だった時も婚約を理由にかわすことが出来るので、一石二鳥の良作かと」
「でも、ヒルベルトがその案に乗る理由が無い」
己の都合のみで考えるならそれもあり得る話のように思える。しかし、それは相手として見ているレーヴェに、こちらの都合を押し付ける事になる。街での生活を保障してくれている相手に、迷惑を掛けるつもりはローゼリアにはない。
「いいえ、主様にも少なからず利があります」
「ヒルベルトにも?」
ローゼリアは、首を傾げた。
女の身なら婚約と言う言葉が、大きな利益をもたらすことを理解したローゼリアだったが、男の身のレーヴェに利益があるようには思えなかった。
逆に、生殺しの状態が続く為、精神面では不利益を蒙る筈だ。
正直に、言えば皆目見当が付かなかった。
「主様は、これから商人として道を歩まれるようですので、婚約者がいるだけでも商人としての信用は増します。しかも、相手が貴族となれば信用度はかなりの物になります。商売を始める上で、大きな助けになる筈です」
「でも、婚約を破棄した場合、信用がガタ落ちになる」
「その点は、お父上に頼んで詫びの手紙を一筆頂けば解決できます」
お家事情で庶民の男との婚約が取り消されることなど、貴族の世界では珍しくない。貴族側の都合で、婚約が取り消されたとなれば信用が揺らぐことは無い。詫びの手紙を貰えれば貴族との結びつきが強い証明となり、逆に信用を高めることも考えられる。
「…………」
ローゼリアの中で、婚約の話が現実味を帯びてくる。
先ほどまでは、一方的なまでの女であるローゼリアの利にしか成り得ないと思ったからこそ、その実現性を疑い反論した。しかし、互いに利益をもたらすのであれば別だ。
「強制するつもりは、ありません。提案をしているだけです。主様は、女性に優しい方のように見受けられますから、この方法を思いついても口に出さないしょう。でも女性である貴方の方から提案すれば、その考えに乗ることができると思うのです」
そうかもしれない。
ローゼリアは、そう思った。短い間だがレーヴェと接してきて分かったことが二つある。ひとつは、頭が切れる事。もうひとつは、無理強いはしないことだ。
常に逃げ道を用意し選ばせるのだ。こちらに必要以上に、配慮する節がある。
そんなレーヴェが互いの利益になるからと言って、仮初の関係を結ぶことを提案する筈がない。
「だから私から提案する?」
「はい、貴方の方から提案されれば、主様も真剣に可能性を検討するでしょう。そこに互いの利益が存在するとなれば、イヤとは言われないかと」
提案するぐらいなら良いかもしれない。
ローゼリアは、そう考えた。婚約するしないに関わらず、提案程度なら全く問題ない。
当分は、雇い主と従業員と言う立場で生活していくのだから、少し関係が変わっても殆ど影響もない。良い方向に転び、金銭的余裕が出れば自由な時間が持て易くなるだろう。探し人も効率よく探せるようになるかもしれない。
「どうします?やめられますか?」
考え込むローゼリアに、結論を求めるレクティ。
「ここまで、言ってダメなら引き下がろう」そう心に決めて、尋ねた。
「ヒルベルトに、提案してみる」
ローゼリアは、心に決めた。
「そうですか。なら耳飾りを選んでしまいましょう」
「使わない可能性もあるから、買うのは決まった後でも……」
これは、レーヴェが策に同意しなければ意味が無いのだ。だから耳飾りを買うのは、後にするのが適当な筈だ。
何しろ、耳飾りは高級品だ。安い物でも銀貨五枚はする。庶民ならば一生に一度の買い物になる。
「大丈夫です。三人のお金を合わせれば、大抵の物は買うことが出来ます。最終的には主様に出して頂きましょう。耳飾りは、元々殿方から送ると言うのが世の習わしですから。さあ、気に入ったものを手に取って下さい」
躊躇するローゼリアを促し、レクティは強引に品定めさせる。
始めの内は、戸惑いながら品定めをしていたローゼリアだったが、レクティに言われるがまま品を見て行く内に、戸惑いが楽しさに変わり、いつの間にか積極的に品定めするようになった。
妹の思惑を何とか阻止しようとヴィテスが、大荷物を抱えて店に訪れた時には、既に時遅く。店の耳飾りは、ローゼリアの物となっていた。
(すまない、主よ。妹は、私の手には負えないようだ)
ヴィテスは、心の中で主人に詫びた。




