第3章:唯一の常識人
週末の夜、結城家の本家に呼び出された私の目の前には、息が詰まるような光景が広がっていた。
重厚なマホガニーのダイニングテーブルの上には、義母が「腕によりをかけた」という贅を尽くした料理が、隙間なく並べられている。
しかし、その鮮やかな色彩も、私の目にはすべて灰色に煤けて見えた。
喉はからからに干からび、どれほど精巧に作られた馳走を口に運んでも、まるで冷たい砂を噛み砕いているかのような味がする。
「さあ、紬さん。遠慮なんてなさらないで、たくさん召し上がりなさい。お腹の景虎のためにもね」
義母は満面の笑みを浮かべ、上機嫌にワイングラスを傾けた。
その視線の先――部屋の隅の一際目立つ場所に、それは堂々と鎮座していた。
特注のトルソーに着せられた、あの漆黒の産着。
天井からのスポットライトを浴び、金糸の刺繍がギラギラと不気味な光を放っている。
おどろおどろしい文字で刻まれた『権左衛門景虎』の六文字は、祝福されるべき新たな命を呪うための呪詛のようで、まるでそこだけが狂気の祭壇と化しているかのようだった。
「いやあ、何度見てもこの金刺繍は圧巻だな! 最高だよ、母さん!」
すでにビールで顔を真っ赤に染めた拓也が、産着を見上げてゲラゲラと無邪気に笑う。
その笑い声が、私の胃を雑巾のように雑に絞り上げ、鋭い痛みを走らせた。
私はただ視線を落とし、机の下で爪が手のひらに食い込むほど拳を握りしめ、耐えるしかなかった。
その時だった。
重々しい玄関のドアがガチャリと開き、静まり返った廊下に、カツカツと軽快で小気味よいヒールの音が響いた。
「ちょっとお母さん、合鍵で入ったよ……って、うわ。何これ、お葬式?」
呆れ果てたような、しかし凛とした声がリビングに滑り込んできた。
現れたのは、拓也の妹であり、若くしてアパレル会社を立ち上げ、この古い実家をとうに飛び出している結城玲奈だった。
洗練されたパンツスーツを身に纏い、都会的な香りをまとった彼女は、この澱んだ結城家の空気の中で唯一、外界のまともな風を運んでくる存在だった。
「玲奈! 帰ってくるなら連絡くらいしなさい。でもちょうど良かったわ、あなたの甥っ子の高貴な名前と、産着のお披露目よ」
「お披露目って……」
玲奈の言葉が途切れた。
彼女の鋭い視線が、部屋の隅で異彩を放つ漆黒の産着に釘付けになる。
その端整な顔立ちが、みるみるうちに硬直していくのを、私は祈るような心地で見つめていた。
「……ねえ、これ何の冗談? 何の罰ゲーム?」
「罰ゲームとは失礼な! 我が結城家の偉大な先祖から一字をいただいた、これ以上なく由緒正しい名前だぞ!」
拓也が自慢げに胸を張るが、玲奈は眉をひそめ、言葉を失ったように兄と母を交互に見つめた。
「正気? 令和のこの時代にそんな名前、学校に入った瞬間から『ござる』ってからかわれるに決まってるでしょ。子供の将来を最初から詰ませる気?」
よくぞ言ってくれた。
心の中で、堰を切ったように涙があふれそうになった。
私が恐怖に縛られ、喉の奥に押し込めるしかなかったまっとうな正論を、玲奈は容赦のない刃で一刀両断にしてくれたのだ。
「なっ……! なんという無礼な言い草を! 伝統の重みも家柄の誇りも分からぬ小娘が、口を挟むんじゃありません!」
義母の顔が、怒りで瞬時に般若のように真っ赤に染まり、テーブルを叩いて立ち上がった。
「そうだよ玲奈! お前はいつもそうやって母さんに反抗ばかりして……! 見ろよ、紬だってこうして喜んで受け入れているじゃないか!」
(喜んでなんかいない……!)
胸の奥から突き上げてきた叫びが、悲鳴となって唇から零れ落ちそうになった、その瞬間。
玲奈の冷徹な、けれどどこか温かい瞳が、バチリと私を捉えた。
玲奈の視線は、私の青ざめ、ガタガタと震える唇から、その手が本能的に守るように抱え込んでいるお腹へと落ちた。
彼女は、私の沈黙のすべてを、その一瞬で察したようだった。
「……はぁ。あんたたちがここまで重症だとは思わなかったわ。これ、親の自己満足っていう名の虐待じゃん。お義姉さん、よくこんな狂った空間でこれまで息ができてたね」
「玲奈!! いい加減にしなさい! 出て行きなさい!!」
鼓膜が破れそうなほどの義母の怒声が響き渡る。
だが玲奈は、そんなヒステリーなど歯牙にもかけない様子で、「言われなくても帰るわよ。ここにいたら頭がおかしくなりそうだし」と、綺麗に整えられた肩をすくめてみせた。
そして、未練など一滴もない様子で、本当にそのまま踵を返してしまった。
パタン、と冷酷に、しかしどこか潔く玄関のドアが閉まる。
唯一の理解者であり、この暗闇に差し込んだ一筋の光だと思った玲奈が、去ってしまった。
結局、私はまたこの逃げ場のない、地獄の食卓に取り残されてしまったのだ。
絶望の波が一気に押し寄せ、視界が真っ暗に染まっていく。
『ピコン』
その時、マタニティウェアの緩いポケットの中で、スマートフォンが小さく、けれど確かに震えた。
義母と拓也が、玲奈への罵詈雑言を並べ立てて盛り上がり始めた隙を見計らい、私は息を殺してテーブルの下で画面を点灯させた。
送信元の名前に、息が止まる。
たった今、この家を出て行ったはずの玲奈からだった。
『お義姉さん、あんなの絶対に許しちゃダメ。今週末、あの二人を大型モールに連れ出して。作戦があるから』
画面に浮かび上がった青い文字を見つめるうちに、冷え切っていた私の指先に、じんわりと熱が戻ってくるのを感じた。
絶望で完全に凍りついていた私の時間が、微かな音を立てて、再び静かに、力強く動き始めた。




