第2章:マザコン夫の裏切り
「なんだ、そんなことか」
呆れたような、ひどく平坦な声だった。
拓也は私の視線を避けるようにして、肩から這いずるようにスーツのジャケットを脱ぎ捨て、リビングの奥へと歩を進めていく。
その背中には、私の焦燥や悲痛を受け止めるだけの厚みは微塵も感じられなかった。
「そんなことって……! 拓也さん、よく考えてよ。『権左衛門景虎』だよ!? いくらなんでも、今の時代にそんな名前を本気で受け入れるつもりなの?」
必死に彼の後を追いかけ、縋り付くように声を絞り出す。
しかし、拓也の歩みは止まらない。
彼は冷蔵庫を開け、冷え切ったミネラルウォーターのボトルを取り出した。
キャップをひねる乾いた音が、静まり返った部屋に無神経に響く。
ゴクリと喉を鳴らして水を飲み干すと、彼は何事もなかったかのように平然と振り返った。
その瞳には、私の涙など映ってもいないようだった。
「いいじゃないか、渋くてかっこいいだろ」
淡々と言い放つ彼の言葉に、体中の血が引いていく。
「母さんがわざわざ古い家系図を紐解いて、由緒正しい名前を選んでくれたんだぞ。そこら辺の、誰がつけたかも分からない薄っぺらい名前よりずっと目立つし、箔がつく。むしろありがたいと思うべきじゃないか」
「箔って……目立つって、そういう問題じゃないのよ!」
胸の奥からせり上がる叫びを抑えきれず、私は彼の胸元に手を伸ばしかけた。
「学校に上がったらどうするの? 周りの子供たちに絶対にからかわれるわ。もし、それがいじめの標的になったら……。この子の人生がかかっているのよ。生まれてくる我が子のことを、どうして一番に考えてあげられないの!?」
私の必死の訴えを、拓也は鬱陶しそうに、まるで肩に止まった虫でも払うかのように冷たくあしらった。
その手が私の肩を拒絶するように突き放す。
そして、彼は冷え切った、蔑みを孕んだ目で私を見下ろした。
「お前さ、自分の感性の方がおかしいって、どうして気づかないんだ? 母さんが喜んでくれているんだから、それが一番に決まっているだろう。余計な波風を立てるなよ」
頭をずしりと重い鈍器で殴られたような、激しい衝撃が視界を白く染めた。
――母さんが喜ぶならそれが一番。
この人は今、確かにそう言った。
お腹の中で奇跡のように息づいている、自分の子供の未来や尊厳よりも、実の母親の機嫌を損ねないことを明確に優先したのだ。
その歪んだ優先順位の前に、私は息の仕方を忘れそうになる。
「そんなの……あんまりだよ。私はただ、この子が普通の、誰からもろくでもない目で見られない幸せな人生を送れるようにって、それだけを願っているのに……」
「お前の方こそ、よっぽど毒親だよ」
拓也の口調に、じわりと逆ギレの刺々しさが混じる。
「せっかくの母さんの好意を無下にして、自分の狭い価値観を押し付けようとしてさ。少しは結城家の嫁としての自覚を持ったらどうなんだ」
吐き捨てられた言葉の暴力に、私は返す言葉を失い、ただ唇を震わせるしかなかった。
暗闇の中で、唯一の味方だと信じていた夫は、すでに義母の異常な価値観という底なしの沼に完全に染まりきっていた。
いや、初めからそうだったのだ。
私が「優しい人だから」と現実から目を背け、見たい幻影だけを追っていたに過ぎない。
その時、凍りついたリビングに、拓也のスマートフォンが鋭くピリリと鳴り響いた。
その機械的な音を聞いた瞬間、拓也の顔がパッと、まるで子供のように無邪気に明るくなる。
「おお、母さんからだ。見ろよ紬、もう産着が完成したらしいぞ」
興奮気味に画面を私に突きつけてくる。
その差し出された液晶を覗き込んだ瞬間、私は全身の毛穴が収縮するような恐怖に襲われ、思わず後ずさった。
光の中に映し出されていたのは、一目見て異様だと分かる、禍々しい特注の産着だった。
それはまるで、時代劇の中で見る切腹の儀式にでも使われそうな、光沢を失った漆黒の絹地。
その中央、まだ見ぬ赤ん坊の小さな背中が収まるはずの場所に、金糸で巨大な家紋が傲然と鎮座している。
そしてその周囲を囲むように、『権左衛門景虎』という六文字が、おどろおどろしい、怨念でも籠もったかのような筆文字の書体で深く深く刺繍されていた。
「すっげえな……これ、特注品だってさ。やっぱり母さんのセンスは最高だな」
画面を見つめ、恍惚とした笑みを浮かべる夫。
その横顔が、私と同じ言葉を話すはずの人間ではなく、意思の通じない未知の化け物のように思えてならなかった。
「今度の週末、実家で命名の祝いを兼ねた夕食会をやるからな。母さんが腕によりをかけて御馳走を作って待ってるってさ。お前もちゃんと礼を言えよ」
拒絶の余地など一切与えない、冷酷な決定事項としてそれだけを告げると、拓也はさっさと風呂場へと向かってしまった。
パタン、とドアが閉まる重い音が、私たちの関係の破綻を告げる鐘のようだった。
一人、静寂の中に放り出されたリビング。
冷え切ったフローリングの感覚が、スカート越しにじわじわと体温を奪っていく。
私はその場にへたり込み、震える両手で、守るようにしてお腹をきつく抱きしめた。
夫も、義母も、誰もこの子の本当の幸せなんて見ていない。
彼らにとってこの小さな命は、結城家という歪んだ虚栄心を満たし、家系の呪縛を繋ぐための道具でしかないのだ。
数日後に迫り来る、義実家での夕食会。
逃げ場のない四面楚歌の檻の中で、私はただ、避けられない地獄の足音が確実に、一歩一歩近づいてくるのを、恐怖に震えながら聴いていた。




