第1章:産婦人科の悪夢と、義母の呪文
「順調ですね。エコーを見る限り、元気な男の子ですよ」
医師の穏やかな声が、診察室の静寂に染み渡っていく。
その瞬間、私――結城紬の胸の奥で、せき止められていた熱い塊がじわりと融けだした。
白黒の画面に映し出された、まだほんの数センチの小さな影。
けれど、そこには確かに、トクトクと健気に、しかし力強く脈打つ命の営みがあった。
初めて授かった我が子が、私の体の中で生きている。
守るべきものができたという震えるような愛おしさと安堵が、せり上がる涙となって視界を滲ませた。
「……当然です。我が結城家の立派な血を継ぐ、長男なのですから」
感動の余韻を無残に切り裂いたのは、鼓膜を引っ掻くような冷え切った声音だった。
隣に座る義母、結城紀子。
「嫁の健康管理も姑の務め」という大義名分を盾に、強引に妊婦健診へと同行してきた彼女は、今日もこの場にそぐわない極上の大島紬を隙なく纏っていた。
ピンと伸びた背筋と、一切の妥協を許さない鋭い眼差し。
周囲の妊婦たちが漂わせる柔らかな空気の中で、彼女の存在だけが異質な刃物のように浮き上がっている。
「紬さん、帰りに寄るところがあります。タクシーを拾いなさい」
診察室を出た直後、振り返りもせずに放たれた言葉には、拒絶を許さない絶対的な重圧があった。
促されるままに乗り込んだタクシーが辿り着いたのは、駅前にある格式高いホテルのラウンジだった。
天井の高い空間に、クラシックの旋律が静かに流れている。
ウェイトレスが運んできたダージリンの芳醇な香りにも目もくれず、義母は膝の上でピシりと音を立ててバッグを開けた。
そこから取り出されたのは、恭しく厳重に包まれた、厚みのある上質な和紙の束だった。
「エコーで男の子だと確定するまで待っていましたが……ようやくお披露目できます。この子の名前です」
「え……? お義母さん、名前は拓也さんと二人で話し合って決めようと、前に……」
「素人が口出しするものではありません!」
ピシャリと空間を打つような鋭い声に、私は思わず息を呑み、言葉を失った。
義母は常々、自らを「武士の末裔」と称し、古い家系図や伝統という見えない鎖で周囲を縛り付けようとする人だった。
嫌な予感が、冷たい汗となって背中を伝い落ちていく。
「いいですか。由緒正しき我が家の家系図を遡り、最も偉大な先祖から一字をいただき、私が直々に命名しました」
義母の細く乾いた指先が、テーブルの上で和紙を勢いよく広げた。
そこに並んでいたのは、太く、力強く、けれどどこか禍々しささえ感じさせる達筆な墨文字――目を疑うような六つの文字だった。
「ごん、ざえもん……かげ、とら……?」
「権左衛門景虎。素晴らしい響きでしょう」
うっとりと目を細め、恍惚の表情を浮かべる義母を前に、私の思考は完全に凍りついた。
権左衛門。
景虎。
頭の中でその音が虚しく反響する。
今は令和の時代だ。
あまりの現実味のなさに、目の前の光景が歪んで見える。
「お、お義母さん……いくらなんでも、それは……その、古風すぎると言うか……。将来、学校に入った時に周りの子からからかわれてしまうかもしれません。それに、画数も多くて、まだ小さな子供が自分の名前を書くには、あまりにも負担が……」
指先を震わせ、膝の上のスカートをぎゅっと握りしめながら、私は必死に言葉を紡いだ。
我が子を守りたい一心で、精一杯の抵抗を試みる。
しかし、その言葉が終わるか終わらないかのうちに、義母の顔から一切の笑みが消え失せた。
眉間には深い皺が刻まれ、その表情はまるで能面の夜叉のように吊り上がっていく。
「現代風の、あの軽薄な名前など断じて許しません! 我が一族の血を引く初孫には、『権左衛門景虎』こそが相応しいのです!」
静かなラウンジに、感情の昂ぶった義母の声が鋭く響き渡った。
周囲の客たちが一斉にぎょっとした顔でこちらを振り向く。
だが、義母はその視線に怯むどころか、さらに顎を突き出した。
「キラキラネームなどという親の自己満足を押し付ける世の中で、これほど重厚で、威厳に満ちた名が他にあるものですか。拓也にもすでに伝えてあります」
(拓也さんに……?)
その一言が、私の胸に一筋の光を灯した。
夫の拓也は、いつだって優しく、理性的で頼りがいのある人だ。
いくらマザコンの気があるとはいえ、自分の息子にこんな時代錯誤な名前を背負わせることを、あの人が承知するはずがない。
私はその微かな希望だけを杖にして、地獄のようなティータイムの時間を耐え抜き、逃げるようにして自宅へと這い戻った。
夜、時計の針が午後九時を回った頃、玄関のドアが重々しく開く音がした。
「ただいま」という聞き慣れた声に、私は弾かれたように立ち上がり、すがるような思いで彼のもとへ駆け寄った。
「拓也さん、おかえりなさい! あのね、今日お義母さんが健診についてきて……赤ちゃんの名前、『権左衛門景虎』にするって言い出したの! 嘘でしょう? 止めてよ、あんな名前をつけられたら、この子が一生苦しむことになる。本当にかわいそうだよ……!」
一気に感情を吐き出し、胸を上下させる私を前にして、拓也は急ぐ風でもなくゆっくりとネクタイを緩め、靴を脱いだ。
そして、ひどく面倒くさそうに、小さく、深い溜息を漏らした。
「なんだ、そんなことか」
部屋の明かりに照らされた彼の横顔には、私の焦燥も、悲痛な叫びも、何一つ届いていなかった。
その薄い唇から零れ落ちた言葉は、私が抱いていた最後の、そして淡い期待を木端微塵に打ち砕く、冷酷な現実そのものだった。




