兆候1
なんとか店から出た敏也は携帯端末を取り出し、電話を掛け始めた。
呼び出しを始めた携帯を耳に敏也が空を見上げると、少しずつ傾き始めた太陽がまだまだ元気に光を降り注ぎ続けていた。その光を受けていると堪らなく身体が熱され、全身に汗が噴き出してくる。もしかすると今夜は熱帯夜となるかもしれない。
沢山のミンミンという鳴き声が聴こえる。どうやら蝉が何匹もいるらしい。
夏の風物詩と言ってしまえばそれまでだが、せめて電話の最中ぐらいは静かにしてほしいものだ。たった一週間の命だとはいっても、ほんの数分程度は気を利かせて黙っていてくれてもいいのではないだろうか。
生き急ぐ事に、価値も意味も無いのだから。
そんな陰鬱とした思考の末、数秒のコール音の後、相手に繋がった。
《はぁい、こちらはクリスティーネの日本用携帯端末ですわぁ》
「俺、大神敏也だけど」
《あらあら、敏也さんでしたか。知らない番号でしたから、もしも詐欺か間違い電話でしたら居場所を突き止めて灰にしてしまおうと思っていましたのに》
「……いやいや、間違い電話は許してやれよ……」
溜息交じりに敏也が言うと、向こうのクリスが軽快に笑う声が聴こえて来た。
「うふふふふ。まあそれは置いておくとしましょう」
「置いとくなよ、人の命懸かってんだぞ……」
「わたしに電話を掛けて来たという事は、なにか助けがいるのでしょう?」
「ああ。あんたに訊きたい事があるんだ。――エリーネの、自称お姉さん?」
蝉の声が、止んだ。
◆
『御陰リゾートホテル、その最上階のスイートルームでお待ちしていますわ。受付には話を通しておきますから、名乗りさえすれば通してくれるでしょう』
クリスからそう言われた敏也は、御陰市の駅近くにある高級ホテルの前に立っていた。
辺りはすでに薄暗く、建物の灯りが目に付き始めている。そんな中、一際存在感を放っている目の前の物。
「でっけー……」
見上げるのは何十階もあろうかという巨大な建築物。ガラス張りのエレベーターが二つ設置され、部屋に昇るまでの間に街の風景を一望できるらしい。さらにはエントランスの正面にはお洒落な噴水広場と街灯、入口前のにいるガードマンすらも気品を感じる佇まいだ。
高級ホテルの名は伊達ではないらしい。
(なんか緊張すんなぁ)
敏也は若干身体を堅くしながらも、なんとか一歩を踏み出して歩み始めた。
ガードマンから鋭い視線を向けられつつも視線を逸らすことで遣り過ごし、入口の回転扉を潜る。その先に広がったのは、魔獣騒動の最中に泊まったホテルよりも一層煌びやかなロビーだった。
そのまま受付にいる女性従業員の元へ向かう。
「あの、すいません」
「はい、なにか御用でしょうか?」
「スイートルームに泊まってるクリスティーネ・フリートハイムって人から話が来てるはずなんですけど。あ、俺の名前は大神敏也です」
「フリートハイム様から……。はい、伺っております、大神様」
そう言って、女性従業員はロビーの奥のほうにあるエレベーター乗り場へと手を向けた。
「どうぞ、あちらに。フリートハイム様は最上階のお部屋でお待ちです」
「えっと、勝手に最上階まで行っちゃっていいんですか? 誰か付いてこなくても……?」
敏也が心配そうに訊くと、従業員はにこりと笑った。
「フリートハイム様からのご要望です。『彼が来たら一人でこちらに』と」
◆
「こえーな、このエレベーター」
徐々に上昇し始めたエレベーターからは街の夜景が見渡せる。
高層ビルに灯った灯り。繁華街のネオン。車や電車のライト。か細い光を放つ夜空の星々。
正面を向くのを止めて右手を向けば、戦修学園の近場にある御陰神宮に光が見える。恐らくは夏祭りの準備をしているのだろう。ということは、疎らに見える小さな灯りたちは提灯の光だろうか。
御陰神宮は、八年前に『神宮』の名を賜ったばかりの元神社だ。
そうなった背景には、御陰市の隣に位置していた三珠市の壊滅事件と、その際に生じた死傷者たちをの御霊を祀るという意味合いがあったそうだ。しかし、遺族たちが訪れるのは専ら三珠市跡地。今となっては大規模な夏祭りや初詣が主な参拝理由と成っている。
遺族たちが御陰神宮を決して訪れない気持ちを敏也は理解できていた。
その額をガラスに押し付け、心細そうな面立ちになり、
「そこには誰も眠ってないもんな」
そう言うと額を離し、その想いを断ち切るように目を瞑って頭を振った。
すると、どうやら最上階に着いたようだ。到着を知らせる音が鳴り、制動による僅かな揺れが生まれる。そして扉が開かれ、豪奢なマットを敷かれた通路が目に入った。
エレベーターから降りた敏也は通路を見渡し、奥の方に扉があることを確認した。
「あそこか」
一歩進む度に何やら心が重くなる。
これからクリスを問い詰めなければならない。もしかしたらまた文字通り一蹴されてしまうかもしれない。下手をすれば病院送りにされてしまうかもしれない。そう考えると、敏也の心は不安で押し潰されそうになっていく。
だが、
(仕方……ないだろ)
辛くても、たとえあの優しく包容力のあるクリスに絶交されようとも、エリーネに似た容姿で辛辣な言葉を吐かれてしまおうとも、そうしなければ真実には辿り着けないのだから。
エリーネから聴いた話だけでは誰が悪で誰が善か、その判断が着けられなかったのだ。
もちろんエリーネの父親は悪い。だが、絶対的に悪だと言えるだろうか。ささやかな善意が、予期せずに大きな悪意となってしまっただけなのではないか。
想像すればするほどにわからなくなっていく。
誰が悪い?
誰を斃せばいい?
コロセバイイノ?
心は答を欲しているがその答自体を定められない。エリーネが涙を流した――そうなった原因を作った人物への憤り、行き場のないこの怒りをどうすればいいというのか。
目に付く全てを破壊すればいいのか。あらゆるものを消し飛ばしてやればこの気持ちの悪さは消えてくれるのだろうか。
きっとできる、そうできる。囁く声はいつだってそう言って背を押してくる。
言いようのない黒々とした感覚が心の中で首を擡げ、それが不気味に蠢動を繰り返していることがわかってしまう。まるで寄生しているかのように纏わり付き、消えてくれない。
しかし、その得体の知れない衝動はピタリと止まってしまう。水が堰き止められるように、愛しい手に引かれた幼子のようにその狂気の歩みは止まる。温もりに包まれ、沸点を越えようとしていた黒い感情は風船が萎むように委縮していく。
その度に、忌々しさを込めた誰かの叫びが聴こえてくる。だが、どうでもいい。
誰よりも、何よりも彼女の為に――その想いは敏也の中でどんなものよりも強く、復讐心など取るに足らない。敵愾心など捨て去ろう。恐怖も躊躇いもかなぐり捨てて、彼女の為に矢面に立って見せる。どんな狂風が吹こうとも、それを見事に防ぎきって見せよう。
この感情は、これから先も揺らがない。決して揺らぎはしない。
「だから、辛くても向き合わなきゃな」
心は決まっている。何度も迷うが、芯だけはまったくブレていない。
その足は、今扉の前に辿り着いた。
ノックをすればクリスの声がし、鍵を開ける音が聴こえた。
扉が開かれた後、敏也は部屋の中に消えていった。
◆
「あら敏也さん……随分と汗臭いですわね」
部屋に招き入れられた後、敏也の背に掛けられたのはそんな言葉だった。
「昼間に色々あったんでね、どうせ知ってるんだろうけど」
それに対し敏也が憎まれ口を叩くと、クリスは上機嫌にクスクスと笑うだけだった。
二人は入口付近から部屋の中央付近まで移動し、クリスは大きなベッドに、敏也は椅子に腰掛け、向かい合うかたちに腰を落ちつけた。
部屋の窓から見える景色は随分と高く、また美しい。さすがは高級ホテルのスイートルームといったところだろうか。景色を遮るものが何もないどころか、この建物こそが最も背が高いため、この部屋からは純粋な夜景を楽しむ事が出来る。
しかし、今回ここを訪れた目的はそれではない。敏也は目がついつい窓の外へと行きそうになるのを堪え、クリスのほうへと視線を括り付けた。
「クリス、俺の質問に答えてくれる気はある?」
敏也が切り出すと、クリスが考えるように唸りながら顎に手をやり、
「う~ん、そうですわねぇ…………答えられることなら――という条件が付きますけれど、それでいいなら答えてあげますわよ?」
十分だ。
敏也は、取り敢えずは話を聞いてくれる姿勢で居るクリスに内心でほっとしていた。
「じゃあまず…………クリスはエリーネのなんなんだ? ほんとはお姉さんじゃないんだろ?」
言うと、クリスは値踏みするかのように目を細めた。
「それの成否を答える前に、どうしてあなたがそのような疑問を抱いたのか、その原因を教えてくださらないかしら?」
クリスは楽しそうに口元を綻ばせ、言った。
対して敏也は宙に視線をやって記憶を探っている。
「原因と言えば、まず一つに最初に会った時の不自然な挙動だ。あの時、クリスは俺がお前を『エリーネのお姉さん』扱いしたとき、なんだか過剰に反応していた。始めは姉妹ってそんなもんなのかなって思ってたけど、今にして思えばかなり変だよな?」
「ふぅん。それだけですの?」
「まだある。次に、ファミレスで食事をした時。あの時クリスが家族の話をしてくれたけど、変なところがあったんだよ」
「変なところとは?」
クリスが首を傾げながら訊くと、敏也が僅かに肩を竦めた。
「お前、自分の母親のことを『その方』なんて言ったんだよ。自分の母親のこと、いくら人前だからって『お方』扱いするか? そりゃよっぽど家柄が良いんならおかしくないんだろうけど、お前の場合はその線は有り得ないしな」
「あら、どうしてですの?」
「は? それ訊く? お前が自分で言ったんだぞ。――歩いてホテルに向かってた時、『お金を使って自分を大きく見せたいのならリムジンでも呼ぶ』って。つまり、お前は大して格とかに拘ってないってことがわかる。そんなことを言ったやつがさ、わざわざ呼び方に気を遣って気品を出そうとするもんかな? うっかり取り繕うのを忘れて――いや、咄嗟だったから適切な呼び方に直せなかったって思う方が妥当じゃないか?」
「へぇ……」
感心したようにクリスは音を漏らしたが、すぐに小馬鹿にするように笑みを零し、そのままベッドに仰向けに倒れ込むと天井を見詰め始めた。
「ですが、その程度では証拠としては弱いのではなくて? 発言のブレなどわたくしとて人間なのですからあるでしょう。言論と行動が一致しないことなど稀にあるでしょう。そもそもあなたが挙げてきたのは物的証拠ですらない、そうであってほしいという願望でしょう? そんなものでわたくしを嘘吐き扱いするのはどうなのかしら」
「絶対的な根拠はあるさ」
「……」
意外な返答にクリスは口を閉ざし、次の言葉を待った。
そして、
「俺の勘」
「……勘……?」
敏也が酷く突っ込まれるのを覚悟であっけらからんとのたまうと、クリスは跳ね上がるようにしてその身を起こした。そして意外なことに、神妙そうに考え込みながら彼の顔色を伺っていた。
その視線に何とも言えぬむず痒さを覚えた敏也は椅子の上の身を捩りながら、
「な、なんだよ?」
「いえ……その勘というのは、どういう感覚でしたか?」
「どうって?」
「そうですわね。例えば……急に湧き出したというか、それともふと閃いたといいますか。そう言った漠然としていてもいいですから感触を教えてほしいのです」
クリスはやけに真剣な顔つきでそう言ってくる。
なぜ彼女がここまで真剣になるのか敏也にはわからなかったが、その気持ちを無碍にするつもりもなかった。思い起こし、答えた。
「誰かが、教えてくれてるみたいだった。それと同時に、閃いた感じでもあったかな」
「――」
敏也からの返答を聴いたクリスは絶句し、しかし、その沈黙は負のものではない。良いことが予想外なタイミングで起こったことで驚いただけのように見える。
「そう……ですのね。直感が冴え始めているということは……いえ、でもなぜ? 昨日まではダアトの覚醒の兆候など……まさか昼間の少女との邂逅が何か……?」
「?」
敏也を意識の外にやり、ぶつぶつと呟き始めたクリス。敏也は心配そうにその顔を覗くも、クリスはまだ何か考え事をしている。
それから十秒ほど沈黙が続き、ようやくクリスが敏也へと視線を戻した。
「……わかりましたわ。この話は置いておきましょう。それよりも、あなたの質問に答えて差し上げますわ」
「ああ」
敏也が先ほどした質問は、クリスは本当にエリーネのお姉さんなのかどうか。
それは、
「本当のことを申し上げれば、わたくしはエリーの姉ではありません」
「やっぱり。じゃあなんなんだ? 従姉?」
「いいえ」
「ってことは従妹のほう」
「違いますわ」
「じゃあ……意外な事に他人の空似とか?」
「いいえ」
「んー……」
それ以外となると候補がない。だがここまで容姿が似通っているのだ、まったく縁のない人物というわけではないだろう。少なくとも血縁関係はあるはずだ。
しかし、他に候補と言われても敏也の頭に浮かんでくるのは『クローン』やら『人の皮を被った機械生命体』やら、そのようなSFチックな候補ばかりだった。
そうして敏也が腕組みしたまま悩んでいると、クリスがにっこり笑顔を浮かべてとんでもないことを言い放った。
「エリーの母ですわ」
「ああそっか! それが残ってた! いやー、そっかそっか。お母さんかぁ………………ハァ?」
「あら、チンピラのような顔になっていますわよ、敏也さん?」
目を剥いて最大の驚きを表現すると、クリスはそのような辛辣な評価を下していた。
「い、いやいやいや! お母さんっ? おかーさんっ!? お・か・あ・さ・ん?」
「ええ」
「……有り得ない。――クリスぅ、日本語間違ってるよ? お母さんってのはね、お腹を痛めて子どもを産んでくれた女性のことを指すの。この場合で言えばエリーネを産んだ人のことなの。つまりね、クリスはお母さんじゃ――」
と、敏也が猫撫で声で諭そうとすると、クリスが満面の笑みでそれを遮った。
「わ・た・く・し・が、エリーネ・フリートハイムを産んだのです。そこに間違いなどありませんわ、敏也さん。いいかげん現実を見詰めたらどうですの?」
「嘘だぁぁぁぁっ!!」
この世の終わりの様な悲鳴を上げ、敏也は椅子から転げ落ちるようにして床にダイブ。そのまま両手両膝を着け、絶望のままに頭を垂れる。
「嘘だ、嘘だ! 若過ぎる。お母さんにしては若過ぎる。考えられるとすれば、それだけ若い時にエリーネを産んだ? でもエリーネは今年十七になったばかりのはずだ。クリスは見ため的に二十いってるかどうかってとこだから……あのクソ親父はいったいクリスを何歳の時に襲ったことになるんだ? まるっきり犯罪者じゃねえかッ!!」
床に着けていた手を握り込み、そこに容赦なく叩き付ける。
そのようなあるまじき禁忌を侵し、のうのうと生き続けているあのド畜生を思うと怒りが抑えきれなかった。やはり、昼間命を賭してでもあれを排除すべきだったのかもしれない。
敏也が魂から湧き上がってくる憤怒に揺れていると、クリスが呆れたように頬に手をやり、溜息を吐いた。
「盛り上がっているところ悪いですけれど、人の夫を幼児性愛者扱いするのはやめていただけるかしら? 妻として非常に反応に困るんですの。それと、わたくしはこう見えて三十台後半ですわよ?」
「う、嘘だ……嘘だぁ!」
敏也は再び両手を床に着き、慄く。
(この見た目で三十代? 有り得ねえよ。不老不死はすでに実現していたのか……っ!)
珠の様な肌を持ち、まったく染みの無い綺麗な白めの肌色。髪は上質な絹の様な銀髪だし、髪が舞う度に良い香りを周囲に振り撒く。頬は十代の娘のように血色が良く、表情は老いを感じさせないほどに快活。振舞いさえ意気に溢れ、若いという印象を周囲に抱かせる。
それ以上に聖母の様な笑みと立ち振る舞い。総じて魅力的な女性だ。
そんな彼女が三十代だと言う。そろそろ人生の折り返し地点だと言う。
「へっ」
思わず鼻で笑ってしまう。嫌な汗が噴き出してきてしまう。それほどまでに敏也はショックを受けていた。
「へ、へへ……ねえよ、こんなのってねえよ。俺、結構ときめいてたのに……」
「あら? 嬉しいことを言ってくれますわね♪ ですがわたくしには夫が居ますし、あなたには確定とは言えませんがエリーが居るでしょう? ――所詮、それは叶わぬ恋だったのです!」
最後は何故か芝居がかった手ぶりと表情で言っていた。
「ちくしょう……こうやって人は大人になっていくんだな……。くそっ、嬉しくて目の前が霞みやがる」
「そろそろ猿芝居は止めてはいかが? どうせ敏也さんのことですから、心構えはしてきたのでしょう?」
クリスが半眼で言うと、敏也は啜り泣くように揺らしていた身体をピタリと止め、ヘラヘラした笑顔で身体を起こした。
「まあな。というか、綺麗な人と接する時は『どうせ彼氏いんだろ、こん畜生』と思って予防線張って接してっから、正直言うとあんまりダメージない」
「随分と卑屈ですわねぇ……。もしエリーに対してそういう穿った態度を示したら、その股にぶら下がっているものを一つずつ、苦しめるようにゆっくりと、ブチブチと音を立てながら、修繕できぬよう念入りに引き千切りますわよ?」
「やめろ。んなことしねえから脅しでもそういうこと言うのはやめろ。なんかこう……嫌な感じがするから」
「そうなった時の名前は『敏子ちゃん』でいかが?」
「やめてください!」
恐怖一色で顔を染め、身を必死に逸らしながら、敏也はクリスにお願いするのだった。




