束の間の小休止
エリーネの父、ヴィクトール・フリートハイムは未だに動けずにいた。
彼はぼんやりと海を眺め、漂ってくる潮の香りと、ほんの僅かに散って来る水飛沫を身に浴びながら、その場に佇み続けている。
しかし、そんなヴィクトールの背に声を掛ける人物が居た。
「ヴィクトールさん……でよろしいですね?」
「誰だ?」
振り返らずに言う。すると、相手は少しだけ呆れたように息を零していた。
「楠瀬燐火の使い……だと言えば警戒を解いていただけますか?」
「ヤツの道具か」
そう言い、ヴィクトールは背後をゆっくりと振り返る。
そこには、敏也たちのクラスの担任である槇先生が、営業スマイルを顔に張り付けた状態で居て、今この時に軽く会釈をしたところだった。
「申し訳ありません。本来なら燐火自身が赴きたいと仰っていたのですが、何分忙しい身の上の方ですので都合がつかず……。しがない身ではありますが、わたくしが代理として任を果たさせていただきます」
「そうか。……だがその前に、一つだけ質問をしてもいいか?」
「はい、もちろんです」
ヴィクトールからの問い掛けに、槇先生は面を上げて彼を見据えた。
その顔を見詰めて五秒ほど。ヴィクトールは息を吐きながら肩を下げ、疑いの視線を槇先生に向けていた。
「その面立ち、どこか見覚えがある」
「そうでございますか? ですが、真に恐縮ではございますが、わたくしにはあなた様との接点はございません。何かの思い過ごしでは?」
「そうか?」
その涼しい返答に、ヴィクトールは目を細めた。
「――『九年前』。この言葉でお前は何か思うところはないのか?」
「さあ、どうでしょうか。九年前と言えばわたくしはまだ十代半ば。このような小娘の過去を掘り返し、あなたさまは何を得られるというのでしょう。わたくしは所詮庶民の出。やんごとなき身分の方の考えは想像しかねます。ゆえに、どうぞお好きに想像なさってください」
だが、いくら問おうと槇先生は笑顔を崩さなかった。
というよりは、決して崩れない笑顔の仮面の裏で険呑とした感情を煮立たさせ始めているように思える。この笑顔は、自身のそういった懐を探らせまいとする一種の防衛本能で、そこに何かしらの思惑が混じっているために強靭となっているのだろう。
これ以上問答をしても答は得られない。そう思ったヴィクトールはさっさと用件を聴くことにした。
「で、貴様がここに来た用向きはなんだ?」
「はい。楠瀬燐火からの言伝でございます。――『警察と治安維持部隊はこちらで抑えた。今後も君たちに対する彼らの動きを制限する。暴れたければ好きなだけ暴れたまえ』――だそうです」
「ふんっ、ご苦労な事だ。わたしというイレギュラーすらも計画の一環として組み込む気か。その言伝の最後には『市民を巻き込むな』と付くのだろう?」
「はい、もちろんでございます」
槇先生はそう言うと、ますます笑みを深めていた。
しかし、その笑みの意味は見て取れるものが正しくはない。この笑顔にはつい先ほどまで街中で暴れ、さらにはこの広場で戦闘行為を行ったヴィクトールへの批難が込められている。
それを理解できないヴィクトールではない。肩を竦め、了承を示した。
「わかった。煩わしい邪魔が入らんというのであれば、こちらとしても助かる」
「あ、それともう一つ」
「なんだ?」
突然一指し指を立てて注意を引き付け、槇先生は思い付いたように声を出していた。しかも先ほどまでと違い敬語が取れている。普段通りの不敵さ満々だ。
笑顔だったために細められていた眼が静かに開かれる。その後に現れたのは、まごう事なき敵意を宿した鋭い眼差しだった。
「もしもあなたがわたしの生徒たちに治療不可能な危害を加えたなら、今度はわたしがあなたをそうしてあげますよ~♪」
普段彼女が生徒たちに見せているのと同じ態度だ。が、その佇まいには凄味があり、威圧感を迸らせている。それが、彼女が揺るぎない意志を持った存在だと周囲に認識させる。
高位魔術師であり、数多の戦場を生き抜いてきたヴィクトールにすらも僅かながら畏怖を抱かせる鋭い感触だ。
ヴィクトールは内心で感心しつつ、それを表には出さずに軽く睨みつけた。
「それはわたしを高位魔術師と知っての言葉か?」
「それは~、わたしを魔動機パイロットだと知っての言葉ですか? 魔動機は魔術師を殺すために生み出された兵器だってことは、子どもだって知ってる事ですよ?」
「魔術師を殺すために、か。……そうだな。だが、高位魔術師の前では魔動機と言えど旧世代の兵器とさして変わらん。無謀な強がりはやめておくのだな」
その言い分に、槇先生は嗤いながら肩を竦めた。
「ふふっ、そうですか。で~も、あんまり傲慢な鼻っ面を晒していると、共鳴者たちに叩き折られますよぉ? あの子たちはあなたが思っているほど弱くはありませんし、飛ぶことを忘れた籠の中の鳥とは違いますからねぇ」
「アレと付属品が強かろうと弱かろうと、わたしにとってはどうでもいいことだ。それに、わたしを斃せるほどに強いというのなら、我々の計画としては幸いなことだろう。……言伝御苦労。お前の忠告と警告は頭に留めておこう」
憂いを帯びた眼差しになったヴィクトールは歩み出し、槇先生の隣を過ぎると、そのまま町の方角へと消えていった。
その背が視界から消える前に、槇先生は冷たい笑みで小さく言葉を発していた。
「あの子たちは、咎人どもを止められなかった不甲斐ないあなた方とは違うんですよぉ?」
◆
「いやあメンゴメンゴ。勘違いしちゃった♪ てへっ」
と、奈々は詫びれも無く言い、ストローでレモンティーを吸い上げ始めた。
そんな彼女を冷やかな視線で見詰めるのは敏也、エリーネ、紫苑である。
四人は、諸々の事態と事情を整理するため、先ほどの一件が起きた地点の近くにあったカフェに腰を落ち付けていた。もちろん大量の荷物たちも同伴しており、それらは敏也たちの隣にある席を我が物顔で占拠している。
「で、なんでてめえは俺を殴り付けたわけ?」
と、敏也が半眼で訊くと、奈々はストローから口を離しながら答えた。
「うんにゃ、ほらさ、エリーが急にどっか行っちゃって探しても見つからないし、携帯にも出ないしでさ、わたしらとしては非常に困った事態に陥ってたわけよ。ね、しおちゃん?」
「……同意。本当に困っていた」
「で、一先ず荷物とか持って寮の方に戻って連絡を待とうと思ったわけ。そしたら……」
奈々が言い掛けた所で、エリーネが盛大に溜息を吐いた。
「ハァ……帰り道で私をおぶった大神くんを見つけて、彼が私に何かしたと思ったわけですね?」
「…………うん、そうだよー」
「まったく! そんなことあるわけないじゃないですか! 大神くんが……その…………女性にそういったことができるように見えますか? そもそもまともに相手してもらえると思うんですか? そんなの考えればすぐにわかることじゃないですか、明確じゃないですかっ」
「おいコラ、なに捲し立てるように酷いこと言ってんの? 男のプライド傷付けて愉しいの? 嬉しいの? そのうち泣くぞコラ」
敏也がお冷を啜りながら批難がましい視線を向けるも、三人は取り合おうとはしなかった。
エリーネの発言を受けた奈々が大げさに肩を竦め、やれやれとジェスチャー。
「うん、冷静になって考えてみれば、敏ちんが女の子にそんなことできるわけないし、しようとしても結局は怖じ気づいて逃げ出すだろうしねー」
「そんなことねえよ。頑張るよ」
「……敏也は発言の威勢の良さに反して根は臆病。きっと肝心な時に役に立たないパターン」
「なんなの? お前ら俺のこと嫌いなの? なんでさっきから辛辣なこと言ってくんの?」
敏也が肩を落としながら嘆いても、三人は取り合ってくれない。
ミックスジュースを一口飲んだエリーネが、話を纏めるように言った。
「とにかく、私が映画館を立ち去ったのは胸騒ぎがしたから。そして少し体調を崩したところに大神くんに出会って連れ帰って貰うところだった、そういうことです。――いいですね?」
「あいあい」
「……了解」
「……無視すんなよぉ……」
約一名が傷付きに傷付いているが、他三人の事の顛末に対する認識の擦り合わせは無事に済んだようだ。
と、それを見てとったエリーネは席を静かに立つと、「お手洗いに行ってきます」と言ってフロアを歩いて行った。そのままエチケットルームのほうへと姿が消える。
「でだよ、敏ちん。ほんとは何があったの?」
エリーネが居なくなるや、奈々は敏也にそう訊いていた。
敏也としてもその質問は想定内だったのか、特段慌てることなく、テーブルに頬杖を着く姿勢になり、店の外にある道路と海景色に目をやった。
「ちょっとな。エリーネにとっては辛いことがあったんだよ」
「……そんな曖昧な言い方じゃ伝わってこない。もっとはっきり教えてほしい」
「んー……そのことに関して何だけどさ、教えるのは少しだけ待ってくんないか?」
「どうして?」
なぜすぐに教えてくれないのか。自分たちはエリーネを護衛している仲間ではないのか。
そういった疑念が奈々と紫苑の脳裏を過るも、敏也の表情に悪意の類は見て取れない。どうやら邪な想いがあって情報を出し渋っているわけではないらしい。
「なんというかさ、誰が悪いのかってことをまだちゃんと確かめられてないから。だから俺の口から勝手なこと言うわけにはいかないんだよ。それを確かるためにも、これから会いに行こうと思ってるんだ」
「会う? 誰に……」
「事の当人たち」
「……それもまだ教えられない情報?」
「ああ。まだ、な。結構関係が複雑っぽくて、下手に伝えると間違った認識になっちまいそうだし」
「……そう」
紫苑はこれ以上は無駄だと思ったのか、興味を失くしたように椅子に沈み込んだ。
一方、奈々は依然として敏也に視線を向け続けている。
「無茶はしない?」
「しない。したらエリーネが哀しむからな」
「ならいいけど。面倒なことになったらちゃあんとわたしらに助けを求めるんだよぉ?」
「おう」
そう返事をすると、敏也は椅子から立ち上がり、財布から千円札を取り出すと机に置いた。
「善は急げって言うし、さっそく行ってくる。もうすぐ夕方だし、遅くなるのも面倒だからな。で、エリーネのこと頼むわ、二人とも。あいつ、普段通りにしてるだろうけど内側は結構参ってるはずだから、今日は一緒にいてやってくれ。これはその手間の前賃ってやつ。ジュース代はこれで払えよ」
言い終わると敏也は去ろうと身を翻したが、その背に奈々と紫苑の声が届いた。
その声に敏也は思わず足を止めて肩越しに振り返っていた。
「こんなの手間じゃないって何度も言ってんじゃん、敏ちん」
「……こういうのはお金の問題じゃない。それに、そうするのは当然のこと」
「……馬鹿だなお前ら」
本当に、馬鹿だ。
敏也は肩を上下させながら微かに笑んで、顔を戻して前を向いた。
「それはそれとして、これ使って三人でうまいもん食おうぜぇ、しおちゃん」
「……ならジャンボチョコレートパフェを所望する。ジャンボイチゴパフェでも可。三人でなら完食できるはず」
「オッケイ。取り敢えずエリーの希望も訊こっか。いやあ、臨時収入様様だねぇ、あっはっはっはっは」
「……やっぱ金返せ」
仲良くメニュー表のデザート欄を見始めた二人から敏也がお札を取り戻そうと奮闘し、お手洗いから戻ってきたエリーネにその様を見られ言い訳し、これから『用事』があると伝えて寂しそうな彼女の視線を振り払って去るまでに、敏也は非常にやきもきしたのだそうだ。




