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双天の共鳴者  作者: 月山
第三章「シンフォニック・アソシエイション」
91/126

その背にあるのは大切なもの

「あらあら、困ったことになりましたわね」


 御陰市にあるタワー型の展望台、その最上階にある展望室の屋根の端に腰掛けているクリスは、尻尾のように風に揺れているポニーテールを従え、海の方角を眺めていた。

 強化された視界に映っているのは、先ほどまで周囲の目も憚らず激突していたはずなのに急に身体が固まったように動かなくなってしまった敏也と『彼』。

 そして二人がそうなってしまった原因たるエリーネの後姿だった。


「まさか『こちら』が先に遭遇することになるだなんて……もう少し先だと思っていましたのに……。まあ、これはこれで良き方向にいくのかしら……」


 頬に手を当てながら呟いてみるものの、もしも事態が拗れてしまった場合のことを考えると気が滅入る思いだった。しかし、これは必要なことだとクリスは思う事にし、多少荒療治にはなるがしばしの間は静観することに決めるのだった。

 小さく溜息を吐き、展望台の高さなど蚊ほども気にせず、高空を吹き抜ける風など意に介さず、スラッとした長い脚を上機嫌にぶらつかせる。


「うふふ、お手並み拝見ですわ、敏也さん♪」


 クリスの期待は、大神敏也の肩にずしりと圧し掛かっているらしかった。

















「どうしてあなたがここにいるんですかっ!!」


 エリーネは、敏也と父親が黙るや否や、声を悲痛に張り上げ、怒りの念で眼孔を歪め、父親に怒声を浴びせていた。


「お前には関係の無いことだ」


 一方、エリーネの父親はそう短く言うと、彼女を睨み据えた。うっ、とエリーネは一瞬たじろぐが、すぐに怒りが再沸騰したのか、目つきが悪くなる。

 そんな二人を交互に見比べた敏也は、何やら違和感を覚えていた。


(エリーネって親のこと心配してたはずだよな)


 魔獣騒動の時、エリーネは隠していたようだが、両親のことを心から心配していた。そしてそれは敏也たちに露呈し、敏也の思慮の浅薄さに対する戒めともなっていた。


(なのになんでこんなに敵視してんだ?)


 まさか、自分を襲っていたことが親子の間に決定的な溝を生むようなことになったわけではないだろう。これは一朝一夕で出来たものではなく、もっと根深い部分にあるものだ。

 エリーネの眼は、かつて敏也がエリーネを本気で怒らせた時よりも遥かに怒りに染まっている。思わず、敏也が唾を呑みこんでしまうほどに険呑とした顔付きだ。普段のエリーネの愛らしい表情はどこにいったのか、親の仇を見るような態度である。

 敏也はエリーネの父親のほうへと横目を向け、


(二人の間になにかある――いや、あったのか?)


 と、推測――邪推しかけるが、如何せん手持ちの情報が少ないため、考えが纏まらない。

 敏也がやきもきとして事態を見守っていると、エリーネの父親が敏也の方へと向き直った。

 それに警戒した敏也は折れたロングソードを横に構え、攻撃に備えた。

 だが、


「この戦いに関係の無いお前は去れ。邪魔だ」


 父親が発したその言葉は敏也へ向けたものではない、エリーネに向けたものだ。

 しかし、それはとても久しぶりに会った娘に送るような言葉ではない。冷たく突き離すような感覚。邪魔なものを邪魔だと言い、邪険にし、追い払おうとするかのように雑な態度だ。


(なんでそんな酷いことを……)


 わかってしまう。敏也は、今エリーネの心が深く傷付いた事を感じ取っていた。それは容易に想像できるし、なにより胸の奥が痛い。心が、突き刺されたかのようにひどく痛む。

 まるで、エリーネの気持ちが直接伝わって来るかのように。


「……あなたはいつだってそう……っ!」


 エリーネが顔を僅かに俯け、手すりを握り潰そうとするかのようにきつく握り締め、口元を引き結ぶ。それを見た敏也は、先ほどの感覚が間違いではない事を悟った。

 それを、父親であるこの男がわかっていないはずがない。敏也が糾弾するように睨み付けると、エリーネの父親は彼女の方へは目を向けず、敏也を見続けていた。

 だが、なにやら違和感がある。


(眼が……?)


 異変は彼の目。

 先ほどまでは敏也を憎々しげに睨み据えていた眼が、今はどこか心細そうなものになり、まるで直視したくないものから目を逸らしている子どものようになっている。

 しかし、なぜそうなっているのか敏也はわからなかった。考えても、そこに至るまでの経緯がまるで浮かんでこない。敏也は視線を二人の間で行ったり来たりさせ、困惑していた。


「自分勝手なんですっ!!」


 突然、エリーネが叫んだ。俯けていた面を弾かれるように上げ、憂いを取り除いたことで純な怒りを双眸に宿し、父親を睨む。

 だが、それでも彼は目を合わそうとしない。


「あなたは昔からそう! 都合が悪くなるとそうやって突き離して! まともに取り合ってくれないじゃないですか! そうされることがどれだけ辛いか、あなたは考えたことあるんですか!?」


「お前の幼い頃の話をしているのであれば、それは見当違いの糾弾だ。あの頃のわたしには俗事に感けている暇などなかった」


「俗事っ?」


 衝撃を受けたように目を見開き、エリーネが繰り返した。


「……娘の気持ちを聴くことを俗事と言うのですか!? 何様のつもりですっ!」


「お前の父親だ」


「っ! 偉そうなことばかり言って! なにもしてくれなかったくせに……っ!」


 途中から、エリーネの眼からは滴が流れていた。敏也としてはすぐさま駆け寄ってそれを拭ってあげたかったが、彼女の剣幕が尋常ではないため、その場を動けずにいた。


「勝手に留学を決めて送り出したくせに……っ。全然連絡してくれなかったくせに……。……きっと治るって、言ったのに……っ」


「……っ」


 その時、エリーネの父親が唇を噛み締めたのを、敏也は見逃さなかった。


「嘘吐き……、嘘吐き……っ!」


 最後に絞り出すように言うと、エリーネは階段を降りて敏也の傍に駆け寄り、流れる涙を拭うこともせず、「お、おい?」と狼狽している敏也の手を取り、共にその場を走り去った。

 驚いた拍子に敏也が取り落としたロングソードが完全に崩壊し、消えていく。


 剣が崩壊したことによって発生した光が舞った後には、銅像のように微動だにしなくなったエリーネの父親だけが残されていた。


















 先ほどの広場から続く海沿いの道。磯の香りが漂うその道は、行き交う車の音や、浜ではしゃぐ人々の声で賑わっている。

 だが、そこを行くのはその晴れやかな雰囲気に似つかわしくない二人組。

 エリーネに手を引かれている敏也は、走行から少し歩みの早い歩行になったのを見るや、目元をしきりに擦りながら前を行く彼女の背中に声を掛けた。


「っ、ぐすっ……」


「おい、エリーネ。いいかげん止まれって」


「嫌、です……っ」


「もう大分離れたから、大丈夫だよ」


「嫌ですっ」


「エリーネ!」


 責めるように名を呼び、掴まれていた手を強引に振り解いた。その拍子によろけたエリーネの身体をその両肩を手で掴むことで支え、こちらと向き合わせる。


(なんだ……なんかすげえ軽い感じがする……)


 掴んだエリーネの身体は、いつもよりも弱々しかった。痩せたとか、そういう単純な問題ではないのは確かで、恐らく、彼女の気持ちが沈み込んでいるためにそう感じたのだろう。


 無理矢理向き合わされたエリーネは敏也から顔を逸らしている。そして、先ほどよりはましになってはいるが、それでも涙を流し続けていた。時折鼻を啜るのも、我慢しきれなかったように身体を震わせるのも、泣いている証拠だ。

 それを見た敏也は、自分も泣きたいほどに辛くなっていた。


「……無理に歩かなくていいよ。辛いなら落ち付くまでじっとしてよう? なんなら俺がおぶるから。だから無理すんな」


 努めて穏やかな声音で言うが、敏也の心中は彼女を泣かせた父親に対する激情で煮え繰り返っていた。正直なところを言うと、できるならば今すぐあの場所に戻ってブン殴ってやりたいくらいだ。

 しかし、そうすることはできない。今のエリーネを一人にするわけにはいかない。

 弱っている心は放っておかれると壊れてしまう。それを、敏也は痛いほどに理解していた。


「……っ」


 エリーネは微かに頷き、赤く充血した瞳で心配そうな顔をしている敏也を見上げた。

 彼女の瞳はスカイブルーのはずなのに、充血のせいで澄んだ色が台無しになっている。それがまたしても敏也の心中を掻き乱す。

 すると、涙を腕で雑に拭ったエリーネが、顔を伏せながら敏也の二の腕辺りにある袖を引っ張った。


「おぶって……ください」


「……おう」


 彼女と密着することになる緊張と、必死に怒りを押し殺していることで堅く引き結ばれた口元をなんとか動かし、敏也は大仰に頷いた。

















 エリーネはようやく泣き止み、敏也の背に抵抗なく身を預け、沈み込むような体勢で彼の首にしがみ付いている。

 エリーネは幸いそれほど短くはないスカートを履いていたため、それを脚ごと巻き込むかたちで敏也が腕に抱えており、おんぶしているからといって裾が捲れ上がる心配はない。


「あの……大丈夫ですか?」


「んー? 当たり前だろ? 前にもこうしたことあるじゃん。へーきへーき」


 と、軽い感じでエリーネの弱々しい声に応えた敏也は笑み、変わらず歩みを進めた。


「いえ、私が重いとかではなくて……。おんぶをお願いした私が今更言うのもなんですけど、襲われたせいで怪我でもしてないかと……」


「あー、そっちもへーき。そんなに攻撃喰らってなかったから」


 エリーネを心配させまいとそう言ったものの、実際は体中が酷く痛んでいた。先ほどの戦闘のダメージは間違いなく蓄積しているし、身体を強引に強化したことによる反動で筋肉に負担が掛かっている。まず間違いなく、明日は全身筋肉痛という栄誉ある洗礼が待っている。


(まあ五体満足だし、追っかけても来ないし、良しとしよう)


 エリーネの父親はあれから追い掛けては来なかった。なぜ追い掛けて来なかったかはわからなかったが、あのまま戦っていたらほぼ間違いなく負けていたのだから幸いである。


 今頃どうなっているだろうか。モールの入口に取り残された警官は? 破壊されたビルの屋上や広場の設備などは? 巻き込まれた人は絶対にいなかったのだろうか?

 それよりも今はエリーネの心身のほうが最優先であり、何時如何なる時もエリーネが最上位な敏也としては俗事に違いないので、その考えを頭の隅に除ける。


「あれって、お父さんなんだよな?」


「……はい」


 海で泳いでいる人達へ視線を送りつつ敏也が何気なく訊くと、エリーネは短く答えた。


「嫌いなのか?」


「嫌いです」


「どうして?」


「それは……」


 続けて訊くと、エリーネは敏也の肩に顔を埋め、黙り込んでしまった。

 まずいことを訊いてしまっただろうか。敏也は不安になるも、だからといって『何も訊かない』という選択は気を遣っているのがバレバレだし、そうされることは人の為にならないと知っているから、訊かないわけにはいかなかったのだ。

 ちりちりと焦燥していく自分の心を叱咤し、固唾を呑んで次の言葉を待つ。


 すると、エリーネがゆっくりと顔を離す感覚がし、しかし、ほとんど肩に口を付けるかたちで声を発した。


「あの人は、卑怯なんです」


「卑怯?」


「はい。あの人は、自分が言った事に責任を持たない、そういう人なんです。そのせいで誰かが傷付いても、気にもしてくれない」


「気にもしてくれない、か。その言い方……お前も傷付けられたのか?」


「……ええ」


 一層強く敏也の首にしがみ付き、エリーネは頷いた。


「私が肉体強化を使えないことは知っていますよね?」


「もちろん」


 敏也の間髪入れずの肯定に、エリーネは安堵したかのように腕を僅かに緩めた。


「魔術師の両親を持ったせいか、私は物心付いた時から簡単な魔術を扱えました。……とは言っても指先に火を灯したりとか、その程度ですけどね。でもそのせいか、周りの大人たちは私に期待を寄せてきたんです」


「だろうな。そんな小さい頃から魔術が使えたんなら、将来有望だって思うのは自然だ」


 基本的に、適正のある子どもが魔力に目覚めるのは十歳前後。

 ただ例外として、両親、もしくはそのどちらかが魔術師であった場合、生まれた子どもは幼少期から覚醒していることがあるという。

 魔術が世に溢れてからまだ四十年余り、親が魔術師だからといって覚醒済みの子が産まれることは多いわけではないそうだが、まったくないというわけではなかった。


「でも、肉体強化を使えないということが五歳を過ぎたあたりでわかったんです」


「なんで五歳ぐらいの時なんだ?」


「それは幼児の身体能力はたかが知れているからですよ。たとえ強化したとしてもさほど差は見られないそうで、判明しづらいそうなんです」


「……なるほど」


 元々ないものを強化しようと、大して増えるはずがない。極端な例を言うと、ゼロにゼロを掛けるというような感じだろうか。


「それがわかってから、周りの人たちは離れていきました。笑えますよ? それまでにこにこしていた人たちが、困った風な顔をして一歩引いた態度を取って来るんですからね。……なんだかもう、子ども心に唖然としましたよ」


 肩の付近でエリーネが笑んだ気配がしたが、それは笑みではないと思う。言うなれば冷笑。自身と周囲の人々を纏めて侮蔑する渇いた笑みだ。


「私はそれが哀しくて泣きました。今思えばそう辛いことではないんですけど、あの頃の私にはかなり辛くて。そんな時、あの人は……父はこう言いました。『泣くな。いつか必ずそれは治る』と」


「……そりゃ無責任だな」


 敏也は苦い顔をし、思わずそう呟いていた。

 エリーネの肉体強化が使えないという体質は、恐らく敏也が攻撃魔術を使えない理屈と同じだ。

 魔力因子が足りない、欠けている。エリーネは敏也と同じ欠落者なのだ。


 魔力因子という言葉は学園の授業では聴くことがない。教員たちが言っているところを聴いた事もない。その他の魔術師たちが口にしたことすら覚えがない。唯一あるのは、数刻前に邂逅した一人の少女だけ。

 なのに、エリーネ父は何の確信も無く、彼女を激励した。

 治る見込みなどなく、これからそうするための方策を得られる保証はどこにもない。そんな中で、傷付いた幼いエリーネをただ励ますだけ励まし、無理矢理立ち上がらせた。

 それは間違いなく卑劣だ。無責任だ。


「あの頃の私は、その言葉に縋って生きていました。でも、超常的な身体能力を発揮できない魔術師なんて悪目立ちするに決まっています。それを知った人は私を憐れんで、時には後ろ指を指して、陰で何かを言っていました。でも、それでも私は構わなかった」


 エリーネの腕が敏也の首を再びきつく締めつけて来る。それはわざとではなく、思わずと言った感じだ。過去の激情を思い出して、身体が勝手に猛っているのだろう。

 それを察した敏也は特には文句を言わず、彼女の言葉に耳を傾け続けていた。


「いつか治るなら、こんなのなんてことない――そう強がって、私は顔を上げて毎日を過ごしました。十歳を過ぎて周りの子たちが少しずつ魔術を使えるようになっていって、とても早く走り回るようになっても、悔しさを我慢しました」


 それは、エリーネにとってどれだけ辛い日々だったのだろうか。

 自分と周りの差をありありと見せ付けられて、でも、歯を食い縛って堪えるしかなくて。たった一つの希望を胸に、いつか訪れるであろう輝かしい日々を夢見てひたすらに歩き続ける。


 エリーネは、どんな気持ちだったのだろうか。

 初めは本当に弱い力しか持たなかった同級生たちが、覚醒してから年齢を重ねるごとに強大な力を発揮し始めるのを眺め続けて。日本で言う高校生の年齢になる頃に、自身よりも優れた身体能力を発揮する周囲を見た時、彼女は何を感じたのだろうか。


 敏也にははっきりとしたものは想像できなかったが、きっとエリーネは辛かったのだということだけはわかっていた。

 そんな毎日を幼い少女が過ごしてきたなど、そんな心が苦しくなるような辛い人生など、とてもではないが直視したくはなかった。

 だが、現実に存在するのだ。今、自分の背にそんな少女がいるのだ。


「そんな時……あれは十一の頃でしょうか。この体質は治す手立てがないということを、学校を訪れた魔術師の方から訊いたんです」


 エリーネが言うには、その魔術師とは生徒たちの覚醒率を検査しに来た政府の女性職員だったそうだ。その人にエリーネは子ども心ながらに訊いたのだという。


『私もいつか、みんなみたいに走れますか?』


 そう訊いた時、その年配の魔術師の顔が悲痛に歪み、なんと言っていいのかわからないかのようにおろおろとし、終いには瞳を潤ませたそうだ。

 その人は目線を合わせ、幼いエリーネの肩を掴み、優しく諭すように一言言った。


『ごめんなさい』


 その一言で、頭の良かったエリーネは、『自分はみんなのようにはなれない』ということと、父親が嘘を吐いていたことを悟ったのだという。


「足元が崩れたかのようでした」


 泣き声混じりで言い、敏也の首元に顔を埋め、エリーネは言った。


「信頼していた父が私に嘘を……あれほど厳格に見えた父がその場凌ぎの嘘を吐いたなんて、まるでそれまで信じていたものが粉々になったようでした。家に帰った私がそのことを問い詰めたら、あの人は何て言ったと思います?」


「……」


「『それがどうした』ですよ? あの人は詫びれもしなかった! っ……自分の無責任な発言で私がどれだけ傷付いたのか、あの人は考えもしなかったんです。荷物を持って家を出て行って、何日も帰ってこなくて。母様だけが私を抱き締めてくれて毎晩そばに……でもあの人は……っ」


「うん、お前は寂しかったんだよな。父親に……突き離されて」


 敏也は言い、歩きながら空を見上げた。

 今なら理解できる。彼女が何故、嘘を吐かれるのを苦手としているのか。彼女が何故、突き離されることに対して過敏になっていたのか。

 全ては過去、父親や周囲の人間に裏切られたからこそなのだ。


(やっとわかったけど、すっきりとはしないな)


 背におぶっている子の気持ちとは正反対に晴れ渡っている空が今は憎らしい。どうせなら、曇天で大雨にでもなってくれれば、この煮え切った感情も、彼女の哀しみも、その全てを雨が流し去ってくれるのではないか。そう思わずには居られなかった。


 エリーネは、敏也に縋り付くようにしてきつく締めつけて来る。そして、弱々しく掠れた声で繰り返す。


「嫌なんですっ。信じた人に裏切られるのはもう嫌なんです……っ」


「わかってる、わかってるよ。だからさ、無理に我慢すんな。泣きたいなら我慢せずに泣いていいんだ」


 エリーネはきっと、泣きじゃくりたいに決まっている。しかし、周りの目を気にして泣けずにいる。周囲の人々は正の感情に満たされている自身の事しか見えておらず、対して陰鬱としたこちらには気を向けて来ないにも拘わらすだ。

 そのことにエリーネは気付けていない。だから、敏也は彼女を促した。


「今なら誰にも見られないから、思いっ切り泣けよ。俺は誰にも言わないし、馬鹿にもしない。俺が秘密にしとくから」


「っ……汗臭い身体で……なにカッコつけてるんですか……っ! 馬鹿みたいですっ。本当に……馬鹿……っ」


「悪かったな」


「ふ……うぅぅぅっ…………っ」


 再び身体を振るわせ始め、嗚咽を漏らし始めたエリーネをしっかりと背負い直すと、敏也はそのまま歩みを進め、学園の方角へと帰路に着くのだった。





















 エリーネは敏也の首元に顔を押し付けることで嗚咽を抑えようとしていたようだが、それでも隠しきれない泣き声を漏らし、しばらく泣き続けた。

 敏也は彼女を背負ったまま海岸線の道を歩き続け、御陰市の外れまで辿り着いていた。ぽつぽつと民家やコンビニエンスストア、それに喫茶店がある以外、この辺りに目立った建物はない。


「あの……」


 と、エリーネは恥ずかしそうに頬を染め、そろっと敏也の肩越しにその横顔を伺った。


「ごめんなさい。私、みっともないところを見せてしまって……」


「別にいいよ。俺だって何度かお前にみっともないとこ見せたしな、お相子ってやつ」


 エリーネの謝罪に、敏也は朗らかに笑みながら首を振った。

 その横顔を見たエリーネはそれでも申し訳なさが抜けないのか、敏也の肩をぎゅっと握った。


「そんな……それにあなたは襲われた直後だったのに私はこんな……その……甘えてしまって……いつもいつもあなたに迷惑ばかりを……」


 敏也は間違いなく疲労しているはずだ。それに、彼はさしてダメージを受けていないように振舞っていたし取り乱していた自分は気付けなかったが、きっと身体が酷く痛んでいるはずだ。

 敏也はこちらに気を遣い、それを隠しているだけなのだろう。

 なのに、こうも自分一人だけが辛い思いをしているようにしているのはどうなのだろうか。


 エリーネはそう思っていたが、対する敏也は身体の事をさして気にしていないらしかった。


「はは、良いんじゃね? 別に甘えたってさ。こうして普通に歩けてる時点で俺は大変な状態じゃないし、深刻になるほど傷めつけられたわけでもないんだから」


「でも……」


「それにさ、俺はお前に甘えられること、嫌じゃないから」


「…………えっ?」


 ぽつりと自然に発せられた言葉に理解が追い付かず、エリーネは数秒遅れで驚いていた。

 驚いた顔で彼の横顔を覗き見るも、彼は穏やかな顔をして前を見据えているだけで、そう特別な想いを込めて言ったわけではなく、『当たり前のこと』として言ったのだとわかる。


「その……なんだ。お前には……ずっと面倒見てもらってきたしさ、こういう時にしかその恩は返せないからな。……まあ…………ある意味役得でもあるし……?」


「恩だなんて……私はあなたに負担を……」


「バーカ。前にも言ったけど、負担ばっかりってわけじゃなかったんだって。独りだった俺にとって、めげずに接し続けてくれたエリーネって存在は本当にありがたかった。……俺が決定的なところで道を踏み外さずに居られたのは、お前のお蔭なんだよ」


「大神くん……」


「だからさ」


 敏也はそう区切ると、少しだけ首を動かした。背に居るエリーネをちらりと見ると、


「もう一人で抱え込むなよ? 吐き出したいことがあったら、俺が聴いてやるから。だから独りで我慢すんな。そんな痩せ我慢に意味なんてないんだからな。……つーか、俺に一人で傷付くなって言ったやつが一人で傷付いてるってどうなんだよ? そこんとこしっかりしてくれませんかね?」


 敏也は最初の真面目な発言を誤魔化すように、最後に付け加えていた。

 なんにせよそれは、ずっと独りで蹲っていた敏也だからこそ言えることで、そして、だからこそ説得力があるのだろう。


 エリーネは彼の首に抱き付くように腕を回し、顔を寄せると、敏也の言葉を噛み締めるように目を瞑った。そして数秒して眼を開くと、穏やかな線を描く眼孔のまま、彼の耳に口を近付けた。


「ごめんなさい。……でも、もう大丈夫。――約束します。……いいえ。あなた相手だからこそ、約束します。もう独りで強がったりはしません。どんな些細なことでも、必ずあなたに相談します」


「お、おう。そっか」


 我ながら素直になれた、とエリーネは御満悦で笑みを深め、幸せそうな顔を肩に埋めた。

 だが、敏也は何やら突然動きをブリキ人形のようにカクカクとしたものにし、歩みを遅めていた。それをエリーネが訝しんで再び横顔を覗き込むと、敏也が困ったような顔になり、咳払いをして言った。


「……んんっ、ところでエリーネさん? 男の耳元で囁くのは不味いよ? ひじょーに不味い」


「どうしてです?」


「どうしてって……」


 エリーネが小首を傾げながら訊くと、敏也が『えぇ、それ訊くの?』とでも言いたげな顔をしてチラチラとこちらを見ていた。が、エリーネとしてはその批難がましい視線の意味さえわからないため、尚更首を傾げるだけである。

 すると敏也は溜息を一つ吐き、なぜかさらに眼を細めて不機嫌そうにエリーネを見た。


「そりゃもちろん、青少年には森羅万象のほとんどが捉え方によっちゃあ刺激的だからだよ」


「? 意味がわからないんですけど。もっとわかりやすく言ってください」


「……耳元で囁くのはここぞという時だけにしなさい」


「……尚更わからなくなったんですけど……取り敢えず耳元で囁くのを控えればいいんですね?」


「おぉ、そうそう。……いや、ちょっと待て。それは勿体ない気がするなあでも毎度毎度されると我慢できなくなるしでも勿体ないしでも危ないし――」


 と、敏也はブツブツと呟き始め、エリーネを意識の外へとやっていた。

 それを邪魔するのは悪い気がしたし、迂闊に手を出すとなぜか危ない気がしたので、エリーネは黙って背で揺られている事にした。


 顔を左に向ければ、青い海があった。夏の強い日差しを受けてそれを反射し、宝石のようにキラキラと輝く海は、どこか見覚えが――

 脳裏に浮かぶのは、星が瞬く夜空のイメージ。それを見上げる一人の少女の姿。


「? どうして今……?」


 なぜいきなり夜空を連想したのかわからなかったが、きっと日光を照り返している海を見たことでそれが思い浮かんだのだろう。そう断じ、大したことではないと思考の片隅にやる。それよりも今はこの心地よい状況に身を浸しているほうがエリーネとしては先決だった。


 と、その時、


「――うおりゃぁぁぁぁぁっ!!」


「ぐぉぉぉぉぉ!?」


「大神くんっ!?」


 突然現れた人影が敏也の懐に潜り込み、その腹に正拳突きを喰らわせていた。敏也は急な痛みに痛々しいうめき声を上げる。エリーネは悲鳴にも似た声音で彼の名を呼ぶ。

 敏也が必死に踏ん張った足裏がザリザリとアスファルトを摩擦した。が、エリーネを背負っているためか、敏也は意地を張って倒れ込むまいとしていた。


 うぶぶ、と込み上げてくる吐き気を堪えながら、青い顔をした敏也が声を絞り出す。


「てめ……八咫神。これ……いったいどう……いうつもり……だよ?」


 敏也をいきなり殴ったのは八咫神奈々だった。


「敏ちん、わたしゃあ失望したよ」


 敏也の腹に拳を減り込ませたまま、目付きが凄まじく悪い彼女は言う。


「まさかエリーが歩けなくなるくらい酷いことしたなんて……っ! 腰が砕けるようなことを無理矢理したなんてぇぇぇぇっ!! ――羨ましいぞ、こん・ちく・しょう☆」


「こんのアホがぁぁぁぁッ!!」


 ここ数日溜まりに溜まった奈々への鬱憤と、エリーネ父へのイラつきを遠慮なく丸ごと込め、ブチッ、と頭の血管を切った敏也が自由な脚を使って蹴りを出した。

 靴裏が奈々の顔面に合わさり、そのまま奥へと吹き飛ばす。抵抗なく吹っ飛ぶ奈々。「あふんっ、えふんっ」と地面をバウンドする度に奈々が呻き、十回近く道を跳ね飛んでいった。


 そんな奈々がべちゃっと辿り着いたのは、極寒の視線で見降ろしてくる成瀬紫苑の足元である。彼女の周りには荷物が大量にあり、一人では運べないため身動きが取れないらしい。


「……妄想逞しい女、奈々」


「い、異名みたいに言わんで、しおちゃん……がくっ」


 弱々しく言った後、伸ばしていた手をパタリと落とし、奈々は力尽きていた。その顔面には靴裏の痕がくっきりと残っており、凄まじく痛々しい。

 そんな彼女らを遠くから見ている息が荒く怒り心頭の敏也と、その背で呆気に取られているエリーネは、どうしたものかとその場に留まっていた。


「ふー……ふー……。……で、どうするべきだと思う? エリーネ」


「……そう、ですね。取り敢えず私を降ろすべきだと思います、ええ」


 そう言った後、二人は揃って溜息を吐くと、エリーネが地に足を着けたのを見て、奈々と紫苑の元へと歩き出すのだった。





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