自覚
場所は変わり、ショッピングモールの中にある飲食店。
少々こじゃれでシックな様相を呈しているパスタ屋、そんなここにエリーネ一行は腰を落ち着け、昼食を食べていた。
小さな丸机を囲うように座っている三人。
エリーネの前にはボンゴレの皿。奈々の前にはナポリタン。紫苑の前にはカルボナーラの器。そして、机の中心に小さなピザの皿があり、四切れに分けられたそれが載っている。
「なかなかおいしいですね」
「……うん、そう思う」
「エリ~、一口頂だ――ぐふぉっ!?」
「勝手にフォークを伸ばさないでください」
「……奈々、下品」
と、急にフォークを皿に突き立てようとした奈々をエリーネが肘鉄で迎撃し、頬にそれを喰らった奈々は椅子から転げ落ちて机下に轟沈。
紫苑はパスタをくるくるとフォークに巻きながら侮蔑の眼差しを奈々に向けていた。
なんとか持ち直したらしい奈々は、机の下から這い出てきながら椅子に座り直し、
「いやいや、こんくらいは女友達ならみんあやるもんじゃないのかなー、と思うんだけどぉ?」
「みんながやるからといって私たちもやる必要はありませんよね、八咫神さん? 紫苑さんはどう思います?」
「……エリーネに概ね同意。一口貰っていい?」
「どうぞどうぞ」
「ちょっと! この扱いの差は何さ!? 納得できませぇん!」
そんな奈々をからかう遣り取りをしつつ、箸を進める。
それからしばらく。
エリーネたちは昼食を終え、食後のホットコーヒーを呑みながら一息吐いていた。
そこで、紫苑がコーヒーカップから口を離しながら憂鬱そうに言う。
「……残念ながら、今回の買い物ではあまり目ぼしいものに出会えなかった」
「よく言うねぇ、しおちゃん。あれだけ買っておいてさ。……猫がプリントされたTシャツに猫のヌイグルミ三体、猫の小さな置物に猫柄のハンカチ、猫柄のクッションカバーに猫柄の――猫柄の――」
と、引き気味の笑顔の奈々は、矢継ぎ早に次々と紫苑の購入歴を明かしていく。
確かに紫苑の足元には大きな買い物袋が二つほど鎮座している。購入したどれもがそれほど嵩張るものではないはずなのだが、それでも量が多いため、このような大荷物になってしまっているのである。
すると、エリーネは頬に手を当てて憂鬱そうに溜息を吐き、
「確かにあまり目ぼしいものはありませんでしたね、ええ。とても残念です」
「エリー、あんたの椅子の隣にある五十センチほどの小包は何かな? ん? さっき買ったテディちゃんのヌイグルミじゃないのかなぁ?」
紫苑の方から視線をエリーネの方へと向け直した奈々は、じとりとした目つきになった。
エリーネの椅子の隣に置かれているもの、もとい、袋に包まれた状態で座っているのは、エリーネの『お友達』と目されるくまのヌイグルミだった。
ヌイグルミ屋でこれを見つけた時のエリーネの反応と言ったら別人かと思うようなものでした、と八咫神奈々は後に語るのかもしれない。
それはともかくとして、こうもしれっとさも『わたしたちは全然買い物を楽しんでいませんでした』と言われてしまうと、いつもふざけて場を掻き回している奈々であっても突っ込まずには居られなかったのだ。
奈々は呆れたように頬杖を吐き、ふへっと息を漏らした。
「しおちゃんはまだいいよ? まだまともな買い物レベルだからね。でも、エリーは別。この前の交易都市で買った等身大ヌイグルミもまだ届いてないって言ってたのに、まーたそんな大きなもん買ってぇ……置き場所あるのぉ?」
そう言うと、エリーネは目を瞑りながらコーヒーを僅かに啜り、それからすっと口を離し、
「問題ありません。件のヌイグルミは明日ようやく届きますし、そもそも寮の部屋は一人暮らしには広すぎるくらいじゃないですか。置き場所なんていくらでもありますよ。――それに、テディちゃんの居場所が無ければ作るまでです」
キリッとした表情でふんっと胸を張ってエリーネは言った。
奈々は、ほへーと感嘆していた。
「かっけぇ……その台詞が敏ちん相手だったらなおのこと――ぐえっ」
「な・に・か、言いましたか?」
首根っこを掴まれ、くるりと顔を向き合わせられた奈々。
そんな彼女の視界に映っているのは満面の笑みのエリーネである。しかし、その笑顔にどこか怒りによって発生した陰が見受けられるのは気のせいだろうか。
しかも、徐々にではあるが掴まれた首元の衣服が捩じられ始め、段々とネックの部分が首に食い込み始めている。どうやら、これ以上余計なことを言うと締める、と言いたいらしい。
状況のまずさを知った奈々は誤魔化すように笑んで言う。
「…………いーえ、なにも」
「……口は災いの元、奈々」
「肝に銘じるよぉ……」
紫苑からの短い忠告に、奈々はつまらなそうに肩を下げるのだった。
◆
それから三人は気を取り直し、ゆったりとコーヒーを呑んでいた。
と、そこでエリーネがガラスの向こうに見える通りへと目をやり、
「映画まで少し時間がありますが、それまでどうします?」
現在の時刻は十二時を回った頃。
エリーネたちは午後一時十五分から上映予定の映画を見ることを前もって予定に組み込んでいたため、それまで時間潰しをしなければならないのだ。
それを訊くと、奈々は思案顔になり、紫苑は表情を変えずに視線を宙にやった。
「ん~、どうしようねぇ」
「……目ぼしい所はほぼ回り終えた。少し急ぎすぎたかもしれない」
二人が言うように、映画を挟んで行軍予定だった店舗は、午前中でほとんど回り終えてしまっていた。どうやら三人とも久しぶりのショッピングだったためか、張りきり過ぎてしまっていたらしい。
しかし、それも仕方がないことである。なにせ、ようやく訪れた休息なのだから。
「あっ、じゃあこうしようぉ!」
と、何やら何か思い付いたらしい奈々がピンと指を立て、二人の顔を見渡した。
すると、エリーネと紫苑は訝しげな顔を奈々へと揃って向ける。
奈々の口から語られた提案とは――
「水着買いに行こー!」
◆
再び場所と人物が変わり――
「さてと……エリーネたちはどこかな」
敏也は現在、ショッピングモールの中を散策しつつ、見失ってしまったエリーネたちを探していた。その視線は周囲の店々へと順に動いている。
ただ、平常通りに振舞い、そうしていても心に引っ掛かっているものはある。
先ほどの現実感を伴わない邂逅。敏也の心へ直接送り込まれた――いや、流れ込んできたとでも言うべき情報と感情。そしてそれが意味する物、結実させる事実。
それら全てが、まるでニーナに関する記憶全てに靄を掛けてしまったかのように脳裏に立ち塞がってしまっている。事実の認識を拒絶する。
彼女が何者なのか、わからない。否、知りたくない。敏也はそう思ってしまっていた。
(さっきのことは気にしたって仕方ない。そんなことあるわけないんだから)
敏也はニーナとの出会いに関する記憶を頭から追い出すと、周囲を見渡す。
しかし、彼女たちの姿はどこにもない。
「八咫神も紫苑も電話出ねえしなぁ……」
先ほどから何回も掛けているが、その度に留守番電話サービスの機械的な音声に繋がるばかりで、二人は一向に応答を示さなかった。
もしかしたら不味い状況にでも陥っているのでは、と敏也は心配になり掛けもしたが、紫苑は身体能力に長けているし、奈々は近距離が苦手とは言え魔術師だ。そうそう遅れを取る事は考えづらい。そのことから、敏也はそれを杞憂として頭の隅へと蹴り飛ばしていた。
敏也が至った結論は、単に電話に出れない場所、もしくは状況にあるだけ、といったものだった。
些か呑気過ぎるかもしれないが、三人の居場所がわからないのにどうするかやきもきしていてもしようがなく、また、不毛なのだ。考えるだけ無駄というやつである。
「このままあんまりうろうろすんのも危ないし……どうすっか」
エリーネに何かしらの危機が迫っているのは周知の事実だが、敏也自身にもその危機とやらの矛先は向いているとのこと。さらには、先ほど新たな危機がランクインしたところだった。
敏也はさっと曲がり角の陰に隠れると、少しだけ身を乗り出しながら向こう側を覗き見た。
「さっきの警官はいねえよな……?」
新たな危機とはもちろん公的機関・警察だ。
敏也は職務質問と思われる任意同行から逃げ出し、高速で人と人との間を縫いながら通路を駆け抜け、建物から建物へと飛び移りつつ、逃亡の過程で警官と熾烈なラッシュの応酬を経て、挙句の果てには彼から運良く逃げ切ってしまっていた。
テロ勃発からようやく一週間と少しが経過した、そんな公的機関が未だにピリピリとした空気に包まれている今に、である。
「我ながらアホな事したもんだと思う、うん」
素直に事情を説明しておけば、そうは拗れずに済んだのではないかとも思うが、今更とやかく悩んでいても仕方ないため、敏也はその思考を放棄した。
なんにしても、今の敏也の立場は相当危うい。
こうして、堂々と歩きながらも時折物陰に隠れるのはそのせいなのである。
服を代えて来ることも考えた。しかし、それにはあまり意味がない。
いくら普段とは違う格好をしているとはいっても、あの警官の頭には敏也の背格好がインプットされてしまっただろう。それに、いくら服を代えたところで小一時間前に激しい攻防を繰り広げた相手の顔を忘れるとは考えづらい。
少しでも目にされれば即座に正体が露呈してしまうはず。
その時は今度こそ逃げ切れず、間違いなくしょっぴかれてしまうだろう。ゆえに、本来ならしばらくはこの辺りには近付くことさえ控えたいくらいだった。
だが、そうはできないのが現状だ。
エリーネに迫っている危機とやら、それが解決するまでは彼女を護る義務があり、そうしたいと願う気持ちが敏也の中にはあったから。
だから敏也は危険を承知で、警官が居そうなところではこうしてこそこそとしながらエリーネたちを探しているのである。
敏也の視線の先には、買い物に来たと思われるカップル、家族連れ、友人同士で遊びに来た若者たちと、その中に警官の姿は見られない。
「ふー……」
敏也は安堵の息を吐き、再度表情を引き締めると向こうを伺う。
冷静に、慎重さに慎重さを重ねる。一度確認し終えたからといって油断はできない。二度のチェックができる状況ならば、それをするに越したことはない。
もしも二度目の確認なしで強行し、運悪く警官に出くわしてしまいでもすれば、問答無用でお陀仏である。ゲームオーバーだ。カウントゼロでタイトルバックである。
その時は、もう清い身体ではいられない。
「それだけは駄目だ。俺はまだ清い身体で――」
と言い掛けて、敏也は昨日クリスに全裸を見られてしまったことを思い出した。いくら意識が無かったうえ介護のようなものだったとはいっても、ショックなものはショックだった。
甘酸っぱさから甘さだけを取り除いたような出来事。
見ず知らず+想い人の御家族(女性)にあられも無い姿を見られたという現実。
「くっ」
敏也はずりずりと手で壁に縋りつきながらも身体は崩れ落ち、しかし、辛い記憶から立ち直ろうと唇を噛み締めた。その目尻に輝く何かが見えるのは、目の錯覚ではないはずだ。
「うぅ……く…………大丈夫、ダイジョウブ。ノーカン、ノーカンだから。あれはノーカン。俺はまだ汚れてないから。清いから」
と、心の底から哀しみに震えながらもなんとか自己暗示で心を補強して安堵の息を吐くと、敏也はヤケクソ気味に立ち上がった。
隠れていた場所から颯爽と姿を現し、怪しまれないよう堂々と通路を歩いて行く。
歩いて行く途中で周囲に散見される様々な店先を見渡しながら、
「しっかし、あいつらいったいどこに――あっ」
敏也はそう言い掛けたところで、探し人の姿を見つけた。
見つけたと同時に敏也は通路の片隅に設置されている大きめの花壇の陰に隠れ、こっそりと頭を出しながら店の中へと視線をやった。
その店は、女性水着専門店。
◆
「……エリーネにはこれが似合いそう」
「それ、ほとんど面積がないんですけど……。絶対に買いませんからね」
と渋めた顔で言い、エリーネは紫苑が無表情で差し出してきた恥辱塗れの水着をキャンセル。
「じゃあこっち!」
「ハイレグなんて御免です。次またこんなものを持ってきたら首から上が消えますからね」
「こえー……。あいあい、ラジャー」
そう言って奈々を追い払い、とんでもない品を返品。
そうしてエリーネは盛大に溜息を吐き、その肩を大きく落とすのだった。
しょんぼりとして陳列に品をいそいそと戻している二人の背に、エリーネは言う。
「まったくもう……二人とも何考えてるんですか。そんなものを勧めて来ても私は絶対に買いませんからね!」
「ほほぉ……。もしも、敏ちんがこういう物を望んてたとしても?」
奈々がニヤついた顔で肩越しに振り返り、からかい混じりにそう訊く。
すると、エリーネは奈々が想定した以上に動揺を示していた。顔は「えっ」とばかりに驚き、半歩ほど後ろへと身体を仰け反らせている。
「そ、それは……って、大神くんは関係ないじゃないですか! なにを馬鹿なこと……」
「……そこで動揺すると敏也に対して満更でもない気持ちがあると思われるけど、良いの?」
紫苑が無表情で首を傾げ、そう訊いて来る。
これは奈々とは違い、からかいの気持ちは込められておらず、単に好奇心から来たものだ。しかし、エリーネにとってはそれだけに思えず、過剰にその気持ちを揺らしていた。
「良くは……ない…………かも……しれませんけど」
「……はっきりしない。そういう態度は良くないと思う。あなたにとっても、彼にとっても」
「うぅ……そんなこと言われても……」
エリーネがたじろぎ、指と指を胸の前でいじいじとし、申し訳なさそうに視線を伏せる。
と、その時、
「ちょ、ちょっと待った二人とも! ――五秒ストップ」
奈々は最後の部分だけ低い声と殺し屋のような表情で言うと、猛スピードで店先へと飛び出し、店の前にある花壇の陰へと飛び込んだ。
その直後、「てめ……いきなりなにを……!?」との驚きの声や、「やめ……やめてー!」という悲鳴や、最後には「ぐふぉっ」と力尽きた呻きが微かに聴こえて来た。
エリーネは不思議そうな顔をし、紫苑はやれやれと額に手をやっていた。
そして、一仕事終えたかのように「ふぃー」と額の汗を拭いながら奈々が花壇の陰から立ち上がって姿を見せると、水着専門店へと凱旋のような雰囲気で戻ってきた。
「いやあ、強敵だったよぉ」
「何をしていたんですか、八咫神さん?」
「んん? 別にぃ? ただの掃除だよぉ? ……自分だけ相手の気持ちを盗み聞こうなんてフェアじゃないからねぇ」
そう小さくぼやくと、奈々は意地の悪そうな笑みを浮かべてエリーネを見た。
「で、だよ、エリー。実際のところさ、敏ちんのことどう思ってるわけ?」
「どう……とは?」
「惚けても無駄だよぉ? エリー。あんたが敏ちんのことを友達以上に想ってるってことは周知の事実なんだからさぁ?」
「そ、そんなまさか……」
エリーネは信じられないとでも言いたげに困惑。目はあちらこちらへ移ろい、誰とも視線を合わせようとしない。
その不審な態度が疑惑を確信へと変える材料になっているのだが、動揺しているエリーネは気付いていないらしい。
ふぅ、と奈々は息を吐くと、腰に手を当てて仁王立ちした。
「正直に言っちゃいなよぉ? 別にあたしたちはあんたをからかおうとしてるわけじゃなくてね、単に応援したいって思ってるだけなんだからさぁ?」
「……奈々の言う通り。さっきの水着だって、スケベな敏也のことを鑑みて選定した至極の一品だった。……確かにエリーネにとっての羞恥を計算に入れてなかったのは誤算だったけど」
と、紫苑も続き、誤解を解く。
そうすると、エリーネはどうしたものかと視線を彷徨わせ、天井を仰ぐと、目を瞑って眉間を指で押さえて黙考。
今彼女が何を考えているのか、奈々と紫苑には窺い知る術がなかった。
そして数秒の後、その体制のままでぽつりと零す。
「……そう……ですね。好き……なのかもしれません」
「『かも』ってことは、まだはっきりしてないのぉ?」
「……ええ」
エリーネは天井を仰ぐのをやめると、体制を元に戻した。
「でもさ、エリーってば結構前から敏ちんのこと気に掛けてたよね? それなのにまだ気持ちがはっきりしないのはおかしくない?」
奈々がそう問い詰めると、つい最近からエリーネたちと関わり始めたばかりの紫苑が疑念を示す。
「……そんなに前から二人の仲は良かったの?」
「うん。……と言っても、斜に構えた敏ちんをエリーが矯正しようとしてただけなんだけどねぇ。そんで、見事にエリーは空回り。表向きは敏ちんからの反感を買っていましたとさ」
「……そう。表向きは、ね」
紫苑は納得した様子で頷く。
一方、エリーネは苦虫を噛み潰したかのような顔で、過去を反芻するかのように目を瞑った。
「……私にとっての彼は、始めは『味方』でした」
「味方?」
「ええ、味方です。自分にとって都合の良い……味方。友達でも、学友でもなかった。ただそれだけでした」
そこに『実験のパートナー』という肩書も含まれるのだが、当時のエリーネにとってはさほど認識に差異がなかったため、同じことだった。
「でも」
と、エリーネはほんの少しだけ力強く言い、目を開いた。
「彼を見ていると、段々と彼のことが大切になっていって、その危なっかしい立ち振る舞いを放っておけなくなっていって。……少しずつですけど、見守ってあげたいと思うようになっていったんです」
「ま、危なっかしかったってのには同意かなぁ? ……あの頃の敏ちんの目、だいぶ虚ろだったもんねぇ……」
一学年の時にも敏也と同じクラスだったエリーネと奈々は知っている。
一年時の敏也が周囲に見せていた気だるげな視線。感情と言う中身が何もないその視線はどこか不気味で、そして同時に、他者を拒絶する底知れない何かを感じさせた。
声を掛けられれば反応する――しかし、その反応には生気が籠っていなかった。ただただ虚ろに、人であろうとする何かであるかのように、人の物真似をしていただけだった。
心が壊れた少年は、いつだって人に戻ろうと必死だったのだ。
周囲を半ば拒絶していたその極寒の視線。そんな敏也の周囲には誰もいなかった。
だが、
「エリーは見捨てておけなくなっちゃったんだよねぇ? あの子の事をさ」
「ええ」
頷き、その空色の瞳が、穏やかに笑んでいる奈々を見据えた。
「彼は、私の味方だと言ってくれました。……それは直接言われたわけじゃなくて、私が盗み聞いただけなんですけど……。とにかく、その言葉通り彼は私のことをいつだって気に掛けてくれていました。だから私は恩返しがしたくなった。そのために、彼を奮い立たせようと動き始めました。……そこに私の身勝手さが含まれていたことは否定しませんけど」
「確かにねぇ。エリーってば、敏ちんの気持ちとか全然考えずに激励してたし。そのせいで何度も喧嘩して罰則のお世話になってたし」
「……容易に想像できる。エリーネは時々考えなしになる。特に、敏也のことになると」
「うぅ……二人とも酷いです……」
二人からの酷評に、エリーネは唇を噛み締めて唸る。
エリーネとしては、当時はかなり必死だったのだ。他国で唯一掴んだ救いの手。温かな手のひら。それを絶対に離したくないと、エリーネは子どものように縋っていたのだ。
たとえ相手が壊れかけていたとしても、それを黙殺して、ただ自分の為にその温かさを掴んで居たかったのだ。一人ではないのだと、そう感じたかったのだ。
「あの頃の私は、本当に自分勝手で、自分の事しか考えてなくて、本当に情けなかったと思います」
そんな子供じみた感情に気付いたのは、いつだっただろうか。気付いた時には、敏也から敵愾心塗れの視線を向けられることが多くなっていたように思う。
「そのせいで、私は彼を追い詰めてしまっていた。彼は表面上は普通に接してくれていましたけど、かなり辛かったはずです」
三珠市で敏也はエリーネを恨んでいないと言っていた――しかし、だからといって『辛くなかった』というわけではない。そして、敏也はそうは言わなかった。
彼は、きっと辛く思っていたはずだ。思いやりのない言葉を、中身の伴わない激励を、心の底から鬱陶しく感じていたはずだ。
エリーネとしては忘れたい過去であり、同時に、決して忘れてはならない罪だった。
渋面になったエリーネを見る奈々の瞳は、とても穏やかで、慈愛に満ちている。
「でもね、そんなあの頃の敏ちんが生き生きと接していたのはさ、エリーだけなんだよ? マサルが声を掛けても敏ちんは面倒そうにあしらうだけだった。まだ知り合いじゃなかったわたしが手ぇ振っても、知らんぷりで窓の外を見るだけだった」
そんな敏也が活力を取り戻し始めたのは、エリーネを取り巻いていた問題と彼が向き合ったあの日から。あの日から、彼はずっと俯けていた顔を少しずつ上げ始めたのだ。
「――そんな敏ちんが必死になって守ろうとしたのは、エリーだった」
その言葉に、エリーネは頬を赤に染めつつ、噛み締めるように首肯した。
「そう……なんですよね。今思えば、それを私は頭の片隅では理解していたんだと思います。だから、どうしても彼に立ち上がってほしくて、声を掛け続けた。……それが彼の重荷になっていたのはもう知っています。彼とはそのことをきちんと話しましたから」
「許してくれた?」
「ええ、もちろん」
奈々が尋ねた事柄に、エリーネは自信を持って頷いた。
そして、より一層の穏やかさを顔に示し、エリーネは静かに笑んだ。
「――私は、あの人を護ってあげたいんです。些細な事でも挫けて泣いてしまうような、でも、それを隠して必死に強がって前を向こうとする、愚直で弱虫な彼を。そんな彼の力に少しでもなれればと、今はそう思うんです」
「……そっか」
奈々は短く応えると、エリーネの言葉を噛み締めるような笑みを浮かべた。隣に居る紫苑も変わらず無表情に見えるが、しかし、どこか笑んでいる気配がする。
「それが、エリーの今の正直な気持ち?」
「ええ。……でもまだちょっと恥ずかしいですし、支え続ける自信がありませんから…………えっと……その…………告白とかは…………あまり考えてませんけど……」
「えー、いいのかなぁ? そんな余裕ぶっこいてて」
と、ニヤニヤしながらの奈々の言葉に、エリーネは訝しげな視線を向けた。
「どういう意味です?」
「そりゃもちろん、敏ちんが他の人に取られるんじゃないかってことぉ」
「あ、あり得ませんよ。あんな手の掛かる人を好く物好きなんて、私以外に居るはずがありませんっ」
「どうだろうねぇ? 敏ちんってば、最近変わってきたじゃん? まあまだちっとばかし男としては押しが足りない気もするけどさぁ。でももしかしたら、クラっとくる人が居ても不思議じゃないんじゃない?」
「な……っ」
エリーネは衝撃を受け、わなわなと震え始めた。
エリーネとしては、そんなことはないと思いたかった。彼はこれからもずっと――少なくとも学園を卒業するまではそばに居てくれるのだと、そう信じて居たかった。
しかし、もしも自分よりも魅力的な女性が現れたらどうだろうか。
それなりに女としての魅力があると、エリーネは自覚している。このスタイルも容姿も、おおよその男子が好むものだと日々の生活の中で理解している。敏也とて、機会があれば胸や足に何度か意味も無く視線を送ってきているのをエリーネは勘付いていた。
が、そうした理解があったとしても、エリーネの容姿及び、それに付随する価値が世の頂点というわけではない。そこまで驕っているわけではないのだ。
だからもしも、自分よりも魅力のある女性が彼に迫ったら、彼はそちらに靡いてしまうのではないかと心配になっていた。
未だ敏也とエリーネの関係は『友達』でしかなく、繋ぎとめられるだけの事実はさしてなかった。それをエリーネは今更ながら口惜しく思う。
「わ、私はどうすれば……」
エリーネが迷いに迷い、そうとだけ絞り出すと、きょとんとしながら顔を見合わせた奈々と紫苑が、微笑しつつ揃ってエリーネの肩に手を置いた。
「そのためにわたしらが居るんじゃん?」
「……うん。取り敢えず、エリーネに似合う水着を買う。あとはそれを披露する機会をなんとか取り付けて煩悩まみれのアレを悩殺。これに限る」
「ひ、酷い言いようだけどその通りだよ、しおちゃん。というわけで、真面目に選ぼっか?」
そうして二人に背を押され始めたエリーネは戸惑いつつも、
「……ええ、そうですね。お願いします、二人とも」
それだけ言うと、二人の押す力に任せるままに、店の奥へと連れて行かれるのだった。




