突然の来訪Ⅳ
「うっ……」
目を開き、ぼやける視界が鮮明さを取り戻していくと、そこには闇色に染まった深緑の葉、そしてその隙間から覗く月夜が見えた。どうやら仰向けに倒れているらしい。
「俺……やっぱり負けたんだな」
「いいえ、あなたの勝ちですわ」
そんな返事が聴こえたかと思うと、敏也の顔を覗き込むようにしてクリスの顔が現れた。
「あなたが倒れそうになった時に咄嗟に動いてしまいましたから、わたくしの負けですわ。ですから、あなたは胸を張って良いのですよ?」
「……でも、それはハンデのおかげだ。クリスが本気を出してたら、俺なんて一秒とせずに殺されてただろ?」
「……それでも、あなたはほとんどない勝算の中、可能性を手繰り寄せることができた。わたくしがハンデを申し出たことだって、あなたの心変わりに心を動かされたからなのですよ?」
「……っ!」
「ですから、必要以上に物事を悲観するのはお止めなさい、敏也さん。……もう、自分を責めるような生き方をしてはなりません」
諭された敏也は腕で両目を隠した。だが、それで隠そうとしたものが目ではないことはクリスにとっては明白だった。
なぜなら、敏也の声は震えているから。
「俺……エリーネに傍にいてほしいって思ってるし、あいつにそう言ったけど……それ以上に一緒に居てほしくないって思ってるんだ」
「それはなぜ?」
優しい声で続きを促す。
「だって! ……俺は弱いから。あいつを護れないから。だから……だからあいつの隣に居るべきなのは強いやつで、あいつを護ってやれるくらい凄いやつで……それは、俺じゃなくて……」
あの日から、心の虚で蠢いていた諦観。
彼女から離れるべきなのでは?
実験を降り、誰か別の人間に任せるべきなのでは?
もう……関わることをやめるべきなのでは。
そのような考えが、じわじわと敏也の心を蝕み続けていたのだ。
虚勢を張っても、すぐに崩れてしまって。張り接いで張り継いで張り継いで、ツギハギだらけの想いでエリーネと接していた。
「だから他者に対して、あの子への好意を素直に認めることができなかった、と?」
「そうだよ。そうだよ! ……エリーネには傍にいてほしいなんて言ったのに! 本心では早くどこかへ行って欲しいって、そう思ってたんだ! 俺がエリーネを傷付ける前に遠くへ行って欲しいって、心のどこかでは願ってたんだ! 最低だろっ? 身勝手だろっ? あいつに傷付いてほしくないって思ってるのに……っ、一番傷付けようとしていたのは……俺だったんだ……っ!」
最後は、嗚咽混じりの悲痛な懺悔だった。
「そうでしたのね。なるほど、だから頑なに好意を認めたがらなかった。罪悪感に苛まれることに堪えられなかったから」
敏也は歯を食い縛りながら頷く。
「でも……でもさ! それでも俺はあいつのことが好きなんだよ! 好きで好きで仕方ないんだよ! 友人だと割り切ろうとした――でも無理だった! 戦友だと言い聞かせた――そんなものは無駄だった……っ! もうどうしようもないんだ……。あいつが一緒に居てくれないと……っ、俺は……生きて……っ」
敏也が言い掛けた時、クリスの手がその頭部を撫で付けた。暖かな手のひらが、敏也の心を癒そうとするように優しく熱を伝えて来る。
「クリ……ス」
「それはきっとあなたの弱さ。でも、同時に強さでもある」
目元を隠したまま震える敏也を撫で続けながら、クリスは言う。
「あなたはエリーのことを一番に考えてくれているのですね。でも、自分の存在のことも度外視はできなくて、結果、自分の保身とエリーを護るという想いが綯い交ぜになり、身動きが取れなくなってしまった。頭では傍に居たいと願っているのに、身体はあの子から離れようとする――そんな相反する想いがあなたを苦しめていた」
「……多分、そうだと思う」
「ならば簡単ですわ」
クリスはそう言うと、それまで撫でていた手で敏也が目元を覆っていた腕を強引に剥ぎ取った。
月夜の元に曝け出された敏也の目は腫れ、赤く充血している。それが何故なのか、わかりきったことだった。
「な、にを」
「敏也さん。あなたが件の事件における敗北によって自信を喪失していることはわかります。それほどまでに圧倒的な力量差だったのでしょう。想像を絶するほどに過酷だったのでしょう。堪えようがないほどに悔しい思いもしたのでしょう」
ですが、とクリスは否定した。
「それは愛しい存在を遠ざけていい理由には欠片もなりはしませんわ。あなたの振る舞いは愚かに過ぎます。その生き方に惑う姿勢がどのような外敵よりもエリーを傷付けるのだと、あなたはなぜ気付こうとしないのですか? エリーはあなたを好いているのでしょう?」
「そんな、こと……確かにあいつは一緒にいてくれるけど、確証なんて……」
敏也が言い訳すると、クリスがぺちりと敏也の頬を優しく張った。
「エリーは昔から、嫌っている相手に対しては徐々に遠ざかっていくのですよ。こちらで生活するようになってから少しだけ逞しくなったようですが、その点は変わっていないはず。ですから、敏也さんの傍に居ようとしているということは、少なくともエリーはあなたのことを嫌ってはいないということですわ」
「……じゃあ、俺はどうすれば?」
「その程度、御自分で考えなさいな。全ての答を大人から貰えるとは思わない事です。大人は必ずしも全能であるとは限らないのですわよっ」
クリスが冗談交じりに頬を膨らませる。そして不機嫌そうにプイッと顔を背ける。その様を見た敏也は心が少しだけ軽くなった気がした。
そして、数秒の逡巡の後、
「……まだ、あいつとは今のままでいたい」
「それは、どうしてですの?」
クリスが聴くと、敏也は目を瞑って答えた。
「今の俺は……本当に情けない。ちっぽけで、クズで、救いようが欠片もない。今のままじゃ、もしもエリーネと……その……関係が進展したとしても、絶対にあいつを――彼女を傷付けることになる。それだけは、絶対に嫌だから」
だから、と再び言い直し、敏也は目を開いた。その瞳には、これまでにないほどの穏やかさと、そして同時に、猛る決意が見え隠れしている。
「俺は強くなる。これは今までみたいな口先じゃなくて、俺の本意。必ず変わって見せる。限界なんて越えて強くなる。誰よりも強くなる。どんな敵が来たって、彼女を護ってやれるように!」
敏也は今度こそ決めていた。必ず護り抜くと。もう卑屈さに囚われたりはしないと。
――胸の中の歯車が、心臓と同じように跳ねる感覚を覚える。
何かが、心の虚で身動ぎしていた。
その決意は、悲痛だ。
だが同時に、とても眩しい。
「そう……」
クリスは微笑し、その表情をなお一層慈しみで染め、敏也の頭を撫で始めた。
「その決意、確かに聴き届けましたわ。あなたの決意の生き証人、僭越ながらわたくしが努めてみせましょう。……ですから、必ず成就を。そして、もしもあの子があなたを好いていたのなら、その時は――」
「うん、わかってる。その時は、俺が絶対にあいつを――」
◆
「ところでなんだけど」
全てが終わった後で敏也は問う。
「……なんで膝枕?」
現在の格好はそれだ。先ほどの一連の遣り取りも全てこの体制で行われたのである。
無論、健全な青少年たる敏也としては、頭の下の柔らかでぷにぷにとした感触は、それはもう感動に咽び泣きたいほどに有難いものだ。しかし、だからといってふとした殺し合いの果てにこういった体制に落ち着いた経緯を無視するわけにはいかず、気になったのである。
問われたクリスはきょとんとしながら首を傾げ、
「日本の文化としてはこれが定番だと思いましたので」
「どういうこと?」
「傷付いた少年の心を癒すのは膝枕ではないかと考えが至ったのです」
「ありがとうございます。いや、ほんっ……とーに、ありがとうございます。その心遣いに涙ポロポロだわ」
「どうして泣いているのです? どこか痛いのですか?」
「いいや、違うよ? これは感動の涙だから」
グッと拳を握り、敏也は漢泣きとも言える感じで咽び泣き。
クリスはそんな敏也のことがイマイチわからないらしく、困惑気味に苦笑を零していた。
「……あとさ」
と、敏也が言い、
「……なーんで俺の服が新品になってんのかな? どうして傷が消えてるのかな?」
敏也が着ている服は昼間と似た物だが、同じものであるはずがない。なにせ、先ほどの戦闘の終盤には敏也の服はボロボロかつ血が滲み、それはもう酷い有り様となっていたはずだからだ。
だが今着ている服はどうだろうか。まるで卸したてであるかのように整っていて、破れている個所などどこにもなく、極めて清潔な状態だ。
そう問うと、クリスは至って平然と言葉を返してきた。
「それはですね、傷はわたくしが回復魔術で治したからですわ。幸い、わたくしの手加減もあってか重症ではありませんでしたので行使は容易でしたし、あなたの体力のほうも心配することはありませんでしたので」
「あー、だから無傷なわけね。……あれで手加減してたとかいう世迷言は置いとくとして、それはどうも。――で、一番の問題は服だよ、服! これ、さっきまで俺が着てたもんじゃないよね? 明らかにどっかで買ってきたものだよね?」
「ええ、傷の治療が済んだ後、すぐにブティックのほうへ走ったのです。丁度閉店間際でして、間に合って幸いでしたわ。サイズもぴったりでしたし。もし手に入らなければ、敏也さんはほとんど裸体の状態で帰らなければならないところでしたもの」
嫌だわ、とクリスは恥じらうように顔を手で隠し、そんな彼女を見た敏也は「こいつ……」とこめかみを引き攣らせていた。
「あー、そうですね! 俺の服ぼろぼろにしたのはあなたですけど! というか、一番気になるのは下着まで新品みたいにパリッとしてることなんですけど? そもそも誰が着替えさせてくれたのっ? ……ねぇ、答えてよぅ!」
ブリっ子気味に問い詰める。そのままごくりと生唾を飲み込んで返事を待つ。
すると、クリスが急にポッと頬を染め、視線を恥ずかしげに逸らした。
「…………立派なモノをお持ちで……」
「――いやああぁぁぁぁぁっぁぁぁぁっ!?」
敏也の悲鳴が森林公園に木霊する。顔を羞恥で染め、それを両手で覆い隠しながら嘆く。
「見たんだな! 見たんだな!? 漢の秘密を覗き見やがったんだな!?」
「いえ、正面から見据えましたから、覗き見ではありませんわ」
「胸を張って言うことか! さっきまでの恥じらいはどうした! ……っていうか、もうお嫁に行けない……。ごめん、エリーネ。俺、汚されちゃった……」
「大丈夫ですわ。あなたはお嫁ではなくてお婿ですもの。それに服を着せる前に身体を拭きましたから、汚れてはいないはずですわよ?」
クリスは得意げにそう言う。対して、敏也は憤慨して捲し立てる。
「そういう話じゃねえんだよ! 心の問題! 精神の純潔なの! イッツ・マインド!」
「……いえ、お待ちを。もしかしたら……エリーがあなたのところへお嫁に行くということも? あぁ……だとするとフリートハイム家の跡取りが…………その場合は親戚に丸投げしましょうか」
「スルーしやがった……っ。しかも話がでかくなりすぎてる……」
敏也はクリスの暴走っぷりに目を覆った。
うぁー、と唸りながら、どう教えを説くべきか悩む敏也。そんな彼を見詰めるクリスの表情は楽しげで、優しげで。
「もう大丈夫のようですわね?」
その暖かな声音に耳を撫でられた敏也は、目を覆っていた手をどけながら応えた。
「……うん。もう目は逸らさないよ。多分……だけど。エリーネにはまだ素直になれないかもだけど」
「ふぅん?」
向けられたのはじっとりとした視線。敏也は慌てて話を進める。
「と、とにかくさ! ……ありがとう、クリス。悪者になってまで俺を焚き付けてくれて。これからは、エリーネを好きだって気持ちをちゃんと抱えて、少しずつ向き合っていく。一歩ずつ、前に進んで行く」
「ええ、それでいいのです。それがきっと、あなたの世界に光明を齎すためのたった一つの方法なのですから」
「大げさだなぁ……」
「いいえ、そのようなことはありませんわよ?」
敏也が邪気無く笑いながら呆れると、クリスは同様に笑みを浮かべながら彼の顔を覗き込んだ。
「あなたたちが進む道の先に待っているのは、未だかつて魔術師の誰も体験したことがないほどの困難。これまでとは比較にならないほどの過酷ですわ。わたくしたち大人はそんな場所へあなたたち子どもを送り込まなければならない……それが申し訳なさ過ぎて堪りませんわ……」
「……どういうこと?」
「その先は、リンカ・クスノセに伺いなさい」
「博士に? ……もしかして、クリスの古い知り合いって博士のことなのか?」
「ええ、そうですわよ」
頷きながら、クリスは敏也の頭を撫でている。
「でもさ……多分、博士は教えてくれないと思う」
「それはきっと、まだあなたたちが知る必要がないということなのでしょう。彼女を恨んではいけませんわよ。きっと、いつか全てを話してくれるでしょうから」
「……うん」
いじけたように愚痴った敏也をクリスは苦笑気味にあやす。
すると、敏也がクリスの顔をじっと見詰めていた。その視線に気付いたクリスは首を傾げながら、敏也がそうしている理由を訊いた。
「どうしたのですか? なにか?」
「……いやさ、クリスってなんか包容力がすっげーあるっていうか…………こう言ったら失礼になるかもしれないけどさ、……なんか……母親……母さんみたいで……さ。昔を思い出して懐かしくなっちゃって……」
へへ、と誤魔化すように儚い笑みを零し、敏也は言い終えた。敏也としては、クリスが歳に見合わない評価に怒るかと思っていたのだ。
だが、クリスの反応は敏也の予想の範疇では納まらなかった。
「今だけは、あなたの母親になって差し上げますわよ」
クリスは、自分の上半身を敏也の方へと擡げ、彼の首に両腕を添えるようにしてそっと絡ませると、そのまま彼の頭を優しく抱き締めた。柔らかな肌触りの銀髪が敏也の顔に触れる。
その光景はまるで、母親が子供を抱き締めているかに見える。
敏也は突然の事態に声も出せず狼狽えるも、振り解こうとはしなかった。
(……あったかい)
夏の蒸し暑い夜の中、汗で湿る肌と肌、しかし、それでも不快感を齎さない体温。
この温もりは、記憶の残滓の果てにある、穏やかな日々にも存在していたもの。これは悪しきものではなく、ただただ誰かを愛するがために有る、人の温かみ。
「寂しかったのでしょう? あなたはまだ十にもならない時に家族を喪い、人の温もりを忘れてしまった。だから、あなたの心はあの惨劇の日からずっと傷だらけのままだった」
魔術の訓練を受けて、任務で戦って、勝って、負けて、傷付いて、走ってきた道のり。
誰かに傍に居てもらえる喜びを知りながらも心の距離は遠く、また、自身の心の一部は常に冷え切っていて、周囲と笑い合っている自分を極寒の瞳で見据えていた。
途中で立ち直ったと、表面上は気力を漲らせて困難に立ち向かってきた。だが、それは儚い幻想でしかなく、クレインとの戦いで呆気なく砕け散ってしまった。
壊れて、壊れて、壊れて、そしてまた壊れ――
(違う)
それは絶対に違っていた。確かにこれまでは壊れ続けるだけだった。
でも今は――
「……ですが、もう大丈夫。今だけは、こうしてわたくしがあなたの傍に居ますわ。……そして、これからはエリーも……あの子の心も、誰よりも傍に感じられるようになるでしょう。本当の意味で自身と向き合えた、今のあなたなら」
「……うんっ」
もう一人ではない。
口先だけの誤魔化しではなく、子供じみた強がりでもなく、心の底からその意味を敏也は実感していた。肌に触れる温もりが身体の内を通り、凍り付いていた心を溶かしていく。
「……どうして泣いていますの?」
敏也は嗚咽も零さず、身体も震わせず、しかし、それでもその開かれた黒い瞳は涙を流していた。流れた涙が頬を伝い、敏也の頬に触れているクリスの頬をも濡らしている。
「わからない、わからないよ……。哀しいわけでも悔しいわけでもない……でも、勝手に出て来るんだ。嬉しいのに、すごく幸せなのに……」
止めようとしても、流れ出て。
敏也の意思に反して、身体は泣き続けていた。
「それはきっと、あなたが心の底から求めていた物の一欠片を得て――いいえ、奪われていた欠片を取り戻したからですわ。だから、あなたの心と体は静かに泣いているのです」
その欠片は、きっと――
「……もう、俺は大丈夫なのかな? 傍に居る人を意味もなく傷付けずに済むのかな?」
「ええ、大丈夫ですわ。ですから、安心して前へ進みなさい。変わることを恐れず、強さを求めなさい。誰よりも、エリーのために」
「……わかった」
微かに頷くと、敏也の涙は止まっていた。
それを感じ取ったクリスは上半身を起こし、敏也の顔を見据えた。
その時、敏也の黒い瞳がクリスの頭の向こうにある月を見上げた一瞬、月明かりに照らされたその眼が空色に変わったかに見えた。その瞳はまるで……。
「今……?」
「どうしたんだ、クリス?」
だが、それはその一瞬だけで、今の敏也の目は黒いままだった。
錯覚だったと断じたクリスは「いいえ」と首を振り、気を取り直して口を開いた。
「敏也さん、どうかエリーのこと、これからもよろしくお願い致しますわ」
「……なんかエリーネの嫁入り前みたいだな」
「あなたが奮起すれば、そのような未来も訪れるかもしれませんわね」
くすりと笑んで、言う。その笑みは、やはりエリーネとそっくりだ。スカイブルーの瞳も、整った容姿も、髪型こそ違えど、クリスは彼女と同じでとても優しい。
怒らせるとおっかないところも同じ、という部分には目を瞑らなければならないが。
敏也は瞑目し、思いを巡らせ、言葉を発した。
「とにかく頑張ってみるよ。彼女の隣で、きちんと受け止められるように」
「ええ、期待していますわ」




