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双天の共鳴者  作者: 月山
第三章「シンフォニック・アソシエイション」
82/126

突然の来訪Ⅲ


 敏也は大人しくクリスの後を無言で付いて歩いていた。

 そんな彼らが十数分ののちに辿り着いたのは、二ヶ月ほど前に集団昏倒事件が起きた森林公園だった。


 二人は閉じられた柵を強化した脚力で優々と越え、レンガ造りの道を歩いて進み、公園の中心部へと辿り着いた。そこにはベンチや屋根付きの小さな休憩所、そして、地面に亀裂が入った跡や、何か鋭利なもので付けた裂傷が木々には見受けられる。


「……どうしてここに」


「あなたの後悔が残る場所ですもの」


「あんた、あのことを知って……」


「当然ですわ。諜報員おともだちから全て聴いたのですから」


「よくも抜け抜けと……!」


 敏也が吐き捨てると、クリスは存外哀しそうな顔になった。


「……大人への敵対心の権化……とでも言いましょうか。あなたが大人に見せている顔は当たり障りの少ない仮面ですのね。人によっては可愛がられ、人によっては貶される、そのような酷く普通に見える仮面。しかし、それゆえにどこか不自然さが際立っていますわ。それは、本来のあなたではありませんから」


「さっきからほんとわかったような口ばかり。何か根拠はあんのかよ?」


「ええ、ありますわ。女の勘です」


「……馬鹿馬鹿しい」


 肩を落としながら、視線を周囲の森林へ。

 まるで手入れが息届いていないように鬱蒼と覆い茂った木々、それが夜風に煽られてさざめき、そこに虫たちの鳴き声が混ざることで不気味な気配を放っている。

 あの日から、この場所は立ち入り禁止のままだ。あの集団昏倒事件は、表向きはこの公園のどこかに昏倒の原因があるとされ、安全が確認されるまでは一般人の立ち入りを全面的に禁止。入口には徹底した柵まで作ってある。


 しかし、敏也は知っている。その集団昏倒事件は魔術師によって引き起こされた事件であることを。そして、それは敏也自身を狙って起きた事件だということを。

 それは、己の無力さが招いた悲劇であるということを。


「敏也さん」


「なんだよ?」


 敏也はクリスの方へと向き直った。

 すると、彼女がキャリーバッグを乱暴に木々の陰へと蹴り飛ばし、隠す姿が見えた。どうやら敏也のこれまでの態度がかなり鶏冠に来ているらしい。


「これからあなたを再教育させていただきます。ただ、勘違いしないでいただいきたいのは、これは私怨から来るものではないということ。あくまでもこれは、捻くれ曲がった少年の心を叩き直すという名目ですわ」


 ズンッ、と軸足を地面に打ち据える音が聴こえた。そのまま腰を深く落とし込み、何かの構えを取っている。それは明らかに『教育』などという生易しい感触の真似ではない。


「……知ってるか? 体罰って大昔に絶対悪に指定されてんだぞ?」


「ええ、存じていますわ。――それが……なにか?」


 クリスがそう言った瞬間、虫たちの鳴き声が止んだ。

 敏也は視線を周囲へとやり、起きた異変を確かめようとした。


「なん――」


「――肉体強化クラフト……強化最大マキシマム


 その瞬間、敏也の身体は数メートル先まで吹っ飛んでいた。


「っ? ……ごほ……っ!?」


 遅れて痛みがやってくる――が、呻いている暇もなく、地面に激突。そのまま何度もバウンドを繰り返し、ようやく停止した。


「う……っ、いきなり……っ!」


 起き上がりながらクリスを睨みつける。

 彼女は先ほどまで敏也が居た場所に悠然と佇み、木々の隙間から零れ落ちる月明かりをその身に浴びながら、敏也の動向を鋭い眼差しで見守っていた。


(身体に異常はないな。とっさに強化して正解だった)


 クリスからの打撃、恐らくは肩から入ったであろうタックルを腹に受けた瞬間、敏也は肉体強化を発動していた。そうしていなければ、今頃敏也は死んでいたかもしれない。


「辛うじて強化を発動したのは褒めて差し上げますけれど…………もうじき右肩に衝撃が来ますわよ?」


「なに?」


 その言葉を訝しみ、視線を肩へ向けようとした時、


「か……っ!?」


 突然殴り抜かれたかのような衝撃が右肩を襲った。その衝撃は右肩だけでは飽き足らず、神経を遡り、脳髄を痛覚として揺さぶる。そのあまりの痛みに、肩口を押さえて敏也は蹲った。


「うあぁぁあっ!」


「どうやら本命だった二撃目は見えていらっしゃらなかったようですわね。動体視力はほどほど……と」


「う……ぐっ! 人を呑気に品定めしやがって……!」


「当然ですわ。あなたはエリーの傍に居る方ですもの。――もし、あなたが生半可な気持ちであの子の心を掻き乱しているというのであれば、わたくしは大神敏也をこの世から排除する所存です」


「……あんたも大概だな。お父様とやらと大差ねえよ」


 敏也が嫌味を絞り出すと、クリスは冷酷に徹していた表情に僅かながら苦笑を滲ませた。


「……そうですわね。確かにそうですわ。……ですが、当然ではありませんか。あの子は――エリーはわたくしの大切な家族なのですから。あの子を傷付けるであろう万象を排除したいと願うのは、おかしいことなのですか?」


「……」


「あなたにとっては……あの子は『そう』ではないのですか?」


 その確認に、敏也は目を瞑る。そして、そう時を置かずに目を開き、気力の萎えた瞳を晒した。


「……さっき言った通りだよ。俺は……あいつは、遠い所にいるんだから」


「またそうやって自分から遠ざかって……。たった一度程度では歪みは直りませんか。なら――」


 言葉の途中でクリスの姿が消え、


「あなたが素直になれるまで、その弱き心を叩き続けて差し上げましょう」


 続きは、背後から聴こえて来た。


「後ろからってのは攻める時の定石だろ!」


 それを読んでいた敏也は後ろ回し蹴りを放つ。肉体強化による人知を越えた速度での蹴りだ。いくら異常に速いクリスでも、これならば避けられまい。


「遅いですわ」


 だが、クリスは迫る踵を、回避モーションをまったく捉えさせないほどの速さで屈んで回避していた。その動きは、まるで転移したかと見紛うほどの速さだ。

 敏也の足は空を切り、クリスの頭上を素通りした。

 そのままクリスは右拳でアッパーを繰り出す。


「うぐっ!」


 敏也はそれを辛うじて左腕の側面でガード――しかし、


「堪えられると思って?」


 打撃の瞬間に踏み込んでいたクリスの軸足たる右足が――埋没。地面を割るほどの膂力で身体を支え、持てる筋力の全てによって発生させた威力を右腕へ。


「っ! ……嘘だろ」


 歯を食い縛りながら堪える。だが、堪え切れるはずがなかった。


「うあっ!」


 そして、敏也の身体はあまりの力量差に弾き飛ばされていた。ガードしていた左腕は熱い痛みに支配され、ほとんど感覚がない。それどころか、吹き飛ぶスピードが速過ぎて、今自分がどこを吹き飛んでいるのかすらわからない。


「がは……っ!」


 吹き飛んでいく先にあった大樹に敏也は背からぶつかり、ようやく吹き飛ぶことを終えることができた。そのまま落下し、地面に打ち付けられる。


「寝ている暇は無くってよ」


「っ!」


 上方から飛来する声。風を切る音。

 敏也は考えるよりも先に地面を転がるようにして回避運動を取った。

 直後に、それまで敏也が居た場所に、上空から高速で落下してきたクリスの右拳が突き刺さる。それによって発生した地割れが大樹の根元を抉り、大地にしっかりと根を張っているはずの大樹を少々傾けさせた。

 割れた地面から生まれ出た砂煙の舞う中、敏也は痛みに顔を顰め、左腕を庇いながら起き上がると、その砂煙の発生源の中央でゆらりと動く人影を見据えた。


「……俺もさ、一般人から見たらバケモノなんだろうけど、あんたみたいに常軌を逸した能力持ちを前にすると、あんたら高位魔術師の方がよっぽどバケモノに見えてくるよ」


「あら、失敬な。わたくしとて人間ですわよ? あなたも魔術師なら、人からバケモノ呼ばわりされる辛さを知っているのではなくて?」


「だったらもっと人間のスケールで戦ってくれよ。俺、ほとんど反応できてないんだけど」


「それは無理ですわね。出会った当初に申し上げたでしょう? わたくしは魔術も気分屋だと。ここまで肉体強化クラフトが猛っているのは、あなたがわたくしを怒らせたからですわ」


「……自業自得ってか?」


その通りヤー


 ニコリと笑んでクリスは頷いた。だが、その右拳には先ほどの一撃の際に付いたのか、拳三周り分ほどの岩石にすっぽりと覆われたままで、今この時、左拳で殴り付けることでそれを砕いたところだった。

 このまま戦い続けるのはあまりに危険。そもそも、ここまで怒らせるようなことをしたつもりも敏也には――あまりなかった。


「どうしたら許してくれる?」


「あなたが素直になれば」


「無理」


「では昇天なさい」


 言葉と同時に、敏也の眼前まで左拳が迫っていた。


「何度も喰らうか!」


 敏也はそれを仰け反るようにして回避。そのままバック転に移行しながら距離を離そうと試みる。

 しかし、


「その回避は愚策」


 一度目のバック転を開始した瞬間に、クリスが隣に居た。その眼は冷たく研ぎ澄まされ、身体が逆さまになりつつある敏也の横目と視線を合わせている。

 まずい――敏也が思った時には、彼女の放った中段蹴りが敏也の背を捉えていた。


「ぐぅあっ!」


「速度で劣る相手から一瞬でも目を離すなど……お仕置きですわ」


 そのままクリスは敏也を蹴り抜き、吹き飛ばす。

 吹き飛んだ敏也は込み上げてくる吐き気を堪えつつ、空中で体制を立て直す。そしてそのまま接地――地面を滑走しながらクリスを睨む。そのまま右手で地面を抉り、滑走する速度を緩めて行く。


「そう。それでいいのです。どんな時でも、敵から決して目を逸らさないように」


「指南のつもりか……っ?」


「いえ? ですが、殺される前に強くなれれば、死なずに済むかもしれませんわね?」


「無茶だろ」


 敏也は立ち上がりながらぼやく。


(……逃げるか)


 クリスに悟られないように僅かに目を動かし、逃走ルートを探る。

 幸い、今敏也とクリスを結ぶこの直線状のルート以外は木々が不規則に立ち並んでいる。そちらへと駆け出すことさえできれば、覆い茂った草木を利用して撹乱しながら逃走することが可能。少なくとも森林公園からは脱出できるはずだ。

 その後は治安維持部隊の詰所に逃げ込むか、繁華街のほうへと出てしまえば誰かしらが通報してくれるだろう。途中で追い付かれるのは確実だが、人目に付く場所で大それたことをしようとはしないはずだ。そうなれば、この暴虐の魔の手から逃れることが出来る。


(そう、それが最善)


 もっとも正しい判断。生き残る確率の高い選択肢。


「それで良いのですか?」


「っ!」


 哀しそうな声が敏也の身を竦ませた。声がした方を見れば、クリスが寂しげに目を細めながら敏也を見据えていた。

 どうやら肉体強化も効力を喪失しているらしく、クリスから魔力をほとんど感じない。

 絶好の隙。逃げるなら今しかない。

 だが、敏也は動けない、動けずにいた。その眼差しが彼女の――エリーネが哀しむ姿とダブって見えたから。


「恐ろしいことから逃げようとするのは恥ではありません。それは生き物として当然の行いです。わたくしとてそうするでしょう」


「……なら文句はないだろ?」


 敏也が言うと、クリスは首を振った。


「いいえ。だからといって何時如何なる時でも逃げていいとは限らないのです。そして今この時は、逃げてはいけないときなのです」


「なんでだよ」


「決まっていますわ。――あなたが『今』から逃げ出した場合、もう二度とエリーと同じ時間を過ごすことはできないからです」


 その言葉に、敏也は隠しきれない動揺を顔に塗し、クリスを睨みつける。


「……どういう……意味だ」


「さあ? いくらでも考えられるでしょう? 一、エリーを本国へ連れ帰る。二、無様にも逃げ出したあなたをわたくしが殺す。三、なんらかの措置を講じ、あなたとエリーの接近を今後一切禁じる。どれでも良いですわよ? なんなら、四つ目、五つ目の案をあなた自身で考えてごらんなさい」


 クリスは表情を消してさも当然の如く言ってのけたが、敏也としてはそのどれもが容認できることではなかった。

 命を失うことはもっての外だ。……だが、それ以上に――


(エリーネと……会えなくなる)


 それは……どうなのだろうか。堪えられるだろうか。

 否。

 これまで通り生きていけるだろうか。

 否。

 もう二度と、あの笑顔を見ることができなくなるかもしれない。

 否。

 否、否、否。


「それは……」


 拳を知らず知らずの内に握り込む。血が滲むほどに握り込む。痛みのせいで碌に動かせなかった左手さえも、神経の警告を無視して限界まで握り込んでいる。


「嫌だな」


 先ほどまでとは違い、目つきの変わった顔立ちでクリスを見据える。身体は熱く滾り、血潮が血管という血管を駆け巡り、爆発的な衝動を身体の隅々まで行き渡らせていく。

 ――胸の内の歯車が、熱を生み出していた。


「わかった。戦う。あんたが俺を許してくれるまで……認めてくれるまで戦って見せる。だから、一々エリーネのことを引き合いに出すのはやめろ。不愉快で苛々する」


「それは、あなたがエリーのことを大切に想っているからですわよ?」


「……」


 敏也はクリスから視線を斜めに逸らし、地面を見据えた。


「……そう。まだ……ですのね。――わかりましたわ。それならば、先ほどまでと同様にあなたの愚かしさを骨身に刻んで差し上げます」


「さっきまでと同じと思うなよ……!」


 肉体強化を現時点での最大限に設定し、前屈姿勢で臨戦態勢を取る。

 無茶をすれば反動でまた病院送り、下手をすれば身体がバラバラになってあの世逝きの危険な状態。だがしかし、それでもこの意志を貫くためには必要なことだ。侵すべき危険なのだ。

 と、そんな敏也を見詰めていたクリスが突然破顔し、声を掛けて来た。


「……一つだけ、あなたに助言を」


「……なんだよ?」


「その前に、肉体強化の鍛え方をあなたは知っているかしら?」


「……鍛錬で身体に魔力を馴染ませるぐらいだろ。それ以外は眉唾物ばかりだ」


 過去にはいくつか論文も提出されたという肉体強化魔術。

 国によって呼び方が違うその魔術は未だに謎が多く、武装魔術アナライズと並んで不可侵かつ、人知の及ばない領域が存在する。

 今の人類はわけのわからない力を自身の制御が及ぶ範囲で振るっているに過ぎない。その安全地帯とでも呼ぶべき領分を踏み越えようとする試み。それが肉体強化魔術の新たな紡ぎ方、否、今の限界を越えた鍛練方法だ。

 ただ、そのどれもが効果的とは言えず、巷では大して期待されていない試みだった。


「ええ、その通り。ですがもう一つあるのです。確かな鍛え方が」


 クリスは人差指を立てながらそう言い、続けた。


「それは、想いの力です」


「想いぃ?」


 唐突に口にされたロマンチシズム溢れる言葉に、敏也は思わず転びそうになっていた。しかし、なんとか踏み止まり、クリスの次の言葉を待つ。


「そうですわ。わたくしの力――これはある意味で特異体質ですが、戦場においてはそうでもありませんの。……聞いたことがありませんか? 火事場の馬鹿力というものを」


「ピンチになった時に人が見せるとんでもない実力のことだろ?」


「そう。そしてそれは、魔術が浸透する前の戦場でも死に瀕した兵士に見られ、そして、職務の内に命の危機に際した者に見受けられることもありました。敏也さん、そのどちらにも共通している事柄はなんだと思いますか?」


「……多分、死にたくないって気持ちじゃないか?」


 敏也が言うと、クリスは頷いたが、それ以外にも言いたいことがあるように続けた。


「ええ、大半はそうでしょう。ですが、もしかしたらそこには『大切な人を護りたい』という願いが、そして、そう出来るだけの力が欲しいと、それだけの力を持った自分自身を想像していたということは考えられないかしら?」


「……なに、そういうイメージが力になったって? ……馬っ鹿馬鹿しい。そんなことができるなら誰も戦場で死んでなんていないだろ。それが可能なら、世界中はスーパーマンで一杯になってるよ」


「その通りですわ。誰もがそうできるというわけではない。――ですが、あなたは?」


「え?」


 問われた敏也は困惑し、クリスを怪訝に見やる。だが、敏也を見詰めるクリスの眼差しは対照的で、どこまでも真摯な輝きを宿していた。


「あなたの胸に埋め込まれた術式ギア。そしてエリーに対する想い。目覚め始めた力。全てを在るがままに認め、全てを引き出し、それらが折り重なって旋律を奏でれば、可能となるのではありませんか?」


「なんでギアのこと知って……また諜報員か? それに目覚め始めたって、そんなものないんだけど」


「まだ自覚がないだけです。すでに『真意ダアト』は目覚めていると、彼女は仰っていましたわ」


「ダアト? 彼女?」


 敏也が困惑に困惑を重ねると、クリスは一瞬眉根を寄せた後、呆れたように頭に手をやり、溜息を吐いていた。


「本当に知らないだなんて……。あの人はまだ何も教えていないようですわね。過保護というか、なんというか……」


 一しきり嘆き終えると、クリスは気を取り直して敏也へと空色の瞳を向けた。


「まあいいですわ。では、敏也さん。あなたは想像できるかしら? 今の限界を越えた自分自身を。エリーを護れるだけの力を備えた自分自身を」


「……限界を越える」


 限界。その言葉が想起させるものは終わり。

 これ以上先には行けないと、ここで終わりなのだと、愚かな人間に警告する、神が定めた一線。もしかすると、人の身では踏み越えてはならない境界線なのかもしれない。

 先に在るのは破滅か、栄光か。どちらにしても『今まで』は終わりを告げる。

 だが、


「もしもそれを越えられるのなら……」


 越えたいと願う。弱い自分を捨てて、新たな自分へ。


「越えることで、みんなを護れるようになるのなら……」


 踏み越える価値はある。危険を冒す価値は間違いなくある。


「それなら……!」


「心は決まったようですわね。――では」


 クリスは片手を上げ、魔力を手のひらに収束させ始めた。夜の暗さの中、どこかから生み出された光たちが集まっていく様は、この世のものとは思えない幻想的な光景だった。

 そして、光の集合体が空へと飛び上がり、


「術式――『ローゼン・ヴァルツァー』」


 生み出されたのはバラを模した巨大な光の塊。

 クリスの数メートル上方に停止しているそれは、何の効力も発揮していない。だが、それは単にクリスが待機を命じているだけ、もしくは命令を下していないだけだ。一たび命が下されれば、すぐさま猛威を振るうだろう。


「接待はここまで。もうこちらから近付くような真似は致しませんわ。さあ、光の雨の中で踊りなさい、敏也さん」


「雨……範囲攻撃か」


 逃げ場は――ない。範囲攻撃ということは文字通り雨のように攻撃が降り注いでくるのだろう。となると、回避は困難を極める。

 だが、だとしても敏也は障壁を展開できないため、堪えることすらできない。立ち止まっていれば、冗談抜きでハチの巣にされてしまうだろう。

 ――ならば、


「真っ直ぐ突っ切るのみ! 倒れる時は前へ! そんで一撃ぶち込んでから負ける! 覚悟しろよ、クリス!!」


 負けるのは確実。苦痛を味わうことも間違いない。

 だが、それでも敏也は笑みを浮かべる。不敵に、大胆に、相手を挑発するように。そして、自身を鼓舞するように。

 そんな敏也を見詰めるクリスは、どこか満足そうな表情を浮かべていた。


「良い……良いですわ。とても良い表情になりました、敏也さん。昔のあの人そっくり……。そうですのね。エリーはきっとあなたのそういったところに惹かれて……」


 その考えを振り切るように頭を振り、クリスは顔に楽しげな笑みを浮かべて言う。


「それならハンデとして、わたくしに一撃を加えることができたのならあなたの勝ちという事に致しましょう。もちろん、ここから一歩たりとも動きませんわ。そうすれば、まだあなたにも勝ちの目があるでしょう? 今回の一件に関しても、きちんとお詫びすることをお約束しますわ」


「言ったな。後悔すんなよ! お前が嫌がるくらいにいやらしいお詫びをさせてやる! 絶対にそこまで辿り着いて見せるからな!」


 益々不敵な笑みを深める敏也を前にしたクリスは、彼に聴こえないほど小さく呟く。


「ええ、後悔など致しませんわ。……もう充分ですもの」


 そして、掲げ続けていた右手を振り降ろした。


「見事突破して御覧なさい! 大神敏也!」


 空中で輝いていたバラが崩壊――否、その塊を構成していた魔力たちがまるで花弁が散るようにして解け、それらがひらひらと舞った後、急激に加速して敏也へと襲い掛かり始めた。


「光の雨ってこういうことか!」


 敏也は顔の前で腕をクロスし、ガード。

 しかし、


「うがっ!?」


「ふふ……拙い防御など、薔薇の円舞の前では無に等しいのです」


 敏也の身体に真っ直ぐぶつかってきたバラの破片が直後に爆発したのだ。その規模は小さいが、それでも強化した身体と言えどかなりの痛覚を伴う威力である。しかも、それらは次々とまさしく雨の如く襲来し続けており、徐々に敏也の身体を傷付け始めている。

 爆発を喰らった部分の服が弾け飛び、傷が出来、血が滲み始める。


(俺の強化じゃそう長くは持たない……なら防御は棄てて!)


 様子見の防御が無意味と悟ると、即座に腕を解き、足を踏み出す。

 あの日――後悔の日と同様に、死の恐怖を踏み越え、前へ。その先へ。


 ――限界の先へ。


「行くぞ、クリスゥゥゥッ!!」


「来なさい! 大神敏也!」


 暴虐の嵐の中、敏也は駆け出した。

 その身を傷付ける花びらなど意に介さず、肉を、骨を、神経を貪る痛覚を無視し、無理な強化による反動で身体が崩壊しかけているというのに、それでも蚊ほどもスピードを緩めず、駆け続ける。

 ひたすらに前へ。

 試練の雨を跳ね除け続ける。


「っが……ごはっ! ……うっ……あぁぁっぁぁぁっぁ!!」


 折れそうな心を細やかな願いで鼓舞し、折れた時はそれを挿げて研磨し、何度も何度も壊れた心を補修する。決して立ち止まらないように、これ以上無様さを誰にも見せることがないように。

 猛る心は留まることを知らず、ただ前へと進み続けた。

 そして、あと五メートルというところまで辿り着く。


「クリスゥゥゥ!!」


 右拳を振り被る。


「甘いですわ! 猛威ヴート!!」


 その掛け声と共に、残っていたバラが完全に崩壊し、間髪入れずにその全てが敏也へと収束した。

 直後に、小爆発とは言えない規模の爆風が生み出された。木々はそれによって何度も揺れ、地に転がっていた石ころなど軒並み吹き飛ばされていく。


「……」


 クリスは油断ならない面持ちで爆風が晴れるのを待っていた。

 死んだだろうか。

 気を失ったのだろうか。

 そのような想いがクリスの胸中で錯綜する中、それは煙の中から現れた。


「はー……はー……」


 体中が煤けた敏也だ。彼は爆風の熱波を引き連れて、ゆっくりとクリスに向かって歩いている。服はボロボロでその出で立ちはもはや満身創痍。だが、それでも瞳だけは輝きを失わず、変わらぬ眼差しを保っていた。

 その黒い瞳は未だに前を――クリスを――その先を見据えている。


「……てっきり最後には気絶すると思っていたのですけれど」


 クリスが微笑み、敏也の到来を待つ。


「へ……へへ…………言ったろ? 絶対……そこまで……辿り……つ……――」


 あと三メートルというところで、敏也は意識を失い、その身体が力無く崩れ落ちようとした。

 そのまま地面に頭からぶつかるのでは――と思われたが。


「っと、危ない危ない」


 力を失った敏也の身体を、即座に駆け寄ったクリスが受け止めていた。敏也はクリスの左肩に顔を乗せ、穏やかな顔つきで眠りに着いている。

 そんな彼を抱き止めたままのクリスは、とても慈しみに満ちた表情だ。


「まったく……まさか本当に突っ切ってくるだなんて……あなたのことを少々見誤っていたようですわ」


 クリスは眠っている敏也の背を優しくポンポンと叩きながら、ゆっくりと膝を地面に着いた。


「動かないと言ったのに動いてしまったのですから、わたくしの負けですわよね?」


 返事はない。だが、それでもクリスの顔は満足そうだ。

 クリスはそのまま、木々の間から顔を覗かせている月を見上げ、


「今はゆっくりとお休みなさいな。傷だらけの坊や」


 その柔らかな手はしばらくの間、敏也の頭を撫で続けていた。


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