結界を前に
前方の視界には、碧の山。過ぎ去っていく方向には連なる山々。左手には海と海岸線を走る道路が見える。
だが、そのどれもが雨空のためか、本来は夏景色と呼び讃えるべきその風景が、どこか色を失っているように見えてしまう。
敏也は駆け抜けていく風に堪え、それでも顔を歪ませるも、片手で大河機の巨大な手を掴みながらインカムへと残った手をやった。
「大河、御陰市までの到着時間はっ?」
《たぶん……十分くらいかな。今は時速六十キロまで抑えて飛んでるから、早く見積もってだけどね》
御陰市にある学園まで戻るためには、これまで敏也たちが居た都市から西の方角へと海岸線を辿っていくのが一番近道だ。つまり、大河機は現在最端コースを真っ直ぐ飛んでいるということ。
だが、大河機は最高速度を出していない。それは単に、身体が一般人程度の硬度しか持ちえないエリーネのことを案じてだ。
大河の言葉を聴いたエリーネは、インカムを押さえながら申し訳なさそうにしていた。
「ごめんなさい。私が肉体強化さえ使えればもっと早く着けるのに……」
《あ、いや、今のはそんな意味で言ったわけじゃ……ちょっと敏也君、なんとかしてよ》
「……ここで俺に振るのかよ。酷くねえか、大河」
届いた呆れ声に大河はコックピット内で含み笑いを零す。
《いやー、そりゃあエリーネさんのことなら敏也君に一任すべきかなあって、僕はそう気を利かせたんだけど……もしかして余計なお世話だったかな?》
「……へえ、俺をからかおうだなんていい度胸だな、大河。今すぐ謝らないとお前の想い人のことを――」
《あはは! ごめんなさいごめんなさい! もう言わないからそれだけはぁ!》
大河は敏也の脅しに覿面に狼狽し、暴露され掛けた内容を誤魔化すように渇いた笑いを発していた。
そんな少年を乗せた機体の頭部を半眼で数秒睨んだ敏也は、溜息を一つ吐くと気を取り直し、インカムを押さえている指に力を込めた。
「あのな、エリーネ。そういう暗ーい雰囲気を度々出すのはさ、あんまし良くないと思うぞ」
「……だって、本当のことじゃないですか」
「本当のことだとしてもな、別に俺たちはそのことでお前を責めてないだろ? そりゃ、周りから責められたんなら委縮しないと駄目だろうさ。でもな、お前はそうはされてないだろ? だったら、そんな申し訳なさそうにする必要はないんだって。な?」
「大神くん……」
エリーネは、風で霞んでいるだけではないか細い声で敏也の名を呼んだ。その声が聴こえた敏也は柔らかな笑みをエリーネに送る。
「ほら、そんな湿気た顔すんなって。そんな顔して帰ってきたら、春美さんが『どうしたのエリーネちゃん!? 敏也君に乱暴されたの? そうなのね!?』とか慌てちまうぞ」
《その騒動で痛い目を見るのは間違いなく敏也君だね》
「あ、ホントだ。……なぜに」
理不尽な現実と想定を目の当たりにし、敏也は愕然とした表情で固まる。それをモニター越しに見据えている大河は、操縦桿を維持しながら小さく笑う。
《はは、まあなんというか、エリーネさんがそこまで打ちのめされるのは敏也君絡みのことばかりだからじゃないの? 少なくとも、僕は姉さんからそう聴いたけど》
「いや、それは誤解だっつの。俺がエリーネを落ち込ませたことなんて……数えるくらいしかないから」
《あはっ、あるにはあるんじゃない》
大河のその笑い声に、敏也は大河機の頭部を睨めつけ、
「いやいやいやいや、あるとは言ってもほとんどが不可抗力というやつだったし、そんなつもりはなかったというか、悪気なんて欠片もなかったし、あの頃の俺は今よりももっとガキだっただけだというか……」
《だから赦されるの?》
「……なわけないよねー」
《当たり前だよ》
大河にばっさりと切り捨てられた敏也は、大河機の手のひらにある指に両手を着き、しな垂れかかるようにして何事かをぶつぶつと呟いている。それは「エリーネごめん」、「いつかちゃんと謝るから」、「もう泣かせないから」など、懺悔一色である。
だが、過ぎ去る猛風のためか、隣の手のひらにいるエリーネには聴こえていない。エリーネは敏也の突然の落ち込みように首を捻るばかりだ。
それを苦笑して眺めた大河は、敏也がインカムから手を離していることをこれ幸いとし、エリーネへと通信を送った。
《エリーネさん》
「? なんですか、天埜君?」
エリーネはインカムを押さえながら大河機の頭部へと視線をやる。その表情は先ほどまでとは違い、どうやら平常に戻っているようだ。
それに一安心した大河はちょっとしたお節介を敢行する。
《あのさ、エリーネさんは敏也君に落ち込まされたことが何度かあるんだよね?》
「え、ええ、まあ」
《だったらさ、その御詫びみたいなことはしてもらったのかな?》
「御詫び……ですか? いえ、特にはしてもらってないですけど。そもそも、私の態度にもいくらか非があったといいますか――」
《甘いよ! エリーネさん!》
「ええっ?」
突然の怒声にエリーネの身がびくりと竦む。
大河は、脅かし過ぎたかな、と内心で少しだけ反省し、ごほんと咳払いをした後、本題を切り出した。
《いいかい? 日本に置いて、礼儀というものは最も重視されているといっても過言ではなくてね》
「それはどの国でも同じでは?」
《……黙って聴いてよ、エリーネさん》
「あ、はい」
エリーネの返事に大河は気を取り直し、言う。
《と、とにかくね、僕が何を言いたいのかと言うと……どちらが悪いにしても、エリーネさんは敏也君に御詫びをしてもらうべきだし、逆にお詫びをしてあげるべきなんじゃないかなー、ってことなんだけど》
「……その……具体的には?」
《具体的? ……うーん、僕にはそういう駆け引きみたいな経験がないんだけどなー…………取り敢えずさ、機を見計らって『責任を取ってほしい』って、そう言ってみるといいよ。敏也君、きっと目を丸くして驚くだろうから》
「責任……ですか?」
《っ、そう……だよっ》
大河は、エリーネがそうした時に見せるであろう敏也の慌てふためく姿を想像し、それがあまりにもありありと想像できてしまったがために、必死に笑いを堪えていた。
が、エリーネは大河が何に笑っているのかイマイチわからないらしく、首を傾げながら大河機の頭部を見上げ、
「とにかく、言ってみればいいんですね?」
《うん。でも今じゃなくて、このゴタゴタが全部片付いてからね》
「……そうですね。今は……戦わなければ」
エリーネはそう言うと視線を学園があるであろう地平の先へと向け、その表情と目つきを鋭くしていた。
◆
それから十分程が経ち――
「見えた! 御陰市だ!」
《速度をもう少し落とすよ。流れ弾に当たるならまだしも、自分から突っ込むのだけは避けたいからね》
「……街自体はまだ無事なようですね。しかし、治安維持部隊はタイプαの相手で忙しいようです」
上空であるここから見えるのは、街に通ずる国道で大量の魔獣と真っ向から激突し、夥しい数の銃弾や色とりどりな閃光が行き交うという戦場だった。
《これじゃあ学園まで手が回らないのも頷けるね。タイプβはいないようだけど、とにかく数が倍以上だよ》
そもそも学園が襲われたと言うのなら、真っ先に御陰市に駐留している軍や治安維持部隊に応援を要請するのが定石だ。なにせ、向こうは近場にいるし、なにより学生などという未成熟な戦力ではなく、一つの容として完成された戦力なのだから。
それが出来なかった、もしくはしても意味がなかったというのが敏也たちの立てた推測だったが、どうやら後者だったようだ。
敏也は徐々に近付き始めたその光景に目を細め、
「となると、学園のことは俺たち学生でなんとかするしかないな」
「ここから見るに、どうやら学園の結界は健在のようですね。……見える部分に限ればの話ですが」
「ん、そうだな。でも、襲われたってのが事実なら、どこかに綻びがあるはずだ」
《そうだとしても、僕たちは学園に生体認証が登録されてるから、盗人みたいにコソコソする必要はないでしょ?》
「ああ、真っ直ぐ突っ込んで、まずは春美さんたちを探そう。あの人たちならきっと無事だし、どこかで戦ってるはずだ」
いかに学園の結界が現在は最大出力に切り換わっているとは言っても、事前に登録されている人物に対しては無害のはずだ。そして、結界が未だに健在で、完全に消滅していないということは、まだ抵抗を続けている学生・教員が中にいるということ。
ということは、急ぎ助けに向かう必要がある。
そして、大河機が戦場を大きく迂回しながら飛行を続け、ビル群を飛び越え、街外周部にある荒れた空き地を過ぎ、ようやく学園が目前へと迫った時だった。
「っ……この感じは?」
「どうした、エリーネ?」
エリーネが一瞬だけ痛みが走ったかのように顔を顰めたのを見た敏也は、彼女にその原因を訊いた。すると、エリーネは片手で頭を押さえながら結界を見、
「いえ……なにかあの結界に違和感が……」
「違和感?」
「はい。敵意といいますか……こちらを拒むような魔力の感触が……」
「拒む……って――まさか」
仰天した敏也は今まさに数十メートル先に迫った結界を一瞬見た後、インカムを押さえながら大河機の頭部を見据えた。
「大河! ストップ! 止まれ!」
《え? ちょ、なにを――いきなり困るって!!》
敏也の叫びにただ事ではない事を悟ったのか、大河が目一杯ペダルを踏み込み、操縦桿を後方へと下げる。
すると、大河機が両足を前方へと投げ出すようにし、足裏と脹脛付近に設置されてあるスラスターを全開で噴射した。遅れるようにして背部スラスターも限界まで光を生む。
――が、それでも近付き過ぎていたためか、減速が間に合わない。機体は今にもぶつかりそうに――
「エリーネ! 障壁!」
「はい!」
と、敏也の呼び掛けに応え、エリーネが片手で機体の手にしがみ付きながら、大河機を包み込むようにして魔力障壁を展開。六角形のガラスを連ねたような光の殻が出現する。
その直後に、激突。襲い来るは苛烈な衝撃。魔力で編まれた結界に、それと同様に魔力で編まれた障壁で突っ込んだのだから当然だ。
障壁は結界との接触で激しいスパークを散らしながら下降。十数メートルを滑り降り、そのまま地面に叩きつけられるようにして停止した。
墜ちた場所は、丁度学園の正門前だ。
「いっつー……エリーネ、大河、無事か?」
「ええ、私は無事です」
《僕もなんとか……でさ、急にどうしたの? 止まれだなんて。何かあった?》
と、大河がどこか傷めた部位でも摩っているかのような声音で問う。
すると、エリーネがそれまで展開し続けていた障壁を吹雪のように散らし、残滓が舞う中で立ち上がると、結界に触れるか触れまいかというところまで近付いた。
そして目を瞑り、数秒の後、その空色の瞳を開いた。
「……この結界……いつもと違います。……亀裂……いえ、解れでしょうか……それのせいで本来の機能が発揮できず、敵味方見境なく弾くようになっているようです」
《すごいね、どうしてわかるのっ? この結界発生装置って本体の構造はともかく、結構複雑な魔力構造の結界を張るんでしょ? しかも、高名な魔術師がこれの開発に協力したっていう……なのに、それをエリーネさんは……?》
「それはその……博士が言うには、私は魔力を感じ取る才に長けているそうで。これはその副次的な能力だそうです」
大河からの混じり気のない称賛に、エリーネは居心地が悪そうに照れていた。
(そういえば、森林公園の時もこいつ、結界に干渉したんだっけ)
もはや随分過去のことに思えるが、一ヶ月ほど前に御陰市の森林公園で起こった魔術犯罪、その折にエリーネは敵の張った結界の構造に介入し、見事そのコントロールを奪取して見せたのだ。
そのような妙技、余程魔力の扱いに長け、尚且つ魔力感知にも精通していなければ不可能である。つまりは、エリーネはそれだけの実力を備えているということ。
と、そのようなことを考えていると、敏也は少しだけ悔しく思っている自分に気が付いた。しかし、それは嫉妬などという醜い感情ではなく、彼女を護ってあげたいのにそれができないという、未熟な自分への呵責だった。
そして、ふっと笑みが零れる。
(なんか、俺って甘くなったなぁ)
以前なら気に喰わず、認められず、ただイラつき、不機嫌になっていただろうに、今はそのような心の素振りは微塵も生まれない。
敏也は、表面上はそれを『甘さ』と切り捨てたが、しかし、内心では良いことだとも思っている。
――誰かをただただ認めてあげられる。嫉妬も、妬みも、恨みもなく、純粋な羨望の眼差しで見詰めることができる。それがなによりも自身の心を暖かくする。
(そうだ。そうなんだ)
敏也はそこで気付いた。
自身を絶えず苛んでいた黒い感情を――白の少女の甘言を跳ね除けていたのは、純粋に彼女の存在だったのだ。彼女という存在が堰と成り、また、光として照らし、敏也に過ちの一歩を踏み止まらせていたのだ。
レーヴェを前にして激昂しても、どれだけ挑発され、頭に血が昇っても、一線を越えずに居られたのは――傍に戻ってこられたのは、エリーネのおかげだった。
彼女と過ごした、記憶のおかげだった。
(俺は――)
と、敏也はそこで笑みを消し、結界の分析を続けているエリーネに声を掛けた。
「エリーネ、どうだ?」
「……結界のシステム自体が死んだというわけではないようです。これなら私の介入によって、数秒間だけ結界の一部分を解除できそうです」
《僕の機体も通れるかな?》
「恐らくですが」
《良かったー。僕は生身で戦うのは無理だからねー》
安堵の息を漏らす大河に敏也とエリーネは苦笑いで応える。
そして、エリーネは深呼吸を数回繰り返した後、結界へと両手を伸ばした。
彼女の手が触れ――しかし、弾かれるようなことは起こらず、逆に結界のほうが撓るようにして波打っていた。
それから三秒後、エリーネが触れた部分を中心として、十メートル四方の結界が瞬きの内に消失した。
結界の一部分が開いたためか、学園のほう――グラウンドの方角からは爆音と銃声が聴こえてくる。学園内の道に植えられた、沢山の背の高い木のせいでその様は見受けられないが、そこで戦闘が繰り広げられているのは確実だ。
「設定上は三十秒でこの部位が再生します。今の内に通ってしまいましょう」
「ああ。小汚い盗人なんかさっさと倒しちまおう」
《気を抜かないでね。仮にもなにか目的を持って侵入してきた敵なんだろうから》
そして、二人と一機は結界に空いた穴を潜り、戦火が渦巻く学園へと帰還した。




